基本近世絵画ばかりだが、日本絵画入門としてこの上ない出来である。 -安村敏信『線で読み解く日本の名画』を読む-

 安村敏信『線で読み解く日本の名画』を読んだ。

線で読み解く日本の名画

線で読み解く日本の名画

  • 作者:安村敏信
  • 発売日: 2015/06/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り、

モノをカタチづくる輪郭線と、画家たちはいかに格闘してきたのか?日本絵画の要諦は線にあり。奈良時代の墨絵から浮世絵、近代画まで、日本絵画の歴史一二〇〇年を新しい視点で読み返す美術案内。

というもの。
 基本近世絵画ばかりだが、日本絵画入門としてこの上ない出来である。
 お勧めしたい。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

やまと絵の美しさ

 下書きの線を筆で描き、その上に彩色が施された後、最後に輪郭線を墨で描き起こす。 (15頁)

 平安時代の宮廷繪所での絵師の活動について。
 やまと絵の制作方法は、引用部のとおり行う。
 輪郭線の墨の線は、「後のせ」なのでである。
 著者は、源氏物語絵巻「夕霧」を例に、細い線を何度か重ねることで、微妙な変化をつける技法に注目するよう促す。
 わずかな目の角度で各々人物の感情を描き分けるなど、精密な技が施されている。*2

無重力空間にいるような達磨

 まるで達磨の体重を感じさせないような、達磨が無重力空間に浮いているような摩訶不思議な線。 (53頁)

 雪舟の「慧可断碑図」の話である。
 達磨と慧可。特に前者の輪郭線は、線というには太すぎ、面というには細く、淡墨というには少し濃く、濃墨というにはあまりに淡い。
 そんな、どっちつかずなゆるい線である。
 まるで無重力空間に浮いているような線、と著者は形容している。*3
 的を射た発言ではないだろうか。

歌麿の天才的造形

 つくづく歌麿の天才的な造形に感動した (184頁)

 著者が美術館の館長をしていた時に、巨大パネルに目と鼻と口の三つのパーツをつけてもらう企画を著者が思いついて、実行した。
 パネルのモデルは、歌麿の「歌撰恋之部 物思恋」だった。*4
 じっさいやってみて、一寸でも違うと全く違った表情になることに気づいた。
 しかも、原画を見ながらでも上手くいかない。
 けっきょく、気品がありながら物憂い表情は、出せなかったという。*5

北斎と漢画

 文化年間に入り、力強い肥痩線を美人画に好んで使うようになる。四十代後半の葛飾北斎と名乗った時期である。 (216頁)

 北斎(当時は俵屋宗理を名乗った)は、宗理風というしなやかで細身の美人画を確立していた。
 それが、北斎を名乗ってから、正統漢画の線を使うようになった、と著者は言う。*6
 ところで著者は、北斎富嶽三十六景が、ドビュッシー交響詩・「海」にインスピレーションを与えた、との旨を述べているが、残念ながらそれを裏付ける証拠に欠けている。*7

御舟の見えない線と「生命」

 御舟は、輪郭線という、本来は見えるはずのない物体と空間の境界にある線を如何に描くかに苦心している。つまり本来見えない線を追及している (246頁)

 速水御舟は、生き物に対しては、輪郭線を明瞭に描こうとしない。
 むしろあいまいに描こうとする。
 周囲に白っぽい、淡い空間を描いたりする。
 それによって、生命の存在感を描こうとしているのだ、と著者はいう。
 一方、死んだ生物には輪郭線が現れてくる、とも述べている。*8 *9
 また著者は、林十江については、人物や風景などには明瞭な線で、実在せぬ天狗やウナギなど水中や幻想の世界のものは外へ溶け出すような輪郭線で描く、と指摘している。
 どのように線を描き分けるかで、絵師の個性が出るようである。

 

(未完)

 

*1:本書を批評する場合、おそらく、中心的テーマのひとつである「線の否定」の観点から、俵屋宗達を論じるケースが多いように思うが(その例として、https://dot.asahi.com/webdoku/2015071200007.html?page=1 )、本稿では取り扱わない。

*2:1968年の小学館から出た『原色日本の美術 第8巻』には、「源氏物語絵巻」について、

さらにひとつひとつの顔を拡大し、仔細に調べてゆくと、同一類型と思われた顔も決して機械的に描かれているわけではないことが分かる。すなわちこの絵巻の場合、顔の輪郭も目鼻の線も実は単純な一本の黒線ではなく、非常に細い線を幾本も引き重ね、微妙なニュアンスを込めて作られたものである。ことに「引目」の線は、一本のようにみえながら、そのある部分を強調し、あるいは軽い点を加えることで瞳のあり方を暗示するなど、それぞれの顔にひそやかな命をかよわせている。

とあるようだ(ブログ・「なんだかなー」
https://ameblo.jp/chii00ringo/entry-12223729943.html  から引用を行った。)。
 この一文は、秋山光和の手になるものである(以下を参照https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002300817-00 )。

 なお、秋山は続けて、微細な線の積み重ねによる特異な表現は『源氏物語絵巻』とほかの絵巻など(『紫式部日記絵巻』など)とを区別する特徴だとしている(当該書174頁)。

*3:人見和宏は、「慧可断腎図」について、次のように指摘している(「Shall we雪舟?:「慧可断腎図」を味わおう」https://ci.nii.ac.jp/naid/130001679675 )。

(1)達磨を薄く、周囲を濃く描くことによって白黒の対比を強調
している。
(2)達磨を曲線で、背景の水平線を直線で描くことによって、
曲線と直線を対比させている。
(3)岩の形は、達磨の輪郭を取り囲むようになっている。達磨
を中心にして、あたかも波紋が広がるかのような形となっ
ており、達磨の輪郭の曲線を強調している。

達磨の白さと曲線を活かすように配慮した結果、達磨がまるで浮いているように見えてくるのである。

*4:「歌撰恋之部」のほかの絵と比較(参考:http://jijisakura39.blog.fc2.com/blog-entry-341.html )してみると分かるが、「物思恋」がもっとも、目と口のバランスを保つのが難しいことが理解できる。少しでもずれると、間が抜けるのである。

*5:ところで、村上征勝と浦部治一郎は、次のように書いている(「浮世絵における役者の顔の描画法に関する数量分析」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006019028 )。

浮世絵師たちには,どのような種類の浮世絵であれ,程度の差は見られるものの,女性の顔は面長に,そして男性の顔は丸顔に描こうとする共通した傾向があったと考えられる.この傾向は歌麿美人画春画に描かれた顔よりも,男性劇である歌舞伎の役者の顔を描いた役者絵の方に顕著に現れており,これは,女形を演じる男性の顔はことさら女性らしく描くことによって,女形と立役を明確にし,役柄のうえでの男女の違いを明確にしようという意識が,本物の男女の顔を描いた美人画春画に比べより強く働いたことが原因と思われる.

特に歌麿について、本物の男女のケースに比べ、役者絵の方がより男女の役柄の描き分けをしているとの指摘である。また、写楽について、

写楽にあっては,女形の顔を女性らしく見えるよう描こうという意識は,豊国,国芳よりも強く,それが女形と立役の顔の描き方の顕著な差となって現れているということである. (引用者中略) 女形の顔をより女性らしく見えるように描こうとするこのような写楽の意識の強さが,彼の絵が「あらぬさまにかきなせしかば」と評価される原因の一つになっていたとも考えられる.

と興味深い指摘もなされている。ぜひご一読を。

*6:ところで、北斎はどのように漢画の技法を獲得したのか。内藤正人によると、和刻された『芥子園画伝』や明代の版本のほか、南蘋派の流れをくむ建部綾足や渡辺湊水の画譜、橘守国『絵本通宝志』、宮本君山の『漢画独稽古』などから、学習したようである(「北斎の漢画学習―独学で習得した漢画の図様と筆法」https://www.tnm.jp/modules/r_db/index.php?controller=list&t=publication_museum )。

 内藤は、北斎狩野派より、『芥子園画伝』や明代版本などを基にした画譜類、南北様々な中国画風を伝える先輩たちの画譜類を介して漢画の技法を学習したが、学んだ図様などはそのまま使うのではなく、頭の中で再構成してから北斎は描いている、と指摘している。

*7:安藤真澄は、次のように述べている(「ドビュッシージャポニスムをめぐる音楽社会学的考察 : 作曲家における日本の芸術の影響と聴取者によるその音楽の受容について」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006708998 )。

国立国会図書館レファレンス協同データベース (引用者中略) によると,交響詩《海》のスコア初版表紙は海のイラストで飾られており,葛飾北斎の《神奈川沖浪浦》に波の形において似ているようにも見えるが,色調や全体の構図は異なっており,北斎の浮世絵を表紙に使用したとの明確な記録もないため,《神奈川沖浪浦》を引用したとは言い切れないとされている。また,2013 年現在,少なくとも音楽研究書の範囲では,ドビュッシーが「曲想を得た」とまでを認知する段階に至っていないと判断している。ドビュッシーの《海》の初版の楽譜表紙に用いられた海のイラストには北斎の海との外形的な類似性は見られるが,よりデフォルメされ,図案化された一つのデザインと見ることができる。

 少なくとも、専門的見地からは、ドビュッシーが、北斎の《神奈川沖浪浦》から曲想を得た、とする証拠は見つけられないのが現状と言えるだろう。

*8:実際、御舟の代表作である、「京の舞妓」や「牡丹花」なども、輪郭が曖昧だったりぼかされたり、何か靄のようなオーラをまとっていたりする。

*9:佐藤学は、狩野芳崖竹内栖鳳が、墨線を中心に検討していたのに対して、速水御舟は、

《洛北修学院村》では本画と同じ大きさの下絵は無く、スケッチや小下絵(図 2-11)のみとなっている。御舟の《洛北修学院村》における小下絵では、線描の検討ではなく、形や色彩の当たりや構図の大まかな検討をしていることが窺える。

という(「支持体から見る絵画表現 : 絵画における支持体の機能についての考察、ならびに和紙を用いた絵画制作の検討と実践」https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=35075&item_no=1&page_id=13&block_id=83 )。また、佐藤は、島田康寛の論考を参照して、「日本画の描く絵から塗る絵への絵画表現の変化と共に、下絵の役割が変化して」おり、「洋画の影響を強く受けた時期と重なり、明治末から大正時代にかけてと、特に戦後に著しい」としている。この場合、御舟は、「塗る絵」、すなわち、線描を主体としない絵を描く人、といえそうである。