芥川也寸志『音楽の基礎』を読んだ。
内容は、紹介文の通り、
さらに深く音楽の世界へわけ入るには、音楽の基礎的な規則を知る必要がある。本書は、作曲家としての豊かな体験にもとづいて音楽の基礎を一般向けに解説したユニークな音楽入門。静寂と音との関係から、調性・和声・対位法までを現代音楽や民族音楽を視野に入れつつ詳述する。
というもの。
古典ではあるが、やはり不朽の名著。
以下、特に面白かったところだけ。
ピアノの音域は広い
実際にはオーケストラの全音域よりも、ピアノのもつ音域のほうが広い (7頁)
みんな逆だと思っているが、実はそうである。*1
音色と倍音(部分音)
低次の部分音が強い音は、豊かで幅のある音色となり、その反対に高次の部分音がより強い音は、固く鋭い感じの音色となる。奇数番の部分音のみが響き、偶数番が弱いか、ほとんど存在しないときは、少しうつろな感じの音色となる (14頁)
この三つの場合を、管楽器で代表させると、それぞれ、ホルン(豊かな音)、オーボエ(ブオーと固い音)、クラリネット(アンニュイな音)の音色に代表されるようだ。*2
インド音楽のリズム
インドにはターラtalaと呼ばれる複雑なリズム理論がある。 (90頁)
ラグー、その倍のグル、三倍のブルタ。*3
それらの組み合わせや細分法で120種類のターラが作られる。
インドはリズムの天国である。
弦楽四重奏にコントラバスがいない理由
楽器の性能という点でも、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロに比していちじるしく落ち、独立した声部として対等に主張することはむずかしい。 (162頁)
木管セクションでも、フルート属、オーボエ属、クラリネット属、ファゴット属の四声部で成り立つ。
金管セレクションでも、トランペット、ホルン、トロンボーン、チューバから成る。(ホルンパートも、ほとんど4本で構成される。)
だが弦楽四重奏の場合は、コントラバスはいない。
著者は、性能の問題等を理由に挙げている。*4
共和制と多声音楽
多声音楽は共和制体にたとえられよう (180頁)
多声音楽は、どの声部にも同じ権利があり、均整がとれている。
和声音楽だと、調性を支配する低音の絶対的権威の上に、旋律という第二番目の権威者がいて、ほかの声部は、それらにつき従う。
低音という君主と旋律という王妃の君臨する立憲君主制体となる。
まあ、その場合、和声音楽の憲法は何になるのか、という話ではあるが。*5
バッハは最高の練習曲
指のための最高の練習曲はバッハといわれるのはこのため (185頁)
フーガの演奏は、常に新しい旋律の登場を示さないといけない。
特にピアノの場合、右手、左手それぞれに二つか三つの声部を弾かねばならない。*6
そして、新しい主題の登場をはっきりさせるために、強く弾く指、弱く弾く指の統御が完全でないといけない。
そういった意味において、バッハは最高の練習曲である。*7
(未完)
*1:比較的近年に出た、岩宮眞一郎『図解入門よくわかる最新音響の基本と応用』(秀和システム、2011年)も、コントラバスの低音域からピッコロの高音域まで、ピアノはカバーできることを述べている(当該書67頁)。
*2:ブログ・「クラリネットの調べ物」によると、「B♭クラリネットの最低音の周波数毎の音量を解析」すると、「一番左の147Hzのピークが最低音の基音ですが、普通に2倍の294Hzも4倍の588Hzも出ています。まあ、偶数倍音も普通に出ているけどちょっと弱めって感じ」であるらしい(http://ascl.seesaa.net/article/462364501.html )。
*3:カルナータカ音楽(南インド古典音楽)の場合、拍数は、ラグーが4、グルが8、ブルタが12となっている。以上、ブログ・「旋律腺 Raag Gland 北印度古典声楽的世界」http://raaggland.com/?page_id=830 の記事を参照した。
*4:「聖光学院管弦楽団」のコラムによると、元々「チェロとコントラバスは同じパートを演奏していた」のだが、「各パート1人の室内楽ではコントラバスはあぶれて(?!)しま」い、結果、コントラバスは弦楽四重奏ではお役御免になったようである(「(138) 弦楽四重奏:不公平な編成はなぜ?
」http://seiko-phil.org/2013/06/19/201322/ )。なお、「弦楽四重奏の主要な先駆形態」は、「ヴァイオリン2つとチェロ、チェンバロ」であるが、のちに、「チェンバロ(の右手)に代わって、旋律と低音の間を埋めるために使われるようになったのが、ヴィオラ (引用者中略) でも、ヴィオラ1つで和音充填するのはかなり難しい。そのため、ヴァイオリン1は旋律、2はヴィオラとともに伴奏という分業が普通に」なったようである。
*5:小学館版の『昭和文学全集 第9巻』に収録された河上徹太郎「私の詩と真実」によると、次のようになる(415頁)。すなわち、パウル・ベッカーによれば、多音音楽は共和政体であり、一般低音による和声音楽は専制君主政体。やがて一般低音の権威が失われて、二つの中音がソプラノやバスと同じような重要性を帯びてくると、それは立憲君主制になる、と。なので、元ネタはパウル・ベッカーであり、憲法云々は考えなくてもよさそうである。
なお、大元のパウル・ベッカー(河上徹太郎訳)『西洋音楽史』(河出書房新社、2011年、106,107頁)では、王国(和声音楽)と共和国(多声音楽)は相容れないものであり、和声が対位法的形式を借りたものは立憲王国ではあるが、結局やはり唯一の王である和声が君臨している、と指摘されている。この二つは相いれないもの、というのが、ベッカーの強調する所である。
それにしても、ベッカーと河上は、政治学者や法学者が怒りそうな(雑な)比喩を使ってるんだな。
*6:ブログ・「”音楽で生きる”ための情報ブログ」は、バッハの音楽について、「そしてこれは「メロディと和音による伴奏」という捉え方で楽することに慣れて飼いならされたブタのような頭からは極めて遠い、野性的というか、本来の音楽なのです!」と評している(https://ameblo.jp/lifeisasong4you/entry-11560156482.html )。つまりバッハは野生の猪なのだろう。
*7:ちなみに、松藤弘之は次のように述べている(「ショパンのピアノ技法から見たショパン・練習曲集(3)」https://ci.nii.ac.jp/naid/110008514406 )。
ショパンの作曲技法の基礎を形作っていたのは,J.S.バッハであったことを見逃してはならない。ショパンに最初の音楽教育を施したヴォイチェフ・ジヴヌィ(1756~1842)は,当時としては例外的なバッハの崇拝者だったので,ショパンは対位法と和声が織り成すバランス感覚や,古典的規律を身につけることができた。レンツによれば,ショパンは演奏会前の2週間は自作を弾かず,もっぱらバッハだけを弾いて演奏の準備としていた。
バッハのピアノはショパンにも強い影響を与えていたのである。