パスカルにとって信仰とはどのようなものだったのか、そして、彼の「差別的」なユダヤ人観について -山上浩嗣『パスカル『パンセ』を楽しむ』を読む-

 山上浩嗣パスカル『パンセ』を楽しむ 名句案内40章』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

一見、近づきやすそうなこの作品は、しかし実際に手にすると、思いのほか読みにくい難物である。それゆえ第一級のパスカル研究者が『パンセ』の魅力を味わい尽くすために書き下ろした全40章。1日1章、最高の読書体験を!

というもの。
 優れたパスカル研究者による、パスカル入門。おすすめである。
 パスカルすげえ、から、パスカルやべえ、まで、そろっている。

 以下、特に面白かったところだけ。

愛とはとめどない興味

 ラ・ロシュフコー箴言集』の一節は、パスカルに対する見事な反論をなしている。 (34頁)

 パスカルは、世俗における愛を、自己の「邪欲」の発現であるとした。
 そして、地上における愛をすべてはかなく不正とみなした。
 例えば、相手の容姿や性格を好きになったとすれば、その要素が失われたら愛も失われるのではないか、と。
 それに対して、ラ・ロシュフコーは、変わらない愛とは、あるときはこれ、あるときはそれ、と次々に執着させていく、たえざる変化のことだと規定しているのである。*1
 これはラ・ロシュフコーの方が一枚上手であろう。*2

パスカルにおける信仰と習慣(と身体)の関係

 パスカルにおいて信仰は、知性や理性(のみ)によって得られるものではない。 (52頁)

 信仰に至るためには、一時的に精神の営みを意図的に中断し、自己を他者と偶然にゆだねなければならない。
 そして、その思考の中断には、他者の動作の模倣という形で、身体の動作が大きく関与している。
 まるで信じているかのようにふるまい、聖水を授かったりミサを唱えてもらったりする。*3
 身体を通じて信仰に至る、という身体性がパスカルにおいては重要となる。*4

疑ってこその信仰

 疑いを持ちながらも、探求の途上にあるという自覚こそが、むしろ正しい信の条件なのだ (110頁)

 パスカルが目指すのは神の存在といった命題の証明ではない。
 宗教が告げる命題が真であってほしいという希望を抱き、それが確信に至るまで、自ら進んで探求するよう誘うことである。
 安易な確信はかえって慢心を招くとする。

 パスカルにとって信仰とは希望であり、プロセスなのだ。*5

パスカルは世俗的な欲望から逃れえたのか

 パスカルが(少なくとも妹の目からは)いかに世俗的な欲望にまみれているように見えていたか (135頁)

 パスカル回心直後に、妹からパスカルへの手紙がきた。
 その手紙によると、回心以前のパスカルは、身分の高さや名誉に弱かったようだ。
 だが、回心以降のパスカルは、本当に、世俗的な欲望から脱し切れたのだろうか。

 みずからの宗教的信念と矛盾する行為であることは明白である (169頁)

 サイクロイドの問題を解いたパスカルは、回答を得て、友人の勧めでヨーロッパじゅうに、この問題を解いたら賞金を与えると告知した。
 このコンクールの主催は、決定的回心(1654年)を経たはずのパスカルにとって、矛盾する行為だったのである。
 彼はその際に偽名(「アモス・デトンヴィル」)を用いたのだが、ここで偽名を使用したのは罪悪感の軽減等が理由ではないか、と著者は述べている。*6

ユダヤ教パスカル

 彼において、隣人愛を説く宗教への誘いが、こんな不寛容な思想とどのように両立していたのだろうか。 (180頁)

 パスカルユダヤ教ユダヤ人)論についての話である。

 ユダヤ人は、イエスを殺害したのはユダヤ人だという理由で、キリスト教にとっての最大の「敵」である。
 だが、彼らの存在こそが、キリスト教の真実を証明したことになるという(「ユダヤ民族証人説」)。

 旧約聖書におけるイザヤの預言、救い主が退けられてつまずきとなる、という預言を、ユダヤ民族はイエス殺害によって実現した、というのだ。

 こうした話を、パスカルは聖書の象徴的読解を以て、行っている。

 しかしながら、16世紀後半以後、活版印刷の発明や人文主義の発展とともに、聖書の字義的解釈が一般化しており、パスカルの導入したような象徴的読解は、不信仰者からは不興を買っていた。
 はたして、パスカルはこんな時代錯誤の謬説を本当に信じ込んでいたのだろうか、と著者は問うている。

 そして、隣人愛を説く宗教への誘いが、こんな不寛容な思想とどのように両立していたのだろうか、とも。*7

 

(未完)

 

*1:原文は、


La constance en amour est une inconstance perpetuelle, qui fait que notre cœur s’attache successivement a toutes les qualites de la personne que nous aimons, donnant tantot la preference a l’une, tantot a l’autre ; de sorte que cette constance n’est qu’une inconstance arretee et renfermee dans un meme sujet.

である。なお、ラ・ロシュフコーは、

L’amour aussi bien que le feu ne peut subsister sans un mouvement continuel ; et il cesse de vivre des qu’il cesse d’esperer ou de craindre. 

とも述べており、愛は、希望や怖れによって動かされないと消えてしまうのだという。難儀なこった。
 以上の引用は、Wikidource(https://fr.wikisource.org/wiki/Maximes )からのものである。 

*2:なお、先に生まれたのは、ラ・ロシュフコーであるが、先に亡くなったのはパスカルの方である。

*3:永瀬春男も、次のように述べている(「パスカルと時間」https://ci.nii.ac.jp/naid/120004840280 )。

情欲を減らし、あたかも「信じているかのように万事を行ない」、「聖水を受け、ミサを唱えてもらう」ことから始めるのがよいだろう。そのように身体という機械を習慣づけることで、人は信仰の入り口にまで導かれるであろう。賭の断章は、数学的議論(損得をめぐる確率計算)を除けば、およそ以上のように要約できる。

*4:著者自身は、

身体による認識という発想は、メルロ=ポンティ(「身体性の哲学」)やブルデュー(「ハビトゥス」)ら、現代の哲学者によっても受けつがれている

と述べている(「習慣と直感」https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/162 )。

*5:金子昭は、次のように述べている(「今日の時代における宗教批判の克服学(14) 宗教者と信仰者についての一考察(続き)」 https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000gd6t0.html )。

法然もまた「疑いながらも念仏すれば往生す」と語ったと伝えられるが、吉田兼好は「これもまた尊し」と述べている(『徒然草』第39 段)。阿満利麿は『人はなぜ宗教を必要とするか』(ちくま新書)の中でこのことに言及し、「一人の人間が否定すれば、たちまち動揺するような救済原理では、すべての人を救うなど、思いも及ばない」(185 頁)と説明している。

そして、

私の言い方に直せば、信仰者が疑いを持ちながらも信じるということによって、はじめて宗教が宗教として現出するのである。

と述べている。金子の意見に対しては、教派的な点はともかくも、その意図について、パスカルも賛同できるかもしれない。

*6:サイクロイドの懸賞コンクールには「アモス・デットンヴィル」という名前を使用した。石川知広は、

パスカルアモスの名において懸賞コンクールと自らのサイクロイド研究を総括した。つまり、アモスは、数学という世俗の学闘活動と、懸賞コンクールの主催というふたつの営為の主体として提示されている。ところで、ポール・ロワイヤルの宗教観から見て、両者がけっして無条件に褒められた行為ではないことは想像に難くない。もちろんパスカルもジルベルト以下の親族もそれを承知していた。したがって、パスカルの匿名や偽名、そして例のロアネーズ公の助言の逸話は、予想される批判に対する事前の備えと考えることも不可能ではない

と述べている(石川「狂愚の国のソロモン--パスカルの偽名について」https://ci.nii.ac.jp/naid/40016894115 なお、本書でも、この石川論文が参照されている。)。ただし、

しかし、少なくともアモスの名の選択には、単なる自己防御の意図を超えた何かより積極的な動機がこめられていたのではなかろうか 

として石川は論を進めているが、その詳細については、石川論文を実際にお読みいただきたい。

*7:塩川徹也は、対談で次のように述べている(塩川徹也、野崎歓「《パスカル「パンセ」を読む》」https://dokushojin.com/article.html?i=830 )。

パスカルキリスト教の正しさを証明するために、ユダヤ教キリスト教を鋭く対立させ、キリスト教を証明する手段としてユダヤ教を使います。一番決定的なのは何か。ユダヤ人は、救世主として現われたキリストを、十字架に磔にしてしまった神殺しなんだから、神の怒りにあって全滅してもよかった。それでもユダヤ人が世界に散らばって生き残ったのはなぜか。正典である旧約聖書が正しく伝えられたことを証言する証人としてユダヤ人がいる。そういう理論を展開するわけですね。パスカル以前に、アウグスティヌスの中にもそれに似た論法がありますけれど、とんでもない反ユダヤ主義ですよね。そういう意味で言えば、パスカルが「護教論」で作り上げようとしていた合理的な説得というのは、とても独善的で恐ろしいものです。

ただし、塩川は、「弁明しておくと、同時にパスカルは、その論理を食い破るような文章も書いている」と、さらに述べている。