「なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか」(by岡本太郎) そして、大商会頭の出身地から大阪経済の浮沈を思う -梅棹忠夫『民博誕生』を読む-

 梅棹忠夫『民博誕生 館長対談』を読んだ(だいぶ前に読んで久しい)。 

 内容は、梅棹とゲストたちとの対談なのだが、某密林のレビューにある通り、「本書は民博完成に関った人々との対話だが、けっこう博物館に関係ない話もしている」。

 しかし、そこが面白かったりもする。

 以下、特に面白かったところだけ。

「なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか」

 なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか (43頁)

 岡本太郎の言葉である。
 生まれつき足の長いやつが走る訓練してテープを切っても「人間的じゃない」、と岡本太郎は言う。
 それよりも、何十メートルも後ろを「短足岡本太郎」が歯をくいしばって走っている方がよほど「人間らしくてうつくしいんだ(笑)」。*1
 たしかに、こういうものの方が、よほど見ごたえはありそうである。

国際化とは何か

 ここにしかないりっぱなものができれば、世界のために意味がある (217頁)

 木田宏の言葉である。*2
 これに、梅棹も同意している。*3
 国際化とは、飛行機で往復したり、国際交流したりすることではない。
 その国の誇るべきものであることが国際的である、と。
 例として、『源氏物語』等を挙げている。
 もちろん、くだんの官製の「クールジャパン」とやらが、真に「国際化」なのかというと、もちろんそんなことはないのだろうが。*4

大阪は、大阪の外の人間が支えた。

 大阪商工会議所の会頭の出身地をみたら、大阪人はふたりしかいないですね。 (254頁)

 司馬遼太郎の言葉である。
 本が出た当時、明治期の田中市兵衛と昭和期の森平兵衛のみが、大阪出身だった。
 大阪は、よそのひとがやってきて商売をしている、と梅棹はいう。
 たしかに、五代友厚も、薩摩の士族である。
 大阪商工会議所ビル前の銅像三体は、五代、土居通夫、稲畑勝太郎、いずれも、大阪出身ではない。
 これが、往時の大阪の経済界であった。*5

 

(未完)

*1:岡本のオリンピック観の一側面として、篠原敏昭は、次のように書いている(「ベラボーな夢 岡本太郎における祭りと万博」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006616337 *注番号を削除して引用を行った。)。

彼 (引用者注:岡本太郎) はオリンピックに巨額の予算がつぎこまれることが気に入らなかったのだ。なぜ気に入らなかったのか。オリンピックが、誰もが参加できる祭りではなくて、「チャンピョン達のためだけ」のものだったからである。

なお、この箇所で参照されているのは、岡本「半身だけの現実/代用時代」である。
 篠原は、岡本のオリンピック観の別の側面についても言及している。

*2:木田は戦後、若手文部官僚として、社会科特別教科書『民主主義(上・下)』の編集にも携わっている。その件で面白いのは、第1章の「民主主義の本質」を、宮沢俊義に任せたら中身が硬すぎたので、やむなく、宮沢の先輩の尾高朝雄に執筆を引き受けてもらった、というエピソードである(谷口知司ほか「木田宏と教科書「民主主義上・下」について : オーラルヒストリー等の木田教育資料から」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004750811、21頁 )。

*3:ところで、民族学博物館ができたころ、もっとも痛烈に批判したのは、おそらく、赤松啓介であろう。赤松は、「危機における科学」で例えば次のように述べている(以下、犬塚康博「国立民族学博物館:「フォーラム」を睥睨する「神殿」 「アイヌからのメッセージ」展の吉田憲司フォーラム論批判」 より、孫引きを行っていることを、予め断っておく。http://museumscape.kustos.ac/?p=414 )。

民族学博物館」の対象が,殆んど昔の植民地民族,今の後進民族を主としているのは、どういうわけなのか。欧米民族学博物館,あるいはギリシャ民族博物館,フランス民族博物館等があってもいいのではないか。ところがギリシャ,フランスその他の先進諸民族の場合は,それが「美術館」なのである。私が梅棹忠夫に聞きたいのは、それがどうして「後進民族美術館」であってはいけないのか、ということだ。

 現在の民族学博物館には、ヨーロッパ展示も存在しているし、赤松に対して応答できている面はあるが、それでも、赤松の問いは現在でもなお、耳を傾けるべきところがあるように思う。

 例えば、「いかに生きるべきか、市民の問いに答え得るものでなければ『科学』とはいえない」という言葉がそれである(赤松「危機における科学」(『赤松啓介民俗学選集 第5巻』明石書店、2000年、151頁))。

*4: 今更言うまでもないことだが、黄盛彬の「クールジャパン」評が事態をおおよそ言い表しているだろう(「クール・ジャパン言説とテクノ・ナショナリズムhttps://ci.nii.ac.jp/naid/130005071332 )。

That is, after all, the cool Japan discourse along with technonationalism has been functioned as an ideology for the protection of vested interests of established industry and media conglomerates.

 「クールジャパン」の代表的存在(?)であるアニメについての話も一応書いておく。2000年までアニメの海外売り上げは順調に伸び、後半は減少、2010年代前半は低迷していたが、後半には売り上げは伸びている。背景には中国市場の存在があり、その浮沈が、日本アニメ産業における海外売り上げを、左右しているようだ(以上、一般社団法人日本動画協会「アニメ産業レポート2019 サマリー(日本語版)」https://aja.gr.jp/jigyou/chousa/sangyo_toukeiの2頁に依拠した。) 。「クールジャパン」の沙汰も中国市場次第、である。

*5:その後、大阪出身者として、佐治敬三サントリー)、大西正文(大阪ガス)、野村明雄(大阪ガス)らが、大阪商工会議所の会頭になってはいる。本書刊行後、2020年時点で、7名が就任しているが、うち3名が大阪出身ということになる。
 さらに、現会頭の尾崎裕は、宝塚出身で大阪府立北野高等学校卒なのだから、広義には大阪出身と言えないこともない(まあ、無理な言い方ではあるが)。
 こうした変化が、80年代以降の大阪の経済的気運を反映したものなのかどうかは、今後検討することにしたい(たぶんやらない)。
 そして、それ以上に注目すべきは、本書刊行後、会頭を務めるのが、サントリーと銀行 (大和銀行(当時)) を除いて、大阪ガスと鉄道会社出身者ばかり、というところであろうが。
 なお、公益企業ばかりが関西経済界のトップである事に対する批判は、既に行われている(以下のURLを参照http://www.elneos.co.jp/0508sf2.html )。