「美術館をつくるのに修復部門がなく、つくる予定もないなんて、言語道断」 ―『修復家・岩井希久子の仕事』を読む―

 岩井希久子 『修復家・岩井希久子の仕事』を久々に読んだ。

 内容は紹介文の通り、

修復を手がける中で起こった数々のドラマや、修復家だけが知っている絵の秘密などが語られています。名画の8割は過去の悪しき修復によってオリジナルの輝きが失われている現実や、大胆な発想で絵が消滅する危機を救った秘話、女性として仕事を続けてきた涙を誘うエピソードなど、読み物としても面白く、また絵の新しい見方がわかる一冊。

という内容。
 芸術品の舞台裏を知ることができる良書。
 以下、特に面白かったところだけ。

唾液で洗浄

 唾液は本当に汚れがよく落ちます。 (18頁)

 綿棒に唾液をつけて、絵の表面を転がす。*1
 すると、汚れがよく落ちる。
 唾液には酵素が含まれていて、適度の粘り気と温かさがあり、すぐ乾く。
 なので水溶性の汚れなら、修復用の液体せっけんより、良く落ちるという。

ベニヤに注意

 ベニヤは絵にとっては、よくない材料。 (21頁)

 絵によくベニヤが使われる。
 しかし、ベニヤの製造過程で接着剤が使われる。
 この接着剤が、これが酸性なので、絵によくない影響を与えるのである。*2

そのニスは剥がしてよいのか

 ピカソも、マットな黒い線と光沢のある黒い線を引き分けています (91頁)

 マティスの専門家によると、マティスの絵には、黒い線にだけニスを塗った物があるという。
 しかし、日本にあるマティスの絵は全面保護用のニスがかかっているものが多い、と。*3

日本の美術館における、修復部門の欠如

美術館をつくるのに修復部門がなく、つくる予定もないなんて、言語道断です。 (126頁)

 日本人は自分たちが遅れているという意識がない分、恐ろしいと著者は述べている(127頁)。*4
 その通りである。

 

(未完)

*1:相澤邦彦は次のように述べている(「油彩画の「洗浄」をめぐる諸問題」https://www.artm.pref.hyogo.jp/artcenter/kiyou.html )。

このような状態を改善する手段として、「洗浄」とよばれる修復処置がある。これは文字通り作品表面に付着した汚損などを、刷毛や筆、消しゴム類、水、石鹸類や有機溶剤、古くはパンや唾液などを用いて洗い、作品表面を本来の状態に近付ける行為である

参照されているのは、

Museums & Galleries Commission, eds.Science for Conservators Volume 2:Cleaning, Routledge, 1992, Wolbers, R.Cleaning Painted Surfaces, ArchetypePublications, 2000, p.5-7, 及びNicolaus, K.,Handbuch der Gemalderestaurierung,Konemann, 1998, p.351-352

である。

*2:鳥の子(和紙)を作品面に貼ることで、「ベニヤの酸性物質を厚手の鳥の子が吸収することで作品の酸化を時間的に遅らせる」などの対策が取られる(「バックボード(裏板)について」『野田額椽店』ホームページよりhttps://www.noda-web.co.jp/main/frame/frame02_08.html )。

*3:フエルナンド・オリヴィエ(佐藤義詮翻訳)『ピカソとその周辺』(昭森社、1964年)には、次のようなエピソードが出てくるという(ブログ・「NEKO美術館」の記事https://atelier-naruse.com/library/neko_art/2016/02/post-1602.htmlより。 )。

ある日、スタイン兄妹がピカソの許可を仰がずに彼の二枚の作品に艶出しニスを塗ったのを見て、彼は冷たい怒りに襲われた。ニスのために不自然になったと思われる作品を取り戻して、直ぐ帰りたがった。

 このエピソードは、ピカソが自身の作品に塗られるニスの加減に相当気を使っていたことを裏付けるものだろう。

 もっとも、ピカソは自分の画に対しては、きほん神経質だったと記憶しているのだが。

 なお、引用した個所は、『ピカソとその周辺』の190頁にある。

*4:
著者も出席したシンポジウムにおいて、圀府寺司も同様に指摘している(「「美術品を守り、ふやし、生かす」① ~文化庁シンポジウムから~」『美術展ナビ』の記事https://artexhibition.jp/topics/news/20190412-AEJ71499/より。 )。

シンポジウムでは、まず進行とまとめ役の圀府寺さんが、文化先進国と呼ばれる国々では、美術館ごとに常駐の修復家がいるが、日本では西洋美術を扱う常駐の修復家は、国公立美術館全体でも数人にすぎないと指摘。堅牢に見える油彩画でも劣化は起こり、適切な処置を行わなければ貸し出しや展示が出来なくなり、活用が難しくなる。