御土居は、京都の内外を分ける社会的排除の象徴でもあった。(それから、「堀川ごぼう」の自生説について) -梅林秀行『京都の凸凹を歩く』を読む-

 梅林秀行『京都の凸凹を歩く』を再読。

京都の凸凹を歩く  -高低差に隠された古都の秘密

京都の凸凹を歩く -高低差に隠された古都の秘密

  • 作者:梅林 秀行
  • 発売日: 2016/04/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  内容は、

豊臣秀吉由来の「御土居」をはじめ、凸凹ポイントで見つめ直せば、京都のディープな姿が出現する。 3D凸凹地形図と、古地図・絵画などの歴史的資料で紹介する、街歩きの新しい提案。

というもの。

 すでに多くの人に知られる本ではあるが、まあ、よい本なので取り上げたい。

 以下、特に面白かったところだけ。

今より北にあった「祇園

 絵画資料を見る限り、花見小路を中心とした現代の祇園お茶屋街は、江戸時代には存在しなかった (21頁)

 江戸期には、竹藪が茂っていたらしい。
 資料は、横山華山の「花洛一覧図」である。*1
 四条通沿いや四条通より北にあったお茶屋が、四条通の南に移転したのである。
 明治近代に、花街は京都の外に、という方針となった。
 他の都市でも同じ動きがあったようだ。

堀川ごぼう聚楽第

 堀川ごぼうは別名「聚楽ごぼう」といって聚楽第の堀跡に捨てたゴミから大きく育ったごぼうに由来(50頁)

 江戸期の京都の聚楽第は、畑と空き地であった。

 堀川ゴボウの自生説については、書くと長いので、注に回す。*2 *3 *4

 採土場でもあった。
 「塵捨場」*5でもあったらしい。

御土居と「周縁」 -在日コリアン-

 御土居のすぐ隣に旧朝鮮初級学校がある風景には、歴史的な根拠がありました。 (94頁)

 近代において、在日コリアンは3K業種に従事せざるを得なかった。
 京都の場合、西陣織などの繊維産業の末端作業、鉱山や鉄道建設などの土木作業といった低賃金低待遇の業務についた。*6
 特に京都市北部は、戦前期まで在日コリアンが集まっていた地域であった。

 彼らは差別などを理由として、周縁部の「御土居」周辺に集まって住むこととなった。
 結果的に彼らは、京都の境界線に住んだことになる。

御土居と「周縁」 -被差別部落-

 御土居は境界線として、その内側の市街地に住める人とそうでない人を分けていった (95頁)

千本北大路交差点の北側にある「楽只地区」、そこは御土居のすぐ脇にある。
 江戸期は蓮台野村と呼ばれた被差別部落だった。
 江戸中期に、京都市街地近くから移転させられたのである。
 彼らは江戸期には、「小法師」、御所の清掃や牢獄の番役などを務めた。
 革細工や太鼓梁などの皮革業が盛んで、雪駄などの製造補修には牛皮が必要なため、大きな収入源となった。*7
 この御土居は、京都の内外を分ける社会的排除の象徴でもあった。

 本書の良い点は、そうした事実を隠さずに書いていることである。

 

(未完)

*1:早稲田大学図書館の古典籍総合データベース(後述のURL)で閲覧可能である。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_01169/index.html
 地図は、北を左側、南を右側としている。鴨川が、北から南へ流れ、四条の東側にある大きな目立つ建物が祇園社である。その西側の四条通沿いに、お茶屋が見える。一方、現在の祇園に当たる場所は、確かに竹藪である。
 著者も参照している、出村嘉史,川崎雅史「近世の祇園社の景観とその周囲との連接に関する研究」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130004039347 )に、わかりやすい図が載っている。
 なお、本書には横山華山という表記はない。まだ彼の名前を有名にした横山華山展(2018~2019年)をやる前だったためであろう。今だったら名前を書いていただろうと思う。

*2:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所の「京都歴史散策マップ」の項目「19.聚楽第」には、

堀川ごぼう 聚楽第を取り壊した堀跡に栽培されたことから聚楽ごぼうとも言われます。1年間手間をかけてできる高級品です

との記述が見える(https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/rekishisansaku.html)。これは自生説ではない。

*3:堀川ごぼうについては、レファ協に既に情報があり、「堀川ごぼう自生について記述した和古書は見つからなかった」、「1694年の時点では、堀川付近はまだごぼうの産地ではなかったのではないか」としている(URL:https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=%E5%A0%80%E5%B7%9D%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86&kwbt=%E5%A0%80%E5%B7%9D%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000075091 )。

 ただし、1680年代の『雍州府志』には、八幡牛蒡の話題に続けて、「今京都北野並小山堀川所々産者亦為宜」とあり、当時、堀川でも牛蒡を育てていたと記述がある。また、元禄六年刊・『西鶴置土産』には、「堀川牛蒡ふとに」と出てきており、この時点でもすでに「堀川牛蒡」という存在が出現していることがうかがえる。産地として有名でなくても、栽培されていた可能性は否定できない。

 で、近代。1915年の『京都府誌 上』によると、聚楽ゴボウや堀川ゴボウというのは、およそ300年前越前の「阪井郡」より種子を得て、京都市裏門通出水の白銀町に蒔いたのが始まりという(当該書579頁)。調べた限り、堀川牛蒡の来歴について、はじめて明確に言及されるのはこの本である。

 福井の阪井郡となると越前白茎ごぼうが想起されるが、仮にこの伝承が正しいとすると、来たのは品種的に、越前白茎牛蒡ではなく滝野川牛蒡の系統であろう。

 『京都市特産蔬菜』(京都市農会、1934年)には、堀が塵芥で埋められ、その埋立地に百姓が越年牛蒡を作ったのが始まりであって、そうしたところ偶然大きな牛蒡ができた、と伝承を紹介している(当該書39頁)。また、杉本嘉美『京都蔬菜の来歴と栽培』(育種と農芸社、1947年)には、同じような伝承を伝えつつも、元禄八年出版の『本朝食鑑』には堀川牛蒡に関する記録がなく、明治二十年ごろにはその記録が見えることを伝えている。

 はじめて堀川牛蒡と聚楽第の堀跡との話が出てくるのは、調べた限り1934年である。また、上記のどちらの本も、食べ残りの牛蒡を捨てた、ということは書いていない。最初から越年牛蒡を作るつもりで植えている。

 広江美之助『源氏物語の植物』(有明書房、1969年)では、口伝では聚楽第の埋め立て地に作られたのが起源で、「堀川辺」にゴボウを捨てたところ、正月ごろに、太い大きなゴボウになったのがはじめと伝える、という(212、213頁)。この段階でゴボウを捨てたことになっている。

 林義雄『京の野菜記』(ナカニシヤ出版、1975)では、豊臣政権滅亡後に堀だけが残り、堀は付近の住民がゴミ捨て場として使い、その後その埋立地に、付近の農民がごぼうを植えたところ、大きなごぼうがなった、としている(81頁)。

 京都市/編『京都の歴史 5 近世の展開』(学芸書林、1979)によると、堀跡は塵芥で埋められ、畑地となって牛蒡が植えられた(588頁)。越前坂井郡から種子を得て、今の白銀町あたりに蒔いた。そしてその堀跡から、異様に太い牛蒡が取れるようになった。ゴボウを地中で越年させて太く柔らかいものを栽培したのだという。この「越年牛蒡」は自生ではなく農民の工夫によるものと、この本は説明する。上記の説を総合したものであろう。

 そして、『京都大事典』(淡交社、1984年)は、聚楽第の堀を埋める塵芥中に巨大に生育しているのを発見して、栽培が始まった、としている。

 以上のとおりである。

 調べた範囲のことであるが、少なくとも、ゴボウは偶然捨てたり、自生したものが巨大化したのではなくて、最初から越年牛蒡として育てるべく植えたものが、その始まりであることはおよそ間違いなさそうである。また、江戸期には、すでに「堀川牛蒡」なる存在が、一応はあった(現在のものと同じ系統のものかは不明)ことも。

*4:1778年ごろの『京都名物 水の富貴寄』にも、堀川牛蒡の名前が出てくる。18世紀にも、堀川牛蒡の名前自体は確認される。以上念のための追記。2022/1/12付

*5:『京都御役所向大概覚書』(1717年ごろ成立)より。

*6:高野昭雄は、

京都の風物詩としても知られてきた。だが、この友禅流しの仕事は、蒸しの仕事とともに、戦前から主として朝鮮人労働者によって担われてきた仕事であることは一般的にはあまり知られていない。

とし、

当時の西陣で就職差別は日常的な現象であった。それでも京都市では、多くの朝鮮人が繊維産業に従事していった。

と言及している(「京都の伝統産業と在日朝鮮人http://khrri.or.jp/news/newsdetail_2017_08_30_94.html )。

*7:後藤直は、

蓮生寺の記録には「替地により宝永5年、蓮台野に移転」とあり楽只小学校の沿革史によると「本学区は旧芦山寺の北木瓜原野口に住んでいた妙玄尼が宝永5年に蓮台野に土地を求めて移転した」とある。野口を吸収した蓮台野村は1709(宝永6)年、二条城掃除役を廃止されたかわりに他の穢多村と同様に牢屋敷外番役を命ぜられ六条村組下として人足をだしていく

と、蓮台野への移転についてまとめている。また、皮革業については、

村人たちは人足として行刑役をつとめてはいるが、それだけで生活が保障されたわけではないく、皮なめしや雪駄直しで生計を立てていた。

という、生活に必要な副業というようなニュアンスで、記述を行っている(以上「蓮台野村の形成についての考察 : 被差別部落「千本」のルーツを考える」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006422906より。)。