三谷太一郎『人は時代といかに向き合うか』を読んだ。
内容は紹介文にある通り、
近代日本の形成に関わった政治家、科学者、宗教家、文芸家等のそれぞれの時代との交渉を追跡し、政治史家としての研鑽に裏打ちされた著者の同時代観を提示する
というもの。
以下、特に面白かったところだけ。
スペンサーの意に反した「家族国家論」
したがってそれは、本来「家族国家論」とは正反対の趣旨であった (100頁)
スペンサーの思想は日本近代に大きく影響を与えることとなった。
しかし、スペンサーは、産業社会の発達に伴って、家族の持つ教育的機能が国家に簒奪されることを憂慮し、その見地から家族の復権を説いていた。
スペンサーは国家教育とその発達に批判的(反義務教育論)で、そうした国家教育が、家族による道徳教育を後退させたと考えていたのである。*1
スペンサーが森有礼に日本の家族制度の尊重を説いたのはそうした見地においてであって、これは日本の「家族国家論」とは正反対であった。*2
しかし皮肉なことに、スペンサーの見解が、穂積の「祖先崇拝」・「家」の重視を正当化し、「家族国家論」に貢献することとなった。
グナイストの「仏教国教化」提案
グナイストは、日本は仏教を国教とすべきだと具体的な勧告をした。 (引用者略) ところが、憲法起草者である伊藤は、既存の日本の宗教の中には、ヨーロッパにおけるキリスト教の機能を果たしうるものは見出すことができないと見たわけです。すなわち伊藤によると、日本においては宗教というものの力が甚だ弱い。 (引用者略) そこで、「我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」という断案を下す。 (254頁)
結局、グナイストの案は、伊藤によって採用されることはなかったのである。*3 *4
なお、信教の自由(プロイセン憲法第十二条)は日本の憲法ではなく法律に入れるべきだともグナイストは勧告している。
信教の自由を封じやすくしようとする措置であろう。
軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし
ある待合の女将が陸軍から、陸軍の半額出資で北京において陸軍将校用の慰安を目的とする料理屋兼旅館を開設するようすすめられた。このことを、その女将から直接にきいた荷風は、次のように感想を記している。「世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし。」 (303頁)
もちろん、永井荷風の『断腸亭日乗』の記述である。
一九三八年八月八日付である。*5 *6
随分な優遇である。
(未完)
*1:図式的に言えば、スペンサーはリバタリアン(より正確には古典的自由主義者)だったのである。
*2:スペンサーの実際のスタンスは以下のとおりであるようだ。
彼(引用者注:スペンサーのこと)が絶対に伝えたかったメッセージは、新しい夜明けをもたらすために弱者・不適者は取り除くべきだということではなく、個々人が一生懸命努力して未来の世代が約束の地にたどり着くために必要だと思われる習慣を身につけることなのである。彼のメッセージは、このような未来の状態をもたらす共同の営みではなく、自己改善の有効性に関する完全に反政治的なメッセージなのである
以上は、藤田祐「バーカーの呪縛? スペンサー解釈の論点」(https://researchmap.jp/fujitayuh/を参照 )からの引用であり、Michael W Taylorに依拠したものである。
*3:林淳は、
国家の公的な儀式は、必ず仏教の形式でとりおこない、仏教以外の宗教の聖職者は平民として扱うべきであるという。グナイストは、カトリックはかつてプロイセンでも禁止になった事実を付け加え、その危険性を説いた
としている(「近代日本の 「 信教の自由 」」https://zenken.agu.ac.jp/research/48/09.pdf )。また、
日本の場合、近代国家の強制力によって脱・伝統宗教化が押しすすめられ、その結果として世俗的国家が実現した。世俗的国家になったが故、天皇制ナショナリズムが、公共空間のなかで醸成されやすい条件が整い、国民統合の求心力として機能した
と林は述べる。林の説によるならば、「国家神道」という言葉より「国家的イデオロギー」といった用語が、より似つかわしそうである。
*4:先の註で、林が参照したグナイストの主張(「グナイスト氏談話」)について、これが誰に向けての談話だったのか、という問題に関しては、堅田剛「ルドルフ・フォン・グナイストの憲法講義 『グナイスト氏談話』を読む」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005978129を参照。
*5: 荷風の一九三八年八月八日付の言葉を引用した石田憲は、一九四一年六月一五日の日記もまた、引用している(「文学から見た戦争 エチオピア戦争と日中戦争をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005929238 )。
日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵畧し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。……然れどもこれは無智の軍人ら及猛悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。……元来日本人には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。
石田論文は、日伊両国の文学者の戦争に対する姿勢を比較しており、興味深い内容である。ご興味あればぜひ。
*6:但し、そんな荷風でさえ、一九三一年一一月一〇日時点では、次のように述べていた。「今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは盖武断政治を措きて他に道なし、今の世に於て武断専制の政治は永続すべきものにあらず、されど旧弊を一掃し人心を覚醒せしむるには大に効果あるべし」(以上、『摘々録 断腸亭日乗』http://hgonzaemon.g1.xrea.com/dannchoutei.htmlより孫引き)。