いかがわしき都・コルドバと、エル・シッドの真実 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(3)

■「世界の首都」コルドバ
 第三章で山内は、蓮實の挙げた1940年代のロサンジェルスに対して、諸民族はもちろん、イスラム教とキリスト教さえも如何わしく共存していたハイブリッドな10世紀から11世紀にかけての「大都市」コルドバを提示します。当時は、今とは逆の立場で、ヨーロッパ側が、イスラームの習慣の放縦さ・官能主義を非難する時代でした
 最盛期の10世紀のコルドバは、その諸民族だけでなく、イスラームキリスト教が、ある種のいかがわしさを伴いながら共存しているという点で、1940年代ロサンジェルスを凌駕していることを語ります。アブド‐アッラフマーン3世、息子のハカム、宰相マンスールがその最盛期を支えていました。
 アブド‐アッラフマーン3世は、内憂外患を退け、アッバース朝に対抗する力を備えてカリフとして即位し、アフリカまで勢力を広げた名君でした。文化を保護し、ヨーロッパ諸国の留学生を迎え入れるなど、古代ギリシャの系統を引く、イスラームの文化とヨーロッパの文化を融合させた文化を醸成させ、コルドバを世界的大都市(後世の数字だが、当時では破格の30万の人口)にまで成長させたのが彼でした。
 息子のハカム2世は、優れた教養人で、巨大図書館を創設するなど、文化に力を入れた君主でした。そのさらに息子のヒシャーム2世の時代に、宰相マンスールこと、アル・マンスール・ビッ・ラーヒは、後ウマイヤ朝をその最大版図まで拡大させます。

■飲酒と同性愛/ 爛熟の都市コルドバ
 コルドバでは、後ウマイヤ朝滅亡のあとの小国分立と北アフリカ勢力の北上の以後も、さまざまな才能が生まれた場所となりました。11世紀の乱世において政治的流転を繰り返しつつ、神学、法学者、詩人等さまざまな才をもったイブン・ハズムもコルドバの名家出身でした。12世紀のアリストテレス註釈の巨人の一人であるアヴェロエスことイブン・ルシュドもコルドバ出身、宮廷の侍医でありユダヤ教神学者でもあり偉大なる哲学者でもあったマイモニデスもコルドバ出身です。
 では、そのコルドバでは、文化の爛熟の一方でどのような「退廃」があったのでしょうか。例えば、アラブの詩人であるイブン・シュハイドは、この都市のキリスト教会で痛飲したと著者は言います。当時イスラームの都であったこの場所でも、秘裏に酒の飲める場所があったのです。しかもそれが、よりにもよって異教徒の教会であったわけです。キリスト教徒たちは、ムスリムの「不道徳」に染まって、一夫多妻制を実践するものが現れました。
 またコルドバでは、先にも紹介したイブン・ハズムのように同性愛を楽しむ人もいたといいます(49頁)。イブン・ハズムは、「鳩の頸飾り」という作品において、少年愛を扱っています。このような混沌とした爛熟と退廃の都において、文化は大いに花開いたわけです。このような爛熟が、真面目で純粋さを求める原理主義的な思考の持ち主たちには、害あるものとして受け止められていたことも、無論わすれてはいけません。

■エル・シッドの実像と、中世イベリアのキリスト教徒■
 さて、イブン・ハズムは、祖父の代にコルドバに移り住んだムワッラドの子孫でした。ムワッラドとは、ここでは、イスラムに改宗したキリスト教徒を指します。当時のイベリア半島ムスリムキリスト教徒の関係は、単純に支配・被支配関係として図式化できるようなものではありませんでした。先にも述べたように、改宗した元キリスト教徒と、なおキリスト教徒である人との差異などが、存在していました。無論、当時のイベリア半島では地位の高かったユダヤ人や、奴隷として輸入されたベルベル人やスラブ人(彼らには官僚や軍人として活躍の道があった)も、忘れてはいけません。
 また、イスラーム勢力とキリスト教の勢力も、単純な対立をしていたのではなく、イスラーム勢力の側が傭兵部隊としてキリスト教の軍を雇うような事例もありました。宗教によって、体よく色分けして理解できるような関係ではなく、権謀術数の関係の中で、相互の勢力が時に協力し時に対立すると言う関係だったのです。アンダルス最大の詩人イブン・アンマールが、イスラーム諸国ばかりかキリスト教国家にも亡命客として受け入れられた事実(55頁)が、ここで想起されるべきです。
 かような観点を踏まえ、エル・シッド(エル・シド)の実像を考えましょう。エル・シッドは、11世紀のカスティーリャイベリア半島中央部にあった)の騎士です。君主に疎んじられながらも、あくまで王に忠実たらんとする人物、異教徒から国を守りスペインを統一しようとした英雄というイメージで知られています。
 しかし映画などから来るイメージと違い、実際のエル・シッドは約束を守らず、教会を略奪し、給与と戦利品にしか興味がなく、残酷な人物であったことを、ラインハルト・ドズィという人が19世紀にすでに実証しました。
 史実では、カステーリャの王による追放後、サラゴサムスリムの王に仕え、バルセロナ伯アラゴン王と戦っており、このころ、「シッド」の敬称をムスリムたちから与えられたと考えられています。そもそも、「シッド」とはアラビア語で「主人」を意味します。当時、タイファと呼ばれるイベリア半島イスラーム国家の君主たちが分立しており、隣国と戦うためにキリスト教の傭兵が雇われたのです。
 そもそも、スペイン古典文学の代表作『わがシッドの歌』では、この主人公が経済的価値に固執し、キリスト教を本当の敵としたり、生存のためならムスリムと手を結ぶこともいとわなかった(58−61頁)ことがきちんと書かれています。バレンシアを攻撃したのも、宗教的情熱や愛国の精神ではなく、経済的利益のためであったことが書かれているのです。しかし、先のことを踏まえれば、彼を軽蔑したりする必要はないのです。
 当時のイベリア半島は、そのほとんど、原理主義的な思考の持ち主による宗教戦争の世界ではありませんでした。宗教勢力が単純な対立に収まらず入り乱れる世界の中で、エル・シッドという人物は生きていたのです。エル・シッドとは、当時のイベリア半島の状況をそのまま体現する人物だったのです。

(続く)