自分のやっていることに意味とか価値とか張り合いなんて、なるべく感じないほうがいいのだ ―金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』を読む―

 金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』を読んだ。

 内容は、

『夜になっても遊びつづけろ』に収められた、若き日の、ある独特の観念の硬さがそのまま、引き締まった持続と諧謔をたたえているエッセイ

という言葉に言い尽くされている。*1
 今読んでも十分効くパンチラインが炸裂している好著。
 以下、特に面白かったところだけ。

男らしさと、自己犠牲の錯覚

 本来ありもしない様々の幸福を、捨てたつもりで、捨てたという自己犠牲の錯覚にうっとりと酔って、存在するはずのない夢を探しに旅立つのが、昔から言われた男らしさの滑稽なパターン (50頁)

 捨てたという自己犠牲の錯覚、という言葉がじつに見事である。*2

張り合いなんていらない

 自分のやっていることに意味とか価値とか張り合いなんて、なるべく感じないほうがいいのだ。 (183頁)

 意味や価値を見つけようとするから、自分は間違っているのではないか、などと悩んでしまう。
 かえって、無意味で役に立たないことをしていると考えれば、そして、自分のためにしていると考えれば、続けられる。*3

比べることのつまらなさ

 セックスというものは個人的なものであって実際問題として他人と比べてみたり一定の平均を算出してみることの出来ないものであるにもかかわらず (237頁)

 自己とは無関係な所で行為された他人の性行動を、なぜか我々は気にする。*4 *5
 
(未完)

*1:高崎俊夫「『夜になっても遊びつづけろ』を再読する」http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2013/09/post-76.html 

*2:「自己犠牲によって再構築しようとする男性性」について、脇坂健介は、荒川章二や荻野美穂の論を参照して、一九三〇年代における〈男らしさ〉と無関係ではない、と述べている(「変態と植民地 : 夢野久作『二重心臓』論」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006859737 )。むろん、自己犠牲と「男らしさ」との親和性は、この時代に限ったものではない。それは、金井の執筆当時も、現在も、その価値観を引きずっている。

*3:金井は次のように書いている。

自分のやっていることに意味とか価値とか張り合いなんて、なるべく感じないほうがいいのだ。意味とか価値とか張り合いを見つけようとするから、自分のやっていることを間違っていると考え込んだり悩んだりするので、まったく無意味な役に立たないことをしていると考えれば、そしてそれも自分自身のためにそうしていると考えれば、世間に対して少し恥ずかしいところもないわけではないけれど、わたしはまだ書きつづけることができるだろう。

あくまでも、自分自身を鼓舞するための言葉であることが重要である。
 金井はさらに次のようにも述べていた。

原稿を売ること、すなわち、雑文や何かに文章を発表することをやめることによって、おそらくわたしが解放されるわけでもないし自由になるわけでもないのだ。書こうと書くまいと、退屈で平凡な輪郭のないぼんやりした日々があるだけ

 宮沢章夫は、『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版 』(河出書房新社、2015年)において、書くに値するような「劇的なるもの」への視線をうたがうこと、終わらない日常をじたばたして生きていくこと、そのことの恐ろしさを岡崎京子は描いた、というようなことを書いている(当該著275頁)。

 金井が引用部のごとく書いたのは1970年代だが、既に彼女は「劇的なるものへの視線」を疑っていたのである。

 以上、ブログ・「Dopamine-2」の記事から二次的引用を行った(http://blog.livedoor.jp/dopam333/archives/51339348.html )。

*4:

〈朝子は尊敬しているジョージア・オキーフの話をすると、進はオキーフのスカーレット色の大小の陰唇は自分の趣味〈アート上の〉には反するけれど、「女流芸術家」がオキーフにひかれるのはわかるような気がする、と言い、昨夜、自分が分け入ったばかりの陰唇のことを思い出し、同時に分け入られた側の朝子も顔を赤らめながら思い出したので――もっとも彼女は自分のそれを見たことはなかったが――〉/ね、すごいでしょ?「陰唇に分け入る」んですよ。オキーフの陰唇の絵から登場人物の性交描写につなげるあたりがうまいでしょ?/金井美恵子ならではの性描写です。秀逸です。

  以上は、ウェブサイト・”silverna.com”の制作日誌( http://silverna.web.fc2.com/diarie/2004_5.html )から引用を行った。引用されているのは、金井美恵子『恋愛太平記』からのものである。

 凡百の小説よりもはるかに上手い、としか言いようがない。

*5:ついでに、小説や映画には(女の)「陰毛は出てきても、脛毛は出てこない」は、金井美恵子一流の名言である(金井美恵子・土屋高子「小説の円熟から逃れて--新作「恋愛太平記」を逍遥する」https://ci.nii.ac.jp/naid/40003392017 )。