日本語が「ぼかした表現」を好むことの文法的な背景。(あと、相席では黙っていたい。) ―井上優『相席で黙っていられるか』を読む―

 井上優『相席で黙っていられるか』を読んだ。

相席で黙っていられるか――日中言語行動比較論 (そうだったんだ!日本語)

相席で黙っていられるか――日中言語行動比較論 (そうだったんだ!日本語)

  • 作者:井上 優
  • 発売日: 2013/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は、紹介文の通り、

「娘と息子、どっちがかわいい?」日本人が首をかしげる中国人の質問。「これ誰の?―うーん、誰のかなあ」実は不思議な日本人の答え方。中国人の妻との日常生活を通じて、数えきれない「あれ?」と出会ってきた著者が説く、「こう考えれば理解しあえる」!さまざまな場面で応用できる、対照言語学的「比べ方」のすすめ。

という内容。
 比較文化論としても大変面白い一冊。
 中国語がわからなくても、楽しく読める。

 以下、特に面白かったところだけ。

中国人の耳は加点方式

 中国人の耳は、減点方式ではなく、加点方式で (31頁)

 上記は、新井一二三『中国語はおもしろい』からの引用である。
 中国語は、各地方出身者間の意思疎通が目的なので、そうなっているようである。
 というのも、中国の各地方の「方言」同士は、かなりバラバラであるからだ。
 欠点をあげつらうような意地悪な聞き方をしないというのは、日本語圏に比べて、良いところであるように思う。*1

「天秤型」対「シーソー型」

 しかし、これはあくまで日本人の感覚である。 (136頁)

 日本人は、聞き手との関係を大切にしているので、「こうだ」と言い切ることをしない、とよく言われる。
 しかし、著者は必ずしもそうではないのではないか、という。
 例えば、中国人は、会話の流れを途切れさせないために、相手の発話に見合った内容の発言をする。
 そのために、「こうだ」と言い切る。
 それは相手が次に何を言うかを決めやすく、会話を持続させるためである。
 相手がレスポンスすることを前提に、返答がしやすいよう調整しているのである。
 逆に、日本人は、相手と気持ちを共有するのが先だとして「こうだ」と言い切らない。
 相手との関係のバランスを崩さないためである(まるで天秤のようである)。
 中国人も日本人と同じように聞き手との関係を大切にしているが、そのやり方が異なるだけなのであるという。

 「ここまでは同じだが、ここから先が違う」と言うほうが公平だと思う (180頁)

 「集団主義的」対「個人主義的」といった見方ではなく、まずそれぞれの特徴を相対化できる共通の枠組みを考え、そのもとで違いを説明する方がよい、と著者はいう。
 例えば、日中のコミュニケーションの方法の違いについて。
 「天秤型」対「シーソー型」*2というとらえ方は、日中どちらも、自分と相手が対等の関係にあることを重視してコミュニケートするという、共通の枠組みを考える。*3
 そして、そのコミュニケーション様式の違いを、相手との距離感が違うために、その関係の保ち方が異なる、と説明する。
 こうした方が、硬直的かつ本質主義的な不毛な議論をせずに済む。

玄関での立ち話

 中国の家屋には、日本の玄関のような空間はない (143頁)

 玄関は家の外と内の中間地帯である。
 道であった知り合いと立ち話をするのと同じ感覚で、会話ができる場所である。
 そういう意味でいうと、中国には日本の玄関のような空間はない。
 玄関で話をするという感覚がないのである。*4
 著者の妻(中国出身)は、立ち話というのは会話のうちに入らないのだという。

はっきり言い切らないことの文法的背景

 しかし、この説明は表面的な違いを強調しすぎていると思う。 (167頁)

 日本語と中国語・英語などとを比較した場合の話である。
 日本語では、英語のような表現と異なり、「明日結婚できる」とはいわず、「明日にでも結婚できる」という。
 だが、英語では、名詞レベルではtomorrowでよく、can やifなどを用いて、文全体としては「明日」を可能な一つの例として示す。
 例えば、

She can marry her young man tomorrow if she like. 

のように。*5
 一方、日本語では、名詞レベルで可能な一つの例であることを示さないといけない。
 そこで、「明日にでも」となる。
 日本語が「ぼかした表現」を好み、英語や中国語は「明確な表現」を好む、といわれたりするが、実際は、文法的背景が存在するのである。
 ほかの言語では、名詞がかなり広い意味をとれるのに、日本語だと名詞は狭い意味しか取れないというわけだ。*6

 

(未完)

  • SmaSurf クイック検索

*1:上野惠司は、次のような興味深い体験をしたようである(「中国語とはどんな言語か」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006029370 )。

1972年に日本と中国の国交が回復する10年ほど前のことであったので、学習環境にも恵まれていませんでした。/せっかく学んだ中国語を試してみるチャンスが全くありません。そこで細々と行われていた民間貿易の中国船がたまたま東京湾に停泊するのを聞きつけて、煩瑣な手続きを済ませたうえで同学と上陸してくる船員を待ち受けて、一緒に街を散歩しながら会話を試みましたが、悲しくなるほど通じません。正確に言いますと、こちらが話しかけた内容は伝わっているらしいのですが、戻ってくる返答のことばが、さっぱり聴き取れないのです。

だんだんわかってきたことですが、中国国内でさえまだ普通話が普及していない時代で、しかも乗組員の多くは山東、浙江、福建といった方言地区の出身であるうえに、必ずしも高い教育は受けていない、いわば海の荒くれ男たちです。通じないのは、こちらの学力不足だけが原因ではなかったかもしれません。

ここで注目すべきは、「こちらが話しかけた内容は伝わっているらしいのですが、戻ってくる返答のことばが、さっぱり聴き取れない」というところである。著者は普通話で話しただろうし、相手もそれに応じて普通話を使ったはずである。両者ともに、たとえ片言になったとしても、普通話で会話をしたはずなのである。
 しかし、著者(上野)の中国語を一応相手は理解することができたのに、相手の「中国語」を著者は聞き取れなかった。このとき著者は、「加点方式」で相手の「中国語」を、聞き取ることができなかったわけである。この当時の著者(上野)には「加点方式」で話すような習慣がなかった、あるいは、それが可能になるだけの言語的習熟度が足りなかった、ということになるのではないか。

*2:前者は、関係の水平性をなるべく動かさないことを重視するやり方。日本的なコミュニケーションの取り方である。後者は、上下運動が一定のペースで持続していく、例えば、貸し借りを交互に作り合って行くことを志向するようなやり方。中国的なコミュニケーションの取り方である。

*3:唐瑩は、自身の博士論文において、次のように述べている(「中・日母語話者同士の 会話展開の対照研究 ―初対面場面の会話データをもとに―」https://ci.nii.ac.jp/naid/500001048900 なお、著者・井上はこの博士論文の指導教授を務めている)。

会話には、「話題を展開させる」という側面と「会話参加者の関係を維持する」という二つの側面がある。井上(2013)の説明は、中国語は会話の「会話参加者の関係を維持する」という側面を日本語より重視しているということを述べたものと言えるが、本研究の知見をふまえると、本研究において明らかになった日本語会話と中国語会話の相違は、つまるところ次のようにまとめられるだろう。

・日本語は会話の「話題を展開させる」という側面をより重視し、中国語は会話の「会話参加者の関係を維持する」という側面をより重視する。

 「天秤」と「シーソー」の話は、このように深められて研究がなされている。

*4:柳田国男『明治大正史世相編』の「出居の衰微」の項目を見る限り、出居(客への応待等に使われる部屋)のようなものが必要なのは門構えのあるレベルの家の話であって、小さな家では、戸口の立ち話で用を弁じた、とある(朝日新聞社 編『明治大正史. 第4巻 世相篇』(朝日新聞社、1930年)・150、151頁)。
 柳田に言わせれば、日本の庶民は昔からから玄関(戸口)で立ち話をしていたことになる。

*5:森山卓郎は次のように書いている(「例示の副助詞『でも』と文末制約」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006595216 )。

同論文 (引用者注:後述する寺村秀夫の著作のこと) には,英語との対照もなされており,日本語では「あしたにでも」というように例示的な意味(寺村の用語では「提案」)を表す場合にも,英語では,/  (17)She can marry her young man tomorrow if she likes.(寺村1991)/のように,特別な標識はなしに聞き手の判断にゆだねる,といった興味深い指摘がある。

ここ参照されているのは、寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味 第3巻』(くろしお出版、1991年)である。これは本書(井上著)も同じく参照している著作である。

*6:ただし、研究社 新英和中辞典での「tomorrow」の項目には、「(近い)将来には」という意味も載っており、"People tomorrow will think differently. "という文例が出ている。tomorrowだと、そういった「近い将来」という意味でも使用できる。
 一方、「明日」を「近い将来」という意味で使用するには、「明日はわが身」や「明日を担う若者」のような隠喩的な方法の場合にはとることができる。だから、先の分を、「近い将来結婚することができる~」と訳すことも不可能ではない。
 ただし、先述した寺村の出したケースでは、その「すぐに」ということを強調するには、「明日にでも」の方がよりニュアンスが出る。これは会話文なのだから、やはりそのニュアンスを出すべきであろう。

 なお寺村は、「ある女優の紹介記事」だとして、"She can marry her young man tomorrow if she likes"に言及しているが、実際の出典はサマセット・モームの短編小説「ルイーズ」であろう。