ピカソの是非を問うことは、美術、そして、美術館の是非を問うことにつながる ―西岡文彦『ピカソは本当に偉いのか?』―

 西岡文彦ピカソは本当に偉いのか?』を読んだ。*1

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

  • 作者:西岡 文彦
  • 発売日: 2012/10/17
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

「なぜ『あんな絵』に高い値段がつくのか?」「これって本当に『美しい』のか?」。ピカソの絵を目にして、そんな疑問がノド元まで出かかった人も少なくないだろう。その疑問を呑み込んでしまう必要はない。ピカソをめぐる素朴な疑問に答えれば、素人を煙に巻く「現代美術」の摩訶不思議なからくりもすっきりと読み解けるのだから―。ピカソの人と作品に「常識」の側から切り込んだ、まったく新しい芸術論。

という内容。
 読んでみたら思いのほか面白かった、というのが正直な感想。
 以下、特に面白かったところだけ。

ピカソの商的嗅覚

 キュビスムの絵を売ってくれる画商の肖像はキュビスムの手法で描き、印象派の販売で定評のある画商には印象派風の作品を描いて渡すばかりか、その画商や家族の肖像まで印象派風に描いている (46頁)

 ピカソは、画家としての才能だけでなく、商的嗅覚を備えていた。
 ピカソは、画商の路線に応じて柔軟に画風を変えたのである。*2
 肖像画を描いて、画商との関係を強化する手法を、ピカソは徹底させた。

ピカソのデッサン力

 この神がかったまでのデッサン力は、釘で引っ掻いたような銅版画の線などでは戦慄的なまでに発揮され、わずか一本の輪郭線で人体に、筋肉や骨格の構造から、それらをうっすらと覆う贅肉までが描き出されています。 (163頁)

 驚くべき筆力である。*3

「美術品の中の美術品」としてのキュビスム

 唯一ともいうべき実用性は、それが見せるためにおかれていることにあった (182頁)

 通常の高額商品は、購入後に見せびらかすことはひんしゅくを買うが、美術品はそうではない。
 なぜなら、美術品の唯一の実用性は、それを見せることにあるからだ。
 逆に言うと、それしか実用性は無い。*4
 そして、その場合、ピカソこそ、偉大な画家ということになる。
 なぜか。


 美術品という展示する以外実用性のないものにおいては、「美」(≒共感)ではなく「破壊」(≒非共感異化)の方向こそ、より価値を持つ。
 なぜなら、より一層ハイコンテクストすぎて一般の人にはその値段が正当化しきれないものであるからだ。
 そのような、より一層「実用性」が低く、美術品の中の美術品と言える存在こそ、より価値を持つ。
 その「破壊」(異化)の方向の極北こそ、キュビスムであった。
 ピカソの絵は、美術品という見せびらかす以外に価値を持てない(多くの人には理解されない)非「実用」的な存在である。*5
 そして、見る人を限定するという意味で、見せびらかしすらやりにくいという点でも非「実用」的な、「美術品の中の美術品」なのであった。

美術館という「殻」とピカソ評価の関係

 ピカソこそその美術館にふさわしき偉大な画家ということになり (176頁)

 美術館という施設は、美術品を本来的用途(例えば、家具や調度品といったものも含め、本来の文脈・使用用途)から分断して、審美的な鑑賞のために陳列をする。
 もし、そうした美術館というありかたを批判するのであれば、近代以降の美術館中心主義がおかしいことになる。*6 *7
 となると、ピカソを偉大とする審美眼を疑うのも、道理がないこともない。
 だが反対に、美術館を、人類の美的遺産を特定の文化や宗教の拘束から切り離して、人文的(普遍的)資産として見るための施設とみなすのであれば、どうか。
 そうなれば、美術館中心主義も肯定されることになるだろうし、ピカソの地位も安泰である。
 美術館という「殻」をどう考えるか。*8
 それには、政治的権力や経済、特定の宗教や文化から独立した「美術(アート)」なるものの存在に対する評価がかかわってくるし、また当然、そこにおいて、ピカソ評価の如何もかかわってくるのである。
 ピカソの是非を問うことは、そのまま、美術、そして、美術館の是非を問うことにつながるのである。

 

(未完)

 

*1:積読してほとんど読んでなかったものを、今回ちゃんと読んだ。

*2:孝岡睦子はウィリアム・ルービンによるピカソ評価について、次のように述べている(「ウィリアム・ルービンのパブロ・ピカソhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120006488525 *註番号を省略して引用を行った。)。

分析的キュビスム期の作品にみられる微妙な様式上の違いについて、その要因としてルービンは、モデルとピカソとの関係におけるピカソの心理の違いを説く。分析的キュビスム期の二作品 (引用者中略) を比較する場合、後者よりも前者のほうに写実的再現性の古向さを見出し、その決定因子として、ヴォラールとカーンワイラー両画商とピカソとの力関係に起因する心理的相違を指摘している。すなわち、同志としてのカーンワイラーを表現する際よりも、ヴォラールをモデルとする際には、ピカソよりも優位であったその画商との力関係が、ピカソ自身に様式上の冒険を抑斤させたというのである。

ここでのルービンは、ピカソと画商との協力関係の一面ではなく、画商との間の非対称的な権力関係の一面に、より注目しているようである。

*3:小山清男はピカソのある素描について次のように述べている(「ひと筆描き私見https://ci.nii.ac.jp/naid/130001819363)。

キュービスムからシュールレアリスムへと変貌し,人体を,ほとんど破壊的ともいえるほど解体したピカソであるが,以上のように一見無雑作に引かれたようにみえるひと筆描きの線が,人と馬との動勢をあらわし,立体的,空間的な写実の表現となっているのである。サーカスの素描であるが,流動的な素描の線そのものが,サーカスの演技のようにみえてくるともいえようか。

ピカソの優れた構成力を物語る例である。

*4:対して、フェノロサは、

洋の東西を問わず美術を全体の構造から引き離すことが,「抽離」の美術を「純正」美術として尊び,応用美術を末端,職人の業として蔑視する風潮を生んだとする。

そして、

今後日本美術を一層振起する方法はただ一つ,「抽離」の弊を離れ,応用美術の蔑視を止め,日常生活の用と密着した活きた美術によって美術振興の経済的条件を作り出し,かつての美術隆盛期と同じ状況に至らしめることであると結論する。

フェノロサは、「日常生活の用と密着した活きた美術」の両立を目指そうとする(回復しようとする)潮流に、連なる人物であった。
 以上、鵜﨑明彦「「抽離」の美術 : フェノロサの美術館批判をめぐって」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006471552 )に依った。

*5:近代という万人へ芸術が開放された時代において、逆説的に、限られた人々による前衛芸術の創作と享受が生まれた。この点については、以前、阿部良雄『ひとでなしの詩学』へのレビューhttp://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20140517/1400313569で言及したことがある。

*6:

記念建造物が共同体の象徴であり,そこを飾っていた芸術作品は共同体の歴史や政治的・宗教的理念や感情と有機的に結びついた共有物であり,それを元々の場所から引き離して収容する美術館は,共同体のそうした歴史・理念・感情が織りなす生命を奪うまさに墓場,共同体の対立物に他ならないことを物語っている。

このような発想は、近代西洋には長らく続いて来たものであった。
 その例として、テオドール・アドルノは、

芸術作品とそれを生み出した環境を一体不可分のものと見なすヴァレリーと,そうした環境から切り離されたところから芸術作品の真の生が始まると考えるプルーストを対置している

(*以上、前掲鵜崎論文より引用)。

*7:いっぽう、松宮秀治は次のように述べている(「岡倉天心と帝国博物館」http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/50508.pdf )。

西欧の「芸術」概念の成立は、新興の市民階層が王権と宗教権力のふたつの権力に従属せる「諸技芸」を解放し、自己のものとするためのイデオロギー的要求にもとづくものであった。それは芸術の「市民化」, 「民主化」という意味での,文字通りの民主主義の要求にもとづくものであった。ミュージアムとは西欧にあっては,まさにこの芸術の民主化,市民化を合法化する施設,機関として,つまり教会に代る新しい「美術教会堂」, 「芸術神殿」として生み出されたものであった。

松宮は、「芸術」概念が芸術の民主化、市民化につながる概念であることに注意を促している。そして、岡倉天心の博物館思想に、西欧の「ミュージアム」の思想のなかに含まれている市民主義と民主の要素が、はじめから考慮の外に置かれていたと述べている。
 また、松宮は別の論文では、

いうなればミュージアムは、ひとびとを「国民」に収斂させていくベクトルとひとびとを「世界市民」に開放していくベクトルという両方向の力をもった思想である。

と、その両義性について指摘している(松宮「ミュージアムの思想と制度」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005818477 )。

*8:小柳敦史は「殻」という語の両義性について、次のように述べている(「資本主義の精神と近代の運命 : ヴェーバーゾンバルト・トレルチの比較から」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002906813 *註番号を削除して引用した)。

「鉄の檻」は「倫理」論文の大塚久雄訳で「(ein stahlhartes)Gehause」にあてられた訳語であるが、荒川敏彦はこの訳語、そしてこの訳語に大きく影響を与えたと推測されるタルコット・パーソンズによる「Iron Cage」という英訳にはヴェーバーが本来「Gehause」に込めた意味を歪めてしまう危険性があることを指摘し、一つの試みとして「殻」という訳語をあてることを提案している。その中心的な問題は、「Gehause」が一般的には内部を守るための硬いケースや殻のようなものを指す語であるのに対して、「Cage」は閉じ込める檻やカゴをイメージさせる語であるというものである。その結果、「こうして従来のゲホイゼ解釈から「内部を守る」という意味が欠落していったと考えられる」という。資本主義経済の淘汰の中で生き残るために必要な保護を与えるものとして「Gehause」は理解される。それは単に制度的に押し付けられるものではなく、生き残るために必要とされる。かくして「「職業人たらざるをえない」近代人は、近代的経済秩序の殻に自発的に閉じこもり、かつ強制的に閉じ込められている」という「保護と重荷の両義性」が明らかになる