解説が作品に屈したら駄目だろう。戦え。解説は作品の奴隷じゃない。 -斎藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』を読む-

 斎藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』を読んだ。

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)

 

 内容は紹介文の通り、

名作とベストセラーの宝庫である文庫本。その巻末の「解説」は、読者を興奮と混乱と発見にいざなうワンダーランドだった!痛快極まりない「解説の解説」が幾多の文庫に新たな命を吹き込む。

というもの。
 読んで痛快。さすが斎藤美奈子

 以下、特に面白かったところだけ。

「うらなり」よりも「赤シャツ」

 女性なら、自分を愛しているのかいないのかもはっきり言えないうらなり君より、赤シャツのほうに魅力を感じるのは当然 (19頁)

 集英社文庫版における、ねじめ正一の『坊ちゃん』に対するコメント*1である。
 うらなりは単なる名家の息子で、魅力に乏しい。
 マドンナの方も親の言いつけでしぶしぶで、といったところだろう、と。
 一方、赤シャツは東大出で知識も話題も豊富、マドンナにも積極的に近づいた。
 そりゃ、赤シャツに行くわい、と。*2

『白鯨』とジェンダー

 この白人の青年と南洋の筋骨たくましい「蛮人」とのホモ・エロティックな関係はあきらかである (77頁)

 『白鯨』についての解説である。*3
 当時の米国でのホモ・セクシュアリティに対するタブー意識を考えれば、かなり大胆率直な作者メルヴィルの挑戦が、指摘されている。*4

 ここでいう「ホモ・エロティック」というのは、「ホモ・ソーシャル」と「ホモ・セクシャル」との中間に位置するエロティックな関係を指すという。

読者を一人前の大人として扱う

 『小公女』までダシにするんだもんな。困ったもんだな、曽野綾子。 (94頁)

 貧しさを自己責任論に還元させ、植民地主義も半ば肯定される、そんな曽野お得意の論法に対して、著者は批判を加えている。

 痛快である。*5

 児童文学の読者を一人前の大人として扱う。それを教育っていうんじゃない? (96頁)

 至言であろう。
 児童文学の解説に、半端な教訓などいらない。
 必要なら、彼らは自分のための教訓を自分で見つけ出す。
 解説にできるのは、そのための情報を提供することだけである。*6 *7

 著者が高く評価するのは、小説の設定と実際の19世紀英国の社会状況との比較ののち、最終的に主人公と「具体的なインド人との心の通ったやりとり」に着目した、原田範行の解説である。*8

解説は作品の奴隷ではない

 『少年H』に感動した読者が一〇年後、『永遠の0』に涙する。 (238頁)

 あらまほしき銃後の少年、あらまほしき戦前の軍人。*9 *10
 どちらも一種の「英雄譚」である。
 ゆえに、多くの読者を獲得した。
 だが、解説が作品に屈したら駄目だろうと著者は言う。
 戦え、と。
 解説は作品の奴隷じゃない、と。
 まさしく、その通りであろう。

 

(未完)

 

*1:「鑑賞」という位置づけである。

*2: マドンナを「ひたすら忍従を強いられていく女ではなくて、自由に活発々と己を解き放っていこうとする新しい女」と規定して、うらなりが象徴するのが「伝統的土着」、赤シャツが「ハイカラ近代」、という風に解釈する見方は、既に存在している(千石隆志によるもの)。
 これに対して、

マドンナは、うらなりを選ぶでもなく、赤シャツを選ぶでもなく、暖昧な態度のままである。赤シャツの象徴するハイカラ近代を明確に意志して選択しているのは、マドンナの母親であってマドンナ自身ではない。

と、松井忍は指摘している(以上、引用・参照は、「漱石初期作品におけるマドンナ--『坊つちやん』から『三四郎』『草枕』へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000883036 に依った)。
 松井のこの指摘は正しいと思われる。そもそもこの小説でマドンナは一言もしゃべっていないような人物である。また、実際、松井の言うシーンでも

女の方はちっとも見返らないで杖つえの上に顋あごをのせて、正面ばかり眺ながめている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。

という風にマドンナは「新しい女」に該当しそうなそぶりを見せていないのだから(*引用は青空文庫版『坊っちゃん』に依った)。

*3:本書では、八木敏雄の『白鯨』解説(岩波文庫版)が、参照・引用されている。上記の引用も、斎藤からの引用ではなく、八木の解説を孫引きしている。

*4:高橋愛は次のように論じている(「クィークェグとは何者か : 『白鯨』における不定形の男性像」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009908895 )。

クィークェグはセクシュアリティジェンダーにおいても曖昧なところがある。彼はイシュメールに対して友愛を示したが、それは同性愛的な様相を呈するものである。友情を逸脱し同性愛的であるクィークェグは、セクシュアリティのうえでとらえどころがなくなっている。またジェンダーについては、王子や銛打ちという肩書き、あるいは、「新郎」というたとえから、彼は男性的とみなされてきたが、その行動には男のジェンダーから逸脱するところがある。クィークェグは性においても、異なった特性を混交させた存在となっているのである。

*5:鳥集あすかは『小公女』について次のように論じている(「〈少女〉を探して : 『小公女』にみる理想の少女」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005399648 )。

セーラの敵であり悪の権化として語られるミンチンは、家父長制社会における「理想的な家庭」を築くことのできないキャリアウーマンである。働く女性であるミンチンの子育てはことごとく失敗し、彼女は妻としても母としても不良品であるだけでなくその冷酷で金にがめつい性格から、キャリアウーマンがいかに社会の悪であるかという印象を多かれ少なかれ読者に与えている。

この作品の重要な一側面を論じるものとして、ここに紹介しておく。

*6:ここで著者が批判をぶつけているのは、やはり先に出てきた曽野綾子に対してである。

*7:張替惠子は、東京子ども図書館での本の貸出規則について次のように述べている(「中央区男女共同参画ニュース Bouquet 」73号、2014年 )。

アン・キャロル・ムーアが1900年代の初めに「図書館の約束」をしたのとはいくつか違いますが、子どもたちを一人前に扱うことで子どもたち自身に本を読む規律と本を読む楽しさを理解してもらうことを意図しています。

本書につながるような、とても重要なことを述べていると思われるので、ここに紹介する次第である。

*8:ここでいう「具体的なインド人」とは、作中のラムダスのことを指す。

*9:前者については、資料的な裏付けの取り方に対して、批判が存在する。詳しくは、山中恒『間違いだらけの少年H 銃後生活史の研究と手引き』(辺境社、1999年)等を参照されたい。この山中著については、著者・斎藤も言及している。

 なお、山中著については、

『間違いだらけの少年H』といえば、決定でもない新仮名遣いを教師が教えるだろうか?という問題提起があったと思いますが、実例があるんですよね(妹尾氏の実体験かはともかく) 複数の資料にあたる大切さを思い知らされます。

と、ツイッター上で指摘があった(https://twitter.com/keyboar/status/1048555533085466626 )。大事なことであるので、ここに紹介する次第である。

*10:実際のところ、『永遠の0』という小説の主人公は、「あらまほしき戦前の軍人」というより、「戦後的価値観から正当化できる『あらまほしき戦前の軍人』」とでもいうべきであろう(著者・斎藤も、この小説の主人公・宮部が、戦後民主主義的価値観を持った人物であることについて言及している。)。藤田直哉が述べているように、

確かに、実存や葛藤の部分は大きく違うかもしれませんね。『永遠の0』の主人公は、『海賊とよばれた男』のような熱血モーレツ社員的な人間ではないし、国のために生きる国家主義者でもない。クールというか、個人主義者ではありますよね。

藤田直哉×杉田俊介百田尚樹をぜんぶ読む 第11回 『永遠の0』(1)」https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/hyakuta_zenbuyomu/7702/2 *内容は、集英社新書にて読むことができるという。)

 じっさい、本当に戦中の価値観であれば、「家族」ではなくて、「天皇」のために死ぬことが称揚されるであろう。詳細は、以前書いた記事を参照(http://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20140712/1405150769 )。
 もちろん、

図らずもこの解説は、特攻という非人道的な戦法を発明した日本軍の暴力性と犯罪性を隠蔽する。作品を相対化する視点がまったくないから、読者はまんまと騙される。

という、著者・斎藤による『永遠の0』の解説(児玉清・筆)への批判は正しい。特攻は、まず敵軍の兵士への加害行為であるし、そして自軍兵士への加害行為であり、その指摘を抜かした解説は手落ちであろう。