やはり、「戦争は飯をまずくする(物理)」というような話。 -斎藤美奈子『戦下のレシピ』を読む-

 斎藤美奈子戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』(のオリジナル版)を読んだ。
 (サムネイルは、現代文庫版だが。) *1

  内容は、解説文にある通り、

十五年戦争下の婦人雑誌の料理記事は、銃後の暮らしをリアルに伝える。配給食材の工夫レシピから、節米料理の数々、さまざまな代用食や防空壕での携帯食まで、人々が極限状況でも手放さなかった食生活の知恵から見えてくるものとは

 というもの。
 「戦時下」というのがどういうものか、食の視点から実によくわかる一冊である。

 以下、特に面白かったところだけ。

戦前における、料理に手間暇をかける余裕

 このイデオロギーは婦人雑誌などのメディアによって「つくられた」部分が大きいのだ。/家庭の食卓が飯と漬け物程度だった時代(地域)には、こんな考え方はどこにもなかった。裕福な家庭では炊卓は使用人の仕事だったから、主婦は自分で料理なんかしなかったし、忙しい農家や商家では、主婦も大事な労働力だから、炊事なんかに時間を割いてはいられない。料理に手間暇かけられるのは 夫は外で働き、妻は家事に専念する、新しい都市型の核家族にだけ可能なこと。 (32頁)

 核家族と専業主婦の誕生が、主婦の手料理云々という「イデオロギー」を生んだのである。
 これは、核家族化が進んで料理に手間暇をかけることがなくなっていった、という戦後の言説とは逆の現象である。*2 *3

場当たり的な政策・戦中版

 戦場の苦労をしのんで質素に暮らす日として最初は「日の丸弁当」が奨励されたが、これでは米の消費量が上がってしまう。そこで翌年、節米運動がはじまると「せめてこの日だけは米なしで暮らそう」に変更された。まったく場当たり的である。 (58頁)

 ほんとうに戦争する気はあったんだろうか、そう言いたくなるほどの場当たり的政策であった。*4

食感がない、味がない

 材料不足を補うために、なんでもかんでもすりつぶしたり粉にして増量材に使うことから来る。料理の多くはモサモサしているか、ドロドロしているかに偏る。かといって、その手間を省けば、今度は異常に固いものや筋ばったものを食べなければならなくなる。戦争は、カリッ、パリッ、サクッといった気持ちのいい食感を料理から失わせるのだ。 (引用者略) そして味がない。調味料をケチって使うから (引用者略) その上、燃料が制限されて火が自由に使えず (169頁)

 戦争は飯を不味くする(物理)。*5 *6

戦争は産業の敵

 戦争になると、なぜ食べ物がなくなるか。/ひとつめの理由は、すべての産業に軍需が優先するからだ。男たちは戦地に召集され、戦地に行かない男女は軍需産業に駆り出され、繊維工場や食品工場など、日用品を作る工場もことごとく軍需工場に転業させられた。農村の人手は手薄になり、それまで伸び続けていた米の生産量は、一九四〇(昭和一五)年をピークにとうとう減少に転じた。 (175頁)

 戦争は産業発展の敵なのであった(知ってた)。*7

 

(未完)

*1:そのため、以下の頁はすべて、オリジナル版の方に依っている。

*2:「『核家族社会』になり、失われたものは『手』です」といった言説がその一例である(「シュガーレディの食育かわら版 第十一号」)https://www.sugarlady-net.jp/official/shokuiku/images/kawaraban/11.pdf 

*3:古家晴美は、ある本の書評にて、次のように述べている((「矢野敬一 著「家庭の味」の戦後民俗誌 -主婦と団欒の時代-」https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2017/12FURUIE.pdf )。

戦局の悪化による米不足で、白米の「代用食」として脚光を浴びた「郷土食」は、全国的規模の食糧調達システムの末端に位置づけられ、国家総動員体制が家内領域にまで及ぶ。しかし、このような外部からの「主婦役割」の要求は、過酷な肉体労働(農作業や様々な家事)に従事し経済的なゆとりも欠如していた戦前・戦中期の農村女性にとって、実現困難なものであった。 (引用者略) 普及員の指導により、生活改善実行グループが結成され、自給やその食品加工活動を通し、高度成長期の豊かな消費生活を享受する一歩が踏み出された。これらの活動を通し、「主婦」役割の規範が提示され、村内での家格を示す公的なシンボルであった味噌は、「家庭の味」としての家内領域の問題に取り込まれて行く。

 「主婦役割」の規範の広がり、そして、手間暇かけた食事というのは、このように農村においては戦後高度成長期の出来事であった。

*4:昭和館学芸部「「昭和の『食』の移り変わり ~食卓を中心として~」の概要」によると、日の丸弁当奨励が1939年、節米運動開始が1940年である(https://www.showakan.go.jp/publication/bulletin/ )。なお、「米穀搗精等制限令」(白米禁止令)は、1939年12月に施行されている。

 なお、以上の内容については、本書(斎藤著)でも言及済みである。

*5:もちろんそれは、戦争によって加工食品は進化・成長した、といった類のこととは別の話である。念のため書いておく。

*6:ちなみに、本書56頁では、「興亜パン」(小麦粉のほか、海草粉、魚粉等をベースに、人参や大根葉などを混ぜて蒸して作る蒸しパン)の話題も出てくる。「イーストではなく、ベーキングパウダーを使うので、出来上がりは現代のふっくらしたパンではなく、モサモサした食感の蒸しパンが想像される」(栗東歴史民俗博物館「平和のいしずえ2014」
http://www.city.ritto.lg.jp/hakubutsukan/sub369.html より)。酵母を使うケースもあるようだが、そっちはともかくも、ベーキングパウダーを使う場合はかなりきつそうである。

*7:米の生産量については、「右肩上がりで増加してきた水稲の収穫量は、1933(昭和8)年をピークに停滞するようになり、終戦の1945(昭和20)年には 582万トンにまで落ち込みます」というのがより正確ではないかと思われる( 中田哲也「【豆知識】米収穫量の長期推移」https://food-mileage.jp/2018/09/02/mame-150/  )