冷戦において利用されかねない内容だったパル判決について -中里成章『パル判事』を読む-

 中里成章『パル判事 インド・ナショナリズム東京裁判』を読んだ。 

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

 

  内容は紹介文のとおり、

パルの主張をどうみるか。その背景に何があるのか。インド近現代史を研究する著者が、インドの激動する政治や思想状況の変遷を読み解きながら「パル神話」に挑む

というもの。
 とりあえず、パル判事*1について知りたい人は、まずこれを読めばよい。*2

 以下、特に面白かったところだけ。*3

自身の研究との齟齬

 しかし国家主権を乗り越えて「真の国際平和のための機構」をどのようにして構築するのか、その道筋が全く示されておらず、理想を実現するのは難しいから、現実を受け入れるほかないという現状維持論に陥ってしまっていた。 (121頁)

 パルは保守的な法実証主義者とよくいわれる。
 それは、上記のような彼の「判決」を通しての印象であろう。
 しかし、パルの研究業績に照らしてみると、彼はヒンドゥー法史の研究では法社会学的あるいは社会進化論的な立場を採用しており、社会の変化とともに法も変わっていくとしていた。
 つまり、彼の研究成果と東京裁判での彼の判断との間で、齟齬が見られるのである。

 この引用したくだりでは、法の不遡及の原則が英米法では弾力的に解釈を行っているのが現実である旨も述べられている。
 それは次の話につながる。*4

事後法批判、とは何だったのか

 パルのいわゆる「無罪論」が「通例の戦争犯罪」といういちばん分かりやすい犯罪のところで破綻し、筋の通らない言い抜けになってしまっていることは、記憶されてよいであろう。 (130頁)

 ドゥーリトル空襲*5の後に、日本政府は空襲に関する軍律を定めた。
 その爆撃機が墜落して捕虜になった搭乗員を戦争犯罪で裁き、死刑や禁固刑に処することができるようにしたのである。
 結果、ドゥーリトル空襲に関しては、事後法による裁きとなったのである。*6
 日本側の捕虜に対する軍律会議は、死刑優先の厳罰主義が貫かれ、裁判手続きでは弁護に関する規定を欠いていた。
 運用の実態としては、残酷な取り調べや虐待が行われ、多くの場合軍法会議を開かずに即決処刑がなされたり、銃殺という規定になっているにもかかわらず、斬首による処刑がなされたりした。*7
 だが、パルは先の事後法批判を棚に上げて、その軍律は「悪意」に基づいて事後的に制定されていないから被告人に刑事責任を負わせることは出来ないとした。
 また、日本内地で起こった事件は「情勢が極度に混乱していた」1945年に起ったから問題ないとした。

 パル判決というのは、こういう点が、随分と杜撰なのである。

中国ナショナリズムへの冷淡さ

パルは、中国ナショナリズムに対する共感などまったくと言ってよいほど見られない法律論を、展開するのである (135頁)

 中国のボイコット運動開始の1905年には、ベンガル分割反対運動において、多様なボイコット戦術が展開されていた。*8
 にもかかわらず、パルは中国のボイコット運動には冷淡であった。*9
 著者によると、こうした中国(民族主義運動)に冷淡な傾向は、ベンガルの「郷紳」*10 *11の保守派によく見られるものだったという。*12 

冷戦に利用されそうな論理

 実は、こういう意見書の読み方は、ジャーナリストの間にもあった。アメリカのジャーナリストのコステロは、ウィロビーとは正反対の立場からであるが (161頁)

 GHQ参謀第2部部長のウィロビーは、パル意見書を支持した。
 彼は反共主義の立場から、戦犯容疑者の釈放を主張していたのである。
 対して、アメリカのジャーナリストだったウィリアム・コステロは正反対の立場から、パル意見書を読んでいた。*13

 パルが自衛権を絶対化し、当事国の判断だけで(主観的に脅威を感じているだけで)自衛戦争を起こせるとしたこと、そして、共産化の恐れのある国に干渉する権利があるとしたことにコステロは注目し、皮肉を込めて次のように指摘する。
 ならば米国は今日、ギリシャやトルコや中国、ドイツに日本に朝鮮に、干渉する権利を持っているのだ、と。
 戦争違法化の流れに逆行するパルの論理は、しかし、冷戦や膨張主義の論理に容易に転用できるものであった。*14

東京裁判研究会」の実態

 戦犯法的研究会とは別に東京裁判研究会というものがあることにして、『共同研究』を出版したのである (218頁)

 『共同研究 パル判決書』で知られる東京裁判研究会であるが、その実態は戦犯法的研究会という研究会という研究会であった。
 その戦犯法的研究会は、法務省大臣官房司法法政調査部が設けたものである。*15
 座長の一又正雄は、外務省嘱託として39-48年まで活動しており、八紘一宇を指導理念とする「日本的国際法観」を樹立せねばならないと説いたり、満洲国は「東亜新秩序建設の試金石」と説いたりしていた過去がある。*16
 『共同研究 パル判決書』は研究上参照される書物であるが、一応の注意点として、書いておく。*17

 

(未完)

*1:「パル」という呼称は、ベンガル語での発音や遺族の意向等に依るという。もちろん、本稿もこの著者の方針に従い、原則「パル」と表記する。。

*2:本書を読む際は、他に著者の書いたもの、例えば、「書評 中島岳志著『パール判事 -- 東京裁判批判と絶対平和主義』」や「 「パル判事」を上梓するまで (講演)」等も、ぜひどうぞ。https://ir.ide.go.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E4%B8%AD%E9%87%8C+%E6%88%90%E7%AB%A0&page_id=39&block_id=158 

*3:東京裁判については、最近出たデイヴィッド・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体』もぜひ読んでおきたいところである。特に、これまで見過ごされてきたウェブ裁判長の判決書草稿を再評価し、その判決書が他の判事たちのものに比べてはるかに筋が通っている(法的な完成度が高い)点を指摘したのが、最大の読みどころである。その中で今回は、一点だけ触れておきたい。

しかし裁判所は、ヴァイツゼッカーの言葉は「信じる」としながらも、それは大虐殺に加担することを正当化する何らの弁明にならないとして、退けている (当該著254頁)

従来の東京裁判論では、広田と重光に対する有罪は不当だったという見方が一般化している。しかし、同時代のニュルンベルク裁判やニュルンベルク継続裁判と比較すると、元外相の有罪判決は決して異例ではなかった。「諸官庁裁判」では、重光より下位のエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(元大統領ヴァイツゼッカーの父)も、有罪判決を受けている。彼は、日本でいうならば、外務官僚トップのキャリアの官職にいた。ヴァイツゼッカーは、ソ連ポーランドで行われた虐殺やその他残虐行為に対して責任があると判断された。犯罪が侵されていると知った後にもかかわらず、辞任しなかったからである。彼自身は、反ヒトラー運動に寄与するために政府に残ったのだ、としたが、裁判所はそれでもなお、最終的に退けたのである。ここで重要なのは、知った後どう行動するかが問われる点である。

 これは現在のわれわれにとってもなお、注目すべきことと思われるので、一応書いておく。

*4:小暮得雄「刑事判例の規範的効力 罪刑法定主義をめぐる一考」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120000954201 )が述べるように、

コモン・ローを基調とする両国に、法典国の意味における罪刑法定主義、すなわち罪刑の前提として成文の刑罰法規が存しなければならない、との意味における罪刑法定主義を期待できないことは、あらかじめ自明といえよう。

もちろんこの事実は、小暮論文がさらに続けて述べているように、罪刑法定主義英米法に存在しない、というようなことを意味するものではない。ただ、島田征夫は

人間が,すさまじい力を持つ国家権力との闘争において最も力づけられた思想とも言えるであろう。その意味では,単に「犯罪なければ刑罰なし」の標語は,あまりに内容を単純化しすぎていると言わざるをえない。罪刑法定主義の思想、の根本には,正義の実現という法の目的が存在することを見逃してはならないのである

として、罪刑法定主義国際法に適用することの限界について述べている(「東京裁判罪刑法定主義https://ci.nii.ac.jp/naid/120003142851 )。

*5:いうまでもなく、この空襲は多くの民間人をも巻き込むものであった。

*6:

1942年4月18日、日本本土に初めての空襲があった。指揮官の名を取ってドゥーリトル空襲と呼ばれる空襲である。その爆撃機のうち一機が撃墜され、一機は日本陸軍の支配地*1に不時着し搭乗員八名が日本軍に捕獲された。/その八名の搭乗員の処遇をめぐって軍上層部*2で議論が生じた。

そして、「八名のドーリットル空襲隊員をふくめ、広く、今後予想される捕獲搭乗員を対象とした規則」はなく、「捕獲搭乗員を処罰しようとする場合、かれらに捕虜の身分を与えてはならないことになる。捕虜としないで処罰するには、根拠となる新たな規則が必要だった」ため、こうした規則を(事後的に)設けたのである。以上の内容は、「空襲軍律 その一」(『bat99のブログ』https://bat99.hatenablog.com/entry/20061109/1163086528 )からの引用・参照となる。

 また、次の「空襲軍律 その二」(https://bat99.hatenablog.com/entry/20061113/1163429340 )で、「復員庁第一復員局」は、極東国際軍事裁判の論理(「行為が不法ならのちに罰則を設けて処罰してもかまわない」)を逆手にとって、事後法の件を弁明した、という説を紹介している。もちろん、日本側の軍律会議は、のちの述べるように、「裁判手続きでは弁護に関する規定を欠いていた」などの点において、その法的プロセスは、極東軍事裁判と比較してもなお、かなり怪しいわけだが。

*7:立川京一「旧軍における捕虜の取扱い : 太平洋戦争の状況を中心に」(『防衛研究所紀要』. 10(1) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282366)も、

終戦までに、捕獲された連合国軍航空機搭乗員約530人のうち、約100人が定められた手続きに従って軍律会議に付されている(92)。しかし、軍律会議を経ずに処断されているケースも少なくない。とくに、終戦が近づくにつれて、その傾向が増した。  (引用者中略) このように、数多くの捕獲連合国軍航空機搭乗員が軍律会議を経て、あるいは、そうした手続きを省略されて、多くの場合は斬首によって殺害されている。捕獲連合国軍航空機搭乗員の取扱いがとりわけ残酷であったのは、通常の捕虜に対する軽蔑の観念に、復讐心や怨嗟が重なったためであった。また、いずれ死ぬ運命にある者という共通認識もあった。

という点は認めている。

*8:ボイコット運動によりベンガル分割は阻止されることとなった。

*9:千田孝之氏は、本書書評において、パルの中国に対する見方を次のように要約している(https://sendatakayuki.web.fc2.com/etc5/syohyou294.html )。 

「中国が内乱によって絶望的に無政府状態に巻き込まれたとき、その国民は国際法の保護を得るのは極めて難しい」という。そして「1937年の国共合作が日本の対中国戦争を誘発した」と因果関係を全く逆転した見方をしている。そして極めつけは中国が日本への抵抗運動として日貨排斥運動をおこしたことを「このような国際的ボイコットはまさに国際的不法行為である」とまでいうのである。

*10:植民地インドで中間層で、特に英語教育を受け専門職・行政職につく階層を指す。パルは地方の農村中間層から出世して、郷紳となった。詳細は本書参照。

*11:なお、郷紳は、現地の言葉では「ボッドロロク」(「バドラローク」)と呼ばれる。安見明季香「近代インド美術における民族主義とアカデミズム」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005572376 )によると、

タゴール家は当時のインドで最も栄えた家柄の一つであり,カーストでは上位のバドラローク(bhadralok)にあたる。タゴール家はヒンドゥー教の一族で,一族の中でその宗派は二つに大きく分かれていた。ブラフモ(Brahmo)と呼ばれるヒンドゥー教改革派と,古くから続く伝統的なヒンドゥー教から派生した一派である。

とのことである。なお、ノーベル文学賞受賞者のラビンドラナート・タゴールは、家系的に前者に属する。

*12:かつて家永三郎は、パルの中国革命に対する反感に納得できる説明がないので、何らかの理由で、パルが反共思想を抱いていたのだ、と推定していた。本書『パル判事』によって、その背景が確かめられた、と言えよう。家永のパル評については、家永三郎十五年戦争とパール判決書」『評論1 十五年戦争』(家永三郎集第12巻)岩波書店、1998)を参照。

*13:W・コステロ「戦争は果して追放されたか」(『世界』、岩波書店、1949年6月号)。なお、『思想の内乱』という著作が同じく1949年に板垣書店から出版されている。この書物の内容については、目次(https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001867152-00)を
観ればおおよそ察しはつくだろう。一方、本書について、渡辺一夫は、コステロ氏の日本観はむしろ親切すぎると評している(「『思想の内乱』(コステロ氏著)を読む」『架空旅行記など』1949年、160頁)。

 コステロの当該論文は、過去に、家永三郎・マイニア論争の際に、家永が参照している(詳細、『家永三郎集 第12巻』を参照)。念のため。

*14:軍事的脅威のみならず、経済、政治、イデオロギー上の脅威が正当な自衛権発動の理由になりえるか、という論点については、東京裁判より以前に、既にニュルンベルク裁判で否定されていた(戸谷由麻『東京裁判みすず書房、2008年。以下、頁数は新装版(2018年)のものに従う。)。

 例として、アインザツグルッペン裁判を戸谷は挙げている(315頁)。

*15:千田孝之氏は、先に紹介した本書書評において、以下のように経緯をまとめている。

1966年東京裁判研究会編纂「共同研究 パル判決書ー太平洋戦争の考え方」は一又正雄、角田順、阪埜淳吉の解説が入っている。ところがこの東京裁判研究会には実体はなく、法務省大臣官房司法法政調査部が設けた戦犯法的研究会が「戦争犯罪およびその裁判の法的研究について」という研究を行なったものを、私的に不透明な形で刊行したようである。戦犯法的研究会の研究者とは一又正雄、角田順、阪埜淳吉、奥村敏雄の4名である。戦犯法的研究会の基本的な態度は、太平洋戦争を正当化する流れにあわせて出版する意図は明らかであった。この本の出版にあわせて1966年パルを招待する計画が持ち上がった。一又正雄が佐山高雄に相談し、岸信介が500万円を用意した。清瀬一郎が羽田に迎え、石井光次郎法務大臣の推薦で日本大学名誉博士号を授与された。岸信介清瀬一郎の申請でパルに勲一等瑞宝章が贈られた。

*16:佐藤太久磨は、一又について、「最終的に『大東亜国際法』理論の直接的な担い手として言葉を紡ぐに至った」と評している(佐藤太久磨「主権的秩序をめぐる二つの法理(2)」https://researchmap.jp/maro-1982/ )。もちろん、明石欽司が指摘するように、

日本における近代国際法受容という歴史的過程の中で、大東亜国際法理論の構築は、日本の国際法研究者が、近代国際法(学)の充分な理解の上に、理論的独自性を発揮しようとした試みであったと評価できることになる。我々は大東亜国際法理論を、単なる日本の膨張政策の正当化理論であり、日本の国際法(学)史における異常現象として、無視することは許されない

というのは事実である(「「大東亜国際法」理論 日本における近代国際法受容の帰結」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005653124 )。もちろんこれを、「近代の超克」の栄光と悲惨、というふうに言い換えることもできるような気がするのだが。

*17:なお、既に戸谷由麻が指摘していることであるが、田岡良一は『共同研究 パル判決書』のなかで、パル意見書を称賛しつつも、パルの自衛権解釈については留保し、自衛権行使は完全に国家の自由に任されているのではない旨を述べている(戸谷『東京裁判』345頁)。該当な文は以下の通り(田岡良一「パル判決の意義」http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/tokyo.htm#43  )。

自衛権は、そのようなことをしている暇のない急迫した事態において、個人が行使することを許された権利だからである。/その意味で「自衛権をいつ行使するかは個人の判断によって決定してよい」といわれる。/しかしかくして行使された自衛権が、正当な限界を超えていなかったかどうかは、社会の判断に付せられねばならないことである。

 『共同研究 パル判決書』のような書物においてさえ、そういった点は指摘していた、というのが重要である。

 もちろん田岡は、先の一又正雄らとは、立場を異にする人物であることは言うまでもない。この田岡の姿勢自体は、良くも悪くも、戦前の論文・「疑ふべき不戦条約の実効」(1932年)から変わっていないように思われる。じっさい田岡は、先の「大東亜国際法」理論等については否定的な見方をしていたようである。詳細、田岡の論文「国際法否定論と将来の国際法学」1942年 を参照。