2009-10-01から1ヶ月間の記事一覧

歴史学における「偶然」の問題 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(9)

■伊達千広『大勢三転考』、または歴史書をめぐって■ 第9章で山内は、歴史叙述について考察します。歴史叙述というものが、そもそも「国家」(狭義の政治的勢力)の存在を強く意識するところから出発している事実を語る山内は、「史書」(「史料」と区別され…

ヴァレリー・ラルボーにおける第三共和政のパリ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(8)

■コスモポリタニズムの不可能性と可能性■ 蓮實が行ったのは、究極のコスモポリタンの登場する小説を示すことでした。ヴァレリー・ラルボー『バルナブースの日記』の主人公は、ありえないような【セレブ】です。大変裕福な南米の家の出の彼は、親の遺産を相続…

【正しい】母国語?、【国家的】と【国際的】のあいだ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(7)

■第二帝政時代の「国家的」と「国際的」■ 第8章では、蓮實が、「国家的」・「国際的」の語彙に関する問題や、「コスモポリタニズム」の可能性と限界について考察しています。 まず蓮實は、フローベールの小説・『感情教育』において、「国家的 - national - …

共存のための寛容と「自尊心」、スミルナのオナシスについて 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(6)

■スミルナのオナシス■ 第7章では、山内が、大富豪として名をはせたアリストテレス・オナシスと、彼の出身地スミルナにおけるある出来事を取り上げています。オナシスは、アナトリア半島のスミルナ出身で、ギリシア系のひとでした。当時のスミルナは、オスマ…

エリア・カザンの「転向」と、メディア的批判 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(5)

■エリア・カザンの「転向」と、余裕の問題■ 第五章で山内は、先の50年代のアメリカ映画という話の続きとしてエリア・カザンを取り上げ、ギリシア系移民という彼の立場の弱さ(「ネイティブ」の人間に比べて移民出身者であることの寄る辺なさ)が、やがて転向…

赤狩りとアメリカ映画の死、及びアンソニー・マンの「西部劇」 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(4)

■赤狩りと、ハリウッドの黄昏■ 第4章では、第2章のその後を扱っています。第3章での中世スペインの言及に対して、蓮實は「20世紀の首都」崩壊以後の、スペイン・マドリッドへ焦点を当てます。 ロサンジェルスが「20世紀の首都」たりえたのは、30年代中期か…

いかがわしき都・コルドバと、エル・シッドの真実 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(3)

■「世界の首都」コルドバ■ 第三章で山内は、蓮實の挙げた1940年代のロサンジェルスに対して、諸民族はもちろん、イスラム教とキリスト教さえも如何わしく共存していたハイブリッドな10世紀から11世紀にかけての「大都市」コルドバを提示します。当時は、今と…

ベンヤミンと、批評家の【知的な賭け】 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(2)

■1940年代のロサンジェルスにおける豪華さ■ ヒッチコックやフリッツ・ラングのような監督や、グレタ・ガルボにマルレーネ・ディートリッヒなどの俳優は無論のこと、『春の祭典』のイーゴリ・ストラヴィンスキー、『三文オペラ』のカート・ワイル、『死刑執行…