裏付け的に大丈夫か、と思うところも、もちろんなくはないのだが、読んでて面白いのは確か。 ―大森洋平『考証要集』を読む―

 大森洋平『考証要集』を読んだ。

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料 (文春文庫)

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料 (文春文庫)

  • 作者:大森 洋平
  • 発売日: 2013/12/04
  • メディア: 文庫
 

 内容は紹介文の通り、

NHKのドラマ、ドキュメンタリー番組で時代考証を担当する大森洋平氏(NHK職員)が書きためた「考証メモ」の集大成。番組での誤用例やエピソードをひきながら、間違いだらけの歴史の常識を丹念に覆してゆく。あいうえお順に約500項目が並ぶ。NHKの制作現場へ向けて作られた資料だが、著者のサービス精神とあいまって一般読者のニーズに応える作りとなっている。事典としても使うこともできるし、読み物としても面白い。

というもの。
 何よりもどこから読んでも面白いのがこの本の魅力と言ってよい。
 実証的に大丈夫か、と思うところも、もちろんなくはないのだが。

(もっと他の資料(史料)で補強してほしい所は割とある。*1

 以下、特に面白かったところだけ。 

江戸の刺青といえば、火消や駕籠かき

 昔の博打うちは、現代のやくざほど刺青をしなかった (44頁)

 日本人が彫り物を始めるのは江戸期からである。
 林美一によると、『水滸伝』絵入本の流行以降だという。

 刺青を自慢するのは火消や駕籠かきで、ばくち打ちはむしろ白い無垢の肌を誇ったと、下母澤寛『続ふところ手帖』を参照して著者は述べている。*2

「お疲れさま」と「ご苦労さま」

 いまでこそ立派に市民権を得ている『おつかれさま』だが、その時分はもっぱら芸界や水商売の世界で用いられていて、少なくとも山の手の生活圏には無かった (61頁)

 矢野誠一『舞台人走馬燈』で、少年時代(1946年)に隣近所だった長谷川一夫の言葉として、描かれている。*3

江戸の人は泳げなかった?

 江戸時代に水練は武術であり、船頭や漁師以外の一般町人は泳ぎを知らなかった (63頁)

 一般の人が泳げるようになるのは、近代以降ということになる。*4

「御意」と「了解しました」

 「了解」の意味にしたいなら「御意のままに!」である。 (88頁)

 御意というのは、貴方のお考えの通りです、という意味(YES)であって、「了解しました」の意味(OK)ではないという。*5

手裏剣は忍者の専売特許ではない

 手裏剣は忍者の専用ではなく、普通の武芸だった (127頁)

 時代考証家・名和弓雄に聞いた話だという。*6 *7
 なお、時代物で使うなら、棒手裏剣がお勧めだそうだ。

座布団は比較的最近のもの?

 全国に普及するのは明治以降 (136頁)

 座蒲団の話である。
 幕末ごろに、京阪より西の商家などで使用されるようになったが、江戸ではほぼ使われなかったという。*8
 また、プライベートなものであって人前では使わなかったとも。

 林美一『時代風俗考証事典』が参照されている。

直箸が行われるまで

 皆で鍋を囲んでつつきあう食べ方は、江戸では下衆の極み (237頁) 

 三田村鳶魚情報(『江戸生活事典』)である。
 いったん各自の椀に取り分けてから、食ったという。*9
 そもそも、江戸の料理屋に鍋料理は無かった。
 牛鍋でさえ、一人前ずつの小鍋が基本である。
 鍋料理は地方出身者が急増した明治後半以降に、江戸に登場したとする。

虹は凶兆? 瑞祥?

 古代中国とその影響を受けた昔の日本では、虹は凶兆とされていた。 (241頁)

 虫偏である事に注意しなければならない。*10
 じっさい、海音寺潮五郎も、小説『海と風と虹と』で、虹を不吉な兆候として扱っている。

万歳三唱は近代のもの

 明治二二年二月一一年の憲法発布式典で帝国大学の教授、学生らが行ったのが最初。 (258頁)

 万歳三唱の話である。*11

 英語の歓呼「ヒップ・ヒップ・フレー!」三唱を基に考案されたという。

バゲットは比較的最近の生まれ

 「バゲット」が発明されるのは一八八〇年代以降 (270頁)

 それ以前のフランス人は丸いパン・ド・カンパーニュみたいなパンを食べていたという。*12

槍はいつ頃生まれたか

 槍の発明は南北朝時代 (312頁)

 史料上、そのように見てよさそうである。*13

 

(未完)

*1:あと、 え、この人の本を参照するの? みたいのもある。

*2:山本芳美は次のように書いている(「文身禁止令」の成立と終焉-イレズミからみた日本近代史-」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005258980。なお、註番号は削除して引用を行った。)。

延宝,元和のころ(1673 - 1683)に,勇み肌や侠客に,腕に「南無阿弥陀仏」などの文字を彫ることが流行し出す。そして明和3(1766)年前後には龍,般若の面,眉間尺の首,倶利伽羅不動,獄門(生首),ろくろ首などの文様を腕や背中などに彫る,侠客が多くなってきたと伝えられる。こうした文様のイレズミをすることで男伊達を気取ったり,威勢をかったのである。 (引用者中略) 江戸時代末期になるまで,背中や腕をキャンバスに見立てて絵画的なイレズミを彫り入れることはなかった。明和のイレズミは小模様を身体の様々な箇所に彫る,雑然としたものであった。現在主流のイレズミは,歌川国芳が「通俗水濡傳豪傑百八人之一個」を文政10(1827)年に描き,中国の小説『水濡伝』の英雄の全身にイレズミを配したことが一つのきっかけとなり,総身彫りが流行り出したことに端を発する。以後イレズミの文様は,燗熟期にあった浮世絵の影響を受け絵画的要素を深めていく。

山本の説明だと、江戸期の侠客も刺青を入れているようである。

*3: 戦前も「お疲れさま」は、小説内で使用されることはあった。
 初出1925年の小川未明「白い門のある家」には、

「こんばんは、お疲れさま。」と、うしろから呼びかけました。

と出てくる。小川は新潟出身である。同じく初出1925年の北原白秋「フレップ・トリップ」にも、

何でも鉄道局との打ち合せも済んでいたものと思われたし、東京の旅客課のK君も附いていることなり、や、お疲れさま、どうぞとあったので、そこで一同が安心して鞄を投げ出し、埃っぽい編上げの紐も解いたのである。

と出てくる。北原白秋は熊本出身である。

 要は、地方出身の作家は、普通に「お疲れさま」を使用しているのである。
 一方、牛込出身の夏目漱石は、『こころ』で、

先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。

と「ご苦労さま」を使用している。ただし、「先生は全く方角違いの新潟県人であった」とあるように、この人物(「先生」)は新潟の人なのだが。

 やはり、山の手出身者は、使わなかったのだろうと思われる。

 以上、手間を省くために、青空文庫を参照したことをお断りしておく。

*4:そもそも、泳ぎは訓練しないと身につくことはない。鈴木暁子「ベトナム人は泳げないってホント!?」という記事(https://globe.asahi.com/article/11714935 )によると、以下のとおりである。

ベトナムネット(電子版)が保健省のデータとして報じた内容によれば、ベトナムでは海や川、湖などで溺れて命を落とす19歳以下の子どもが年間約3500人いる。「泳ぎ方を知っている子どもは全体の3割」(保健省官僚)で、水の事故の件数は東南アジアの国の中でもきわめて高いという。

*5:『精選版 日本国語大辞典』には、

③ (「御意のとおり」の意から) 目上の人の意見や質問などにたいして、同意を示したり肯定したりするのに用いる。転じて、感動詞的にも用いる。ごもっとも。そのとおり。/※咄本・無事志有意(1798)年の市「『証拠はあるか』『御意(ギョイ)でござります』」

とある。

*6:山田雄司は次のように述べている(「忍者の聖地 伊賀 第17回 手裏剣」https://www.igaportal.co.jp/?page_id=1897 )。

忍者が実際に手裏剣を使ったという史料はこれまで見つかっていない。だが、手裏剣が存在しなかったわけではない。元和4年(1618)成立の小笠原昨雲『軍法侍用集』「投げ松明の事」では、 (引用者中略) 「しりけん(手裏剣)」について記されている。ここでは松明を「手裏剣」にするのがよいと書かれているが、この記述からは、何でも手に持って投げるものを「手裏剣」と呼んでいることがわかる。

また、

こうしたことからすると、新陰流で重要視されていた「手裏見」「種利剣」といった考え方が、新陰流で用いられていた打物の名前として使われるようになり、そして「手裏剣」が成立したのかもしれない。

元々考え方の名前だったものが、やがて、打物の名前「手裏剣」となっていた可能性を指摘している。

*7:成瀬関次「手裏剣の硏究」は、十五代将軍・徳川慶喜が手裏剣術に熟達していた話を、公爵家古澤家令から聞いた話として、書いている(雄山閣編輯局編『武具甲冑之研究』(雄山閣、1941年))。そして、孫の徳川慶光蔵のより、手裏剣の画像を掲載して解説している。

 ここでいう古澤家令とは、古澤秀彌(慶喜家4代家令)を指すものと思われる。

*8:原島陽一「座布団史考」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005680744 )には、「例えば江戸城大奥の女中も座布団を用いている。但し,それは各自の部屋でくつろいでいる時に使用するのであって,同輩の客であっても,座布団を出さず,自分もこれを用いない定めであった」、「江戸の料理屋・茶屋でも同様であって, (引用者中略) 客に座布団を供することを明記するようになるのは明治以後である。」といった記述が見いだせる。

*9:廣瀬直哉は次のように述べている(「食事動作から食事マナーを考える : 「嫌い箸」を例として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006778994 )。

「直箸」は、取り箸を使わずに自分の箸で大皿の料理を取ることであり、適切な道具を選択しない逸脱と考えられる。取り箸がない場合は箸を逆にしてはさむこともあるが、これも逆さ箸と呼ばれマナー違反とされることがある。直箸は文化による差があり、通常取り箸を使わない中国や韓国においてはマナー違反ではないとされる。

同じ東アジアでも、国で随分と違うようである。

*10:田村専之助は次のように述べている(「奈良朝人の自然観と季節,気象観」https://ci.nii.ac.jp/naid/40002510291 (PDFあり))。

雄略紀・3年4月には,/にわかにして,皇女あやしき鏡をもちて,五十鈴河上にいでまして,人のあるかぬところを伺いて,鏡を埋めてわなぎぬ.天皇皇女のいまさざるを疑い,つねにやみの夜に,とさまこうさまに,もとめしめたまう.乃ち河上において虹の見ゆること,オロチの如くて四五丈の者あり.虹の起つ処を掘りて神鏡をえたり.(書紀・雄略紀)/と,あるが,これは虹のたった処には宝物がある,とする俗信と関係のある話に違いない.

著者の述べるところに反して、じっさいには、古代においても、虹はただ単に凶兆というだけではなかったようである。

*11:向後恵里子は万歳三唱の起源に関して、次のように書いている(「万歳をすること/させること 統治の身ぶり」https://www.jc.meisei-u.ac.jp/action/course/097.html )。

日本国語大辞典』であれば、その解説として、石井研堂の『明治事物起原』がひかれています。/近年万歳を高唱することは、明治二十二年二月十一日に始る。この日帝憲法発布の盛典あり、主上観兵の式を行はせらる、時に大学生、鹵簿を拝して『万歳』を歓呼せしに始る

ちなみに本書(大森著)も、石井研堂明治事物起原』を参照している。

*12:ウォール・ストリート・ジャーナルの記事・「半焼けバゲットが好まれるようなったフランス―嘆く職人も」(https://web.archive.org/web/20151122203014/https://jp.wsj.com/news/articles/sb10001424127887323480904579027372498622640 )は、次のように伝えている。

現在のようなバゲットが作られるようになったのは1920年代。パン職人が午後10時から午前4時まで働くことを禁じた、当時の保護的な労働法の副産物と言える。この時間帯に仕事ができないと、それまで一般的だった丸型のパンを朝食時までに焼き上げることは不可能だ。そこで新たに考案したのが、製造時間を短縮できる細長いパンだった。フランス語で小さな棒を意味するバゲットは朝食に不可欠なものとして、フランス全土に急速に浸透していった。

こちらは、1920年代だとしている。

*13:近藤好和によると、1334年、「矢木弥二郎」が胸を突かれたという「矢利」が、槍の初見であるという(『騎兵と歩兵の中世史』(吉川弘文館、2005年)99頁。)。
 もうこの頃には、槍と呼ばれるものは、登場していたと考えてよさそうである。もちろん、それ以前から、槍の形状をした武器が存在していたのかもしれないが。
 じっさい、ColBaseの「槍 銘 来国次」のページ(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/F-19969?locale=ja )よると、

平安から鎌倉時代に槍が使用された記録はないが、元亨三年(1323)の奥書にある『拾遺古徳伝絵』(茨木・常福寺蔵)には片刃の槍が描かれており、南北朝の史料からも槍の記述がみられるようになる。この来国次の槍は在銘では最古の作品である。(旧題箋)

とのことである。