ちゃんと日本政府に対して、憲法の「再検討」をしてよいと指示していたのに -古関彰一 『平和憲法の深層』を読む-

 古関彰一 『平和憲法の深層』を読んだ。(再読)

平和憲法の深層 (ちくま新書)

平和憲法の深層 (ちくま新書)

  • 作者:古関 彰一
  • 発売日: 2015/04/06
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

改憲・護憲の谷間で、憲法第九条の基本的な文献である議事録は、驚くべきことにこの七〇年間ほとんど紹介されてこなかった。「戦争の放棄」と「平和憲法」は、直接には関係がないし、それをつくったのは、マッカーサーでも幣原首相でもなかった。その単純でない経過を初めて解き明かす。また「憲法GHQの押し付け」と言われるが実際はどうだったか。「日本は平和国家」といつから言われてきたのか。「敗戦」を「終戦」に、「占領軍」を「進駐軍」と言い換えたのは誰が何のためだったか…などについて、日本国憲法誕生の経過を再現し、今日に至る根本的重大問題を再検討する。

という内容。
 現在の憲法を語るうえでは、やはり古関彰一を読まざるを得ない。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

皇族が「戸籍」に入っていた時

 皇族は戸籍に入っていた (46頁)

 維新後最初の戸籍、壬申戸籍の場合、皇族、華族、士族など身分で集計していた。
 その後、1898年の民法に「家」制度が導入される。
 同年、それを基本とした戸籍法に改正され、戸籍法は「家・戸主」中心にかわった。
 つまり、壬申戸籍の場合、皇族も「戸籍」の範囲内にあったのである。*2
 壬申戸籍については、以前言及したことがある。

日本国憲法と、語られなかった沖縄

 「沖縄の民」についてはなにひとつ語っていない (119頁)

 当時の憲法学者宮沢俊義政治学者の南原繁は、「国民」については多くを語った。

 しかし沖縄は、その論の「外」として存在していた。*3 *4

政府側の重大な落ち度

 政府側は研究会から少なくとも事情を聴取すべきであった (207頁)

 政府側の委員会と憲法研究会*5
 とは、改正案について協議が可能だったはずである。
 政府案より先に憲法研究会案が先に公表されてもいたのである。
 にもかかわらず、政府側は、なにもしてない。
 GHQに「押し付け」られた背景として、著者は説明している。
 政府側の重大な落ち度であろう。

再検討していいって言ったのに

 日本政府は、再検討をしたいとする (230頁)

 日本国憲法明治憲法の手続きを採用して「改正」として成立している。
 だから、手続き上は、問題は見られない。
 また、憲法施行後にマッカーサーと極東委員会は、政府に対して憲法の「再検討」をしてよいと指示していたのである。
 だがしかし、日本側は遂にそれを行わなかったのである。*6

 

(未完)

*1:ところで、幣原発案説否定論については、著者・古関もこれを採用しているが、中野昌宏のいうように、その中身はやはり根拠がいくぶん弱いように思われる(「日本国憲法の思想とその淵源 : 憲法研究会の「人権」と幣原喜重郎の「平和」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005744628、119頁)。中野は最終的に、穏当な説として「日米合作」説を採っているが、確かに、この線が妥当であるように思われる。

*2:その後、また、今現在でも、天皇及び皇族は戸籍法の適用を受けなくなり、皇統譜に記載される仕組みとなっている。
 丸山寿典は次のように述べている(「宮内公文書館について」http://www.archives.go.jp/publication/archives/no052/1750 )。

天皇陛下や皇族方の戸籍に当たるものが皇統譜です。皇統譜には今上陛下に至るまでの歴代天皇や皇族方の御父・御母の氏名、御誕生・御成婚・御即位・崩御薨去の日時等が登録されています。皇統譜は大正15年に皇統譜令が施行された後に更新されており、更新される前の古い皇統譜皇統譜に記載されている各事項の登録に関する書類が当館に所蔵されています。

*3:そうした事実は、

沖縄では、1972 年に本土復帰を果たす以前の 1965 年に、当時の琉球立法院の全会一致による決議によって、5 月 3 日を住民の祝日とした経緯がある。その意味において、沖縄にとって憲法は、県民の総意で自ら積極的に選んだものである (「『日本国憲法の制定過程』に関する資料」(衆憲資90号 平成28年11月)http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi.htm )

といった事柄では到底拭い切れない事実であろう。

*4:これに対して、矢内原忠雄の場合は、良くも悪くも、沖縄に対して関わりが大きい。それがどのようなものであったかについては、櫻澤誠「矢内原忠雄の沖縄訪問-講演における問題構成とその受容にていて-」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_085.html を参照。

*5:しんぶん赤旗」は、

この案が新聞に発表された3日後の12月31日には参謀二部(G2)所属の翻訳通訳部の手で早くも翻訳がつくられ、翌年1月11日付でラウエル中佐が詳細な「所見」を起草、これにホイットニー民政局長も署名しています。「所見」は各条文を分析したあと、「この憲法草案中に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と高く評価し、加えるべき条項として憲法最高法規性、人身の自由規定、なかでも被告人の人権保障などをあげていました。

と、憲法研究会の「憲法草案要綱」について述べている(「現憲法の“手本”となった民間の「憲法草案要綱」とは?」https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-27/2005072712faq_0.html )。この記事では、著者・古関の『新憲法の誕生』等が参照されている。

*6:もちろん、古関自身が言うように、「極東委員会が 1946 年 10 月に決定した憲法再検討の機会をマッカーサーは積極的には日本政府に伝えなかった」。しかし、

吉田首相は憲法改正の意思を持っていない旨答弁しているので「押しつけ」の立場をとっていないといえる。


 (以上、衆議院憲法調査会事務局「日本国憲法の制定経緯等に関する参考人の発言の要点」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11343069 に依拠した。)

 実際のところ、

マッカーサーは、1947(昭和22)年1月3日付け吉田首相宛書簡で、連合国は、必要であれば憲法の改正も含め、憲法を国会と日本国民の再検討に委ねる決定をした旨通知している。これに対する吉田の返信(同月6日付)は、「手紙拝受、内容を心に留めました」というだけの短いものであった

という感じである(国立国会図書館編「新憲法の再検討をめぐる極東委員会の動き」(『日本国憲法の誕生』)https://www.ndl.go.jp/constitution/index.html )。
 また、当時の憲法再検討問題に対する新聞紙上の反応は、およそ、「現時点での憲法改正には慎重ないし反対」というものだった。この点については、梶居佳広の論文・「新憲法制定と新聞論説─近畿地方を中心に─」(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_090.html )を参照。