まさしく、「渡辺裕の研究のおいしいところだけ載せた感じ」かな。 -渡辺裕『考える耳 記憶の場、批評の眼』を読む-

 渡辺裕『考える耳 記憶の場、批評の眼』を読んだ。 

考える耳 記憶の場、批評の眼

考える耳 記憶の場、批評の眼

 

  内容は、紹介文に、「超『音楽時評』。しなやかな研究の視座。音楽は歴史の中で生成・変容する…音楽文化時代を読む」とあるが、これではどんな本かわかりにくいと思う。
 新聞に連載された音楽の研究的エッセイで、某密林のレビューが述べるように、「渡辺裕の研究のおいしいところだけ載せた感じ」である。

 渡辺裕入門として、ぜひどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

「国民オペラ」の存在意義

「原語主義」は、ドイツの歌劇場でもアメリカ人や日本人の歌手が珍しくなくなった近年の状況と相関的に生まれた比較的新しい流れであり、「国民オペラ」の求心力の弱まった、いわば「オペラのグローバリゼーシヨン」の産物である。 (6頁)

 かつては、国民オペラを作るという「国民文化」構築が求められていたため、フランス語のワーグナーやロシア語のモーツァルトなどは普通だったのである。*1 *2
 それが演者の多国籍化などに伴い、徐々に「原語主義」が広まっていったのだ、と。*3

日常の延長上にある「戦争協力」

たぶん彼らにはことさら「戦時協力」をしているという意識はなかったのだろう。 (引用者略) 戦時体制が日常の延長の上にあり、本人が意識しないうちに訪れるものだという事実が心に重くのしかかるのだ。 (11頁)

 團伊玖磨芥川也寸志は戦前、積極的に軍楽隊に参加している。*4
 そんな彼らに対する評である。
 「戦争協力」といったものは、おおよそこのような「日常化」の延長にあり、よほど意識しない限り、取り込まれるのが普通、と思った方がよいのかもしれない。

ウィーンワルツと創られた伝統

「ウイーンっ子以外には真似できない」と言われる、独特のデフォルメを伴ったワルツの三拍子の刻み方だって、それ以前のウイーン・フィルの録音を聴いてみるとほとんどみられず、さらりと流れていってしまう (39頁)

 オーストリア併合をきっかけとする、ウィーンフィルニューイヤーコンサート誕生以前の話である。
 あのワルツの刻み方は、創られた伝統だった、ということになる。*5 *6
 もちろん著者は、創られた伝統であることに対して単純に否定的なわけではない。

戦前にあった辛口批評

 だが、大正期頃の批評記事をみてみると、それが日本人の「本来」の体質であるとはとても思えなくなる  (67頁)

 初期の宝塚、大正七年のある雑誌記事では宝塚の生徒数人が取り上げられ、人気ばかりが先行して中身が追いついていないと批判されている。
 しかもかなり口汚く批判されているのである。*7
 先人たちの批評は、今のように糖衣に包まれてはいなかったのである。

弦楽器を模倣するピアノ

 SP時代のピアノの録音を聴くと、楽譜には普通の和音しか書いていないところを崩してアルペッジョにする弾き方がよく出てくる。こういうものは十九世紀にありがちな演奏家の勝手な「弾き崩し」と思われてきたのだが、十八世紀の理論書などをみると、この慣習が、鍵盤楽器の奏法においてかつて支配的であった弦楽器奏法の模倣の名残であり、モーツァルトやべートーヴェンの時代には広く行われていたことがわかる。(88頁)

 「弾き崩し」は、18世紀には普通のことだったのである。*8

ヴィブラート奏法の歴史

 今日一般的なヴァイオリンのヴィブラート奏法は、レコード録音の出現とともに、その特性を生かす形で編み出された奏法だった (101頁)

 レコードだとその方が聞きやすかった、ということだろうか。*9

レコードが変えた感性

 二十世紀初頭の大家たちの残したSP録音には随所にミスタッチやテンポの乱れなどがあり、この時代の演奏家は皆へタクソだったのかと訝ってしまうほどだが、実のところ、レコードができて細部を繰り返し聞き返すことができるようになるまでは、弾く側にも聴く側にも、一つ一つの音にこれほど注意を払うような考え方はなかった。 (140頁)

 演奏のうまさの判断基準までもが、レコードやCDなどのメディアを通して聴く機会が増えて、変わってしまったのである。*10

 

(未完)

*1:その一例として、「山田耕筰は、啓蒙主義的な立場から国民音楽の創設を訴え、日本語によるオペラ《夜明け》(のちに《黒船》と改題、1940)をはじめとした国民オペラの作曲に執心した」のである(葛西周「地域横断的な「国民楽派」の議論に向けて─日本における関連用語の混乱を例に─」(http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/files/pdf/publish/ciasdp49.pdf )。

*2:あまり関係のない話だが、半澤朝彦によると、

君が代は,明治期には現在よりかなり早いテンポで歌ったり演奏したりされていたが,1928年に著名な指揮者の近衛秀麿が新交響楽団(現在の NHK 交響楽団)と録音した際,きわめてゆっくりした荘重なテンポで演奏し,それがレコードやラジオで普及し,とりわけ 1940 年の皇紀 2600 年記念行事で使用されたことで演奏規範として定着した。ことさらに荘重なテンポと弾き方は,近衛が当時流行していたマーラー風の重厚な表現を目指したことから来ている

という(「グローバル・ヒストリーと新しい音楽学https://ci.nii.ac.jp/naid/120006367241 )。あれマーラーの影響か、と妙に納得したので、とりあえず引用した次第である。

*3: 

「浅草オペラ」にしても、原語上演・招聘スター歌手が基本の今日のオペラ界の常識からすれば、三流にもならない愚行ですが、同時代の世界に視野を広げると、一九世紀から各国で行われていた訳詞上演の「国民オペラ運動」の一環であったことが見えてくる。

以上、犬飼裕一「渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書2010年、840円)」https://blogs.yahoo.co.jp/inukaimail2003/38258125.html より引用した。本書ののちに出た渡辺著に対する書評である。著者(渡辺裕)の「国民オペラ」に対する視野の広さを示すものとして引用する次第である。

*4:芥川自身の回想によると、学校に行ったら、貼札があった。内容は、どうせ徴兵されるのだから(陸軍)戸山学校軍楽隊に志願してはどうか、というものだった。そこで芥川は志願を決めたのだという。そして当時、ピアノ等は世間では自粛の風潮があり満足に弾けなかったのに比べて、軍楽隊はその埒外であったため、音楽の勉強にはプラスだった、と芥川は回想する。以上、『芥川也寸志 その芸術と行動』(の44、45頁)に依った。そういった誘因(インセンティブ)によって彼は「戦争協力」を行ったことになる。

*5: 渡辺裕、増田聡クラシック音楽政治学』(青弓社、2005年)によると、「美しき青きドナウ」のウィーンフィル最古の録音であるヨーゼフ・クライン指揮の演奏(1924年)は普通の三拍子であり、今のウィーン・フィルっぽい演奏になるのは1942年の録音の時のものだという(42、43頁)。で、「ニューイヤーコンサート」が生まれたのは、1940年である。当該箇所の執筆は、渡辺によるものである。

*6:なお、「ウィンナーワルツの3拍子の音響的特徴 その2」というブログ記事(よこやままさお執筆・https://ameblo.jp/masaoprince/entry-12615071492.html  )によると、「ウィンナーワルツの2拍目は常に前のめりになるわけではないのです。/メロディや他の伴奏との関連があるとみられます。」とのことである。

*7:貫田優子によると、雑誌「歌劇」の投稿欄「高声低声」は小林一三創案であり、公演評や生徒評、劇団運営の仕方まで、辛口批評や毒舌を歓迎する場であり、小林一三をはじめとする劇団関係者が投稿者として名前を連ねる場であったという。そうしたファンと劇団との交流の場も、2007年頃には、あたり触りのない公演評ばかりになったという。以上、貫田「宝塚歌劇団ネット掲示板」(榊原和子(編著)『宝塚イズム1』(青弓社、2007年))に依った。

*8:三島郁は以下のように述べている(「 「ファンタジー」する演奏 : チェンバロ曲演奏考 」https://ci.nii.ac.jp/naid/110003714486 )。

十八世紀半ば以前の音楽は、通常、楽譜に記されている音符のみで演奏されることはない。奏者でもあったそのころの作曲家は、楽譜を「ラフ」にしか書かず、特定の状況における演奏行為のプロセスにおいてはじめて、音楽としてあるべき姿を作っていた

当時においては「『楽器を空虚にしないために』、和音をアルペッジョしたり、単音で記譜された音を何回も打ち直すことの必要性」があったのである。18世紀の音楽的嗜好はこのようなものだったのである。

*9:あるウェブページによると、「ノースカロライナ大学のMark Katzによれば、20世紀前半にレコード録音が始まったことも無視できないという。彼によれば、録音における臨場感の欠陥を補うために、ビブラート奏法がさらに使われるようになったという」(「オーケストラ演奏におけるビブラートの歴史 (1)」『Intermezzohttp://www.fugue.us/Vibrato_History_1.html )。出典は、 Capturing Sound: How Technology Has Changed Music” (2004), by Mark Katz となっている。この場合、臨場感の欠如を補うため、ということになる。また、聖光学院管弦楽団のコラム記事は、以下のように述べている(「ヴィブラートは装飾音だった (1) 」http://seiko-phil.org/2013/01/23/201735/ )。

中世初期から記述が残るヴィブラート。バロック時代には、ある種の情緒を表現するために使われました。「恐れ」「冷たさ」「死」「眠り」「悲しみ」、あるいは「優しさ」「愛らしさ」などです2。歌詞を持つ声楽曲のみならず器楽曲においても、このような情緒を強調するためにヴィブラートを使うことが許されました。つけても良いのは、アクセントがある長い音だけ。装飾音の一種と捉えられていたのです。音を豊かにするためという現在の目的とは、全く違いますね。

ヴィブラート奏法については、部分的な装飾の一種として用いられるケースと、曲において音を豊かにする目的で恒常的に用いられるケースとを、わけて論じる必要がある。歴史的にいえば、前者から後者へ時代的に移行していくのが、大まかな流れとみるべきだろう。あくまでも、大まかな流れ、であるが。

*10:こととね『グレン・グールドの音楽思想』は、グールドの音楽思想について次のように述べる(https://www.kototone.jp/ongaku/gg/gg2.html )。

聴衆はレコードがもたらした非一回性の恩恵によって何度でも同じ演奏を矯めつ眇めつ聴けるようになり、その聴取の際にはコンサート体験で起こり得るような、満足に音が聴き取れないという不都合さから解放される。 (引用者略) このことはグールドが音楽の細部まで聴き取る必要性を感じていたこと、またそれを聴衆にも求めていたということを示すだろう。

グールドは、レコードの可能性をこのように見出していた。すなわち繰り返し聞くことで、一つ一つの音に注意を払ってほしい、と。そして、著者・渡辺の意見に従えば、グールドが考える以前から、レコードは既に音楽に対する感性を変えていたのである。なお、同論文では

『聴衆の誕生』で渡辺裕が述べたように、カタログ的聴取、表層的聴取が横行し、良くも悪くも、それが現代の音楽状況を考える際には欠くべからざる要素となっている 

と、渡辺『聴衆の誕生』の内容に言及している。だが、テクノロジーの代表例であるレコードがもたらした聴取のあり方は、それだけではなかったのである。集中して聞くシリアスな方向性と、散漫に聞く反シリアスな方向性(ベンヤミン「複製技術時代の芸術」を想起せよ)の二つを生んだ、とみるべきであろう。