成功したら大企業の経営者の仲間が大事になるかもしれないが、逮捕されたら囚人の仲間の方が大事 -小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』を読む-

 小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んだ(再読)。

  内容は紹介文の通り、

香港のタンザニア人ビジネスマンの生活は、日本の常識から見れば「まさか! 」の連続。交易人、難民、裏稼業に勤しむ者も巻きこんだ互助組合、SNSによる独自のシェア経済…。既存の制度にみじんも期待しない人々が見出した、合理的で可能性に満ちた有り様とは。閉塞した日本の状況を打破するヒントに満ちた一冊。

というもの。
 2020年の「紀伊國屋じんぶん大賞」の5位を得ているので、有名だとは思うが。(5位ではなく、もっと順位が高くあるべきだったと思う。)

 以下、特に面白かったところだけ。

逮捕されたら囚人の仲間の方が大事になる

 大切なのは仲間の数じゃない(タイプのちがう)いろんな仲間がいることだ (86頁)

 詐欺にあったときに最も役立つ情報を教えてくれるのは誰か。
 チョンキンマンションのボス・カラマは、詐欺師の友人であると返答した。
 将来誰が役に立つかわからない。
 未来は誰にもわからないからだ。
 成功したら大企業の経営者の仲間が大事になるかもしれないが、逮捕されたら囚人の仲間の方が大事になる。
 鶏鳴狗盗という言葉が思い浮かんだ(もちろん「鶏鳴」より囚人仲間の方がずっと頼りになるとは思うが)。*1

社会的な流動性

 社会的にも高い流動性がある (242頁)

 流動性の高い者たちの間だと、コミュニティへの継続的なかかわりは、とうぜん期待できない。
 また、投機性の高い市場で「一攫千金」を夢見る商売人たちゆえに、明日には大金持ちが一文無しになり、一文無しが大金持ちになる流動性がある。*2
 彼らが相互に助け合う一因であろう。

「ついで」だというエクスキューズ

 「閉じられた互酬性」を「開かれた互酬性」に、「贈与交換」を「分配」に調整していく過程で自生的に形成されたしくみが、後から市場交換にも活用されるようになった (161頁)

 彼らの経済的なつながりは、シェアリング経済やフリー経済と似ている。
 しかし異なるのは、そんな彼らタンザニア人たちのプラットフォームの使い方である。
 彼らはメンバーが流動的ゆえに、厳密な互酬性を期待しにくい。
 なので、そうしたメンバーシップの中で誰かに負い目を固着されることなく気軽に支援し合うための試行錯誤をする過程で、こうしたつながりが構築された。
 彼らは、「効率性」を追及して彼らのプラットフォームを市場交換に適した形に制度化させることを目指していない。

 あくまでも、仲間との共存のために「商売」を利用するのである。助けられた側に過度な負い目が発生しない。親切に即時的な返礼がなくても気にしないようにすることが目指されている (244頁)

 母国や最新の情報を教えたり、母国で行う事業の資材を運ぶのも、何かの「ついで」にやっていると態度を示す。*3
 そうすることで、彼らは、負い目が発生しないようにしている。
 また、仕事にしても、事業計画を練ったり根回しのために忙しく立ち回ることはない。
 偶然、自分の働きかけに応答した他者によって、商売が決まる。
 著者はその姿勢を魚釣りに喩えている。
 支援もまた同様、あくまでも受動的に進むのである。
 著者によると、そのような「釣り」のやり方でも、うまく彼らの社会は回っているのだという。

金儲けが目的、と表明し合う理由

 金儲けの目的は彼らを瞬時につなげると同時に、つながりを適度に切断することも可能にする (263頁)

 お互いが、あくまでも金もうけのために香港にいると表明し合う。
 そうすることで、香港在住のタンザニア人たちは気軽につながれる。
 金儲けという共通の目標をお互いに承認し合うことで、他者との濃密で面倒な関係から距離を取り、相手の要求に自分が応えない事をお互い許し合う。
 カネもうけだという主張は、互いの関係をべたつかせないための、装置として機能しているのである。*4

 

(未完)

*1:ところで、孟嘗君食客「三千」人というのは、出典は『史記』ではなく、それを下地にした『和漢朗詠集』の賈島「暁賦」に対する注に、由来する。詳細は、沼尻利通「『枕草子』と孟嘗君の「三千の客」 : 「頭弁の、職にまゐりたまひて」章段における藤原行成の発言を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005566098 を参照。 

*2:そもそも社会保障の充実と社会的流動性とは矛盾しないものである。以下、「社会的流動性ランキングで世界61位、ASEANで5位 (フィリピン)」という記事https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/02/d1ae27cb7f81dd52.html から引用する。

世界で最も社会的流動性が高いとされた国はデンマーク、続いて、ノルウェーフィンランドスウェーデンアイスランドと北欧が並んだ。日本は15位、米国は27位、中国は45位だった。WEFは、社会的流動性を改善するには、政府が富の集中を分散させるための税制や政策を進めることが重要だとしている。

*3:佐川徹は次のような例を挙げている(「友を待つ : 東アフリカ牧畜社会における「敵」への歓待と贈与」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006487091 )

通行人が道でたまたま目にした乞食に施しを与える.この乞食と通行人は二度と会うことがないかもしれない.仮に会ったとしても,乞食は「またくれ」とさらなる施しを求めるであろう.お返しはなされないだろうし,そもそもそれをする義務など存在していない.「返す義務」を贈与の根幹にすえるモースにしたがうと,このようなモノの移譲は贈与と呼ぶことができない.しかし一般的にわれわれが「贈与」という語からイメージするのは,このように見返りを求めずにただ与えるだけの行為なのである

こうした事態も、「ついで」という観点から説明が可能かもしれない。

*4:橋本努は次のように述べている(橋本「自由な社会はいかにして可能か?」https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Syllabus%20on%20Liberal%20Society%202002.htm )。

自由は、非人格的・超個人的なものに従うことによって可能になる。例えば、貨幣価格という非人格的な力を受け入れること、事務的に物象化された人間関係を取り結ぶこと (引用者中略) こうした行為様式は、それによって各人の人格的独立性を確保できる点で、具体的な他者(の恣意)に支配されるよりも、自由である。ジンメルによれば、象徴的な「権威」を承認することは、具体的な人格者のもつ「威信」を承認することよりも、感情的な依存関係をもたない点で、内面の自由を確保することができる。

金儲けという、貨幣の「非人格的な力」を志向は、人と人とを互いに自由にしあう側面もあるのである。