少女マンガにおける少年愛・「かわいい」と権力・キャラクターの不死性(*岡崎京子論については、本稿では論じていない。) -杉本章吾『岡崎京子論』を読む-

 杉本章吾『岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア』を読んだ。

岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア

岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア

  • 作者:杉本 章吾
  • 発売日: 2012/10/24
  • メディア: 単行本
 

 内容は、紹介文の通り、

高度消費社会との応答のなかで、少女・女性像はどのように提示されたか。時代状況の再検討と、マンガ・テクストの丁寧な分析をとおして照らし出す、本格的マンガ批評

というもの。
 ただ一読して、メインの岡崎京子論よりも、脇道(?)話題の方がより面白く読めた。
 なので、以下に書かれるのは、岡崎京子とその漫画の話題ではなく、もっと抽象的な漫画論に関する事柄である。
 (べつに、杉本の岡崎京子論がつまらなかったというわけではない。)*1

 以下、特に面白かったところだけ。

少年愛と「妊娠」

 少年同士であるならば妊娠の心配がなく、少女が性行為を享楽の対象として享受できる (52頁)

 しかし、『風と木の詩』が少女に人気を博した理由として、上記のような論点が出てくることはなかった。
 荷宮和子は、評論家の性別にその原因を求めている。*2
 つまり、男性評論家たちには、「妊娠」等の側面が、見えていなかったのである。

「かわいい」と権力

 「かわいい」が孕む権力性 (121頁)

 「かわいい」という言葉は、触れたい、庇護したいという欲求である。
 そして、支配したいという欲求を孕み、それが対象を自分より下、劣等な存在とみなすことにも通じてしまう。
 そして「かわいい」という言葉は、そうした潜在的な支配性を、隠す言葉でもある。*3

「不死性」はキャラクターのデフォルトなのか?

 その不死性そのものが、キャラクターから過去と未来を奪い去り、「いま、ここ」へと封じ込める、「イデオロギー」的産物であることを、ここで説得力豊かに論じている (335頁)

 古典的書物である、アリエル・ドルフマン,アルマン・マトゥラール『ドナルド・ダックを読む』(晶文社)に対する評である。
 大塚英二は、「記号的身体」における不死性、肉体的苦痛からの自由を、キャラクターの本質として定義した。
 その原点として想定されているのは、ディズニーのアニメに出てくるキャラクターである。
 そして、これに対して、キャラクターに肉体的苦痛、不死性を付与した手塚治虫は、画期をなした存在とされる。*4
 だが、ドルフマンとマトゥラールは、「不死性」はむしろ可能性を封じられた結果に過ぎないとして、それが、キャラクターの本質とするのには、否定的だった。
 ドルフマンとマトゥラールの議論には批判も多いが*5、こうした鋭い問いかけは、やはり再評価に値するように思われる。

 

(未完)

*1:「チワワちゃん」論や『ジオラマボーイ・パノラマガール』論は、ウェブ上でも、著者の論文を読むことができる。特に後者は、割と好きな論である(「郊外化されたラブストーリー : 岡崎京子ジオラマボーイ・パノラマガール』論」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000835737 )。

*2:門傳昌章&ルーシー・フレイザーは、 次のように、藤本由香里の言葉を紹介している(「星の瞳に映るオルタナティブ: 「典型的』少女マンガの再評価を目指して」https://www.academia.edu/16285453/%E6%98%9F%E3%81%AE%E7%9E%B3%E3%81%AB%E6%98%A0%E3%82%8B%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96_%E5%85%B8%E5%9E%8B%E7%9A%84_%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%81%AE%E5%86%8D%E8%A9%95%E4%BE%A1%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%A6_The_Alternative_Reflected_in_Starry_Eyes_Negotiating_Mainstream_and_Alternative_Qualities_in_typical_Sh%C5%8Djo_Manga_ )。

少女マンガにおける少年愛、そして読者の現実から切り離された舞台で行動する美少年は、肉体的な暴力や妊娠、そして社会的烙印といった「性という危険物を自分の体から切り離して操作するための安全装置、少女にとって飛ぶための翼であった」とまで言う

参照されているのは、藤本の『私の居場所はどこにあるの?少女マンガが映す心のかたち』である。
 それに対して、門傳&フレイザーは、「少女を含む読者は少年愛ものを、自らの女性性を否定するのではなく、逆に肯定しながら視覚的・官能的快楽を得るために読むという可能性も否定できない」と反論し、ローラ・ミラーの意見を引いて、

「現実、フィクションに関わらず、中性的もしくはゲイの美少年に対する(女性ファンの)関心を、特殊で解明が必要な事柄と見なすことは、女性が(魅力的な男性に)抱く率直な、エロティックな関心の可能性を否定する」ことだと警告している

という。
 たしかに、その側面は否定できない。しかし、やはり少年愛において妊娠のリスクが不在である点は、引き続き重く見られてよいように思われる。「男が『避妊をしないから』子供が生まれない」という荷宮和子の言葉(『宝塚バカ一代 おたくの花咲く頃』(青弓会、2009年)111頁。)が、いまだに十分通じる国の女性読者を考えれば、そういわざるを得ないところがあるように思う。

*3:西村美香も、「かわいい」について、「対象物をまるで所有物のように自分の配下に置き,上から見下すかのような感情ですらある」ことを認めており、そして、「『かわいい』と言われる側も実はそれを巧みに利用している」とする。そして、

とりもなおさず「かわいい」という言葉がそう言っておけばとりあえず安心,そう言うことでその場をしのげるという都合のよい政治的用語であるからに他ならない

と規定する。西村は、日本の「かわいい」の実態をそのようにとらえて、海外での「かわいい」の実態との差異を論じているが、ここではおいておく(以上、西村の論文・「かわいい論試論(2)かわいい論の射程」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006555102 を参照、引用した。)。
 ただし、三橋弘次& Burdelski Matthew は、「若い女性が好き勝手に『かわいい』を乱用し、『かわいい』を消費しているというのは、ステレオタイプに過ぎない」と、その手の論調に批判的である(「「かわいい女の子」はいかにして可能か--保育士と子どもとの相互行為分析 」)。

山根や増淵のような論者は、「かわいい」を「女の子」言葉として扱い、彼女たちの「かわいい」の乱用や「かわいい」への執着を日本語や日本文化の貧困化としてみなした。だが、実際には、「女の子」を「かわいい」に執着させる規範的な仕組みがあるのであり、この点を看過すれば、「かわいい」研究のいずれもステレオタイプの謗りを免れないであろう。

 「かわいい」という言葉は、規範的構造によって作られるものでもあるのだ。

*4:ただし、大塚はインタビューで、田川水泡のらくろ』が、さらに先駆的存在であることを述べている(「大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(3/4)」https://sai-zen-sen.jp/editors/blog/34-1.html )。

結果としてのらくろはミッキーみたいな身体だったら普通は高いところから落ちても死なないのに、のらくろは戦場で負傷して単行本一巻分負傷しているという展開になっていったり、挙げ句「思うところがあって」陸軍を去っていったりとかね。 (引用者中略) 歴史や身体みたいなものを意識した瞬間にそこには個人が出来上がるから、のらくろは個としてのキャラクターを描くみたいな。そこに初めて成功したってことなんだよね。

*5:ドナルド・ダックを読む』のディズニーに対する文化帝国主義批判はよく知られている。たしかに、ジョン・トムリンソンのいうように、テクストの隠されたイデオロギーが、実際の読者(例えばドルフマンの故国であるチリの読者)にどの程度影響力があったのかは、はっきりしていない。
 むしろ、ディズニー文化は、読者(受容者)に押し付けられているのではなくて、彼らは積極的に参加しているのだ、と平野順也は述べている(「消費社会と崇拝される「二次的審級」―ディズニー精神の分析を中心に―」http://www.caj1971.com/~kyushu/publication_kcs_05.htm )。

消費者といての個人レベルでも<加担者>としての渇望が生じているということである。孤独で無邪気な個人が他者と「関係」を持つことができるのは<加担者>として消費に参加することによってである。 (引用者中略) このような消費のイデオロギーである物神崇拝的倫理を実行することにより<加担者>として、ディズニー文化の拡張に努めるのである。 (引用者中略) ディズニーランドでは複雑な社会問題に取り組む必要などない。たとえ戦争中であったとしても、イッツ・ア・スモール・ワールドに行くだけで世界は一つであるという甘い幻想を抱かせてくれる。誰が、どのような問題を、どのような方法によってといった疑問は考えなくてよい。

 無論、平野自身が述べているように、ディズニー及びそれに関するテクストが、イデオロギーと無縁というわけでもない。むしろ、よりたちの悪いイデオロギーではあろう。自発性とイデオロギーの相性が悪いものではないことは、ナチス等の例を挙げるまでもない。