エレキギターが主役になるまでの日本ギター音楽史。あと、なぜブルースといえばギターなのか -北中正和 『ギターは日本の歌をどう変えたか』を読む-

 北中正和 『ギターは日本の歌をどう変えたか』を読んだ。

 内容紹介文の通り、

今や最も身近で愛されている楽器ギターは、いつ、どこで生まれ、どんなふうに世界に広がったのか。そして二十世紀の日本ではどのように普及し、日本の歌をどう変えたか。戦前のハワイアン、古賀政男あきれたぼういず、戦後の田端義夫、ウエスタン/ロカビリー、エレキ・ブームまで。ギターをフォーカスにすると、ポピュラー音楽のユニークな歴史が見えてくる! J‐POPのルーツへの楽しい探索の旅。

というもの。
 主に、エレキ・ブームあたりまでなので、それ以降の時代のことは出てこないが、しかし、オススメ。
 以下、特に面白かったところだけ。

なぜブルースといえばギターなのか

 ブルースではバンジョーよりギターがよく使われた。 (63頁)

 ミンストレル・ショーでバンジョーが使用されて、差別的イメージと結び付いたことが説として挙げられる。
 そして、バンジョーが金属銅で作られて弦の張りが強まり、音の響きが短くなって、ブルースの伴奏に合わなくなった、という説も。
 著者自身は、歌いながら多様なメロディや和音を容易に弾けるギターは、ヴォーカルの合間の演奏にもってこいだった、という説を唱えている。*1
 あと、バンジョーがギターに比べて重量が重い、という理由もあるように思う。*2

ナウかったマンドリン

 その頃のわが国で、最もモダンな楽器 (105頁)

 古賀政男が音楽を目指したのは15の頃だった。
 マンドリンは当時、最新のナウい楽器だった。*3
 彼はその後、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参加している。

ガット弦の響きと苦労

 ところがセゴビアはガット弦を使っていた。 (112頁)

 それまで日本ではクラシック系ギターはイタリアから輸入された金属弦を使用していた。
 ところが来日公演でセゴビアはガット・ギターを使用していた。
 ガット弦によって、柔らかく微細な表情の演奏が可能だったのである。
 しかし、日本では湿度が高く、ガット弦は伸び縮みし易いので使用は困難だった。*4
 ナイロン弦が登場して日本が普及するのは、1950年代以降のこととなる。

スチールギターが笑われた頃

 やがてAマイナー・チューニングによる奏法が紹介されてからは、情緒纏綿とした日本的な歌の伴奏にぴったりとみなされる (120頁)

 スティール・ギターが日本に登場した時には、ハワイアンについて知識がなかった人たちに、笑われたりしたという(灰田晴彦の証言による)。
 そんなスティールも、Aマイナー・チューニングによる奏法が紹介されると受け入れられるようになったそうだ。*5

寺内タケシの功績

 寺内タケシは、エレクトリック・ギター三人、エレクトーン、ベース、ドラムという形にバンドを再編成した。 (169頁) 

 1963年の夏のことである。
 当時はブラス(ホーン)の入っていないバンドなどはバンドでないと思われていた。
 しかし、チェット・アトキンスの来日公演に接して、エレキの可能性を確信した寺内は、迷わずこの編成に踏み切った。*6
 ベースもエレキに変え、キーボードはエレクトーンの原型のような楽器を作り、簡単なPAまでそろえた。

 すごい。

 

(未完)

*1:なお、『音楽研究所』の「楽器と音域」(https://www.asahi-net.or.jp/~HB9T-KTD/music/Japan/Instrument/range_gm.html )という記事を見ると、バンジョーよりギターの音域のほうが高低共に広いことが確認できる。

*2:バンジョーの重量はギターの二倍以上ある。ブログ・『バンジョー弾いたり走ったり』の記事https://h-yoshizaki.blog.ss-blog.jp/2009-06-29 を参照。

*3:比留間賢八がマンドリンを日本に伝えたのは、本人曰く、明治34年、1901年のことである(比留間賢八編『マンドリン教科書 : 独習用』、1903年。1頁)。古賀政男は、1904年生まれである。

*4:湿度が高くなると弦が緩むのがガットギターの難点だったが、セゴビアは演奏の最中にガット弦の調子を何度も整えるという神業を披露し、聴衆が驚嘆したという(菊池清麿『評伝・古賀政男: 青春よ永遠に』、アテネ書房、120頁)。調弦しながら弾くというエピソードは、本書(北中著)にも登場する。

*5:小林潔「6弦スチールギターのチューニング色々」という記事(http://www.kt.rim.or.jp/~k_lion_k/lesson/6sgtunings.html )によると、

日本でハワイアンを語る上で忘れてはならないのが日本におけるハワイアンの父バッキ-白片氏が弾きまくったAmチューニング。E C A E C Aです。 このチューニングはHigh bass A major Tuning の2弦と5弦のC#(3度)を半音下げてC音にしたもので、世界にほとんど例を見ないものなので多分バッキ-さんが考案されたものと思われます。 このチューニングの長所は、1~3弦でドレミファの音階を覚えれば4~6弦も全く同じバーさばきで、あとは4弦と3弦のつながりを覚えれば、比較的簡単にスケールを弾いたり1オクタ-ブ下でメロディーを弾くことが出来ます。

とのことである。バッキー白片は、本書(北中著)にも登場する。

 バッキー白片とハワイアンバンドについては、「ロイヤルハワイアンズ」作成の記事http://www9.plala.or.jp/matchnet/old-band.html も参照。

*6:寺内の『テケテケ伝』を、著者(北中)は参照している。該当するのは、寺内著の36-39頁である。

 なお、寺内自身は、ウェブに掲載されたインタビューで、次のように端折って回答している(「公益社団法人横浜中法人会」の記事https://www.hohjinkai.or.jp/interview/0811.html )。

進駐軍のキャンプで演奏してたころ、歌が中心で演奏は〈色物〉に入っていたの。ピアノ、ベース、ギター、パーカッション(ドラム)はレコーディングでリズム隊と言われてたんです。ギターはリズム隊じゃない。ラッパがハーモニー吹けるのか、一つの音しか出ないだろ。エレキギターはひょっとすると楽器の王様になりうると思ったわけ。それでエレキギターだけの編成のバンドを組んだんだよ。それが「寺内タケシとブルージーンズ」になった。