マイノリティが切り開いた自由と平等の両立 -ついでに政治への無関心と憤りについて- 福田歓一『近代民主主義とその展望』を読んで

 福田歓一『近代民主主義とその展望』を読む。
 確かに、繰り返し読みたくなる名著。
 近代の民主主義を押さえる上での基本文献の一つ。
 
 興味深いと思ったところを。



 近代民主主義の起源と、自由と平等の関係について。
 二つは背反していると思われがちだが、必ずしもそうではない歴史を持つ。
 近代の民主主義の特徴とは、「一切の権力に先立つ個人の自由」(113頁)。
 身分も、所得も、宗教も、性別も関わりなく、自らの権利を主張することができること、これが特徴。
 これは、政治社会に先立つ人間の生まれながらの権利、つまり自然権と呼ばれるもの。

 こういった権利が生誕したのは、一七世紀におけるイングランドの革命のときであり、基本的なモデルは、国教制度に反抗するピューリタンたちの信教の自由、内面の自由、良心の自由の主張だった。
 (もっと起源を遡れば、ルターの宗教改革にまで届きうる)

 こうした近代の自由とは、古代における自由とまったく異なる。
 それは「権力からの自由」であり、この自由は、身分に属するのではなく、人間全てに共通のものだという普遍性の主張と結び付いた(115頁)。
 このとき、自由と平等とは、不可分のものとして規定されることになった。
 
 近代における自由と平等の上記のような関係は、国教制度に対するマイノリティの主張に由来しており、マイノリティの主張であったがゆえに、彼らの主張は、他の人間の自由の尊重と結びつかざるを得なかった。

 (なお、「国家への自由」(国政への参加)もまた、深く平等の主張と結び付いており、マイノリティであるレヴェラーズ(ピューリタン・平等派)は、自分たちの主張を守るためには、自分たちもまた権力に参加せねばならないとして普通選挙権を要求するため、「人民協約」を著している。)

 マイノリティこそが、近代における平等性(普遍性)の道を切り開く結果となった事実は、良く抑えておくべきこと。



 大衆化が、政治において個人に与えるものは、皮肉なことに「無力感」だ。
 有権者が増えれば増えるほど、逆に一人の有権者の影響力は反比例して減っていく。

 さらに、政治権力に対抗するには、巨大な組織の一員になるほかないが、やはり、その巨大な組織の前に個人は無力となる。

 さらにさらに、社会組織事態が非常に複雑になって、見通しが利かなくなって、無力さは増す。
 さらにさらにさらに、技術革新や経済的変動などの社会変動の圧力に対して、個人は無力さを感じる。
 こうして、社会の当事者になったはずの大衆は、政治的に無関心となる。

 ところが、いざ、その個人が社会生活に適応が上手くいかないと、政治に対する要求は高まり、立腹する。
 その憤りは、激しいものとなり、時に方向性を見失いがちになる。
 この憤りは、社会と政治の複雑さに対する把握のし難さに直面した時、単純に白黒をはっきりさせたがるモラリズムに行き着き、デマゴーグの入り込む余地を生む。

 政治に対する無関心と憤りとは、正反対のように見えて、実は、「現実と政治に対する無力感」という点は共通している(169頁)。
 昨今の実例がそれを示しているだろう。



 (追記) 

 myogab と言うか、大航海時代に異人が政治力を持ち始めた時に、自国の弱者保護を方便に民族主義で対抗した残滓だろう。そこで歌われた平等の適用範囲がグローバル化の中で適宜拡大されていった先に今があるだけで。 2012/02/0

 このコメントですが、上に自然権と書いたのをお見過ごしのようです。
 また、「権力からの自由」を主題にしているのに、なぜナショナリズムの話になるのか、正直ギモンです。
 おそらく、ナショナリズム(民族主義国民主義)に関わる領分と、「信仰の自由」という人権に関わる領分とを、混同してるんじゃないでしょうか。
 二つは同じものではありませんし、時に相対立したものです。
 是非、福田歓一『近代民主主義とその展望』を一読してみてはいかがでしょうか。