余が日本人の支那朝鮮に進出することを好まざるは悪しき影響を亜西亜洲の他邦人に及すことを恐るるが故なり。 -続・永井荷風『摘録断腸亭日乗』を読む-

 永井荷風『摘録断腸亭日乗 下』を読んだ(再読)。

摘録 断腸亭日乗〈下〉 (岩波文庫)

摘録 断腸亭日乗〈下〉 (岩波文庫)

  • 作者:永井 荷風
  • 発売日: 1987/08/17
  • メディア: 文庫
 

  内容は、紹介文の通り、

読む者を捕えてはなさぬ荷風日記の魅力を「あとを引く」面白さとでもいおうか。そういう日記の、ではどのあたりが最も精彩に富むかといえば、その1つとして戦中の記事をあげねばなるまい。なかでも昭和20年3月10日の東京大空襲にはじまる5カ月間の罹災記事は圧巻である。昭和12‐34年を収録

というもの。*1

 下巻も読んだが面白い。

 以下、特に面白かったところだけ。*2

支那朝鮮に進出することを好まざるは

 余が日本人の支那朝鮮に進出することを好まざるは悪しき影響を亜西亜洲の他邦人に及すことを恐るるが故なり。 (107頁)

 昭和15年10月18日のくだりである。
 オーストリア人と日本人の間にできた子供が、日本の学堂と交わるようになり、我が家(荷風宅)の門前で、「玉投」をするようになった。*3

 結果、その子は、行儀がとても悪くなった。

 日本人の教育を受けると皆野卑粗暴となるのは、この実例でも明らかである、と荷風はいう。

「圏」という字の流行

 今まで見馴れぬ漢字を使ひたがるは如何なる心にや。 (146頁)

 昭和16年7月15日のくだりである。

 この頃共栄圏といい、仏教圏というような「圏」の字が流行していると。*4

流行現象としてのミソギ

 近年紳士学生らのミソギ女給事務員の参禅の如き皆阿世の行為にして具眼者の屑よしとなさざる所なるべし。 (163頁)

 昭和17年1月初六日のくだりである。
 上記の「屑よし」は、ここでは、「いさぎよし」と読む。
 東京には昔から「寒参」なるものがあったが、近年衰え、軍人執政の世にはミソギなるものが流行り始めた。*5
 だが、寒中の水浴が精神修養に効果があるなら、夏日暖炉に面して熱湯を呑むのも同じ効果があろう、と荷風は皮肉る。
 そもそも、精神修養というのは、日常坐臥の間絶えず試みて平成の習慣とならないと功はないだろう、とも。

俄に「疎開」という語を作って

 市中到所疎開空襲必至の張札を見る。 (228頁)

 昭和19年4月10日のくだりである。
 一昨年(昭和17年)四月には敵機襲来の後、市外へ転居する者を見れば、卑怯、非国民と罵っていたが、18年冬頃から、俄に「疎開」という語を作って民家離散取り払いを迫る。
 「朝令暮改笑ふべきなり」。
 荷風は、「疎開」を新奇な言葉として受け取ったのである。*6

 

(未完)

*1:ただし本稿では、1945年の記事は取り扱っていない。

*2:以下、頁番号はすべて、岩波ワイド版の方に準拠している。

*3: 野球と荷風の関係について、『墨東綺譚』(墨の字は正確には、https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BF%B9 である。)の「作後贅言」には、次のような一文が見える。

そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰ひそめたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。

(引用部は青空文庫に依拠した。https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/card52016.html )。荷風は、野球を愛好する人ではなかったのである。

*4:この手の「圏」の比較的早い用法は、『世界地理 第二卷』(河出書房、1939年)の「大東亜圈の一環として」あたりだろうと思われる。

*5:なお、「世界大百科事典 第2版」にあるとおり、ミソギは、

古代中国では,《後漢書》礼儀志や《晋書》礼志にみえるように,〈春禊〉と〈秋禊〉とがあって,陰暦3月3日(古くは上巳)と7月14日に官民こぞって東方の流水に浴して〈宿垢〉を去ったという

というように、日本固有のものではない(https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8A-138728 )。

*6: 疎開について、「デジタル大辞泉」は、「1 空襲・火災などによる損害を少なくするため、都市などに集中している住民や建物を地方に分散すること。「工場を疎開する」「学童疎開」「強制疎開」 」と、「2 戦況によって、前進中の軍隊の距離・間隔をひらくこと」の二つの意味を紹介している。
 例えば、織田書店編集部編『青年訓練教練教授要綱』(織田書店、大正15年)は、疎開を、後者の意味で使用している。ある時期までは、軍隊用語のような使われ方が多かったのである。
 前者の使用法は、例えば、内務省計画局編『国民防空読本』(大日本防空協会、昭和14年)などに、みることができる(197頁)。お役所としては、「俄に」ではなかったようである。