新約聖書における、「救済」と「自責」に関する一考察(ってほどでもない) -田川建三『宗教批判をめぐる』を読む-

 田川建三『宗教批判をめぐる 宗教とは何か〈上〉』を読んだ。

宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉 (洋泉社MC新書)

宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉 (洋泉社MC新書)

 

 内容は紹介文のとおり、

人間はなぜ宗教を生み出し維持してしまうのか? 著者の問題意識は鮮明である。人間のいとなみの中から、「宗教」と呼ばれる部分だけを抜き出してきても、宗教を生み出してしまう人間の実態を知ったことにはならない。我々にとって必要なことは、宗教として知ることではなく、何故、どのようにして、人間が宗教を生み出し、維持してしまうかを知ることである。護教的立場とは無縁な場所から宗教学者・作家などの所説を逐一批判することで、いわゆる宗教性を解体する。

という内容。
 数ある宗教批判の書の中でも、かなり刺激的な本ではないだろうか。*1

 以下、特に面白かったところだけ。*2

ザイールでのピグミー差別

 「田川さん、ピグミーを見ましたか。人間でもないし、猿でもない、あんなおかしなのはない。ザイールを離れる前に是非一度見に行って来るといいですよ」 (96頁)

 ピグミーも、すでに白人侵略者が大陸を侵略する前から、周囲のアフリカ人によって、いびられてきた。
 上記の引用部は、あるアフリカ人学生の言葉である。*3
 著者がその文章でいおうとしているのは、現在いる「原始人」がかつての人類の姿をそのまま保存している、と考える論者に対しての批判であるが、それはここでは詳しく論じない。

遠藤周作と「疑似宗教的イデオロギー

 遠藤が読者大衆におもねって言いつのり続けたきざな疑似宗教的イデオロギーにすぎない (204頁)

 どんな裏切りでも愚劣さでも無力さでも、まとめて許して肯定していただけるありがたい「論理」を遠藤周作は説くが、それは聖書とはまるで関係ないイデオロギーだ、と著者は述べている。
 ここら辺を論じていくと、聖書における救済の問題に行き着く。*4 *5

感情の切り替え?

 資料からは、イエス死後の弟子たちが裏切りの自責の念にさいなまれたなどということは、まったく推定できない。 (238頁)

 ペテロについては、裏切った直後には後悔して泣いた、と記されているが、イエス死後には、ペテロが裏切りの卑劣さに自責の念を以て苦しんだという記述はないのである。*6
 まあ、単に書き忘れなのかもしれないし、古代人は心の切り替えが早いだけなのかもしれないが。
 しかし注意すべきことであるのは間違いない。

 

(未完)

*1:いつになったら下巻のレビューを書くのかは、現段階では未定である。

*2:今回は取り上げなかったが、特に、「『知』をこえる知 宗教的感性では知性の頽廃を救えない」の章が、身もふたもなくて好きである。この章は、教育出版の教科書『精選 現代文B』にも載ったようで、その編修趣意書には、

近代が「知性」に頼り招くことになった諸課題を「感性」によって克服することはできず,善悪両面の影響力を洞察する「真の知性」をもつことが必要という文章

とある(参照:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/tenji/1385385.htm )。つまるところ、前近代では「知性」をも担っていた宗教は、近代になると「知性」は科学が担い、宗教は「感性」だけを担うこととなったが、そんな「感性」だけになった「宗教」に、どの程度近代の諸課題が克服できるんじゃい、というような内容である。 

*3:ピグミーおよびバボンゴ・ピグミーの(差別/被差別の)相違について、児玉由佳は松浦直毅『現代の〈森の民〉』を紹介する記事のなかで、次のように言及している(「資料紹介: 松浦直毅『現代の〈森の民〉 中部アフリカ、バボンゴ・ピグミーの民族誌』」https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Africa/2013_07.html )。

先行研究では、ピグミーが狩猟採集活動から農耕へと生業の軸足を移していく過程で、農耕民によるピグミーへの差別が強まる傾向にあることが指摘されてきた。しかし、バボンゴの場合は、頻繁な交流を通して近隣の農耕民と友好的な経済的・社会的紐帯を形成することで、差別の拡大ではなく、より対等に近い関係を築いている。本書は、その要因について、経済的関係だけでなく、社会制度や言語の共有、彼ら独特の儀礼のもつ政治的・社会的権威など、さまざまな側面から検討している。

そして、前者のピグミーの差別について、松浦直毅は、次のように先行論文をまとめている(「ガボン南部バボンゴ・ピグミーと農耕民マサンゴの儀礼の共有と民族間関係」(2007年)https://ci.nii.ac.jp/naid/130000730469 )。

ピグミーと農耕民の関係は,農耕民社会がもつ社会的カテゴリーを際だたせるヒエラルキカルな共存の論理(竹内,2001)や「不平等」イデオロギー(塙,2004)にもとついている場合には不平等なものになる。もともと社会経済的な格差が小さい場合でも,商品経済化や国家によるピグミー蔑視の政策という外部世界の影響によってピグミーと農耕民は差異化され,両者の格差が顕在化する(寺嶋,2002)。農耕民の社会制度や外部世界の影響がピグミーと農耕民の不平等な関係に結びついて
いるのである。

興味深いことと思ったので、ここで引用・紹介する次第である。興味のある方は是非ご一読を。 

*4: ただし、遠藤周作の描いたキリスト(教)像と、パウロの救済思想と間に類似性をみる意見が存在する。例えば、青木保憲は次のように述べている(「神学書を読む(9)『沈黙』と共鳴するキリスト教の犠牲批判 青野太潮著『パウロ 十字架の使徒』」https://www.christiantoday.co.jp/articles/23047/20170118/koredake-ha-yondemitai-theological-books-9.htm )。

『沈黙』では、このカトリック的な思考に潜む欺瞞(ぎまん)を暴き出し、真に神を信じる者として生きるとはどういうことかについて問い掛け、司教はカトリック信仰を捨てる。弱き者と同じ姿になり、彼らに寄り添う決断をする。その時、彼の心に神の声が届く。「私は決して沈黙していたのではない。あなたがたと共に苦しんでいたのだ」と。/ここで描き出された神の姿、これこそ青野氏をしてパウロが語ったとされる「十字架につけられたままのキリスト」ということになる。

つまり、青野、すなわち青野太潮の解釈に従えば、聖書(ここではパウロの救済思想)との間に齟齬は見られなくなる。
 また、青野は、犠牲の強要を問題視してもいる。

犠牲者は「現代のキリスト」となって、後に生きる者たちのために亡くなったと捉え、彼らの犠牲を神聖視することにつながっていく。しかし、それが強要されるとしたらどうであろうか。パウロが聖書の中で「偽りの福音」と語り、幾度もこれから離れよと語っていたのは、この「身代わりのキリスト」という論理だ、と青野氏は結論づけている。

こうした点から見れば、青野の解釈は魅力的に見える。もちろん、青野のパウロ解釈が正しければ、の話ではあるが。
 じつは田川も、救済思想としてのパウロの考え方は一応評価している。田川訳『新約聖書 訳と註 第四巻』の註や解説を見れば、はっきりとそう書いている。実際、第四巻を読んだ架神恭介もその箇所に言及している(「【7/28】イズン様マジ鬼畜」http://curry-blog.cagami.net/?eid=1071279 )。勿論、パウロより親鸞の方が、救済思想の完成度が高い旨を、田川は述べているが。

 また、田川は『新約聖書 第四巻』の「ローマ書」第七章註において、パウロの他律性の自覚を重視している。これは、神の救済の他律性のみならず、自分に悪を成さしむる欲求その他(自己の外部の社会的な要素も視野に入る)の、あらゆる外部的なものの他律性をも示す。果たして、遠藤の描くイエスにそうした意味での他律性の自覚性があったかどうか(また、「社会」というものが視野にあったかどうか)は検討すべき課題であるが、ここでは置いておく。

*5: ここで一つ問題にしたい。先に述べたようなパウロの救済思想が、新約聖書全体に当てはまるかどうかである。

 実際、田川は本書『宗教とは何か 上』において、次のように述べている(以下、ブログ・「世界の名著をおすすめする高等遊民.com」の記事https://kotoyumin.com/endoshusaku-silence-juda-1035より、孫引きを行ったことをお断りしておく。)。

けれども悲惨なことに、あるいは遠藤にとっては皮肉なことに、このように本当に裏切りの自責の念に責めさいなまれた人物のもとには、復活したイエスは現れない。/『沈黙』の著者はくり返し、くどいほどくり返して、裏切者キチジローを赦し続ける。福音書記者マタイは情容赦もなく、ユダに自殺させてしまう

ユダに赦しが訪れる描写は、新約聖書には載っていない。

 もちろんカール・バルトのように、ユダの救済の可能性を説く者もある。本多峰子は次のように述べている(「ユダは救われるか  カール・バルト 『イスカリオテのユダ』と、遠藤周作『沈黙』による考察」http://www8.plala.or.jp/mihonda/Yudahasukuwareruka.htm )。 

これは、保障されたものではないかもしれない。しかし、イエスがすべてのもののために死んでくださったその恵みが、棄却されたものには及ばないとは、バルトは考えられないのである。

ただ、それは、本多の述べるように、「教義的にではなく、むしろ、信仰から出た『希望』の訴え」というに留まるのではある。もし救済されたのであれば、なぜユダの救済は新約聖書においてきちんと描かれなかったのか、と述べることも可能である。 

*6:実際、これは田川訳でなくとも把握できる話である。特に四福音書のうち、イエス裏切り後のペトロの出番が最も多いであろう「ヨハネ福音書」の場合、日本聖書協会版『口語 新約聖書』(1954年 https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3) )でも、そのことを確認できる。自責の念で苦しむ描写はない。ただ、イエスへの愛を言動で示すばかりである( 「ヨハネによる福音書」21:15 付近。 なお田川は、『新約聖書 訳と註 第五巻 ヨハネ福音書 』の註において、この箇所(ヨハネ福音書の21:15付近)はペテロ伝説として創作されたものだとしている。他の福音書と読み比べればその解釈が妥当だろう。) 
 また、自責の念で苦しむ描写がないのは、使徒行伝でも同様である(https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E8%A1%8C%E4%BC%9D(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3) )。