岡田暁生『オペラの運命』を読んだ。
内容は紹介文の通り、
オペラはどのように勃興し、隆盛をきわめ、そして衰退したのか。それを解く鍵は、貴族社会の残照と市民社会の熱気とが奇跡的に融合していた十九世紀の劇場という「場」にある。本書は、あまたの作品と、その上演・受容形態をとりあげながら「オペラ的な場」の興亡をたどる野心的な試みである。
という内容。
オペラ史入門として、お勧めできる。
以下、特に面白かったところだけ。
オペラ・セリアとオペラ・ブッファ
ブッファでは当然、人間技とは思えない高音を操るカストラートは使われない (50頁)
オペラの歴史をたどると必ず出てくる、「オペラ・セリア」と「オペラ・ブッファ」の話である。
二つは、どのように違うか。
オペラ・セリアでは国王のような隔絶した存在を描くが、オペラ・ブッファは、身近な存在を描く。
また、後者では、カストラートを使わない。*1 *2
オペラ・セリアはカストラート、テノールなど高音域のみだが、オペラ・ブッファではバリトンやバスやメゾソプラノなど人の声に近い声域を用いる。
オペラ・セリアは装飾過多のコロラトゥーラ技法を使うが、オペラ・ブッファは素朴な戦慄の美しさを求められる。
カストラートが経費が掛かる(高音域を出せる優秀な歌手を見つけるのは難易度が高い)、という経済的な事情もあった。
また、喜劇は悲劇より演技力が求められる、という事実もある(役者に歌わせた方が都合がよかった)。
そして何より、オペラ・ブッファは、アンサンブルによる掛け合い表現(人と人との関係性を描く劇)をこそ、重視している。
救出オペラが与えた影響
救出オペラはベートーヴェンに与えた影響の大きさの点でも注目される。 (77頁)
ベートーヴェン自身も救出オペラ(「フィデリオ」)を作っているが、このジャンルから受けた影響は、それだけではない。
苦悩を通して歓喜へ、というシナリオもまた救出オペラがモデルとなる。
太鼓の連打、軍楽隊を思わせる金管の多用、ラ・マルセイエーズ風の付点リズムの行進曲等の特徴も、まさにそうである。*3
オペラ座と売買春
バレエの踊り子と売春交渉することを黙認したのである。 (107頁)
パリ・オペラ座の支配人だったルイ・ヴェロンの話である。
まずカジノを併設した。
そして、広くオペラ座をブルジョアに開放した。
また、売春の場としても使った。*4
予約客に楽屋に自由に出入りする権利を与えた。
ルイ・ヴェロンは、自身の主催する晩餐会で、あらゆる種類の果物を飾り付けた裸の踊り子を乗せた、巨大な盆を提供したこともあるという。*5
スメタナと言語
上流階級に生まれた彼はドイツ語しかできず (134頁)
スメタナはチェコの国民オペラの創作に力を尽くしたが、じつはチェコ語は不得手だった。
彼はドイツ語の教育を受けて育ったためである。
オペラを書く時になって、本格的にチェコ語の勉強をはじめた。*6
彼の国民オペラ『ダリボール』と『リブシェ』の台本は、ドイツ語で書かれ(書いたのは台本作者)、そのチェコ語訳に、スメタナは苦労して音楽をつけた。
国民オペラは庶民の中から自然発生したのではなかったのである。
国民国家自体が、知識人たちの主導であったことを思えばさもありなん。
(そもそも、オペラの作者および顧客自体が知識人階級中心である。)
ヴェルディの評価とファシズムとの関係
イタリア語によるヴェルディ文献が爆発的に増えるのは、一九二〇年代のこと (137頁)
ヴェルディ神話についての話である。*7
19世紀後半の新興イタリアの学校教科書には、ヴェルディの名前は見当たらないようだ。
ヴェルディがイタリア統一の英雄に奉られるのはムッソリーニの時代からであるようだ。*8
「国家御用達の音楽屋」・ワーグナー
マルクスは、こんなバイロイト音楽祭を「国家御用達の音楽屋ワーグナーによるバイロイトのばか騒ぎ」と呼んでいる。 (168頁)
芸術の理想を叶える、そのために、ブルジョアに妥協せずに横行に取り入って金を巻き上げる。
それによって、金を調達する必要がワーグナーにはあった。
だが、真に芸術を理解する民衆のための劇になるはずだったバイロイトは、結局、上流階級のスノッブたちのサロンになった。*9
じっさい、ニーチェは嫌気がさしてしまい、ワーグナーと距離を置いたのである。
ワーグナーの劇場改革
ワーグナーはボックスを空にすることで、劇場を純然たる作品鑑賞の場にしようとした (188頁)
ミュンヘンで『ラインの黄金』を試演した際、ボックスを空にして客を平土間に座らせ、社交の場を制限した。
さらに、バイロイトでオペラを上演した際は、客席を暗くするようにした。
観客を作品鑑賞に集中させるためである。*10
ワーグナーの改革以前は、オペラ上演中でも、劇場にシャンデリアが灯っていたのである。
「演出」の時代
オペラ演出に重要な役割が与えられるようになり始めるのも世紀末転換期のことである (189頁)
19世紀までは、歌手の勝手に任されており、「衣装付きのど自慢大会」のようなものだった。
だが、ワーグナーの「総合芸術としてのオペラ」という理念が浸透するにつれて、徐々に演出家はオペラ上演に不可欠な存在になる。
草分けの一人が、マックス・ラインハルトである。
ラインハルトは、そのスペクタクル的演出で知られている。*11
(未完)
*1:金谷めぐみと植田浩司は、次のように述べている(「カストラートの光と陰」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009804857)。
カストラートの養成は簡単に止めることはできず、やむなくクレメンス14世は、女性が教会で歌うことを認め、追って教皇領の劇場舞台に女性が出演することを許可した。時を同じくして、18 世紀後半、ナポリを中心に流行ったオペラ・ブッファ (引用者中略) の主役を、女性歌手が演じるようになった。さらに、これまで脇役しか与えられなかった男性テノール歌手が主役で登場するようになり、カストラートは、オペラでももはや必要とされなくなって行った
*2:女性がカストラートを名乗って教皇領の劇場に出演したこともあったという。「ときには劇場が出演料節約のため、女性歌手をカストラートの『代用品』として男装させ、英雄役を歌わせることもあったという」。
女性歌手が男装するようになるのは、17世紀後半のことである。女性がカストラートと偽って男女双方の役を演じるという幾重にも錯綜した性のねじれは、18世紀中頃までのオペラでは頻繁に見られたという。以上、梅野りんこ「ジェンダーの越境者カストラート」(玉川裕子『クラシック音楽と女性たち』、青弓社、2015年。42頁)より、参照・引用を行った。
*3:ウェブサイト・「久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋」は、ベートーヴェンの交響曲第5番第四楽章について、
勝利を示すかのような力強く明るい行進曲調の主題呈示に始まる。ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンがこの楽章の中で初めて登場してくる。伝統的な交響曲において珍しい楽器の参入は、フランス革命音楽(軍楽、救出オペラ)からの影響も考えられる。
この内容は、久石譲『JOE HISAISHI CLASSICS 4 』のライナーノーツからの引用であるようだ。
*4:安田靜は次のように述べている(「近年のパリ・オペラ座財務状況と切符価格の推移について」https://www.eco.nihon-u.ac.jp/research/business/publication/report39-2/ )。
20 世紀の初頭まで戻ると,パリ・オペラ座の foyer de la danse,すなわち舞台裏でダンサーが控える広間が「西欧随一のハーレム」であるとして,ニューヨークで出版された本にまでその「名声」を留めていることがわかる. (引用者中略) フランスや英米の研究者の著作を読めば読むほど,オペラ座はもっと直裁に,異性愛の男性が女性に対して抱く欲望を金で購う場所であったことが明らかになってくる.
*5:たとえば、ジョセフィン・ベイカーのバナナの衣装みたいなのを、想像すればいいのだろうか。
*6:スメタナがドイツ語で教育を受けたため、チェコ語は後から学ぶことになった事実は、日本でも知られている。例えば、ひのまどか『スメタナ―音楽はチェコ人の命!』(リブリオ出版、2004年)の216頁参照(浜田市立弥栄中学校・学校司書の手になる資料(PDF)を参照:http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1449650246804/ )
*7:以下、参照されているのは、Birgit Pauls の Giuseppe Verdi und das Risorgimento である。
*8:小原伸一は、本書の、「全国民的なヴェルディへの熱狂は、調べれば調べるほど後世の作ったフィクションに思えてくる」という主張について、次のように評している(「 劇音楽の教材研究について ―作品の背景に着目して(2)―」https://uuair.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4560&item_no=1&page_id=13&block_id=58 )。
岡田の記述には、初演当時の聴衆の思想的な状況とオペラへの反応がどうであったのかということについて、リソルジメントとの関連を否定する決定的な記録や資料が存在していたとは書かれていない。しかし、ここには作品に対する作曲家の思いを検証する重要な指摘がある。
留保しつつも、基本的に肯定的に評価している。
じっさい、のちに出版された書籍でも、ヴェルディが意図的にリソルジメントを鼓舞したという事実は否定されている(根井雅弘「 『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子(平凡社) 」https://booklog.kinokuniya.co.jp/nei/archives/2013/06/post_10.html を参照)。なお、加藤も、先述のBirgit Pauls の論を参照している。
*9:マルクスのワーグナー評について、伊藤嘉啓は次のように書いている(「ワーグナー・多面のバリケード男」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000990676 )。
1876年の夏、マルクスはバイロイト音楽祭について、「国家音楽士ワーグナーのバイロイト馬鹿祭り」と云つてをり、どうもワーグナーとマルクス主義とは、はじめから相性がよくなかつたやうだ。
伊藤は、ワーグナーが反共主義的思想を持っていたことも記している。
*10:小宮正安は、「ゴージャスになったオペラハウスに対し、ワーグナーは自分の作品を上演するためにバイロイト祝祭劇場を建てました。装飾を排し、観客を眠らずに舞台に集中させるために椅子は堅い木製のものになっています」と述べている(講演「ヨーロッパ歴史芸術散歩~第2弾『オペラハウスの謎』」http://nakano-saginomiya.gr.jp/operamatome.pdf )。
*11:杉浦康則は、ラインハルトの群衆演出とブレヒトの『教育劇』の上演が、「本質的に異なる理念の下において行われた」とする(「群衆演出の観点から見たベルトルト・ブレヒトの理論とその実践」 https://ci.nii.ac.jp/naid/120005441766)。
ブレヒトの演出においては、観客が役者の群衆として作品に参加すること、作品の展開の一部となることが最初から決定されていたのである。劇に登場するエキストラの群衆を観た観客が上演に巻き込まれるという、ラインハルトの群衆演出とは異なり、ブレヒトの観客は最初から作品の展開の一部に組み込まれた、演じる側の群衆なのである。
ブレヒト演劇との違いがどのようなものか、よくわかる指摘である。ラインハルトの演出は、「司教座教会の中に、その巨大なドアから群衆を放り込」み、「2,000 人が中世の衣装を身に着けて、崇高な教会の中にいる。祈り、歌いながらこれらの人々はあちこち揺れ動く」など、とにかくショック効果で観客を「没頭」させることに眼目が置かれるのに対して、ブレヒトはむしろ「没頭」から距離を置かせようとする。
ラインハルトの演出の肝がわかる研究と思ったので、紹介する次第である。