「小学校教育のころから「分りません」といふことをいへる人間をほめてやるやうな教育法をすることだ」 -柳田国男『故郷七十年』を読む-

 柳田国男『故郷七十年』を読んだ。

 内容は講談社学術文庫版の紹介文の通り、

昭和三十二年(一九五七)、齢八十をこえて神戸新聞社に回顧談を求められた碩学はこう述べた。「それは単なる郷愁や回顧の物語に終るものでないことをお約束しておきたい」。故郷播州利根川のほとり、親族や官途のこと、詩文から民俗学へ…。その言葉に違わず、比類ない自己形成の物語が残された。近代日本人の自伝の白眉。

というもの。*1

 1875年生まれの播磨に生まれ、幼少期を関東で育った人物がどのような自己形成を経たか、興味深くつづられている。

 口述筆記がベースゆえに、戦前の書きものに比べ文体も平易である。

 柳田の著作にあまり触れていない人にもお勧めできる。

 以下、特に面白かったところだけ。*2

 

病とお遍路

母の同胞は男女二人、長男の德太郞は働き者で、飾磨の港に出て商ひに携はってゐたが、悪質の花柳病にかかって、そのまま四国順礼に出てしまひ、永久に還って来なかった (31頁)

 母方の人物で、梅毒によって四国巡礼に出て、帰ってこなかったようで、これが世間の目を気にする家々の普通の処理法だったという。*3

必ずしも榊でなくてもよい

榊を祭りの木とする、日本の固有信仰が北に及んでいったとは考へられない (85頁)

 天然の生枝を祭木とする場合、執筆時当時から最も多く用いられるのは真榊だが、この一種類が多数派となるのは中世のことで、この木の分布は全国的ではない。

 実際、 当時の東京あたりでもヒサカキを代用している。

 また、さらに北方に行くに従って、極端な場合は、椿や松などを使用している地方の例などもある。*4 

題詠の功罪

和歌の伝統からいへば、かうして口を馴らしておいて何時でも必要な時に詠めるやうに訓練しておくのだった。 (214頁)

 題詠の歌は実際に起こったことの感情を詠まなくてもいい、想像でもいいわけである。

 現在では題詠は軽蔑すべきものとみられているが、その効用は、柔道の乱取りみたいなものだと柳田は言う。

 それを何度もしているうちに、いよいよ自分がどうしても詠まねばならない辞世の歌とか、別れの歌とかを作るときに、すらすらと出るようにしておくのが、歌の道のたしなみだ、と。*5

 柳田は子供のころ、それを「歌口」といっていたという。

 題詠はあくまでも訓練であって、それを本筋の作歌とされては、ということらしい。

米は生で食えるのかどうか

米に一つだけ大変な特徴があるのは、生で食べられるといふ点である。 (410頁)

 米が早くから特別の地位が与えられていた理由を柳田はそのように推理する。

 じっさい、ある大地主の家では、土蔵の入口に「把み米食ふべからず」などと貼紙がしてあったという。

 また、子供のころ、若い教員などが稲穂を揉んでからだけ飛ばして、米粒だけを口の中にほうり込むのをみたという。

 しかし、本当に生で食べて消化できていたのかどうか。*6

「分かりません」をためらわない

いちばん簡単な方法は、小学校教育のころから「分りません」といふことをいへる人間をほめてやるやうな教育法をすることだと私は思つてゐる。  (102頁)

 国語は本来、口でものをいうことなのに、日本でも(仏国などでも)演説になると文語調になるのはばかげた理屈だ、と柳田は言う。

 普通の言葉でものをいうようにしなければ、聴く者はいつも頭の中で一度翻訳してから理解しなければならないからである。

 「社会党のだか自民党のだか聞きわけることもできないほどむつかしい言葉を使っている」。

 そのためには、小学校教育のころから「分りません」といふことをいえる人間をほめてような教育法が重要だという。

 先生が何を言っても生徒は黙って聞いていて、丸覚えをする、そんなケチな気持ちをなくしてしまわなければならない、と。

 特に参観者のいるときに「わかりません」を抑圧するような風潮は、教師の中からなくすべきだという。*7

 

(未完)

*1:この紹介文は、2016年の講談社学術文庫版のものを引用している。

*2:引用箇所は、比較的参照しやすい、『定本柳田国男集 別巻 第3』(筑摩書房、1964年)の「故鄕七十年(改訂版)」を使用している。ただし、引用箇所について、表記を平易なものに改めていることを予め断っておく。

*3:では、実際の遍路のうち、持病を抱えていた人たちの実際の割合はどのようなものだったか。参考として、遍路死者数を見てみる。

 「日本近代の愛媛県域で発行された新聞各紙に見る遍路死者数」は、「合計すると1868年から1945年までの約70年間に計745人の遍路死が確認できる」。「『病死』に限定しないすべての遍路死745人中何らかの慢性的疾患あるいは困難な持病を抱えていたと認められる遍路は253名いた。そのうち具体的な病名を知ることができたのは212名である」。
 「その中で圧倒的多数を占めたのが「癩」ハンセン病(87人)である」。次いで肺結核(25人)、梅毒(22人)胃腸病(17人)と続くという。もちろん、「これらはあくまで新聞に報じられたのみの人数である。報じられなかった遍路死、報じられたにせよその疾病が閑却された例も少なくないはずである」。

 以上、関根隆司「近代の四国遍路と「癩」・病者 : 愛媛県における統計的研究」(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699578169600 )から、引用を行った (*なお、引用の際、注番号を削除するなど変更を加えている。)。

*4:島野光司は次のように述べている(「信州の自然と神社」https://science.shinshu-u.ac.jp/~shimano/shimano_top.html )。

しかし,西日本,あるいは関東の平野部では一般的な常緑広葉樹も,東北日本や標高の高い地域では一般的ではありません.寒い地域では,常緑針葉樹(スギやヒノキ,あるいはウラジロモミ,シラビソなど)を除けば,落葉広葉樹が多く生育しています. (引用者略)  冬に寒い地域に常緑の葉が生育していると寒さで葉の中の水が凍り,膨張し,葉の細胞を壊してしまいます.冷蔵庫で一度霜に当ててしまったホウレンソウやコマツナなどの菜っ葉が,フニャフニャになってしまうのと一緒です.では,サカキが自生しないような寒い地方では,どんな樹木が代わりに使われているのでしょうか.神社境内に自然の植物が多く残るため,私(島野)もあちこちの神社に訪れることが多いのですが,松本平周辺の神社では,ソヨゴという樹木が使われることが多いです.ソヨゴはモチノキ科モチノキ属の樹木で,常緑なのですが,この松本周辺の山地にも多いのが特徴です.関東ではあまり見られませんが,富士山周辺やこの長野県の標高600-800m,他の常緑樹が生育できないようなところまで分布しているのが特徴です.

*5:題詠の功罪について、柳田以前の人々はどのように考えていたか。

 例えば、江戸後期の富士谷御杖(『歌袋』)の場合、題詠は歌を虚偽にすると非難しつつも、一方で、稽古の上では功ありとして必要だとする。「歌の趣を知り、詞をもいひ馴れむに、之よりよきは無し」というのだ(佐佐木信綱『日本歌学史』(1910年、博文館)、409頁)。これは、基本的に柳田国男の見解と大きくは離れていないようだ。

*6:稲垣栄洋は次のように書いている(「草食系?戦国武将はなぜ「玄米と味噌中心の食事」で戦い続けられたのか」https://bizspa.jp/post-606527/2/ )。

イネの種子はこのデンプンを分解し、ブドウ糖にして発芽のエネルギーにする。人間も、米を食べたあとはデンプンを分解してブドウ糖にしなければならない。しかし、生米のままではデンプンの結合が固すぎて、容易に分解することができない。一方、デンプンに水を加えて加熱すると、アミロースやアミロペクチンの結合が崩れる。この現象をデンプンのα化と呼び、α化することによって消化されやすくなるのである。

 なお、稲垣は同記事で、

家康は全軍に「雨中であるが生米を食うな」「今よりただちに米を水に浸しておき、戌の刻(午後八時)になってよりそれを食うように」と指示をした。

というエピソードを紹介している。出典はおおそらく、『落穂集』であろう(例えば、成島司直等編ほか『徳川実紀』第壹編(経済雑誌社、1904年)、227頁を参照。)。

*7:藤田明史は大西巨人神聖喜劇』の有名な「『知りません』禁止、『忘れました』強制」について、次のように書いている(「大西巨人著『神聖喜劇』に見える非暴力抵抗の思想 ―平和学からの考察―」(https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001337424621696 ))。

東堂は、「『知りません』禁止、『忘れました』強制」という不文律の成立事情を次のように推理する。まず、刑法学上の「責任阻却」という考え方―「違法行為者も特定事由の下では(その責任が阻却せられて)刑法的非難を加えられることがない」―を利用し、「あの不文法または慣習法を支えているのは、下級者にたいして上級者の責任は必ず常に阻却せられていなければならない、という論理ではないのか」と考える。なぜなら、「もしも上級者が下級者の『知りません』を容認するならば、下級者にたいする上級者の知らしめなかった責任がそこに姿を現わすであろう。しかし、『忘れました』は、ひとえに下級者の非、下級者の責任であって、そこには下級者にたいする上級者の責任(上級者の非)は出て来ない」からである。 (引用者略) 下級者にたいして上級者の責任が必ず常に阻却せられるべきことを根本性格とするこの長大な角錐状階級系統(W からさらに上へむかって V、U、T、S、R、Q、P、……)の絶頂には、『朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。』の唯一者天皇が、見出される。」―こうした考えに至って、彼は「ある空漠たる恐怖」に捕らえられる。

 『神聖喜劇』における「『知りません』禁止」と、柳田における「分りません」禁止とに共通する点は、下級者にたいする上級者責任を明らかにする点であろう。「分りません」と述べることは、行為遂行的に、相手方の責任を露出させることでもあるのだ。

面倒臭い論争になることを避け、「行政」の論理を取り込んでいく政権運営は、「政治」の放棄 -野口雅弘『忖度と官僚制の政治学』を読む-

 野口雅弘『忖度と官僚制の政治学』を読んだ。

 内容は紹介文の通り

中立的なものこそ政治的である。現代を読み解くための政治思想。なぜ文書は改ざんされたのか。なぜ官僚は忖度するのか。官僚制をめぐる問題とその背景を、たんなる時事問題としてではなく、日本の空気や感情論としてでもなく、政治学の問いとして考える。ウェーバー、シュミット、アーレント、キルヒハイマー、ハーバーマス、グレーバーを深く「読み」、いま「使う」ために。

という内容。

 中立を装って対話(対論)を回避しようとする現代日本政治の様相が鋭く指摘されていて面白い。

 以下、特に面白かったところだけ。

ウェーバー曰く、合理性は複数ある

 さまざまな観点における「複数の合理性・合理化を論じている」 (196頁)

 ウェーバーは、経済的合理性のような理解しやすい合理性だけでなく、「儒教的な合理主義」や「神秘的瞑想の合理化」などの表現をすら使っている。*1

 普遍性への関心と複数の合理性論とが矛盾せずに結びついているのが、ウェーバーというひとなのである。
 彼において、「合理性」という言葉は、けっこう緩い意味で使用される。
 ある合理性の基準からすれば合理的であっても、別の基準からは非合理なこともある、とウェーバーは指摘するのだ。*2

めんどくさい論争を放棄した果ての腐敗

 面倒臭い論争になることを避け、「行政」の論理を取り込んでいく政権運営は、上手いやり方ではあるが、「政治」の放棄でもある。 (260頁)

 なぜ、福島原発事故を経ても、原発の是非をめぐる議論が、国会の中心的討論のテーマにならないのか。

 なぜ、沖縄米軍基地の問題は、「手続き」上の争いにされ、「粛々と」解決されていくのか。

 模範解答はなくても、また、一義的なコンセンサスにたどり着けずかえって「混乱」や「迷走」をもたらすだけに終わることがあったとしても、面倒な論争になることを避ける「行政」的な政権運営は、上手いやり方ではあるが、「政治」の放棄でもある。*3 *4

 もっといえば、社会の劣化を招くであろう。

 面倒ごとを後回しにするか、弱い立場の者に押し付けているだけなのだから。

 

 また、著者は、「中立的」とされるふるまいには、しばしば強度の「政治性」がつきまとっている、とも述べる。*5
 なぜなら、当該案件の是非をめぐる論争が、封印されるからである。
 これは行政を「粛々と」進めたい側にとって都合のいい言葉であろう。

「決められない政治」恐怖症

 「決められない政治」への恐怖とそれに対する過剰な防衛反応という点で、現在とつながっている。 (204頁)

 例えば日本の民主党政権時代と、ワイマール共和国、この二つは全く異なる時代と場所である。
 だが、決して無縁というわけではなく、「決められない政治」への恐怖とそれに対する過剰な防衛反応という点において、つながっている。*6 *7

 この点一つをとってみても、カール・シュミットの思想がいまだにアクチュアルなのが理解できる。*8

 

(未完)

*1:ウェーバーの議論において、例えば「儒教の合理性」はどのように扱われているか。大束貢生ほか「宗教倫理と資本主義」は、次のように論じている。

儒教は来世での永遠の救済の思想を持たない。 従って儒教の倫理はあるがままの現世を肯定し、現世での長寿と富,人間としての内面的平安,社会の秩序安定と繁栄を目指していた。 儒教の倫理では宇宙の秩序を人間の秩序とするために、徳の追求が信者集団に重んじられた。 信者集団には徳が実践されていた古代の文献を読解し,知識や教養を身につけ, 徳をその時代において実現するために官職に就くことが重要視されていた。 このように徳による世界の体系化が儒教の合理性である

ところで,前述したようにカルヴィニズムだけではなく儒教の倫理にも合理性がみられた。 しかし両者の合理性は異なった意味を持つ。 カルヴィニズムでは合理性は世俗の合理的な支配を意味する。 それとは対照的に儒教の合理性は世俗への合理的な適応を意味する

参照されているのは、ウェーバーの『儒教道教』である。

*2:箭内任は、本書書評で次のように書いている(「書評 : 『忖度と官僚制の政治学』」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174733290368 )。

周知のように、アイヒマンに見られた悪の陳腐さとは、それが彼の「無思想性(thoughtlessness)」にあるとするものだったが、これを野口は平板で浅薄な単一遠近法的な合理性であるとし、それがかえってなし崩し的に悪を巨大化させていくと言う。

*3:ブログ・「西東京日記 IN はてな」は、本書書評において、政治家と官僚の説明責任の違いについて次のように書いている(https://morningrain.hatenablog.com/entry/2019/02/19/230028 )。

本来、政治家と官僚のアカウンタビリティは違います。「なるべく恣意性をなくそうとし、党派性を避けて中立を強調することで説明責任を果たそうとする官僚のアカウンタビリティと、どうしても避けられない価値をめぐる抗争を引き受けたうえで、なぜ自分がその党派的な立場を選ぶのかについて釈明しなければならない政治家の責任とは区別されるべき」(241p)です。 / しかし、実際には政治家も官僚的なアカウンタビリティでもって自らの説明責任を果たそうとする傾向が強く、政治的な決断の領域は狭まっています。

*4:佐藤史郎は次のように述べている(「なぜ位相角なのか」https://www.hou-bun.com/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-03978-1 *注番号を削除して引用を行った。)。

押村高は次のように説明している。たとえば,日米同盟と沖縄の米軍基地を重視する日本の現実主義は,「現実的な代替オプションを探し求めることではなく,その非現実性を暴き,それを空想する観念論者を叩くこと」に,その存在理由がある。これは,ヨーロッパの古典的な現実主義の哲学,すなわち「『オプションを能う限り多く持っておくこと』を目指し,プルーデンス(prudence=深慮遠謀)で最善のものを選び取る戦略として描くこと」をしない。 (引用者中略) この点,丸山眞男のいう「可能性の束」という概念を想起せざるをえない。丸山は,政治的な選択と判断を行う際に,現実を「可能性の束」としてみる重要性を指摘する。すなわち,「現実というものを固定した,でき上ったものとして見ないで,その中にあるいろいろな可能性のうち,どの可能性を伸ばしていくか,あるいはどの可能性を矯めていくか,そういうことを政治の理想なり,目標なりに,関係づけていく考え方,これが政治的な思考法の 1 つの重要なモメントとみられる」と述べている。

ここで述べられていることは、本書(野口著)で言う「政治」(と「行政」との関係)を考える上で、大変重要な事柄と思われる。

*5:著者(野口)は、次のようにも述べている(「「政治的に中立でいたい」時代の「政治的なもの」-マンハイム・シュミット・丸山-」http://www.seikatsuken.or.jp/cgi-local/database/search.cgi?cname=%E9%87%8E%E5%8F%A3%E9%9B%85%E5%BC%98&keyword=&category=&num=&x=0&y=0 )。

「あいトリ」の展示は「政治的中立性」の原則に反するが、 国立大学などの教育機関に中曽根元首相の葬儀に際して弔意を示すことを求めるのは「政治的中立性」に反しないというとき、その判定基準はあまりに恣意的である。 そして恣意的な空間はいつでも、 決定権を持つ側の人のために存在する。対立を避け、政治的な党派性を回避し、なるべく「政治的に中立でいたい」という気持ちは、 「政治的中立性」という殺し文句を用いたパワー・ゲームに巻き込まれ、一方の都合がよいように使われる。そこで中立にとどまろうとすればするほど、それは政治的に中立ではない意味を持ってしまう。他者を尊重し、他者を傷つけないようにしたいという気持ちが政治的に濫用される。

中立性とは、党派性に対する逃避ではなく、あらゆる特定の党派的利益に妥協せず、中立とは何かを常に追求し続けることで、かろうじて成立するものだ、と理解すべきであろう。

*6:著者(野口)は、「決められない政治」という語に近しいであろう「政治空白」なる言葉について、次のように言及している(「比例代表制をめぐるウェーバーとケルゼン : 「政治空白」という用語について」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390854717687303552 )。

しかし、連立の条件をめぐる各党の会談の一つ一つをメディアが報道し、それをめぐって政党間の違いや争点が明確化され、そのうえで「妥協」が可視化されていくプロセスは政治的に「空白」なのだろうか。「政治空白」という用語を用いるときに想定されている、「空白ではない政治」というのが、いったん形成された多数派が粛々と決められたことを進めていく「均質な時間」を指すのであれば、その方がはるかに「非政治的」ではないか。/ケルゼンのように比較的長い時間をかけた「妥協」形成を肯定する立場からすれば、こうした「政治空白」は比例代表制の機能不全としてではなく、むしろ肯定的に理解されることになる。 (引用者略) 「政治空白」という(日本の)政界用語の使用は多くの場合、こうしたプロセスに対する否定的な評価を前提にしている。しかし、問われなければならないのはその評価基準自体である。

こうしたネガティブにばかりみなされる現象が、時には、むしろ熟議という語と親和的なものとしてもとらえうるであろう。

*7: 「決められない政治」の早い事例は、おそらく1990年代にまでさかのぼるであろう。以下、田島平伸「「地方分権自治体連合」辻山幸宣」の77頁から引用する。

たとえば小沢一郎新生党代表幹事は「何も決められない政治」体制を打破し,政治リーダーシップの回復を目指すために,「国家全体として必要不可欠な権限以外はすべて地方に移し,地方の自主性を尊重する」(『日本改造計画講談社)と主張した。

実際のところ、『日本改造計画』(講談社、1993年)において、「何も決められない政治」とされているのは、「対外的な政策」である(同書40頁)。おもうに、「決められない政治」という言葉は、無色透明なものではない。「決められない政治」という言葉はそれが躍り出た当初から、新自由主義的な言葉(例えば「構造改革」といった言葉)と親和的な存在と思われるのだ。

 なお、小沢一郎の問題については、豊永郁子「小沢一郎論 -前衛主義と責任倫理のあいだ」の上と下(https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677486184832https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677438029184 )を参照。

*8: これは何度も書いていることであるが、永井荷風でさえ、『断腸亭日乗』昭和6年11月10日に、

今秋満州事変起りて以来此の如き不穏の風説到処に盛なり、真相の如何は固より知難し、然れどもつらつら思ふに、今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは盖武断政治を措きて他に道なし、今の世に於て武断専制の政治は永続すべきものにあらず、されど旧弊を一掃し人心を覚醒せしむるには大に効果あるべし

と書いているのである。彼のような決して軍寄りでない知識人でさえ、このような「決められ"る"政治」に引きずられたことを書き記している。もちろん荷風の場合、政党の「腐敗」という点に力点が置かれているところは異なるが。

 荷風は、基本的に政党政治の「腐敗」について厳しく書いている。

震災後わが現代の社会を見るに其の表面のみ纔に小康を保つに過ぎず、政府の威信は政党政治のために全く地に堕ち、公明正大の言論は曾て行はれたることなく暴行常に勝利を博するなり、当今の世は幕府瓦解の時代と殆ど異ることなきが如し、乱世に在つて身を全くするは名心を棄て跡を晦ますより外に道なし (昭和3年4月10日)

日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり。政党の腐敗も軍人の暴行も之を要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり。個人の覚醒せざるがために起ることなり。然り而して個人の覚醒は将来に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。 (昭和11年2月14日)

というふうである。
 (以上、「『摘々録 断腸亭日乗』」http://hgonzaemon.g1.xrea.com/dannchoutei.html から引用を行った。)
 ここでいう腐敗とは、例えば、1930年4月の、犬養毅(政友会総裁)が統帥権干犯と当時の立政党内閣を攻撃したこと、1931年2月の、衆議院予算委員会で、政友・民政両党の代議士と両党の院外団が乱闘、流血沙汰となったことなどの「泥仕合」を指すものであろう。

 前者については、「東京朝日新聞では、「醜態さらした政友会は正道に還れ」というタイトルの記事(昭和5年9月18日)で、政友会が自ら政党政治の首を絞めたことを激しく非難し」、後者については「3月26日の東京朝日は『第五九議会の最大の収穫は、あるひは多数党の無力と議会の暴力化による議会政治否認を国民に強く印象づけた事であるかも知れない』と述べ」る(おのおの、ブログ・「にきみたまの道 日本史探訪」http://gendaishi.jugem.jp/?eid=50 、及び、古屋哲夫「第五九回帝国議会 衆議院解説」https://furuyatetuo.com/bunken/b/33_59syugiin.html から引用を行った。)。

 もっと週刊誌沙汰のものであれば、「五私鉄疑獄事件」(小川平吉)をはじめ、「越後鉄道疑獄事件」(小橋一太)、「売勲事件」(天岡直嘉)、「田中大将事件」(田中義一)など数多い。

 以上、あまり書く機会のないことだったので、あえてここに書いた次第である。

ワイキキにタロイモ水田が広がっていた時代(あとはハワイ音楽について) - 山中速人『ハワイ』を読む-

  山中速人『ハワイ』を読んだ。

内容は紹介文の通り、

日本人のパラダイス、ワイキキだけがハワイではない。米国本土よりも成功しているとされるユニークな多民族社会、ゴルフ場やホテル開発で圧迫されながらも、沈黙を破って発言し始めた先住民、個性的で美しい島々、軍事戦略の中で重要な役割を担ってきた基地…。ハワイなんて、と決め込んでいる人の見方も突き崩すガイドブックの誕生。

というもの。

 1993年の本だが、内容はいまだに古びていない。

 以下、特に面白かったところだけ。

 

ハワイの中のポルトガル系の人々

 ウクレレは、ポルトガル系移民が持ち込んだものだ (58頁)

 砂糖キビ農園において労働者を監視するルナと呼ばれる白人監督として、ポルトガル系の移民はハワイの社会に定着し、ハワイで成功を収めた移民集団となった。*1
 ウクレレの出自について知っている人は多いが、そんな彼らが移民として主にどんな職業についていたかについて、意識している人は思いのほか少ないのではないか。*2 *3

 

ワイキキにあったタロイモ水田

先住民たちは、ここに養魚池を築き、タロイモの水田を開いていた (95頁)

 ワイキキは、14世紀後半オアフ島 を統治していたマイリクアカヒ王が王座を置いたところである。

 ワイキキはもともと沼地であり、ワイが「水」、キキが「湧き出る」、を指すという。

 先住民たちの利用法は主に、養魚池や、タロイモの水田であった。

 18世紀末には、栽培地では、タロイモやヤムイモだけでなく、サツマイモなども栽培していたという。

 当時からワイキキは太平洋有数の景勝地でもあったが、養魚池とタロイモ水田とも共存していたのである。*4

 だが、白人との接触によって伝染病が拡散、先住民の人口が急激に減少、タロイモ水田や養魚池への利用は衰退し、19世紀後半には、アジア系住民が農業(稲作など)・水産業をワイキキで行うようになる。

 その後、ハワイの新しい統治者として登場した白人資本家たちは、観光を重視するようになる。

 その際、水田や養魚池は、観光において大きなネックとなった。

 「別荘や住宅街からの生活排水が水田や養魚池の水質を汚染し始めると、蚊問題に加えて、環境・衛生の悪化が社会問題化するようになった」ためである。

 結果、「ワイキキ地区埋め立て・運河浚渫計画」が実行される。

 その際、「環境悪化の元凶と見なされた農漁民からは埋め立てにかかる費用として土地利用権が取り上げられ、観光開発をもくろむ白人資本家たちに再販売された」。*5 *6

 ひでえ話だな。

ハワイ音楽の20世紀的起源

 実はこのような観光客相手のバンドから生まれた (108頁)

 例えば、ヴォーカルでは、ジャズの歌唱法を真似てファルセットで歌う技術、あるいは、スティール・ギターのようなハワイアン特有と思われている演奏法などである。*7 *8

 これらは、ハワイでの観光客向けバンドの中から生まれたものだと著者は述べる。

 少なくとも、ハワイアン音楽の流行においては、こうしたバンドの存在が大きく貢献していたことは間違いない。

 

(未完)

*1:ルナの存在とは、プランテーションの労働者にとってどのようなものであったか。篠田左多江は次のように書いている(「ホレホレ節にみるハワイ日本人移民の生活」 )。

労働者の1日は、 朝4時半にはじまる。 朝食を食べ、 弁当を作り、身支度をして番号札を首にかけ、 5時45分に工場に集合、 ルナ (監督)に従ってプランテーション内を走る列車に乗って畑へ向かう。 仕事は6時にはじまる。 11時半から30分が食事のための休憩で、持参した弁当を食べる。 12時から仕事を再開、午後4時半にパウ・ハナ (pau hana 仕事終了)となり、 再び列車で帰宅する。 立ったままでの1日10時間労働、 しかもキビの葉にはトゲがあり、どんなに防備しても手にささる。 キビは成長すると2メートル以上の高さになり、 畝と畝の間は風通しが悪いため、たいへんな暑さであった。 ノロノロしていると馬に乗ってやってくる監督の怒号がとんだ。 ボーシは英語でボス (boss) のこと、 ルナは労働者40人にひとりの割合でついており、ポルトガル人またはドイツ人が多かった。 のちには日本人のルナもいた。

*2:ウクレレの創始は、通常、次のように語られている(「Ukulele Picnic in Hawaii Official Website」の記事より引用:https://www.ukulelepicnicinhawaii.org/about_history.html )。

当時ハワイ王国はサトウキビ畑の労働力として世界各国からの移民を受け入れていた。ポルトガルもそのひとつ。/1878年マデイラ島の港から419人のポルトガル移民を乗せて出航した船の中にはマニュエル・ヌネスとオーガスト・ディアス、ホセ・ド・エスピリト・サントという3人の職人がいた。/翌年(1879年)8月、長い航海の果てにハワイに到着した彼らはすぐに店を開き、ハワイの木材、コアを使ってブラギーニャという故郷の楽器を作り始めることにしたのだ。それが今日までハワイの楽器として親しまれているウクレレの始まりだといわれている。

もちろん、彼ら三人は、べつだんルナ (監督)だったというわけではない。

*3:なお、ウクレレ創始者の一人であるマニュエル・ヌネスについて、ビル・タピアは、

ヌネスは気難しい人で有名だったし、子供たちが自分の敷地に入って来ないように細工していたほどだった。

と回想している(「Musician’s Talk ビル・タピア」http://www.kamakaukulelejp.com/talk/bill_tapia1.php )。

*4:1890年ごろのワイキキの姿(本書掲載)を、以下のサイトで見ることが出来る(https://nynokaze.exblog.jp/16190840/ )。

*5:この項目については、著者速水による「観光ハワイの誕生~ワイキキの一世紀~」http://www.asahi-net.or.jp/~cr1h-ymnk/01-8-2.html を参照・引用した。

*6:水谷裕佳は、「ワイキキでもかつてはタロイモが生産されていたが、畑は開発に伴って姿を消した。」と書いている(「地理的境界と展示活動 : ワイキキ水族館における環境と文化の展示を事例として」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224795949440 *註番号を削除して引用を行った)。

*7:ブログ・「MATTのひとりごと」は、スティール・ギターの起源について、次のように述べている(「ハワイアン・ギター」https://blog.goo.ne.jp/goomatt/e/6d337f800ca14050e1231d044005b6d9 )。

(引用者注:ジョセフ・ケククが) それまで弾いていたギターを膝の上に載せていたときに、市街電車の線路を歩いていて拾ったボルトを偶然弦の上に落としたところ今まで聴いたことのない音(グライドドーンのことでしょうか)が出たので、それを追求して行ってスチール・ギターとなった、という伝説を聞いたことがあります。 / しかしながら (引用者略) 1885年、彼が11歳のときにギターの上に「何か」を滑らせた際に発生した音に興味を持ってスチール誕生に至ったのは確かのようですが、「線路で拾ったボルト」ではない可能性があります。 (引用者略) いずれにしても1885年ということは「市街電車」の登場する16年も前のことです、もしかしたら市街電車が登場する前に運行されていた市街馬車?の線路から拾ったのかもしれませんが・・・。もっとも線路に犬釘やボルトが落ちているというのは「安全運行上」穏やかではないですね。

ティール・ギターの起源として一般に伝承されている内容について、このように疑問点があることを述べている。実際、同ブログの紹介する「Hawaiian Hall of Fame Museum」(https://www.hawaiimusicmuseum.org/honorees/1995/kekuku.html )の説明、

At 15, he amazed his schoolmates at The Kamehameha School for Boys in Honolulu, with the "sweet sounds" he produced running a hair comb or tumbler across the guitar strings. In the school shop, Kekuku developed the smooth, steel playing bar used today, and raised the guitar frets so that the bar would glide easily across the strings. He also switched from gut to wire strings for more sustained notes, and designed individual finger picks for the opposing hand

のほうが、より信ぴょう性はあるだろう。

 ともあれ、ジョセフ・ケククは、その後バンドを組み、スティール・ギターを広めていく人物の一人となる。ケククは1904年に米本土各地に渡って、演奏して廻っている。ハワイアン音楽を大いに知らしめるきっかけとなった、1915年のパナマ太平洋万国博覧会においても、ケククは、他のバンド同様、スティール・ギターを演奏している。

 また、ウェブサイト・「"Hawaiian" Guitar: A History」によると、ケククの弟子が、同じく1915年にスティールギターの教則本を出しているという(以下、http://www.gansz.org/HawaiianWeb/Hawaiian6.htm )。

*8:追記しておくと、ケククの奏法が一般に普及する過程は、1923~24年の現地調査で、民族音楽者であるヘレン・H・ロバーツによって明らかにされている(内﨑以佐美『ハワイ音楽』(大阪大学出版会、2007年)、154頁)。なお、内崎によると、西欧との接触前のハワイの声楽でファルセットが存在した可能性については、現在までの研究でも不明だという(同344頁)。

「仁徳天皇陵古墳」という呼称を学者側が正当化する異常事態に抗して -高木博志「文化財と政治の近現代」を読む-

 高木博志「文化財と政治の近現代」(岩城卓二、及び、高木博志編『博物館と文化財の危機』収録)を読んだ。

 『博物館と文化財の危機』の中身については、紹介文の通り、

稼げない博物館は存在意義がないのか?/民主主義の根幹でもある博物館、人類の貴重な財産でもある文化財。/それがいま研究や歴史の蓄積が損なわれ、現場から悲鳴があがっている。/手遅れになる前に博物館のあるべき未来を提言する

というもの。

 他の論文も読みごたえがあるが、あえて高木論稿のみを今回は扱う。

文化財」の語が躍り出たのは

 対抗して、日本軍が「文化財」という概念を生み出した (180頁)

 大正期から、新カント派哲学の概念・Kulturgutの訳語として、文化財は登場した。

 この時には、政治や経済や文化などの全体を指す概念だった。*1

 今の文化遺産の意味で広く使われるようになったのは、1937年の日中戦争開始とともに、北京故宮博物院の南京への文物疎開の際、日本軍が南京から「文物・故物」を略奪した事件の時である。

 「文物」という中華世界の概念に対抗して、その概念が生まれたのだという。

宸翰の戦前と戦後

 戦後も解除せず連続するものも多い。 (181頁)

 紀元二千六百年記念事業をきっかけとする天皇の宸翰(1940年書籍典籍指定、1944年古文書指定)の旧国宝の指定は、戦後も解除せず、連続するものも多い。

 本書には出てこないが、その例としては、1940年に旧国宝指定された、「紙本墨書後小松天皇宸翰御消息(七月廿五日)」(出光美術館所蔵。以下、すべて現在の所蔵を表記。)や、「金泥絵料紙墨書孝明天皇宸翰御製」(陽明文庫所蔵)などがそれにあたるだろうか。*2

 傑作として名高い、「紙本墨書伏見天皇宸翰御願文(正和二年二月九日)」(京都国立博物館所蔵)も、同じく1940年に旧国宝指定されている。

学者の「忖度」

 宮内庁への「忖度」に過ぎないのだ。 (185)

 白石太一郎(学者側)は「宮内庁が乗ってくるギリギリの線」と述べ、「仁徳天皇陵古墳」という呼称を正当化していた。*3

 ところが、実際には、宮内庁側からは、「仁徳天皇陵古墳」という呼称について、なんら意見表明をしていなかった(2019年にそのことが発覚した)。

 学者側の述べていたことは、事実ではなかったのである。

 実際には、その呼称を以って世界遺産登録を推進する学者たちの「忖度」だったのである。

 

(未完)

*1:例えば、野崎泰秀『小さい社会学』(広文堂、大正15年)は、学問や、芸術、道徳、宗教、法律、経済などを総称して文化財と、定義している(131、132頁)。

*2:ちなみに、旧国宝の中には、北朝側の宸翰も存在する。例えば、「紙本墨書後光厳院宸翰御消息(三月七日)」(1939年)や「紙本墨書光厳院宸翰御消息(一通)」(1943年)などである。少なくとも、旧国宝においては、北朝側の天皇もないがしろにはされていなかったようである。

*3:MBSは、2022年に次のように報じている(「"仁徳天皇の墓"とされる『大山古墳』...しかし出土品や没年などから「仁徳天皇の墓ではない」と専門家の間で論争が 一体誰の墓なのか?」https://www.mbs.jp/news/feature/kodawari/article/2022/02/087794.shtml  )。

大山古墳の復元模型を展示する大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、古い文献の記述などから「大山古墳は仁徳天皇の墓」だと主張する1人です。 / 「宮内庁仁徳天皇陵として祭祀を行い、管理を行っておられますが、おそらくそれは正しいのではないかと。古事記日本書紀にも、仁徳天皇陵は和泉の国の百舌鳥にあって、『百舌鳥耳原中陵』と。百舌鳥古墳群には中陵・南陵・北陵などがあるのですけれども、その相対的な位置が大体分かるわけで。そういうものから考証して、これは仁徳天皇陵に間違いないだろうと」 / 8世紀に編纂された日本書紀などに「大山古墳が仁徳天皇の墓」と書かれているというのです。

報道の切り取りの可能性も否定できないが、この発言が史料批判に徹していない発言であることはおよそ明白であろう。

 およそ切り取りの可能性がないことは、以下のツイートを参照のこと(https://twitter.com/discusao/status/1146361546223677441 )。

鬼子母神の持物は、もしかしたらマンゴーなのかもしれない、という話。 - 南方熊楠『南方随筆』・『続南方随筆』を読む-

 南方熊楠『南方随筆』・『続南方随筆』を読んだ。

 南方熊楠に関して説明はおそらく不要であろう。

 二つの随筆は、1926年に岡書房から出た、数少ない生前刊行のものである。

 (さらに『南方閑話』も同年に出ているが、今回はこちらは扱わない。)

 以下、特に面白かったところだけ。*1

臭いで鬼神も近づかない?

 『甲陽軍鑑』に、武田信玄毎に軍謀を厠中に運らせしとあるごとく、秘処ではあり、かつ臭穢にして本主神外の鬼神忌みて近づかざるより、密法を修むるに便とせしならん。 南方随筆「厠神」99頁

 熊楠はインド・中国における厠の中で秘法を行う事例をあげ、日本での事例を述べようとする中で、「武田信玄つねに軍謀を厠中に運らせしとある」と、『甲陽軍鑑』の内容に言及している。*2

 秘所である厠には臭穢を理由に鬼神も忌んで近づかない、なので、「密法を修むる」ような場合でも厠は「便とせしならん」と熊楠は考察している。

血天井の正体

 兎に角、これらの説明で所謂血天井の原因は分かった (南方随筆「幽霊の手足印」328頁)

 熊楠が老大工に話を聞くところによると、血天井の正体が手足の脂だというのは事実だろうという。

 下から手で板を押さえて釘を打つ時に手形がつく。

 当初は見えなくても、風あたりの激しい天井板だと、脂が付いた部分はあまり削られないので手のかたちが残るのだと。

 そもそも、幽霊なら足はないはずなので、血の足形型はつくはずがないだろうと。*3

 そりゃそうだ。 

炒豆を埋めれば芽は出ない

 まるで詐欺其儘な立願だ。 (南方随筆「紀州俗伝」362頁)

 和歌山・田辺で歯痛を病む人は、法輪寺という禅寺の入口の六地蔵の石像に願を立て、その前に豆を埋めおくと、豆が芽を出さぬうちは歯が痛まない。

 そこで芽が決して出ないように、炒豆(いりまめ)を埋め立願するのだという。

 これなら確かに歯は痛まない。

 なお、炒豆と治癒祈願との話自体は、日本各地に見られるらしい。*4

米蔵を、紙袋に入れる

 この大袋を御倉にかぶせ其中に積だ米をみな賜わる筈 (続南方随筆「少しばかりを乞うて広い地面を手に入れた話」226頁)

 『甲子夜話』に次のような話が載っているという。

 太閤秀吉が曽呂利新左という人物に、望みの物をやる、という。

 曽呂利は、紙袋一つに入るくらいの物をという。

 太閤はこれを許した。

 曽呂利が出仕しなくなって十日、太閤が使者に様子を見に行かせると、曽呂利はとても大きい紙袋を作っていた。

 この紙袋で米蔵を入れれば自分のものだという。

 太閤は、確かに紙袋一つだが、蔵一つの米は与えがたい、と笑ったという。*5 *6

鬼子母神の持ち物はマンゴー?

マンゴは誠に吉祥の果で、人に子を授け子供の寿命を守るが本誓なる鬼子母神に相応な持ち物と知る。 (続南方随筆「『郷土研究』一至三号を読む」271頁)

 熊楠は、鬼子母神が右手に持っている吉祥果というのは、ザクロだと考えていた。

 しかし、義浄訳『大孔雀呪王経』には、吉祥果について、ザクロに当てはまらない記述があった。

 そしてその記述に当てはまるのはマンゴーではないかというのである。

 実際、マンゴーが吉祥にふさわしい果物であることを、熊楠は次々と例を挙げて論じていく。*7

 現在の研究では、はたして吉祥果の実態は解明されているだろうか。

 

(未完)

*1:今回は、各随筆の1926年版の頁数に準拠している。また、読みやすくなるよう、一部漢字を平仮名にするなど表現を平易にして引用していることを予め断っておく。

*2:甲陽軍鑑』には次のような記述がみられる(以下、甲斐志料刊行会編『甲斐志料集成9』(甲斐志料刊行会、昭和9年)を参照した(273頁)。引用に際しては、旧字を改めるなど、一部読みやすくなるよう修正を行った。)。

信玄公は御用心の御ためやらん、御閑所を京間六帖敷になされ、たたみを敷、御風呂屋縁の下より、とひをかけ、御風呂屋の、けすいにて不浄をながす様にあそばし、香炉を置、則香箱に沈香をわり入、当番の奥衆二人づつ、朝と、ひると晩と定めて今の香炉に火を取、沈をくべたき申候。其上今一人の人、御意を得、状箱のふたにいづれの国郡と書付をみて、御意次第に持て御閑処に置候を、御覧じ分けらるる事、閑所において、実否を御分別成られるなり。

 熊楠が「軍謀」と述べるのは「今一人の人、御意を得、状箱のふたにいづれの国郡と書付をみて、御意次第に持て御閑処に置候を、御覧じ分けらるる事、閑所において、実否を御分別成られるなり」のあたりであろうか。

 ただし、信玄はお香を焚いているので、「臭穢」は幾分か期待しにくいようにも思われる。

 なお、今福匡

伊達政宗も「閑所」を京間一間四方、内に三階の棚あり、棚の上には硯・料紙・簡板・香爐、其外刀掛万ず結構にて、閑所に入給ふには、朝晩共に焼物(香を炊く意か)なり。(政宗記)とある。書斎の機能も備えたプライベートな空間だったと言えよう。やや時代をさかのぼるが、於閑所大工ニ太刀二振被下、退出、(看聞日記) 西雲招閑所暫閑談(看聞日記) といった記述がある。 閑所で大工に太刀を与えたり、客を招いておしゃべりしていたとか・・・それが、閑所の一機能である厠と結び付けられたのではないか。

と述べ、厠は閑所の一機能である旨を述べている(https://twitter.com/Tadashi_Imafuku/status/1501535762977755138 )。

*3:株式会社マルホンの記事・「手の跡が浮き出てくる?! ―“壁”“天井”パネル材の使用上の注意―【625 号】」(https://www.mokuzai.com/MailMagazine/16 )によると、

無塗装のパネル材を素手で施工すると、知らず知らずのうちに手の汗が付着し、時間が経つと手の跡が浮かび上がってくるという現象がおこる場合があります。施工直後ではなく、5~10年と長い年月を経てじわじわ浮き上がってくるため、不気味に感じる方もいらっしゃるかもしれません。/<原因> なぜこのようなことが起こるのか?主な原因は、経年変化によるものです。木材は光(特に波長の長い紫外線)の影響を受け、木材の構成成分であるリグニンや抽出成分が分解され、材面の色合いが変化します。木材を直に手で触れると油分が付着し、その部分だけ経年変化のスピードが異なり、時間の経過につれて手の跡が、徐々に浮かび上がってしまいます。/ また、この原因に加えて人間の汗の中に含まれている様々な成分の酸化も起因します。酸化というと難しく聞こえますが、衣服に付着する皮脂汚れと同じ原理です。

*4:松本重男「調査・試験研究 日本豆類外史・余録帳(15)豆類に関わる故事・俚諺・俗信の数々を拾い読む(その2)」は

歯痛に橋の滸に大豆を蒔くとよい (秋田縣仙北郡角館町)  「因に煎豆を病気の折神仏の境内に埋める習俗は汎い」

といった、炒豆と虫歯(に限らず病気全般)との関連事例を紹介している(https://www.mame.or.jp/library/zihou/genre.html?keyword=%e6%97%a5%e6%9c%ac%e8%b1%86%e9%a1%9e%e5%a4%96%e5%8f%b2%e3%83%bb%e4%bd%99%e9%8c%b2%e5%b8%b3&searchable=on&cmid=683 )。

*5: 寛文期ごろの「曾呂利狂歌咄」巻之一の冒頭には、「紙袋を米蔵にきせての狂歌」と言及がされている(出典は後述)。また、享保期ごろの近松門左衛門の「本朝三国志」には、曽呂利が紙袋を米蔵にかぶせた話が出てくる(近松門左衛門『本朝三国志』(住沢正新堂、1894年)、30頁。 )。このころにはすでに紙袋の説話が伝わっていたようである。

*6:歴史的人物としての曽呂利新左衛門について、宇澤俊記は次のように書いている(「 なにわ大坂をつくった100人  第25話 曽呂利新左衛門https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/025.html )。

近年、大阪城天守閣北川央館長らの研究で、公家・西洞院時慶の日記、『時慶記』の天正15年(1587)6月8日条に「ソロリ」の名前が出ていることが分かった。時慶が豊臣秀次の屋敷を訪ねたところ、「ソロリ」という者が現れ、愉快な話しや唐人の物まねをしたと記載されている。北川館長は「これまで曽呂利の初出とされてきた『きのふはけふの物語』〔寛永13年(1636)〕の記述と符合し、曽呂利は実在した」と話す。

*7:熊楠自身は論じていないが、鬼子母神とマンゴーには一応の関連があることは仏典にも書かれている。

 例えば、根本説一切有部毘奈耶雑事の第31には、鬼子母神の前世の物語が載っている。つまるところ、流産の復讐のために、「菴没羅果」(マンゴー)の実500個を独覚(僧侶)に供養し、来世にはすべての子供を餌食にする、と願ったのだという。

 鬼子母神とマンゴーのかかわりは仏典にも載っていた。

 以上の話は、『国訳大蔵経 : 昭和新纂 解説部 第1巻』(東方書院、1932年)の164頁に依った。

「植民地の文化指導は一体日本ほどにあたゝかい心で従つてゐる国があろうか」と宮本常一は書いた -さなだゆきたか『宮本常一の伝説』を読む-

 さなだゆきたか『宮本常一の伝説』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

経歴の空白、学校教育と父祖の教え、民俗学への歩み、同志同行派とともに、篤農協会と新自治協会、全共闘運動の渦中で、海から見た日本…。民俗学者宮本常一について、その人間観察に主眼を置き考察する。

というもの。
 宮本常一の「保守」派人脈とのつながりについて、必読の本である。

 以下、特に面白かったところだけ。

植民地支配と宮本常一

 植民地の文化指導は一体日本ほどにあたゝかい心で従つてゐる国があろうか (169頁)

 宮本「国語の力 二景」(1938年)の第二景、日本兵が中国の子供たちに日本語教えるという内容である。

 宮本は、今度の「大事業」を「そこに住む人々を少しでも明るくすること」という言葉をもって、よい側面に光を当てようとしている。
 彼は、台湾でも朝鮮でも南洋でも、あたたかい手を差し伸べてきたのだ、という。
 「手」とは具体的には、 「天皇の御人徳」のことであり、具体的には「日本語」のことである。
 そして、「支那」にもそうした手を差し伸べるべきなのだと。
 国民精神総動員運動(官制運動)の一環だったであろう、植民地下朝鮮の人々の日本語による万歳(中国の戦線へ向かう皇軍への見送り)も、宮本は、「心から」のものとして正当化している。*1

血生臭い「慎み深い心」

 その読み方はまことに主観的で (182頁)

 宮本の「飛騨紀行」(1938年)にあるくだりである。

 宮本常一は、ラフカディオ・ハーン「叶へる願」を参照して*2、ハーンは日本の民衆の「平静」であること、「慎み深い心」に「驚嘆」している、と述べている。

 だが、ハーンは同じく「叶へる願」において、日本の兵士が出陣を拒否されて自殺したものが多数いたなどの「奇妙な実例」についても言及している。

 具体的には、戦勝のためには自死もいとわない姿、戦場に赴くためには娘をも殺害する姿、などである。

 ハーンにとっては、ずいぶんと血生臭い「慎み深い心」ではあったのである。*3

自力更生の救貧策

 自力更生の経済厚生運動が「挫折」した後に、宮本は改めて自力更生の救貧策を唱えている (195頁)

 宮本「救貧と村の組織」(1940年)に関する話題である。

 宮本はこの論文の中で、村落社会の「自力更生」(相互扶助)を柱とする救貧対策を提言している。*4 *5
 だが、著者はこの点について懐疑的である。
 例えば、大日本連合青年団は、8年前の1932年に、『農村実情調査報告書』を出していた。*6
 それによると、不況救済策として「自力更生」を支持したのは、調査地全国四百余り、農家戸数二万八千余りのうち、わずか1パーセント、「相互扶助」は1パーセント以下、「農村最大の悪弊」として挙げられたのは「共同精神、団結心の欠乏」がワースト・ワンだったという。
 もしこの全国農村青年によるこの調査に信頼を置くとすれば、宮本が各地を歩いて報告した「小共同社会」像は、全国農村の平均的実相を示していないのではないか、という疑問が浮かぶのである。*7

師・森信三の「反省」

 宮本は恩師がつみかさねたような真剣な努力はしなかったから、「大東亜戦」・「聖戦」という意識の底にすりこまれたイデオロギー性と対決する機会を自力で作り出すことができなかった (286頁)

 宮本の師にあたる森信三は、敗戦の責任を引き受け、戦争に対する反省を「わが過ち」を問うことから始めた。
 天孫を戴く「神国意識」が「選民意識」となり、その民族的な優越感が異民族への支配的意識として展開したというのだ。
 森は民族主義者として責任感から、「天皇退位論」にも言い及ぶ。*8
 一方、宮本は、そうした「わが過ち」を、師ほど問うことはなかった。
 たしかに、支配者の責任は問うたが、民衆側にもあるはずの戦争責任は、目立って問うことをしなかったのである。

 

(未完)

*1:本土における、皇軍見送りの実態に関して、『行橋市史』(行橋市デジタルアーカイブ)には次のようにある(https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/4021305100/4021305100100010/ht3074502010 )。

政府は、中国大陸での戦争遂行のため国内の戦時体制固めに躍起となり、同年八月、国民を戦争に向けて糾合させる「国民精神総動員実施要綱」を定めた。一〇月には「国民精神総動員中央連盟」が組織され、官民諸団体などが中心になって国民精神総動員を始め、国民の士気を鼓舞した。さらに翌一三年四月には、国民と物資を統制することのできる権限を政府に与えた国家総動員法が公布された。 (引用者略) 当初は神社参拝、戦勝祈願、勅語奉読、応召軍人や入営軍人の見送り、戦没者慰霊祭への参加などが主であったが、戦費を賄うために、貯蓄や公債の割り当て、一戸一品献納の推進が叫ばれると共に、農業生産増強、米麦の供出、食料の配給、廃品回収、防空訓練など、次第に戦時経済、協力運動への参加を強制された。

本土においてさえ実態はこのようであった。

*2:宮本の文には「叶へる願」であることは明記されていないが、その特徴からそう読み取ることができる点は、著者(さなだ)に同意できる。

*3:なお、ハーンが挙げる事例は、およそ裏付けの取れないものを多く含んでいる(と思われる)のだが、はっきりと同時代にも知られていたのは、可児大尉自死の事例である。可児大尉については、小林清親による浮世絵も存在する(https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=61120 )。そのくらいには当時、知られていたのである。

*4:ただし、宮本自身も、『周防大島を中心としたる海の生活誌』(1936年)において、「相互扶助制」と「親方子方制」について、「その長短もこの採集に際して考えられた」と述べており、短所のあることについてはいちおう自覚的だった(『宮本常一著作集 38』、未来社、1994年。27頁。)。

*5:宮本「救貧と村の組織」は、最終的に、岩手県新井田の事例(神社創設及び祭礼・神楽による信仰な結束、それによる共同基金の創設)を紹介している。宮本も本文中で言及しているが、地頭(川崎忠作)が率先して神社維持と祭礼との費用(田んぼ三反)を負担している点に注目する必要がある。指導者が率先して身銭を切っている。

*6:『農村実情調査報告書』は、そうした農村の「団結心の欠乏」について、現在の農民の無知に要因があり、それは「徳川幕府以来の不都合な農業政策」に由来するものだという。そのために、団結のための「社会的訓練」が足りていない、だからこそ、農村の再教育が必要だとしている(武田勉/編『農山漁村経済更生運動史資料集成 2』(柏書房、1985年)。46、47頁。)。こうした言説は、遡れば明治期に原型が発生し、一九三〇年代までにパターンとしてほぼ出揃ったものである。それは、松田宏一郎『江戸の知識から明治の政治へ』(ぺりかん社、二〇〇八年)の指摘する通りである(同書275頁)。「団結心の欠乏」を「徳川幕府以来の不都合な農業政策」が原因とする『報告書』の見解に関しては、吟味を要するであろう。

*7:念のため、引用部にある経済厚生運動について書いておく。
 楠本雅弘は次のように説明する(「戦後の農政と農村経済更生運動」http://www.nouchi.or.jp/GOURIKA/pdfFiles/etc/A03/A03_17.pdf )。
 「経済更生運動の展開経過は、 大きく3期に区分し」、昭和7~10年の第一期では、

しかしこの時期においては、 指定をうけた町村に対する国からの助成は、 更生計画樹立のための会議費等として1町村あたり100円のみであり、 まさに自力更生=精神作興の段階であった

 これが昭和11年からの第二期となると、

昭和11年度から実施された特別助成制度によって、 経済更生運動がなによりも農村民生安定=経済政策であるという性格を前面に押し出した

 この特別助成制度は、

選定の条件は次の4つである。/ア, 経済更生計画を樹立して1年以上経過した町村であること。/イ,町村民克く融和し、各種団体を整備し、協力一致計画の実行に努力しつつある町村であること。/ウ. 町村民の資力乏しく、 自力をもってしては経済更生計画中の重要事項を実行することができない町村であること。/エ.町村内に中心人物が存在すること。/全国約11,200町村のうち、 経済更生計画の指定をうけた町村は9,149、 そのうち特別助成の指定をうけたのは1,595町村であった。/特別助成の指定をうけた町村は、 平均 15,000円程度の補助金と同額程度の低利財政資金の融資をうけ、社会基盤投資を実施した。

 森武麿はこの政策を「重点的な財政投下」と評している(コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ)「農山漁村経済更生運動」の解説」 )。経済更生運動は、「選択と集中」のルートに移行したのである。
 そして、第三期(「昭和14~15年 戦時体制への再編・変質段階」(上掲楠本論文)において、経済更生運動は「挫折」に至ったのである。その特質は、森武麿の言葉で言えば、次のようになる(上掲・森)。

一時的・応急的な恐慌対策から、日中戦争後の総力戦体制に即応した農業生産力拡充対策となったのである。本運動を通して、国家―産業組合―農事実行組合―農民という農村の組織化が完成し、国家独占資本主義体制に照応する農業統制の仕組みが成立した。また町村末端の集落活用により、国民精神総動員運動、翼賛運動の先駆となり、ファシズム支配機構形成の起点となった。

まさに、「自力」すら振るえなくなる段階に至ったのである。

 以上、念のため書いておく。

*8:山田修平は、「森信三の『日本文化論』(2)」において、次のように書いている(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649326166016 )。

不本意で,非主体的な経緯で制定された憲法にしろ,結果として「われわれにとっては,むしろ明治以後天皇制が一種の擬似宗教化しようとしたその迷霧を吹き払って,民族本来の虚中心位に置かれる」ことになり,「民族のためにも,はたまた天皇御自身のためにも,むしろ喜ぶべきこと」

ただし次のようなくだりもある。

その上で,森が本書を執筆した戦後 20 年経た昭和 40 年時点で次のような警鐘を鳴らす.「建国記念日を,敗戦の記念日たる 8 月 15 日にすべしというが如き」,「第二の開国の教訓過剰のゆえに生じつつある『自卑』的態度より覚めて,新たな前進の一歩を踏み出すべき時期」である.

子規が愛した絵師・河村文鳳の話。それから子規が酒井抱一の俳句を嫌った理由。 -正岡子規『病牀六尺』を読む-

 正岡子規『病牀六尺』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

『墨汁一滴』に続いて、新聞『日本』 に連載(明三五・五・五―九・一七)し、死の二日前まで綴った日記的随筆。病臥生活にあってなお俳句を詠み、病状報告とともに時評・絵画論などを著し続けた。溢れる創造力と好奇心をもって、表現することに最期まで挑んだ子規の姿がここにある。

というもの。

 床に臥せりながらも表現をやめなかった人のすごみというものが、本書にはある。
 重い病を得た経験のある人は是非読んでおくべき一冊である。

 以下、特に面白かったところだけ。
 (以下、2022年改版の頁に依っている。)

酒井抱一の俳句を嫌った子規

 抱一の画、濃艶愛すべしといへども、俳句に至つては拙劣見るに堪へず (18頁) 

 絵は濃艶なのに賛は拙劣なので、不釣りだ、というのが、子規の酒井抱一に対する見方であった。
 もちろん、子規には、抱一の句を認められない文学的な理由があったのではあるが。*1

団欒と女子教育を求める明治期

 それは第一に一家の団欒といふ事の欠乏して居るのを見てもわかる。 (130頁)

 子規は家庭の教育が女子に必要だという。
 子供が他人に対して、辞誼をするというようなことから、来客に対する応接の方法まで、それらは、家庭での教育が肝要だという。
 特に女性は「最も大切なる一家の家庭」をつかさどっており、「一家の和楽」を失わないようにするには母親の教育がものをいう、という。
 だが、今までの日本では、一家の「和楽」が乏しいし、そもそも「一家の団欒」が欠乏している。
 「団欒」は家庭の教育が施される場でもあるのに、それではいけない、というのが子規の主張である。

 ここで子規が言う「教育」というのは、職業教育的なものではなく、マナー・社交・コミュニケーションの術であり、執事的な、つまり、家事の宰領を司る技能も入るだろう。*2
 なお、子規に言わせれば、「高等小学の教育」はいうまでもなく、可能なら「高等女学校位の程度の教育」が望ましいという。*3

子規が愛した絵師 -南岳と文鳳-

 南岳艸花画巻 (191頁)

 ネタバレになるといけないので、あまり多くは言わないが、子規は、渡辺南岳の絵が好きだった。
 現在、呉春や芦雪などに比べればあまり知名度の高くない南岳だが、いちおう応挙の十哲の一人である。
 「艸花画巻」への入れ込みようは相当のものである。*4
 ただし、子規には、そんな南岳よりもさらに価値を認めた画家がいた。
 河村文鳳である。
 広重と文鳳とあわせて「景色画の二大家」とすら述べている(50頁)。  
 しかし、文鳳について、世間でそれほど価値を認められていないのが気の毒だとも、のべている。*5

 

(未完)

*1: 井田太郎は次のように述べている(井田「研究発表 抱一筆「吉原月次風俗図」の背景」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224823126528 )

こういった江戸追懐趣味を持っている人以外には、抱一の句は難解で、批判の対象でした。たとえば、子規は「其角嵐雪は人事を写さんとして端無く倍屈聾牙に陥り或は人をして之を解するに苦ましむるに至る」(『俳人蕪村J⑨)で、其角の人事句の秀逸・難解性を指摘しました。「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。文学の標準は俳句の標準なり」(『俳諾大要J⑩)といった「美術」一一今日いうところの「芸術」-ーとして俳句を大衆化させようというプロパガンダは平易さを要請しました。子規に蕪村を称揚させ、其角を捨てさせたわけです。其角、其角を引用する抱ーとか、背景に膨大な文化的なコノテーションを機能させる発句は、子規にとっては、排除すべきであったと考えられます。余分と子規にけなされた抱ーの画賛が、画面を補完し、規定する装置として機能しているのは考察してきたとおりです。

子規の「革命」のためには、旧体制の、「革命」にそぐわない箇所は否定せざるを得なかったのである。

*2:ただし、子規は、公表を意図していなかった『仰臥漫録』において次のように述べている(以下、「春や昔 ~「坂の上の雲」のファンサイト~」の記事http://www.sakanouenokumo.com/byou6_3.htm からの孫引きで済ませておく。)。

例えば「団子が食ひたいな」と病人は連呼すれども彼はそれを聞きながら何とも感ぜぬ也。病人が食いたいといえば、もし同情のある者ならば直にて食わしむベし。律に限ってそんなことはかつて無し。故にもし食いたいと思うときは「団子買うて来い」と直接に命令せざるべからず。

子規が女性たちに求めた能力というのは、基本的に男女の主従、そして後者に前者に対するおよそ一方的な慮りを前提にした、そのような類のものであったようにも思う。
 ただし、すでに指摘されるところだが、妹の律は子規の意図を理解したうえで、あえて慮らない「抵抗」をしているようにも見える。「その理屈っぽいこと言語同断なり」と子規は書いているが、律はそうした「理屈」によって対抗したのだろうと思われるのだ。

*3:もちろん子規の女子教育の推進姿勢は、同時代的なものである。物部ひろみは次のように述べている(「戦間期ハワイにおける日系二世女子教育--日本語学校から料理講習会まで」https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009408782235264 )。

龍渓や,浅野の持っていたこのような教育論は,現在の我々の視点から見るとややもすれば女性を家庭内に閉じ込めることを奨励する「男尊女卑」的な意見に思える。しかし,これは,1900 年(明治32 年)に文部省が発布した高等女学校令の「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ,故二優美高尚ノ気風,温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス。」を反映したものだと言えよう。良妻賢母主義は,欧米列強の国々に倣って女子教育に力を入れることにより優秀な国民を育て,国力を増強させようとした明治政府の国策を支えた概念である。それは,「女性に教育は不要である」としたそれまでの一般概念を覆し,20 世紀以降の日本の女子教育の主流をつくった。

*4:この絵は現在、東京芸術大学所蔵である。以下のレファ協の頁を参照。https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000107299 

*5:大坂画壇は近代絵画史において、十分な評価を得られていなかった。例えば中谷伸生は、大阪画壇への過小評価について次のように述べている(「美術史学とは何か : 日本近世近代絵画と大坂画壇の再評価をめぐって」https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677888267264 )。 

天心やフェノロサらが高く評価した狩野芳崖や橋本雅芳らと彼らが評価しなかった狩野永岳、そしてまた、評価された円山応挙と評価されなかった西山芳園との作品に、一体どれほど大きな価値の差があるのか、われわれは今そのことを作品に即して問うべきであろう。天心らの評価が、ほぼ一世紀を経て今日まで続いたのは、むしろ驚きである。

これは当然大坂の文鳳にも当てはまることで、例えば、岡倉天心「日本美術史論」には、南岳は円山応挙の弟子として名前が出てくるが、文鳳は出てこない。文鳳の師・岸駒は批判的にせよ、名前が出てくるにもかかわらずである。以上、岡倉天心『日本美術史』(平凡社、2001年)参照。