シェイクスピアと囲い込みの話から、『ハムレット』は「哲学」的という話まで -河合祥一郎『シェイクスピア 人生劇場の達人』を読む-

 河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』を読んだ。 

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

 

 内容は紹介文のとおり、

本書は、彼が生きた動乱の時代を踏まえ、その人生や作風、そして作品の奥底に流れる思想を読み解く。「万の心を持つ」と称された彼の作品は、喜怒哀楽を通して人間を映し出す。

というもの。
 紹介文だけだと少しわかりにくいが、シェイクスピアの生涯と作品を紹介する、優れた入門書であると思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

囲い込みに反対しなかったシェイクスピア

 だが、シェイクスピアはそうしなかった (94頁)

 シェイクスピアの故郷で、面倒な土地問題が起こった。
 シェイクスピアが懇意にしていた男の、その息子(ウィリアム・クーム)が、自分らの土地を囲い込み、羊を放牧しようとしたのである。
 すると、穀物の値が上がり雇用が減る、として、反対運動が街で起こった。
 囲い込みは実行され、それが殴り合いのけんかに発展する。
 それに対して、シェイクスピアは、囲い込みを辞めるよう説得することはなかった。
 シェイクスピアは当時、十分の一税徴収権を持っていたのだが、もし損失が出た場合はその代償をする、という囲い込み一派の説得を受けて、引き下がったのである。*1

「女性」としての少年役者

 これらの少年たちは、舞台上で完全に女性に見えたのだろう (155頁)

 1610年に、シェイクスピアの劇団・国王一座上演の『オセロー』を観劇したヘンリー・ジャクソン。
 彼は、デズデモーナ役者を「彼女は~」という風に記している。
 同じく、サミュエル・ピープスも、フレッチャー『忠臣』を観て、少年役者を「女性」扱いして記述している。*2
 彼らは、女性役の少年たちを女性として鑑賞していたのである。*3

ハムレット』は「哲学」

 しかし、この悲劇を単純な仇討ち物語のレベルで考えてはなるまい。 (163頁)

 ハムレットは、ただ復讐するかしないかウジウジ悩んでいるのではない。
 ハムレットはあくまで、キリスト教徒として、人間として何をすべきかを考えている。
 その思索の延長線上に「人間とは何か」という哲学的思考が出てくる。*4
 人間の身(神ならざる存在)でありながら、復讐をもくろむという矛盾。*5
 そして、これに悩むハムレットは、道化師ヨリックの頭蓋骨から、人間のはかなさを教えられることとなる。

 『ハムレット』、結構哲学的である。

オセローの「正義」

 オセローはこれから行おうとしていることを復讐ではなく、なさなければならない正義とみなしていると説明している (167頁)

 第二アーデン版編者の、M・R・リドリーの説である。
 デズデモーナを殺害するオセロー側の理屈はこうである。
 つまり、オセローは、神に代わって正義を行おうとしているのである。
 「死なねばならぬ。でないとさらに男を騙す」というセリフがそれを物語る。
 まあ、ミソジニー感があるような気もするが。*6

 

(未完)

*1: 「シェイクスピア・バースプレイス・トラスト」のウェブサイトには次のようにある(以下のURL:
https://www.shakespeare.org.uk/explore-shakespeare/blogs/shakespeares-friends-burbage-combe-and-sadler/ )。

Thomas and William fought the council who objected to this appropriation of public lands. Shakespeare’s tithes which he had invested in included some of this contested property, but the Combes’ agent assured Shakespeare’s agent, Thomas Greene, that they would compensate Shakespeare for any loss to his tithes.

ただ、後段の文章によると、どうやら、事はクームやシェイクスピアたちの思うようにはいかなかったことが書かれてはいるが。

*2:サミュエル・ピープスの日記(1660年8月18日付)によると、

“The Loyall Subject,” where one Kinaston, a boy, acted the Duke’s sister, but made the loveliest lady that ever I saw in my life, only her voice not very good

とあり、もちろん少年と認識はしていたが、「レディ」と形容している。以下のURLを参照https://www.pepysdiary.com/diary/1660/08/18/ 

*3:木村明日香は、

多くの研究者が少年俳優と女性の近似性を指摘してきたのは驚きではない。女性が父や夫の所有物として社会的・経済的・性的自由を奪われていたのと同じように、少年俳優も自らの身体と労働への権利を持たず、こうした被支配者としての立場が、彼らが女性を演じ男性の性的対象になりえたことの背景にあると考えられたのである

という風に、先行研究について言及している(「『モルフィ公爵夫人』における少年俳優の舞台上の効果」https://ci.nii.ac.jp/naid/130007593500 )。もちろん木村の主張は、その先にあるわけなのだが。
 一応、押さえておくべき点かと思うので、ここで言及しておく。

*4:著者・河合が出演した番組の解説文には、

「生きるべきか、死ぬべきか」。近代人としての悩みを真正面から引き受けて悩み続けたハムレットは、第五幕でついに最後の決断を行う。その決断の裏には、自力のみを頼ってあれかこれかと悩むのではなく、「もう一つ高い次元で、神の導きのまま自力の全てを出し切って最善の生き方をしようという悟り」があると河合教授は指摘する。ハムレットは、最終的には、なすべきことを全てやりきった後は、全て運命にまかせようという悟りの境地に至ったのだ。

とある(「名著39 「ハムレット」:100分 de 名著」https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/39_hamuretto/index.html )。

*5:本多まりえは、

エリザベス朝当時、私的復讐は神と法によって禁じられていたため、ヒエロニモ(Hieronimo)やタイタスなど、復讐悲劇の主人公は、どのような事情であれ、復讐を果たした途端に「悪党」の熔印を押された

と述べている(「ハムレットと独白」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000785642/ )。参照されているのは、 Fredson Bowers, Elizabethan Revenge Tragedy 1587-1642 である。

*6:鍛治佳穂は、先行研究を次のようにまとめている(「『オセロー』は人種の悲劇か――オセローの悲劇にみる男性性喪失への恐れ」http://www.elsj.org/kanto/proceedings_fall2018.html )。

オセローがなぜあれほど容易くイアーゴの罠にはまってしまうのかという問いはこれまで多くの先行研究で提示されてきたが、近年では、デズデモーナとオセローとの間の年齢や階級の差、そして人種の違いを指摘することによってオセローのコンプレックスを刺激するイアーゴの手法や、イアーゴとオセローが女性全体に対する不信という父権制的なミソジニーを共有していることなどをその理由とみなすのが主流となっている。

すでに、ミソジニーについては、研究上で言及されている。