湯浅学『てなもんやSUN RA伝』を読んだ。
内容は、紹介文のとおり、
土星に還った男、サン・ラーの足跡を追う惑星間音楽批評!
というもの。
知らない人は、なんのこっちゃと思うだろうが。
まあ、サン・ラー*1で、本が書けるのは、日本ではこの人くらいかもしれない。*2
以下、特に面白かったところだけ。*3
土星人のルーツ
実はサン・ラーとアーケストラの演奏は1930~40年代のジャズ楽団の伝統的様式を踏襲続けていた (214頁)
サン・ラ―は、実はけっこうオーソドックスな存在でもある。*4
一方、サン・ラーとアーケストラの特徴となるのは、儀礼的な信仰の中で集団即興を展開するところだ。
これは、アーケストラ各自の自発的鍛錬を重視した結果であるらしい。
土星人、香港映画にはまる。
サン・ラーはたちまちそのトリコとなり、続々上映される香港映画をすべて見たらしい。 (87頁)
サン・ラーは、1961年、ニューヨークにいた。
かれは、一度に3、4本の映画をみて、はしごしたりした。
そんな彼は、香港映画にはまる。
香港映画がアメリカに初上陸したのも1961年だ。*5 *6
土星人、ラゴスで怒る
故郷だと? お前たちは私の仲間を売ったんじゃないか。ここはもはや私の故郷などではない! (225頁)
サンラはラゴス(ナイジェリアの都市)で怒った。
フェスに呼ばれたが、扱いに腹を立てたのである。
空港に迎えに来たナイジェリア人が、「おかえりなさい、ようこそ故郷へ」と言ったものだから、お前たちは私の仲間を売ったんじゃないか、と答えた。*7
土星人、音楽の懐が深い
しかし諸君、このインチキが、どこかの誰かにとっては希望であり夢の素なのだ。 (242頁)
サン・ラーがディスコ向けのレコードを持ってきて、アーケストラの面々に聞かせた。
何人かは露骨に嫌悪感を示した。
サン・ラ―は言った。
頭ごなしに決めつけてはならないと。
サン・ラ―はそのようにして、ディスコに対しても、柔軟に対応することとなった。*8
また、サン・ラ―はパンクロック以前からパンクで、スロッピング・グリッスルより以前から力強いノイズを発生させていた人物である。
結果、サンラの音楽はパンクやニューウェイヴの支持者の一部にも、「発見」されることになった。
土星人、ダンボとディズニー映画にはまる
サン・ラーはダンボに大いに共感した。 (312頁)
ディズニー映画に傾倒したサン・ラー。
サン・ラーは、仕事の都合上、『ダンボ』のヴィデオを見た。
そして、ダンボが悲しく夜空を見上げる姿、その心優しキャラクターを大変気に入った。
しかもこの作品には中近東的メロディを持った曲も盛り込まれていたため、サンラを大いに刺激した。
そんなこともあって、他のディズニー映画の楽曲も、アーケストラのレパートリーに加わっていったのだった。*9
(未完)
*1:本稿では、サン・ラ―で、表記を統一する。
*2:著者は、2004年に出たジョン・F.スウェッド『サン・ラー伝』邦訳の監訳も行っている。
*3:『Jazz Tokyo』に掲載された、インタビューで、マーシャル・アレンは次のように述べている(https://jazztokyo.org/interviews/post-3710/ )。
基本的にサン・ラの音楽にはすべてにメロディーがある。どの曲にも明確なメロディーがあるから、自由にリズムやカウンターメロディーを付けられる。こんな簡単なことはない。何度考えても、音楽を創造するのに、これ以上いい方法はないと思う。
サン・ラーの音楽における重要な事項として、あえて引用した次第である。
*4:青木和富は、
アーケストラは、普段フリー・ジャズに分類されるが、サン・ラが古典ジャズの鬼才フレッチャー・ヘンダーソンから影響を受けたように、このオーケストラの土台にはスイング・ジャズがある。
と述べている(「サン・ラ・アーケストラ不思議なグルーヴ感が充満」https://style.nikkei.com/article/DGXDZO74181290S4A710C1BE0P01?channel=DF130120166055&style=1 )。
*5:鑑賞したのは、キン・フー「大酔侠」(1966年)、チャン・チェ監督「片腕必殺剣」(1967年)、「死角」(1969年)、などである。どれも、1961年以降の作品だ。サン・ラーは、こういった香港映画の有名作品も、見ようとしたのだという。以上、 John F. Szwed の Space Is the Place: The Lives and Times of Sun Ra を参照した。邦訳もあり、監訳は本書の著者・湯浅である。
*6:大和田俊之は
カンフー映画への関心が1970年代に公開された一連のブルース・リー映画に端を発することはいうまでもないが、それがベトナム戦争を背景に白人社会への抵抗という点で黒人とアジア人の連帯を表していたことは強調すべきだろう。
と述べている(「ヒップホップにおけるアフロ=アジア」http://www.webchikuma.jp/articles/-/731?page=3)。サン・ラーはそれよりもずっと早く、香港映画に着目していたことになる。
なお、上記の大和田の議論は大変面白いので是非ご一読を。
*7:『ナショナル・ジオグラフィック』の「沈没船が明らかにする奴隷貿易の変遷」という記事には、
ヨーロッパの奴隷貿易戦略は、冷酷なものだった。商人はまず、一部のアフリカ人を味方につけ、銃と火薬を与えて部族闘争を強化させる。その間にアフリカ人仲介人を敵国に送り込み、奴隷を捕らえさせる。捕らえられた奴隷は沿岸まで連行され、ヨーロッパの奴隷商人に売りさばかれるという仕組みだ。
とある(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/b/060900010/ )。よく知られていることではあるが、念のため。
*8:サン・ラ―がアルバム・『Disco 3000』を出したのが、1978年。その年ヒットしたのが、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』である。
*9:ブログ・「人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary」には、
1989年のサン・ラ・アーケストラは「Disney Odyssey Arkestra」と名乗ってライヴ活動を始めました。前年のオムニバス盤『Stay Awake』はディズニーのアニメ曲のジャズ・カヴァー集で、アーケストラは『ダンボ』からの「Pink Elephant」を割り当てられましたが、サン・ラは初めてディズニー・アニメを観て深く感動してバンドのレパートリーにディズニー・アニメ曲を多く取り入れ、1989年初夏のヨーロッパのツアーは序盤と締めに定番曲を演奏し、大半はディズニー・アニメ曲を披露するステージになりました。