共産主義のソ連と金融資本主義のイギリスが中国の抗日をあやつっている、という矛盾した見方を、当時の軍人は抱いていた -戸部良一『日本陸軍と中国』を読む-

 戸部良一日本陸軍と中国』を読んだ。

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

  • 作者:戸部 良一
  • 発売日: 1999/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り

陸軍「支那通」──中国スペシャリストとして、戦前の対中外交をリードした男たち。革命に共感をよせ、日中提携を夢見た彼らがなぜ、泥沼の日中戦争を用意してしまったのか。代表的支那通、佐々木到一たちの思想と行動をたどり、我が国対中政策失敗の原因を探る。

というもの。

 勝手に期待して勝手に裏切られたと逆恨みしている、そんな感じの人たちが出てきます(私的まとめ)。

 以下、特に面白かったところだけ。

独り善がりの「東亜保全論」

 小澤は、中国人には事を挙げる勇気がないので日本人が先に立って実行しなければならぬ、と答えたという。 (26頁)

 革命は中国人が主体となって行うべきであって、日本人はそれを援助するのが本筋、という言葉への支那通・小澤開作*1、ではなくて、支那通・小沢豁郎の答えである。
 ここに、のちの支那通の大半に共通する独特のロマンティシズム、やや独り善がりの「東亜保全論」が表れている。*2

勝手に期待、勝手に失望

 中国人に近代国家建設の能力が欠けているという認識は、支那通軍人に共通していた。 (137頁)

 佐々木到一ら新支那通も、当初は国民党による近代的統一国家建設への期待を寄せていた。*3
 しかし、結局は国民党も国民革命の理念を忘れて堕落し、「中国の民族性」を「改変」することなどできないと結論した。
 ここにあるのは、他者に投影された、固定的な「民族性」である。
 そして、勝手に期待して勝手に失望している。

冀東政権による密貿易の黙認

 華北で発生した事態のなかで最も重大だったのは、特殊貿易と呼ばれた密貿易であったかもしれない。 (192頁)

 非戦区域が出来た頃から、満洲から渤海湾沿岸に不法の密貿易があった。
 冀東政権は、これを半ば公認し、関税を国民政府の四分の一にした。*4
 大量の日本商品が華北から長江沿岸に洪水のように流れていく。
 すると当然、中国経済には打撃となる。
 こうした事態に対して、国民政府の対日政策は抵抗へとシフトし始める。
 華北での日本軍の強引な行動が国民政府内の親日派を凋落させていった。

永津佐比重は諦めた

 支那課長の永津も、日本の政策の根本的転換を検討したという。 (196頁)

 永津佐比重の回想によれば、彼は西安事件後に、租界、居留地治外法権、軍隊駐屯権(満洲以外)等の権益を放棄することが、日本の行くべき道だと考えた。*5
 そうすれば、蒋介石満州国不問のまま日中友好に転じると考えた。
 しかし最終的に、それは無理だと結論した。
 陸海軍も、居留地も、紡績業を代表とする現地企業も、国内世論も、既得権益を放棄する政策転換を支持するとは思えなかったからである。

共産主義国家と金融資本主義国家、奇跡のコラボ

 共産主義ソ連と金融資本主義のイギリスが中国の抗日をあやつっている、という一見イデオロギー的に矛盾した見方は、支那通のみならず当時の軍人一般に共通する支那事変観であった。 (201、202頁)

 なんということでしょう。
 ワンダフル・ワールドである。*6

 

(未完)

*1:苗字を見てわかるように、息子と孫が音楽家である。
 ところで、こちらの小澤は、ロバート・ケネディに進言したエピソードで知られているが、清水亮太郎は、

同政権 (引用者注:ケネディ政権) は農村における経済・技術支援、灌漑、道路建設などの対策を採りながら充分な成果を得られなかったとされることから、小澤の提言が有用であったのかは疑問である。

としている(「満洲統治機構における宣伝・宣撫工作」https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I025573022-00 )。

*2:小沢豁郎 (天游) は、著書『碧蹄蹂躪記』の「清人愛国心」の項目で、清人愛国心が乏しい故に無気力である、と述べている。この本はデジコレで閲覧が可能である。

*3:張聖東は次のように述べている(「日本人軍事顧問の初期「満洲国軍」に対する認識と整備構想 : 佐々木到一を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006780861 )。

満洲国軍の掌握・整備に即して言えば,佐々木は,真の国軍化を追求することが不可能であることをよく理解しており.満洲国軍を掌握・整備するには.やはり,自分がかつて打破すべきだと思っていた「奇怪至極なる支那軍統制の真諦」.すなわち「権謀的ノ統帥」に頼るしかないという皮肉な結果になった。戸部が描いたややセンチメンタルな佐々木像の裏側には.冷徹で狡檜な佐々木像もあるのではないだろうか。

佐々木到一に対する見方として重要と考えたので、ここに引用した次第である。
 まあ、そこまでナイーブな人間でもなかったのは、確かであろう。

*4: 広中一成は次のように書いている(「冀東政権の財政と阿片専売制度」https://researchmap.jp/read0147469/published_papers/1764283 )。

政権発足直後から深刻な財政難に見舞われた冀東政権は,その状況を打開するため,1936 年になると,新たな税目を設けて住民らに課す一方,それまで渤海湾沿岸で横行していた密貿易を「冀東特殊貿易」(冀東密貿易)として公認し,「査験料」と称して密輸業者から輸入税を徴収した

参照されているのは、島田俊彦の論文・「華北工作と国交調整(一九三三年~一九三七年)」である。
 この貿易の存在は既に当時知られており、福良俊之は、「時事新報」に、

十一月に成立した冀東政府は此の点に着眼して本年三月蜜貿易取締の為め (引用者中略) 十五日には輸入税率を国民政府の一律四分一と改訂 (引用者中略) 運送料を設定し揚陸の便宜を与えると共に密輸の取締りを厳重にした、茲に於いて従来行われていた密輸は冀東区域を通過する限りに於いては国民政府の四分一の税を納付することにより合法化された、所謂特殊貿易之れである

と書いている(「南北経済線を行く」http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10001881&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 )。

*5:橋本龍伍の回想によると、

「陸軍の代表課員は秀才と言われた某中佐だつたが,「自分は永津大佐の下に参謀本部支那課員だつたが,昭和十一年の秋頃から支那と戦わざるべからずという意見を固めた.翌十二年の春,対支関係に関する会議の席上,必戦論を主張したら,永津大佐はそういう考えは国を危くすると飽くまで反対で,お前のような考えの者が自分の部下にいるのはなさけないと言つて泣いた」ということを,永津氏に対する軽蔑の表情をもつて得意そうに語つた」

ということである。また、 

軍服を脱いだ永津中将は,京都の魚市場で,魚の箱を修理して一箱五十銭の工賃で黙黙と働いていた

ということだそうだ。以上、「数学史研究者(木村洋)」氏のツイートに依拠した(https://twitter.com/redqueenbee1/status/1132998750731767809 )。出典は、「橋本龍伍:敗戦を予言した軍人,日本週報.,383,(1956.10),pp.31‐33」とのことである。

*6:戸部は、講演で次のように述べている(「日本人は日中戦争をどのように見ていたのか」https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000146806.pdf )。

後に満州建国大学の教授になる中山優は、 (引用者中略) 中国のナショナリズムや統一の動きに肯定的だった人ですけれども、そのナショナリズムがイギリス資本を基盤とし、コミンテルンに踊らされているという点を批判することになります。/イギリス資本主義と、コミンテルンソ連共産主義が中国のナショナリズムや抗日政策を支えている、あるいはそれを促しているという見方が中山の議論には含まれていますが、こうした議論もその後、何度も多くの人によって繰り返されます。つまり、日中戦争の初期の段階で論調のかなりの部分は出尽くしていると言っても言い過ぎではないと思います

中山の議論は1937年のものである。軍人だけではなかったのである。
 さらに、玉井清は次のように書いている(「日中戦争下の反英論 天津租界封鎖問題と新聞論調」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000333873 )。

神川は、我国を取り巻く極束情勢をして、第一に日本を推進力とする東亜新秩序建設、第二にこれに対立する旧秩序勢力、その中には英仏を中心とする国際連盟秩序と米を中心とするワシントン体制、第三にソ連コミンテルンを中心とする共産戦線があり、その三つ巴である。わが国は第二第三勢力と対抗し第一の使命を具体化しているが、老檜英の巧妙な外交技術により本質的には相容れないはずの第二と第三の勢力が提携する情勢が生まれてきている、としていた。

当時を代表するであろう国際政治学者・神川彦松の説明(1939年時点)がこれである。なんということでしょう。