長髪ルックは、ウッドストックでもまだ15パーセント程度しか普及していなかった -サエキけんぞう『ロックとメディア社会』を読む-

 サエキけんぞう『ロックとメディア社会』を読んだ(本当は再読)。 

ロックとメディア社会

ロックとメディア社会

 

 内容は、紹介文の通り、

エルヴィス・プレスリーの衝撃的なメジャーデビューから半世紀、ロックはテレビ、ヴィデオ、ネットといったメディアの進展とともに世界中の若者に浸透し、かつメディアの拡大を支えてきた。/深くつながるロックとメディアの進化! そこに「社会」を読む。

というもの。
 音楽家である著者の手になる本書だが、音楽論というより、音楽を通じた社会学っぽい感じである。
 以下、特に面白かったところだけ。

長髪ルックが少数派だったウッドストック

 長髪ルックは、ウッドストックでもまだ一五パーセント程度しか普及していない (80頁)

 映画『ウッドストックがやってくる!』の映画パンフに依拠している。*1
 記録映画『ウッドストック』は、長髪男性をマークして映し込んだらしい。
 実際のウッドストックの会場では、八五パーセントの男性が、頭髪が短く目立たない服装の普通の人だったようだ。
 その後、一九七三年のワトキンズ・グレン・サマー・ジャムなどの映像では、間違いなく長髪だらけの人ばかりとなっている。
 この時点では、既に実態的に、長髪の男性が多く駆け付けていたのだろう。

ライブハウスの歴史と「総立ち」

 このマナーが定着したのも、パンク・ムーブメントがもたらした (128頁)

 客が「総立ち」で客が熱狂する光景について。
 ロックのライブで総立ちが常態化するのは、ライブハウスの登場が原因だという。*2 *3

ディスコと階級

 こうしたヒエラルキーの存在がディスコの特徴 (164頁)

 ディスコは階級別に存在していた。

 著者は、ニューヨークにあったディスコ・「スタジオ54」(およびそれをモデルにした映画『54 フィフティ★フォー』)を念頭に、そのように述べている。

 どのディスコにも特別席であるVIPルームがあったのが、その象徴だという。
 これが、ディスコののちに発展する、「クラブ」(ハウスやテクノ)との違いだとしている。*4

 もちろん、こうした見方に対して、反論は可能であろうが。*5

バンドブームの「遺産」

 バンド・ブームも急激な衰退ではあっても、さすがにGSとは違って跡形もなくかき消されるというほどではなかった。 (242頁)

 バンド・ブーム(1980年代後半期)の功績とは何だったのか。
 それは、全国にライブハウスと楽器屋の数を増やし*6、中学や高校にバンドを公認化させ、ライブの総立ちを当たり前にしたことである。

 音楽のインフラ作りに貢献したのである。

 

(未完)

*1:ウッドストックの熱狂と精神を今に伝え、変わりゆく人々を描く一大プロジェクトの始まり」という題の、映画『ウッドストックがやってくる!』の紹介記事には次のようにある(http://intro.ne.jp/contents/2010/12/18_1939.html )。

シェイマスが打ち明ける。「ウッドストックに向かった人たち全員が、長髪に揉みあげでマリファナを吸っているヒッピーだったわけではないんだ。一般的にはそういう写真が一番多く出回っているけどね」。そう考えたスタッフはさらなる数値化を試み、各地のイベントを渡り歩くヒッピーたちが一番最初に会場にたどり着き、ロングヘアを含む大学生がそれに続いて、そして残りの85%は高校生など髪も短く目立たない服装のごく“普通”の人々だったという結果を割り出した。

ここでいう、シェイマスとは、ジェームズ・シェイマスのことで、映画『ウッドストックがやってくる!』のプロデューサー兼脚本家である。

*2:兵庫慎司によると、ライブハウスにおけるテーブルとイスの有無の関係は、次のようになる(「ライブハウスには昔、テーブルとイスが当たり前にあったーー兵庫慎司が振り返るバンドと客の30年」https://realsound.jp/2015/06/post-3397.html 
。以下、引用と参照は、この記事に依る。)。

 まず、ライブハウスでテーブルとイスが出ているところは、地方を中心に(そして現在も)ある。一方、東京だと、「狭いからテーブルとイスなんか置いてたら採算が合わない」こともあってか、基本オールスタンディングである。

 関西(の都市圏)だと、「テーブルとイス」「イス」「スタンディング」の3パターンがあり、「普段はテーブルとイス、人気あるバンドの時はイスだけ、もっと人気ある時はオールスタンディング」である。また、パンク系でも、「大阪の西成にあったエッグプラント」は「作りつけみたいなイス席」がある。これが、筆者(兵庫)が関西圏に引っ越した1987年以降に目撃した情報である。
 そして、兵庫は、「なぜそれまではなるべくテーブルとイスを置きたがったのか」という方向で考え」て、

オールスタンディング=危険、と思われていたからです。たとえば観客が将棋倒しになって3人が亡くなったラフィン・ノーズ日比谷野外音楽堂(1987年)。野音だったからイス席だったのに、一部の観客が自席を離れてステージ前に押し寄せたから起きた事故だったのだが、実はパンク系などのバンドのライブの場合、これに近いことが各地で起きていたのだと思う

と述べる。

 なるほどと思う。じっさい、1980年代以前から、スタンディングは、危険視されていた。ある時期までの日本では、コンサートでは客席から立ってはいけない、立つと混乱を呼び起こすから、と規制されていたという三宅伸一の証言がある(三好「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ 日本公演の表と裏」『文芸別冊 ボブ・マーリー』(河出書房新社、2012年)、160頁)。三好が言及しているのは、1979年のウェイラーズ来日公演に関連してである。

*3:1979年に「新宿ロフト」のライブ「ドライブ・トゥー80's」で、定員以上の客が来たので、総立ちに切り替えたのが、総立ちがスタンダードとして確立したはじめである。と、このように著者は「一説」として紹介している。このライブイベントについては、以下の記事が詳しい。http://www.eater.co.jp/siryou/dt80.htm

*4:著者は本書で、ディスコとクラブの違いについて、ハウスやテクノは後者に属するものとして定義している。すなわち、「スタジオ54」がディスコ、「パラダイス・ガレージ」がクラブ、という分類をしている。

*5:ウェブサイト・『HEAPS』の記事 「誰をも歓迎した「たった2年間のパラダイス」 NY・70年代ディスコ・シーン、狂乱と享楽のダンスフロアにあった真実とは」 には、次のような記述が存在する(https://heapsmag.com/interview-with-photographer-bill-bernstein-nyc-70s-disco-scene-two-years-inclusive-paradise-welcoming-all-races-genders-democracy-on-dancefloor )。

スタジオ54とパラダイス・ガラージの性質は対照的ではあるものの、人種や性別、職業など多様性をフロアに招きいれる「インクルーシブネス」という点では、何一つ違いはなかったというビル。ドアを開ければ、誰もが入り乱れることのできた空間だった。/そんなディスコの一歩外は、人権運動に揺れていた。世界規模で広がっていたフェミニズム運動「ウーマン・リブ」や黒人公民権運動、ゲイ解放運動の幕開けとして有名な1969年の「ストーンウォールの反乱」。まるで平等の祝杯を上げたいかのごとく、生い立ちのまったく異なる人々が一堂に介し交差した場こそが、ディスコだった。ビルの言葉を借りれば「民主運動のダンスフロア」だったのだ。

理想化されている感もなくはないだろうが、一応の事実、事実の一側面ではあるはずである。

*6:ただし、ライブハウスについては、経営者が変わる、場所の移転、などの見えない部分での変化は激しかったという( 宮入恭平『ライブハウス文化論』(青弓社、2008年)52、53頁)。また、ライブハウス増加にともなって、あまり評判のよろしくないノルマ課金も登場してくるわけだが。前掲宮入著は、1980年代後半以降、ノルマ課金が確立されたとしている(29頁)。