「スシ」を巡って、「寿司」に対する固定観念を剥がしていく良書 -玉村豊男『回転スシ世界一周』を読む-

 玉村豊男『回転スシ世界一周』*1を読んだ。 

回転スシ世界一周 (光文社知恵の森文庫)

回転スシ世界一周 (光文社知恵の森文庫)

 

 内容は、「米は野菜? インターネットでスシ修行? オシボリで顔拭きは世界共通? ジョン・レノン・ロールって何? 日本のスシは世界でどのように食べられているのか――あくなき探求心をパスポートにして、回りに回ったパリ、ロンドン、アムステルダム、N.Y、L.A。満腹、眼福、感服の『目からウロコ』世界一周スシの旅」という内容。
 2000年に書かれた本だが、今読んでも面白い。

 「スシ」を巡って、「寿司」に対する固定観念を剥がしていく良書といえようか。*2

 以下、面白かったところだけ。 

昔は寿司はデカかった。

 もっとも、日本のスシの大きさも、昔はもっと大きかったのだそうだ。明治から昭和のはじめにかけては、1貫ひとくち半、といわれ、スシはひとくちで食べるものではなかったらしい。いまの大きさに定まったのは、終戦直後の食糧難のとき、客が持ってくる配給米でスシを握ったのがはじまりだという。 (引用者中略) 現在も1人前のスシが握りと巻きもので合計10貫(ふつう握り7貫に巻きもの半本分で3貫)とされているのはその時代の名残りなのだ。 (113頁)

 戦前の寿司はもっと大きかったが、戦後直後の食糧難で、小さくなってしまったのだという。
 ただし、この話には異説も存在する。*3 

紹興酒が出てくる背景

 私たちは中華料理を食べるときには紹興酒(老酒)を飲むものと思い込んでいるが、紹興酒は南部の酒で、北京など中国の他の地域では飲まれない。が、世界中にネットワークを持ついわゆる華僑といわれる人びとはそのほとんどが南部の広州(広東)・福建の出身であるため、彼らが持ち込んだ酒がまるですべての中華料理につきものであるかのようにに世界中で理解され (186頁)

 中華料理には紹興酒、というのは、華僑の影響ではないかとのこと。*4

アメリカのスシの「伝統」

 カリフォルニアにおけるスシの草創期、日本の海苔は貴重品で、海苔を節約するためにキュウリの桂むきで代用したことがしばしばあったそうだ。アメリカの太くて長いキュウリは太巻きにぴったりのサイズだったからだが、こんな手法もいまさらの発明ではなく、連綿と受け継がれたカリフォルニア・スシの財産なのである。 (240頁)

 カリフォルニアの寿司があんなふうになるのには、ちゃんとした背景があったのである。
 ちなみにカリフォルニア・ロールの考案者は日本人である。*5

寿司の人肌幻想

 摂氏7度とか8度とか、厳しい規制があるからこそここまで無事故でこられたともいえるのである。日本では毎年のようにスシによる食中毒があるというのに。/その意味では、むしろ日本人の”人肌幻想”のほうが問題かもしれない。/スシは冷たいからこそ、前菜として、アミューズグール(突き出し)として、酒肴として、時間とコースを問わず既存のシステムに入り込めるのである。 (261頁)

 海外のスシは冷たいが、それゆえに広まることになった。
 むしろ日本の人々のほうこそ、寿司=人肌という観念を疑った方がいいのかもしれない。*6 *7

 

(未完)

*1:Takara酒生活文化研究所から出版された2000年の版を読んだので、頁番号はこちらに準拠していることを、あらかじめお断りしておく。

*2:本書に対するAMAZONのレビューに、我が意を得たりというコメントがあったので、引用しておく。

それにつけても感じるのは、こうした新たな食文化誕生の必然性や将来性を理解しないまま、「正しい和食」を教える専門家を世界に派遣しようなどと本気で言い出す、我が祖国の了見の狭さよ。

*3:1940年の木下謙次郎『続々美味求真』は、2升で200個握るのが普通だとしている(507頁)。要は、戦前から寿司は既に小さくなっていたことになる。ただし、1930年の主婦之友社編輯局編『寿司と変り御飯の作り方』(主婦之友社)の、13頁の図を見る限りでは、寿司が今現在よりもずっと大きい。なので少なくともこの時点では、まだ一貫一口半の大きさが続いていた、と考えるべきかもしれない。

*4:本土では浙江省の一部等でしか飲用されないという紹興酒がなぜ、中華料理店では飲まれるのか。海外に華僑として海へ渡ったのは福建や広東出身者が多い。なのになぜ紹興酒を出すのか。

 まず挙げられそうなのが、紹興酒が中国全土で、少なくとも戦前には飲まれていた、とするもの(説)である。

 中国本土(全体)では、料理に紹興酒が出るものだ、という認識が戦前の日本人には存在している。例えば、中国(支那)料理にも通じていた言語学者・後藤朝太郎(『支那満洲旅行案内』(春陽堂、1932年))である(当該著172頁参照)。なお、中国の田舎の方だと、たとえ「紹興酒」と呼ばれていても、実際は本場の紹興酒とは似ても似つかないような、地方酒も出てきたという(後藤著、175頁)。また、外務省通商局『福建省事情』(1921年)は、当時の福建省中流以上の人は紹興酒を常用していたとする(65頁)。

 当時の中国では料理には紹興酒が出た(*ただし、それは本物の紹興酒とは限らなかった)、少なくとも戦前日本の知識人はそう考えていたのである。

 次に、説(仮説)として、東京から紹興酒が出される習慣が日本全国へ広まったというものもありうる。

 陳來幸「日本の華僑社会におけるいくつかの中国料理定着の流れ――神戸・大阪を中心として」(岩間一弘編『中国料理と近現代日本 食と嗜好の文化交流史』2019年)によると、20世紀半ばまでは、広東人が横浜、浙江寧波人が東京、山東人が京阪神の大型中華料理店の礎を築いたようだ。浙江寧波人の店が多い東京では当然、紹興酒が出る。そしてその後、東京から全国へ、そうした紹興酒を飲む習慣が広まったのではないか。

 以上、およそ二説がありそうに思われる。実証不足なので、今後も考えていきたいところではあるが。

*5:サーシャ・アイゼンバーグ『スシエコノミー』に対する松本仁一の書評によると、

60年代後半、カリフォルニアの日本食レストラン「東京会館」で、オーナーの小高大吉郎は、白人受けするすしができないかと考える。板長の真下一郎が職人と頭をひねり、タラバガニの脚とアボカドをマヨネーズであえた巻きずしを考案した。これが当たった。

とのことである(http://s04.megalodon.jp/2009-0616-0921-10/book.asahi.com/review/TKY200806100138.html )。なお、「のりを内側に巻く『裏巻き』は、米国人がのりを気味悪がり、はがしているのを見た職人が思いついた」としている。

 カリフォルニアロールの考案者については、「裕さん鮨」の佐々木祐三だという説(佐々木祐三、聞き手・佐藤孝治「インタビュー 草の根から見た日米関係の戦後五〇年(4)」(『神奈川大学評論』第29号、158頁))も存在するが、真偽不明である。 

*6:いうまでもなく、寿司の人肌の温度が悪いというのではなく、それを最上とする固定観念をここでは問題視している。王利彰は、「酢飯で言えば関東は人肌で関西は冷たくても良いという微妙な温度差があるし、米の堅さ、粘り、酢の甘さ、などかなりの違いがある」と述べている(「今後の飲食店・業種・業態別動向 回転すし店の将来」https://www.sayko.co.jp/article/res-news/res-news8.html )。関東と関西の寿司の違いについて、漫画『江戸前の旬』(41巻)が合理的な説明を試みている。それは、砂糖の量と寿司の保存性とが関係しているとするものであるが、その説明がどの程度正しいのかについては今後の検証課題としたい。

*7:寿司の作り方において、人肌という言葉は、遅くとも、1936年の中原イネ子『割烹指導方案. 基本篇』(文光社)には見られる。ただし、酢飯は人肌に冷まして使用する、という文脈においてである(16頁)。あくまでも、熱い飯に酢飯をかけて、それを人肌の温度になる程度まで、握るのにやけどをしない温度まで下げる、といった程度の意味合いであって、人肌のシャリこそ旨い、というような文脈ではない。

 寿司は人肌がうまい、という主張がはっきり確認できるのは、ざっと調べた限り、内田正『これが江戸前寿司 』(筑摩書房、1995年。底本は1988年)である。遅くとも、1988年には言われていたことになる。それ以前に言われていたかどうかは、まだ調査が十分でないので、また今後の課題としたい。