「かわいい」を日本の専売特許とばかりみなすのは生産的ではない。その通りだ。 -阿部公彦『幼さという戦略』を読む-

 阿部公彦『幼さという戦略』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

老人も子どもも持っている「幼さ」の底力!権力の語りに抗う「弱さの声」の可能性。太宰治村上春樹から江藤淳古井由吉まで、新しい視座と繊細な手触りのある文芸評論エッセイ。

という内容。*1
 特に、個人的には武田百合子富士日記』論と「かわいい」論がたいへん興味深く読めた。*2

 以下、特に面白かったところだけ。*3

近代以前の「うさぎ」イメージ

 「日本独自に歴史的に継承されてきた兎のかたち」は、これらの「キャラクター化された兎によって浸食されてしまった」 (92頁)

 現在の日本のうさぎブームは、明治期に西洋のうさぎのイメージが輸入されてからのものだという。 日本にも伝統的なうさぎ文化はあった。
 しかし、そうした伝統的イメージは、消えてしまった。
 例えば、波のイメージと結びついて防火や豊穣のイメージなどが、うさぎにはあったという。
 うさぎは、今のように「かわいい」一辺倒のイメージではなかった。
 ここでは、今橋理子の著作に依拠して説明がされている。*4

「かわいい」と英語圏の「キュートさ」

 英語圏でも近年「キュートさ」(cuteness)という感覚に対する関心は高まっており (99頁)

 「かわいい」という概念自体は、必ずしも英語圏などに近似する概念がないわけではない。
 実際研究は進んでいる。
 「キュート」という形容詞が、近代から現代までの推移を読み解くキーワードとして西洋で認知されている以上、「かわいい」を日本の専売特許とばかりみなすのは生産的ではない、と著者はいう。
 その本格的な研究書として、サイアン・ナイの Our Aesthetic Categories が挙げられる。
 ナイは、「キュートさ」の特質に、些末でどうでもいいこと、親しみがわくこと、哀願できること、こちらにとって脅威にならないこと、弱いこと、など「かわいい」の感覚にほぼ重なる項目を挙げているのである。*5

「かわいい」と言ってしまうことの慣習性

 ここにあるのは、昔ながらの花鳥風月への反応とも似通った振る舞いではないか (105頁)

 赤ん坊などを「まあ、かわいいわねえ」と人が言う時、そこには、発言者がどのような人間であるかも表現される。
 つまり、「私は幼いものに極めて好意的に反応する人間なのです」というようなメッセージである。*6
 そうした反応は、慣習的、様式的なものである。*7

幼さという喜劇性

 幼さの特徴として、本来まじめでいるべきときに喜んだり騒いだりするということがある一方で、逆に、本来本気になるべきでない些細なことを大まじめで受け止めてしまう (132頁)

 子供は、大人がまじめであるべき時に、喜んだりする。
 逆に、子供は、時に大人が一笑に付すようなことに至極まじめに対応する。
 子供はお菓子の分け前がやや少ないだけでこの世の終わりのように泣き出す。
 幼さにおける、大人に対するこの感覚のズレは、「喜劇」的であるように思われる。*8

江藤淳夫妻における、「母」と「子」の関係

 むしろ妻を「母」の位置に押しこめ、母との一体感を全能感とともに享受しようとする未成熟な息子の姿をそこから読み取りたくなるのではないか。 (180頁)

 江藤淳夫妻についての話である。

 江藤淳の妻は、彼の原稿の最初の読者であり、まるで秘書のように便利に、そして母のような慈愛とともに、わきに控えていた。
 その姿は、まるで妻を「母」のようにして、その愛を享受しようとする未成熟な息子のようだ、と著者はいう。
 この点、実際その通りだと思われる。
 江藤は、『成熟と喪失』の「母」と「子」の関係を、およそなぞっているのである。*9

 

(未完)

 

*1:本書については、すでに仁平政人による書評https://ci.nii.ac.jp/naid/120005745467 が存在するので、本書についての概要を知りたい人は、そちらを読まれたい。

*2:以下、武田百合子論については言及していないが、まあ、それは実際に読んで楽しんでください。

*3:著者の文体はいつ頃現在のような独特の柔らかいものになったのか。調べてみた限り、論文だと、「振り子の不安 : The Golden Bowlにおける気まずさの正体」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120003752169 )と「ジェーン・オースティンの小説は本当におもしろいのか、という微妙な問題について」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120003726305 )の間に、その断絶があるように思われる。

*4:黄韻如は、「丹沢巧氏は波兎文様が日本の文芸から生まれたと解釈され、美術史の視座から今橋理子氏は波兎文様が日本独自の月兎文様の一つと定義する」とし、最終的に、

中国の神仙思想に適う不老不死の吉祥性を帯びる搗薬兎や霊芝兎の文様と、日本の美感に相応しい文学的叙情から生まれる波兎の文様は、まさに対照的といえるのではないだろうか

と、日本の(伝統的な)兎に対するイメージが、中国に対して独自性があるとしている(「日本の染織意匠と中国 : 波兎文様を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001628222)。

*5:Pansy Duncan によるナギ著に対するレビュー(https://epress.lib.uts.edu.au/journals/index.php/csrj/issue/view/258 )には、

Pointing, however, to Gertrude Stein’s Tender Buttons, to William Carlos Williams’ ‘plums’ famously left ‘in the icebox’ and to Bernadette Mayer’s ‘puffed wheat cereal’, Ngai shows that avant-garde poetry has drawn on the form and language of cuteness as a means of negotiating both poetry’s increasing cultural marginalisation and its inevitable relation to the commodity.

とある。前衛的な詩もまた「かわいらしさ」を活用するのだというこの指摘は、まさに本書(『幼さという戦略』)の意に沿うものであるようにも思う。

*6:「かわいい」という語のこうした使用のされ方については、以前、杉本章吾『岡崎京子論』について書いた際に、言及している。気になった方はご一読を。

*7:もちろん、「花鳥風月」の類の様式性そのものが悪いというのではない。たとえば、松田修もいうように、「もっとも異端的な刺青のデザインが最も伝統的―――月並みであることの意味は、なおざりにしがたい」のである(『日本刺青論』青弓社、2015年)54頁。
 松田の議論はやや込み入っているが、通常保守的な大衆芸術が帯びる両義的な性格、つまり、時に反逆的・反時代的であり、しかし時に反逆性を喪失し凡庸に堕する、という「月並み」であることの魅力的な危うさが、論じられているように思う。たぶん。

*8:塩田明彦は、『映画術』(イースト・プレス、2014年)において、

みんなが怒っているシーンで平然としてる。それをいかに通すか (引用者雄略) 喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションでい続けるか、ってことに尽きるんです。

と述べ(当該書196頁)、異化するのが喜劇役者であるという。悲しい場面でも泣くことはなく、他人事のような態度を貫くためには、彼は歌うように、口上のように、セリフを言うことがあるのだ、と。なお、塩田が念頭に置いているのは、『男はつらいよ』の渥美清である。

 また、こういった資質は、芸術家の特質にも通じるものかもしれない。森村泰昌は、次のように述べている(『美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集』(筑摩書房、2014年)、29頁。)

誰もがアッチを向いているとき、芸術家はまったく別の方向に目を向けている。それがいいのか悪いのかはわかりません。良し悪しの問題ではなく、はからずも世間様とは違った立ち位置をとってしまう。このヘンテコリンな感受性のあり方こそが、芸術という領域の特質である。

*9:大塚英志江藤淳と少女フェミニズム的戦後』が、江藤に、「少女フェミニズム」的な感覚を見るのに対して、著者はその見方に必ずしも賛同していない。むしろ、江藤の中に、まさに『成熟と喪失』で指摘した「母」と「子」の関係を、見ているのである。
 『成熟と喪失』でいうなら、

一般に日本の男のなかで、「母」がいつまでも生きつづける根強さは驚嘆にあたいする。

「子」である夫が安息の象徴である幼児期を回復しようとすることは、時子に「母」の役割をあたえることを――つまり彼女の青春を奪って、あるいは老年に近づけることを意味する。それは決して彼女に「楽園」をもたらしはしないのである。

といった言葉は、そのまま江藤と妻との関係に跳ね返ってくることにだろう(以上の引用は、橋本倫史「読書メモ 江藤淳『成熟と喪失 “母”の崩壊』」https://note.com/hstm1982/n/ne006f8dec441 からの孫引きに頼っていることを念のため書いておく。)。

 また、大塚英志は、

若い批評家の言葉の中ではそのふるまいに対してさえ、どこかでそれは「子」である自分を裏切った「母」、つまり「妻」の責なのだという論理があらかじめ成立している。免罪の論理がその批評の中に滑り込ませてある。

と、江藤が妻に振るった暴力について説明している(以上、高橋幸「大塚英志の『少女フェミニズム』」https://ytakahashi0505.hatenablog.com/entry/2019/01/19/184125 からの孫引きである。)。

 これはまさしく、「未成熟な息子」が「妻を『母』の位置に押しこめ」たのではないか、という著者・阿部の指摘に沿うものであろう。