シェイクスピアと囲い込みの話から、『ハムレット』は「哲学」的という話まで -河合祥一郎『シェイクスピア 人生劇場の達人』を読む-

 河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』を読んだ。 

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

シェイクスピア - 人生劇場の達人 (中公新書)

 

 内容は紹介文のとおり、

本書は、彼が生きた動乱の時代を踏まえ、その人生や作風、そして作品の奥底に流れる思想を読み解く。「万の心を持つ」と称された彼の作品は、喜怒哀楽を通して人間を映し出す。

というもの。
 紹介文だけだと少しわかりにくいが、シェイクスピアの生涯と作品を紹介する、優れた入門書であると思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

囲い込みに反対しなかったシェイクスピア

 だが、シェイクスピアはそうしなかった (94頁)

 シェイクスピアの故郷で、面倒な土地問題が起こった。
 シェイクスピアが懇意にしていた男の、その息子(ウィリアム・クーム)が、自分らの土地を囲い込み、羊を放牧しようとしたのである。
 すると、穀物の値が上がり雇用が減る、として、反対運動が街で起こった。
 囲い込みは実行され、それが殴り合いのけんかに発展する。
 それに対して、シェイクスピアは、囲い込みを辞めるよう説得することはなかった。
 シェイクスピアは当時、十分の一税徴収権を持っていたのだが、もし損失が出た場合はその代償をする、という囲い込み一派の説得を受けて、引き下がったのである。*1

「女性」としての少年役者

 これらの少年たちは、舞台上で完全に女性に見えたのだろう (155頁)

 1610年に、シェイクスピアの劇団・国王一座上演の『オセロー』を観劇したヘンリー・ジャクソン。
 彼は、デズデモーナ役者を「彼女は~」という風に記している。
 同じく、サミュエル・ピープスも、フレッチャー『忠臣』を観て、少年役者を「女性」扱いして記述している。*2
 彼らは、女性役の少年たちを女性として鑑賞していたのである。*3

ハムレット』は「哲学」

 しかし、この悲劇を単純な仇討ち物語のレベルで考えてはなるまい。 (163頁)

 ハムレットは、ただ復讐するかしないかウジウジ悩んでいるのではない。
 ハムレットはあくまで、キリスト教徒として、人間として何をすべきかを考えている。
 その思索の延長線上に「人間とは何か」という哲学的思考が出てくる。*4
 人間の身(神ならざる存在)でありながら、復讐をもくろむという矛盾。*5
 そして、これに悩むハムレットは、道化師ヨリックの頭蓋骨から、人間のはかなさを教えられることとなる。

 『ハムレット』、結構哲学的である。

オセローの「正義」

 オセローはこれから行おうとしていることを復讐ではなく、なさなければならない正義とみなしていると説明している (167頁)

 第二アーデン版編者の、M・R・リドリーの説である。
 デズデモーナを殺害するオセロー側の理屈はこうである。
 つまり、オセローは、神に代わって正義を行おうとしているのである。
 「死なねばならぬ。でないとさらに男を騙す」というセリフがそれを物語る。
 まあ、ミソジニー感があるような気もするが。*6

 

(未完)

*1: 「シェイクスピア・バースプレイス・トラスト」のウェブサイトには次のようにある(以下のURL:
https://www.shakespeare.org.uk/explore-shakespeare/blogs/shakespeares-friends-burbage-combe-and-sadler/ )。

Thomas and William fought the council who objected to this appropriation of public lands. Shakespeare’s tithes which he had invested in included some of this contested property, but the Combes’ agent assured Shakespeare’s agent, Thomas Greene, that they would compensate Shakespeare for any loss to his tithes.

ただ、後段の文章によると、どうやら、事はクームやシェイクスピアたちの思うようにはいかなかったことが書かれてはいるが。

*2:サミュエル・ピープスの日記(1660年8月18日付)によると、

“The Loyall Subject,” where one Kinaston, a boy, acted the Duke’s sister, but made the loveliest lady that ever I saw in my life, only her voice not very good

とあり、もちろん少年と認識はしていたが、「レディ」と形容している。以下のURLを参照https://www.pepysdiary.com/diary/1660/08/18/ 

*3:木村明日香は、

多くの研究者が少年俳優と女性の近似性を指摘してきたのは驚きではない。女性が父や夫の所有物として社会的・経済的・性的自由を奪われていたのと同じように、少年俳優も自らの身体と労働への権利を持たず、こうした被支配者としての立場が、彼らが女性を演じ男性の性的対象になりえたことの背景にあると考えられたのである

という風に、先行研究について言及している(「『モルフィ公爵夫人』における少年俳優の舞台上の効果」https://ci.nii.ac.jp/naid/130007593500 )。もちろん木村の主張は、その先にあるわけなのだが。
 一応、押さえておくべき点かと思うので、ここで言及しておく。

*4:著者・河合が出演した番組の解説文には、

「生きるべきか、死ぬべきか」。近代人としての悩みを真正面から引き受けて悩み続けたハムレットは、第五幕でついに最後の決断を行う。その決断の裏には、自力のみを頼ってあれかこれかと悩むのではなく、「もう一つ高い次元で、神の導きのまま自力の全てを出し切って最善の生き方をしようという悟り」があると河合教授は指摘する。ハムレットは、最終的には、なすべきことを全てやりきった後は、全て運命にまかせようという悟りの境地に至ったのだ。

とある(「名著39 「ハムレット」:100分 de 名著」https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/39_hamuretto/index.html )。

*5:本多まりえは、

エリザベス朝当時、私的復讐は神と法によって禁じられていたため、ヒエロニモ(Hieronimo)やタイタスなど、復讐悲劇の主人公は、どのような事情であれ、復讐を果たした途端に「悪党」の熔印を押された

と述べている(「ハムレットと独白」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000785642/ )。参照されているのは、 Fredson Bowers, Elizabethan Revenge Tragedy 1587-1642 である。

*6:鍛治佳穂は、先行研究を次のようにまとめている(「『オセロー』は人種の悲劇か――オセローの悲劇にみる男性性喪失への恐れ」http://www.elsj.org/kanto/proceedings_fall2018.html )。

オセローがなぜあれほど容易くイアーゴの罠にはまってしまうのかという問いはこれまで多くの先行研究で提示されてきたが、近年では、デズデモーナとオセローとの間の年齢や階級の差、そして人種の違いを指摘することによってオセローのコンプレックスを刺激するイアーゴの手法や、イアーゴとオセローが女性全体に対する不信という父権制的なミソジニーを共有していることなどをその理由とみなすのが主流となっている。

すでに、ミソジニーについては、研究上で言及されている。

「やさしい日本語」とはいうものの、使いこなすのは全然たやすくないわけで。 -庵功雄『やさしい日本語』を読む-

 庵功雄『やさしい日本語』を読んだ。

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

  • 作者:庵 功雄
  • 発売日: 2016/08/20
  • メディア: 新書
 

  内容は紹介文の通り、

人口減少を背景に、移民受け入れの議論が盛んになっている。受け入れるとしたときに解決しなければならないのがことばの問題。地域社会で共通言語になりうるのは英語でも普通の日本語でもなく〈やさしい日本語〉だけ。移民とその子どもにとどまらず、障害をもつ人、日本語を母語とする人にとって〈やさしい日本語〉がもつ意義とは

という内容。
 「やさしい日本語」とは何かを知るには、まずはこの一冊、と言ってよいくらいの内容。

 以下、特に面白かったところだけ。

英語じゃ力不足。

 英語を理解できるのは地球上の人口の半分にも満たない (31頁)

 定住外国人にとって、英語は、得意とする言語なわけではない。
 国立国語研究所の調査では、定住外国人にとっては、英語より日本語の方がわかる言語に該当するようである。
 これが、定住外国人と、旅行者や留学生などの短期滞在者との大きな違いである。
 そもそも英語を理解できるのは地球上の全人口の半分にも満たない。*1
 また、日本語母語話者にとっても、英語は必ずしも扱いやすい言語ではない。
 例として、著者は「アイドリングストップ」の例を挙げている。*2

ことばの壁

 漢字は、外国人以外の言語的マイノリティにとっても障壁になっています。 (122頁)

 また、ディスクレシアの人にとっては、ルビが元の漢字と一体化してしまい、よけいに文字認識が困難になるという例がある。*3

「多文化共生社会」の条件

留学生は、外国語が堪能という目で見てもらえるのに、私たち定住者は”日本語の能力に不安はないか?”といった、ネガティブな印象で見られています (124頁)

 朝日新聞での宮城さんという人の言葉である。*4
 外国にルーツを持つ子供たちが、二つの文化を知っている国際人として評価される社会を作ることが「多文化共生社会」の重要な条件となる。
 そして、「やさしい日本語」も、その社会を構築するための最重要課題である。*5

「やさしい日本語」は、言語能力を鍛える

 <やさしい日本語>は、日本語母語話者によって「日本語表現の鏡」としての役割を果たす (186頁)

 外国人に伝わるように自分の日本語を調整するという行為。
 それは、「自分の言いたいことを相手に聞いてもらい説得する」という母語話者にとって最も重要な言語能力の格好の訓練の場になるのだと著者はいう。*6
 実際、「やさしい日本語」で書こうとすると、修辞的なごまかしがきかなくなり、また相手本位をこころがけた表現にする必要があるので、言葉の力が鍛えられるのは、事実である。
 「コミュニケーション能力」というものを鍛えるには、確かに良い。

 

(未完)

*1:八田洋子は「ディヴィド・グラッドル( David Graddol )によれば、現在世界で英語を母国語としているのは約3億7500万人で、第二言語として使っている人がほぼ同数おり」、と述べている(「世界における英語の位置」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000505534 )。参照されているのは、グラッドル『英語の未来』(邦訳)である。
 ところで話は変わるが、「やさしい日本語」があるなら、「やさしい英語」もあるべきではないか、と考える向きもあろう。だが周知のように、古くはオグデンがベーシック・イングリッシュを提唱しているし、森有礼は「簡易英語」という、動詞変化等を規則正しくしたシンプルな英語を、既に提唱している(森の「簡易英語」については、)。

*2:ブルース・L・バートンは、次のように書いている「和製英語http://www.brucebatten.com/ja/tv.html )。

アイドリングという言葉自体が、エンジンを空転するとか、つけっぱなしにするという意味なので、アイドリング・ストップとはきっとエンジンを付けたまま停車するという意味だろうと私は思いました。 (引用者中略) なぜ勘違いをしたかというと、英語で「何々をやめよう」という場合には「ストップ」という言葉を最後ではなく最初に付けないと意味が通じないからです。

*3:「サイエンス・アクセシビリティ・ネット」によると、

一般にディスレクシアの人達は漢字の読みに困難がある人達が多く、そのため、全ての漢字にルビを振る支援がよく行われています。しかし、上記のように漢字とルビが1文字になって見える人にとっては、ルビが意味をなさなくなってしまいます。そのためベースの文字とルビの色を変えて欲しいというニーズもあります。

とのことである(以下、https://saccessnet.com/dyslexia/ )。なかなか難しい。

*4:この記事については、ブログ・「発声練習」が引用して紹介している。以下、http://next49.hatenadiary.jp/entry/20150923/p1 

*5:やさしい日本語は、外国人ではなく、日本語母語話者の子供にも有益である。佐藤和之は次のように述べている(「在住外国人300万人・訪日外国人4000万人時代の
安全を支える「やさしい日本語」」https://www.isad.or.jp/information_provision/no137/ )。

「やさしい日本語」は外国人だけでなく、日本人の子どもにとってもわかりやすい表現になっていた。的確な判断を求められる災害下で、「やさしい日本語」は外国人にも日本人にも速やかに伝わる表現であり、誘導する日本人にとっても、誤訳の心配がない安心して使える表現である。

大切なことなので、あえて引用した次第である。
 なお、佐藤の研究と本書著者・庵の研究との問題意識の違い等については、後者の手になる、「「やさしい日本語」研究の「これまで」と「これから」」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005830543 )等を参照。

*6: ウェブサイト・「伝えるウェブ」にて、「やさしい日本語」への翻訳を試すことができる(URL:https://tsutaeru.cloud/translation/try.html )。
 「やさしい日本語」に苦手意識がある人は、まずこのウェブサイトを使って見るといいかもしれない。
 ただ、これをつかっても、まだ「やさしい日本語」にするには、まだまだ調整が必要になりそうである。

「異学の禁」が素読に与えた影響から、幕末明治の漢詩ブームの背景まで -齋藤希史『漢文脈の近代』を読む。-

 齋藤希史『漢文脈の近代』を読んだ。(三読目くらいか。) 

 内容は、紹介文のとおり、

本書は漢文の文体にのみ着目した従来の議論を退け、思考様式や感覚を含めた知的世界の全体像を描き出す。学問と治世を志向する漢文特有の思考の型は、幕末の志士や近代知識人の自意識を育んだ。一方、文明開花の実用主義により漢文は機能的な訓読文に姿を変え、「政治=公」から切り離された「文学=私」を形成する。近代にドラスティックに再編された漢文脈を辿る意欲作。

という内容。
 すでに紹介文で、本書の内容はおよそ要約されているように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

異学の禁と、素読のスタンダード化

 極端な言い方ですが、異学の禁があればこそ、素読の声は全国津々浦々に響くことになった (23頁)

 漢文の読み書きは、18世紀末から全国の武士階級に広まる。
 日本で漢籍も出版された。
 だが、解釈の標準が定まらないと訓読もまちまちである。
 そこで、訓読の統一が必要になり、前提として、解釈の統一が必要になる。
 その解釈の統一が「異学の禁」によって成ったのである。*1
 解釈の統一は、カリキュラムとして、素読の普及と一体だった。

閉じられた朱子学

 道徳の外部はあらかじめ封鎖されているのです。完全なシステムを目指したことの裏返し (46頁)

 朱子学は、理気二元論で構成された体系で、外部がない。*2
 しかも秩序は自発的である。
 よって、理想の秩序はすべて当然に実現される。
 自発性はすべて当然の自発性として、選択肢がない。
 実は強制的になってしまっているのである。

 (もちろん、上記のような主張はかなり図式化した物言いであり、そのことは、著者が断りを入れていることであることは、いちおう記しておく。)

本場で認められた頼山陽日本外史

 和習という非難は、むしろ『日本外史』の文章が読みやすかったことに向けられているとしたほうがよさそう (62頁)

 『日本外史』は、1875年に広東でも出版されている。
 その序文では、この本は『左伝』や『史記』に範を取っている、と褒められているのである。*3

漢文脈からの離脱

訓読文体という型は、漢字漢語の高い機能を保持しつつ、漢文の精神世界から離脱するための方舟となった (95頁)

 近代以前は普遍とみなされた漢文も、近代以降は、東アジアローカルのものになった。
 その文体を支える精神は不要とみなされた。
 こうして近世後期から徐々に確立された訓読文体は、漢文(漢文脈)の精神世界から離脱していく。

 漢文脈における「感傷」と忍月の主張する「恋愛」には、大きな違いがあります。 (157頁)

 漢文脈の場合、「功名」を犠牲にはしない。
 「功名」の成立が実現が前提であった。
 女性におぼれることはアウトだったのである。
 じっさい、「舞姫」の大田豊太郎もそれを恐れた。
 著者いわく、「舞姫」は、恋愛小説ではなく感傷小説なのである。
 だが、石橋忍月は、「功名」より「恋愛」をとるべきだといった。*4
 ここに、漢文の精神世界からの離脱が見られるのである。

禅のラディカルさ

 禅ないし仏教は、士大夫の世界としての漢文脈にとって、それを外部へ開く契機になっていると同時に、その秩序を破壊しかねない危険因子 (218頁)

 朱子学はとんでもない物を抱え込んだ。
 朱子学は禅の影響を受けているのであるが、その影響は儒学の精緻化をもたらすと同時に、困ったものを内蔵させた。
 文明社会への対抗原理として、禅が見いだされるようになった、というのが、著者の見解である。*5

漢詩ブームの理由

 幕末明治期の少年たちが漢詩を作ることに熱中したのは (220頁)

 漢詩は平仄あわせをする必要がある。
 それには、熟語を暗記する必要がある。
 幕末期には大量の漢詩文参考書(例文集や熟語集)が出ている。*6
 これを参考にして、漢詩を作れば聡明さを誇ることが出来た。
 幕末から明治期にかけて教育を受けた世代は、漢詩文の出来が自分の知性を示す指標として受け取られたのである。
 ゲーム要素があって、それで名声が高まるなら、まあ流行るよね。

ギスギスで夜露死苦

 音韻的にも全部仄音で、とてもぎすぎす (222頁)

 ただし、漢語が多用されても「漢文脈」とは限らない。
 士大夫的精神というフレームを背景に持つかどうかが重要である。
 それがなければ、ただの漢字や漢語の遊びになる。
 ちなみに、「夜露死苦」という言葉は、全部仄音である。*7
 なめらかな四字熟語にするには、二文字目と四文字目の平仄を交代させるのが効果的だという。*8

 

(未完)

*1:佐藤進は、

学問所では、「寛政異学の禁」を強化する目的で「素読吟味」という試験を課すようになるが、そこで使われたのが「林家正本」と銘打った芝山点(後藤点ともいう)の四書五経であって、芝山点が以後広く普及したのはそのためだという。芝山点には、音読化・上代語法の不使用・過剰な読み添えの削除・不読をなくする、などの特徴があるという

と述べている(「藤原惺窩の経解とその継承--『詩経』「言」「薄言」の訓読をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006383563 )。
 なお、この論文で参照されているのは、鈴木直治『中国語と漢文』である。

*2:藤居岳人は、

システム論として整った朱子学を教学の中心に据えることで、江戸幕府は社会の秩序化の道筋を示すことができた。それが可能だったのはそもそも朱子学が学問と政治とを関連させる性格を有していたからであり、その関連を決定づける中心的概念が理だった。

と、著者・齋藤の見解のうち、朱子学=システム論については、基本的に肯定している。ただし、朱子学=システム論の「強制性」の面については是非を論じてはいない。以上、「尾藤二洲の朱子学懐徳堂朱子学と」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006407073 )に依った。

*3:加藤徹は、次のように書いている(「『日本外史』の漢文への中国人の評価」https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/singaku-33.html )。

清末の文人・譚献(1832~1901、初名は廷献、字は仲修、号は復堂)も頼山陽の漢文を激賞した。ざっくり言うと、

・日本人である頼山陽は「左伝」や「史記」の漢文の文体をよくまねており、その漢文の巧みさは、明の復古派の文人たちよりもレベルが上である。

・江戸時代の日本は、中国の古典古代と同様に良い意味での世襲制封建制があったおかげで、近世の中国人よりむしろ古典漢文を学ぶのに有利だったのだろう。

・漢文の文体は完璧だが、ちっぽけな島国なのに「天下」とか「天王」など大げさな用語を使う点は、笑ってしまう。

といった感じである。

*4:畑実は、「舞姫」論争後の忍月と鴎外のやり取りについて、「忍月と鴎外」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007002596 )で書いているのだが、なかなか面白い。鴎外が攻めている感じでなのである。詳細は、当該論文で。

*5: 後藤延子は、朱子が禅を大いに非難した理由を、禅では一切の儒教倫理が存立基盤を失って、仏教者の反社会倫理的行為が是認されてしまうからだ、としている(「朱子学の成立と仏教」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002771769、17頁 )。

 また、後藤は、朱子が「禅」における「空」を「無」と、(浅薄にも)誤解しているところがあることを、指摘している(同頁)。

*6:この手の本は、様々な呼び方をされるようである。正確に言えば、およそ同じものを、論者ごとに別の呼び方をしているということなのだが。岡島昭浩「漢語資料としての詩学書--『詩語砕金』を例として」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120000984957 )は、次のように書いている。

ここで「詩学書」と呼んでいるのは、中野三敏先生( 一九八一)の呼び方に従っているのだが(中野先生は江戸期の呼び方によっている)、これは、樋口元巳氏(一九八〇)が「漢詩作法書」と呼び、村上雅孝氏(一九九六)が「作詩参考書」と呼び、山田忠雄氏(一九五九・一九八一)が「詩語砕金の如き作詩書の類」と呼んでいるものとほぼ重なると思われる。

*7:こちらのサイトhttps://jigen.net/kansi/ でチェックできるので是非どうぞ。

*8:二四不同というやつである。

阪神タイガース、あるいは、「野次も、関西弁なので何となく迫力がない」と書かれた時代 -井上章一『阪神タイガースの正体』を読む-

 井上章一阪神タイガースの正体』を再読。(読んだのは2001年の太田出版のもの。*1 ) 

阪神タイガースの正体 (朝日文庫)

阪神タイガースの正体 (朝日文庫)

 

  内容は紹介文のとおり

阪神への幻想はいつどのようにしてつくられてきたのか。気鋭の批評家であり熱烈な阪神ファンでもある著者が、その正体を歴史的につきとめようとし、独自の視点から浮かびあがらせた愛すべき関西球団の知られざる真実と伝説。知的興奮にみちた野球文化史の好著。

というもの。
 
 以下、特に面白かったところだけ。

戦前の後楽園球場

 「あの後楽園が札止めになる」なんて、信じられない (221頁)

 戦前の後楽園は、プロ野球は不人気で、閑古鳥が鳴いていた。*2 *3
 千人か二千人の観客だったと。
 ところが戦後、カード次第では満員になる可能性が出てきた。
 1948年のある雑誌記事によると、「気狂い沙汰」だと。

GHQが後押しした戦後のプロ野球

 戦後のメディア状況は、プロ野球へ有利に作用した。 (232頁)

 1949年からは、本格的にプロ野球放送が増え、人気も上昇する。
 また、ラジオは空白をなくすことが占領軍から要請されてもいた。
 プロ野球はその穴を埋めるのにぴったりだった。
 こういうメディア的背景も存在するのである。*4

「虎ブル」の起源

 阪神がはじめからそういう球団だったのかというと、そうでもない。 (283頁)

 1956年以後、阪神はスキャンダルメーカーとなる(1956年に、藤村監督排斥事件が起きている。*5 )。
 それ以前はそうではない。
 しかし、スポーツ新聞はそれを助長して煽っていくようになったのである。

 関西人に反中央意識がたくされる球団も、南海から阪神へうつっていく。 (277頁)

 1959年、南海は巨人を下す(日本シリーズ)。
 同じ年に、阪神は巨人に天覧試合で敗北する。
 転機は、1959年年だったのではないか、と著者はいう。

六甲おろし」が知られるようになったのは

 「なんですか、それ」 (324頁)

 「六甲おろし」について聞かれた、元阪神ファン(~1972年)の水島慎二先生のコメントである。
 つまり、「六甲おろし」が知れ渡るのは、1970年代の出来事である。*6

「野次も、関西弁なので何となく迫力がない」

 「野次も、関西弁なので何となく迫力がない」 (342頁)

 甲子園が騒々しくなったのも、1970年代である。
 上記引用は、「週刊平凡」の1959年9月9日号である。*7
 甲子園は他の球場より大人しいのだ、と他のチームの応援団と比べられて、そう述べられた。*8
 隔世の感あり。

大洋ホエールズと川崎

 市民の半数以上から、反対署名をもらえるまでに、ファンを拡大していた (353頁)

 大洋ホエールズの話である。
 下関、大阪、川崎と転々とし、最終的に横浜に行ってしまった。
 川崎市にも根付いていたが、出て行ってしまったのである。(その後ヴェルディ川崎にも逃げられた。) *9
 実は、1970年代に、セリーグプロ野球球団は地域へ溶け込みだしていたのだという。

 

(未完)

*1:そのため、以下の頁番号も太田出版に依拠している。

*2:ただし、村上万純によると、

すでに 1939(昭和 14)年には後楽園球場がはじめて満員を記録していたが、「戦前観衆が一番多かったのは昭和十五年(1940 年)」

だという(「プロ野球女性ファン文化の変遷 -「ミーハー」ファンから「オタク」ファンの時代- 」http://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2012_2/5011A075.pdf )。
 必ずしも戦前に満員がなかったというのではないようだ。

*3:井上の『「あと一球っ!」の精神史』(太田出版、2003年)によると、1962年の優勝の決まる10月30日に甲子園球場(対戦相手は広島)はガラガラで、満員5万以上の球場において入ったのは2万人程度、外野席はガラガラだったという。「優勝決定戦でさえ球場に客を呼べないチームだった」(39頁)。ただ、読売戦だけは5万入る時代だったという。

 戦後の阪神も、ある時期まではそんな感じである。以上念のため。

*4:山口=内田雅克は、次のようにまとめている(「ジェンダー史研究 ー第二次世界大戦後の「野球」と日本人男性の「男性性」一」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006649406 。以下、引用の注番号を削除して引用していることを、あらかじめ断っておく。)。

1945年の11月6日には日本野球連盟復活宣言、18日にはオール早慶戦、23日にはプロ野球東西対抗戦野球と、次々と復活は具体化されていった。占領下、この復活を後押ししたのはGHQであった。スクリーン・セックス・スポーツという3S政策があり、そして自身が陸軍士官学校時代にはベースボールに興じていたマッカーサーアメリカ生まれのスポーツを民主化の象徴とした。チーム全員が協力し、精神主義ではなく、技術や駆け引きによって勝利を得るというプラグマティックな思考への教育が野球を通してなされるとされた。こうして野球と民主主義を結びつける言説が登場する。そしてGHQは敗戦後の民主安定政策として、プロを含めた野球を奨励し、接収下にあった後楽園をはじめとする野球場を開放し、ラジオ中継も許可する

*5:当事者の一人である吉田義男も、『牛若丸の履歴書』(日本経済新聞出版社、2009年)で、藤村排斥事件によって、阪神はもめごとの多い球団という烙印を押されたと述べている(当該書123頁)。

*6:和田省一(朝日放送 代表取締役副社長(2014年当時)。)によると、

中村(引用者注:中村鋭一のこと。)さんがあるときから「阪神タイガースの歌」があるはずだと、当時レコード室を探したら、若山彰さんが歌っている「阪神タイガースの歌」というのがありまして、コロンビアから出ていて廃盤になっていたんですが、古関裕而さんの作曲でした。これをかける。そのうち巨人戦に勝ったら生で歌う。巨人戦に勝つと3コーラス歌うと、段々、エスカレートしていくわけです。それで曲名も、正式タイトルは「阪神タイガースの歌」なんですが、歌いだしの文句が「六甲おろし」なので、中村さんは「六甲おろし」と言う。

中村鋭一が「六甲おろし」を流行らせたことを語っている(「メディアウオッチング例会(8月)」『関西民放クラブ』http://kansai-minpo.com/2014/10/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E4%BE%8B%E4%BC%9A%EF%BC%88%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%89/ )。本書(井上著)も、中村鋭一が「六甲おろし」を流行らせた説を述べている。

*7:1959年に初演され、翌年映画化された『がめつい奴』について、著者(井上)は、次のように述べている(https://www.sankei.com/west/news/180422/wst1804220006-n1.html のち、『大阪的』(幻冬舎、2018年)に収録。)。

もちろん、セリフはみな釜ケ崎あたりの大阪弁になっている。銭ゲバと言っていい登場人物が、大阪弁でやりとりをする芝居である。その興行的な成功も、「がめつい」を大阪人の属性とすることに、一役買ったろう。/一九五〇年代以後、より大きな富をもとめた経済人たちは、東京へ進出していった。計算高い彼らの大阪口調も、「がめつい」という大阪像を、首都で補強したかもしれない。やはり、あいつらは「がめつい」、と。

この頃が、関西弁イメージの一つの転機となるのだろう。

*8:永井良和によると、

これはテレビができた頃だと思うので、1950年代中盤だと思います。要するに、みなさん大人しい、仕事帰りの普通の恰好してるということがわかっていただければと思います。 (引用者中略) こういうプロ野球の状況に大きな変化を与えたのは、アマチュア野球の流れでした。特に、東京六大学の早稲田のコンバットマーチ早稲田実業が甲子園(高校野球)に持ち込み、全国中継されたことで、野球の応援スタイルが大きく変わっていきます。社会人野球でこの頃、チアリーディングが始まり、また社会人野球ではアンプを入れてもよかったので、大音響で音楽を流す応援のスタイルが広がりました。このようにアマチュア野球の変化がプロにも影響を与えたのです。

とのことである(「応援の風俗」(『ポピュラーカルチャー研究』Vol.1 No.3 http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/?post_type=report&p=140 )) 。そもそも、野次以前に、プロ野球における球場は静かだったのである。
 なお、同誌(*同号)には、「野球場はやや鳴り物があったと思いますが、僕が甲子園球場を知ってる範囲で申し上げると、あんなふうになったのは70年代半ばぐらいからですね。それ以前はごくごく静かな球場だったと思います。」という井上章一自身のコメントも掲載されている。

*9:ウェブサイト・『はまれぽ』の「川崎球場時代からのファンも!? オールドファン&熱狂的なファンに突撃!」という記事には、大洋ホエールズ川崎球場を本拠地にしていたころからのファンも登場している(https://hamarepo.com/story.php?story_id=6304&form=topPage54 )。 

エレキギターが主役になるまでの日本ギター音楽史。あと、なぜブルースといえばギターなのか -北中正和 『ギターは日本の歌をどう変えたか』を読む-

 北中正和 『ギターは日本の歌をどう変えたか』を読んだ。

 内容紹介文の通り、

今や最も身近で愛されている楽器ギターは、いつ、どこで生まれ、どんなふうに世界に広がったのか。そして二十世紀の日本ではどのように普及し、日本の歌をどう変えたか。戦前のハワイアン、古賀政男あきれたぼういず、戦後の田端義夫、ウエスタン/ロカビリー、エレキ・ブームまで。ギターをフォーカスにすると、ポピュラー音楽のユニークな歴史が見えてくる! J‐POPのルーツへの楽しい探索の旅。

というもの。
 主に、エレキ・ブームあたりまでなので、それ以降の時代のことは出てこないが、しかし、オススメ。
 以下、特に面白かったところだけ。

なぜブルースといえばギターなのか

 ブルースではバンジョーよりギターがよく使われた。 (63頁)

 ミンストレル・ショーでバンジョーが使用されて、差別的イメージと結び付いたことが説として挙げられる。
 そして、バンジョーが金属銅で作られて弦の張りが強まり、音の響きが短くなって、ブルースの伴奏に合わなくなった、という説も。
 著者自身は、歌いながら多様なメロディや和音を容易に弾けるギターは、ヴォーカルの合間の演奏にもってこいだった、という説を唱えている。*1
 あと、バンジョーがギターに比べて重量が重い、という理由もあるように思う。*2

ナウかったマンドリン

 その頃のわが国で、最もモダンな楽器 (105頁)

 古賀政男が音楽を目指したのは15の頃だった。
 マンドリンは当時、最新のナウい楽器だった。*3
 彼はその後、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参加している。

ガット弦の響きと苦労

 ところがセゴビアはガット弦を使っていた。 (112頁)

 それまで日本ではクラシック系ギターはイタリアから輸入された金属弦を使用していた。
 ところが来日公演でセゴビアはガット・ギターを使用していた。
 ガット弦によって、柔らかく微細な表情の演奏が可能だったのである。
 しかし、日本では湿度が高く、ガット弦は伸び縮みし易いので使用は困難だった。*4
 ナイロン弦が登場して日本が普及するのは、1950年代以降のこととなる。

スチールギターが笑われた頃

 やがてAマイナー・チューニングによる奏法が紹介されてからは、情緒纏綿とした日本的な歌の伴奏にぴったりとみなされる (120頁)

 スティール・ギターが日本に登場した時には、ハワイアンについて知識がなかった人たちに、笑われたりしたという(灰田晴彦の証言による)。
 そんなスティールも、Aマイナー・チューニングによる奏法が紹介されると受け入れられるようになったそうだ。*5

寺内タケシの功績

 寺内タケシは、エレクトリック・ギター三人、エレクトーン、ベース、ドラムという形にバンドを再編成した。 (169頁) 

 1963年の夏のことである。
 当時はブラス(ホーン)の入っていないバンドなどはバンドでないと思われていた。
 しかし、チェット・アトキンスの来日公演に接して、エレキの可能性を確信した寺内は、迷わずこの編成に踏み切った。*6
 ベースもエレキに変え、キーボードはエレクトーンの原型のような楽器を作り、簡単なPAまでそろえた。

 すごい。

 

(未完)

*1:なお、『音楽研究所』の「楽器と音域」(https://www.asahi-net.or.jp/~HB9T-KTD/music/Japan/Instrument/range_gm.html )という記事を見ると、バンジョーよりギターの音域のほうが高低共に広いことが確認できる。

*2:バンジョーの重量はギターの二倍以上ある。ブログ・『バンジョー弾いたり走ったり』の記事https://h-yoshizaki.blog.ss-blog.jp/2009-06-29 を参照。

*3:比留間賢八がマンドリンを日本に伝えたのは、本人曰く、明治34年、1901年のことである(比留間賢八編『マンドリン教科書 : 独習用』、1903年。1頁)。古賀政男は、1904年生まれである。

*4:湿度が高くなると弦が緩むのがガットギターの難点だったが、セゴビアは演奏の最中にガット弦の調子を何度も整えるという神業を披露し、聴衆が驚嘆したという(菊池清麿『評伝・古賀政男: 青春よ永遠に』、アテネ書房、120頁)。調弦しながら弾くというエピソードは、本書(北中著)にも登場する。

*5:小林潔「6弦スチールギターのチューニング色々」という記事(http://www.kt.rim.or.jp/~k_lion_k/lesson/6sgtunings.html )によると、

日本でハワイアンを語る上で忘れてはならないのが日本におけるハワイアンの父バッキ-白片氏が弾きまくったAmチューニング。E C A E C Aです。 このチューニングはHigh bass A major Tuning の2弦と5弦のC#(3度)を半音下げてC音にしたもので、世界にほとんど例を見ないものなので多分バッキ-さんが考案されたものと思われます。 このチューニングの長所は、1~3弦でドレミファの音階を覚えれば4~6弦も全く同じバーさばきで、あとは4弦と3弦のつながりを覚えれば、比較的簡単にスケールを弾いたり1オクタ-ブ下でメロディーを弾くことが出来ます。

とのことである。バッキー白片は、本書(北中著)にも登場する。

 バッキー白片とハワイアンバンドについては、「ロイヤルハワイアンズ」作成の記事http://www9.plala.or.jp/matchnet/old-band.html も参照。

*6:寺内の『テケテケ伝』を、著者(北中)は参照している。該当するのは、寺内著の36-39頁である。

 なお、寺内自身は、ウェブに掲載されたインタビューで、次のように端折って回答している(「公益社団法人横浜中法人会」の記事https://www.hohjinkai.or.jp/interview/0811.html )。

進駐軍のキャンプで演奏してたころ、歌が中心で演奏は〈色物〉に入っていたの。ピアノ、ベース、ギター、パーカッション(ドラム)はレコーディングでリズム隊と言われてたんです。ギターはリズム隊じゃない。ラッパがハーモニー吹けるのか、一つの音しか出ないだろ。エレキギターはひょっとすると楽器の王様になりうると思ったわけ。それでエレキギターだけの編成のバンドを組んだんだよ。それが「寺内タケシとブルージーンズ」になった。

二大カリスマを通して読む黒人社会。そして、キング牧師はどのような盗作を行ったかについて -上坂昇『キング牧師とマルコムX』を読む-

 上坂昇『キング牧師マルコムX』を読んだ。

キング牧師とマルコムX (講談社現代新書)

キング牧師とマルコムX (講談社現代新書)

  • 作者:上坂 昇
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1994/12/16
  • メディア: 新書
 

 内容は、紹介文の通り、

対照的な二大カリスマを通して読む黒人社会。マルコムXブームの意味とは何か? 台頭するブラックナショナリズムとは? 一見相反する二人の代表的指導者の思想と足跡から「黒人運動とアメリカ」を問う。

というもの。
 1990年代の本ではあるが、しかし、今も読まれる価値があるように思う。
 
 以下、特に面白かったところだけ。

すでに戦いは始まっていた

 その運動は実際には二〇世紀の前半からはじまっていた。 (10頁)

 公民権運動について。
 全国黒人地位向上協会はすでに、1909、10年に設立されている。
 1954年には、公立学校での人種分離を禁止したブラウン判決を獲得しているのである。*1

キング牧師の論理

 アガペをもって、なぜ白人を愛さなければいけないか (75頁)

 キング牧師の論理について。*2
 彼がいうには、白人の人格は、人種的隔離によって酷く歪められている。
 だからこそ、ニグロによる愛を必要とする、と述べる。
 批判者たちが言うような、白人に気に入られるため、という論理ではなかった。*3
 (まあ、ニーチェが聴いたら「ルサンチマン」とか言いそうな気もするのだが。)

分離主義者同士の「友誼」

 KKKに友好的に迎えられた。 (110頁)

 ブラックナショナリズムの代表者であるマーカス・ガーベイは、KKKを誠実で正直な白人だと考えた。*4
 黒人嫌悪を正直に出しているからである。
 KKK側も、アフリカに「帰ってくれる」黒人は歓迎した。
 一方、黒人の経済的自立を目指すとともに、黒人の強烈な人種的誇りを刺激したのも、彼のブラックナショナリズムだった事も事実である。

同じ黒人からも迷惑がられた黒人移住者たち

 かれらは、白人社会から締め出されただけでなく、黒人の中産階級からも迷惑がられた。 (116頁)

 戦後も、南部から北部へ黒人の移住は続いた。
 だが、移住した黒人は、同じ黒人の中産階級からも迷惑がられた。
 そうした人々を歓迎したのが、NOI(ネーション・オブ・イスラーム)だったのである。*5

キング牧師セクシャリティ

 キングのセックスにかんする言葉はそうとう汚かったらしく (210頁)

 意外と知られているかもしれないが、あらためて、。
 FBIの盗聴ファイルによると、フーバー長官は、「キングは下劣な性的衝動にとりつかれた"女狂い"だ」と軽蔑していた。
 フーバーは、キングが白人女性を好んでいたことも、許せなかったようである。*6

盗作していたキング牧師

 大学時代からキングが盗作していた (212頁)

 キングは、テキストに書かれていることは、他の人が自由に使っていいものと思っていたようである。*7
 つまり、そもそも盗作の意識を持っていなかったというのである。*8
 キングは特に、18世紀と19世紀初めの説教師のものを利用していた(213頁)。
 地方公演の際は、分厚い説教集を必ずカバンに入れて持ち歩いた。
 キングがモアハウス大学時代に影響を受けたメイズ学長の説教も使っていた。

白人説教師からの盗用

 キングがいちばんよく無断引用したのは、白人のラジオ説教師・ハリー・エマソン・フォスディックだという。 (213頁)

 「無断」で「引用」するのはともかく、キングは出典を明記することを怠った。
 フォスディックは、戦時中に200万人以上のファンがいて、その当時は相当影響力があった。
 真珠湾攻撃の際も非暴力を唱えた人物である。*9 *10
 また、以前から人種偏見から来る社会問題を嘆いてもいた。
 フォスディックはキングの先達であった。

歴史の皮肉

 見方を変えれば、過去の素晴らしい言葉のなかから、キングが自らよいものを選び、それに新しい命を吹き込み、人々に感動を与えたのである (214頁)

 確かに、キングの有名な「私には夢がある」も、おおもとは、面識のある牧師アーティボールド・カレー (Archibald J. Carey Jr.)が1952年に共和党大会で行った演説の一部を、ほとんどそのまま「引用」している。*11
 ただ、著者は述べている。
 白人*12 からの盗作が多かったからこそ、白人もキングの演説に良心の呵責を感じて、公民権運動を支持するようになったことも多かったはずだ、と。
 なかなか皮肉なことではあるが。

 

(未完)

*1:ただし、早瀬勝明は、様々なデータや資料を精査してみると、ブラウン判決は市民的権利運動にさほど大きな影響は与えておらず、間接的にも、黒人市民を戟舞したり、直接に白人政治家や白人市民の良心に訴え考えを変化させるような影響力を有していなかったとしている(「ブラウン判決は本当にアメリカ社会を変えたのか(2・完)」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007367662 )。

*2:キングは、ニーバーの平和主義批判(相手が「神の像」(道徳的意識)を完全に損なっている場合、非暴力による抵抗運動は失敗するとの主張 )を最終的に退け、人間に「神の像」が残されている可能性をあくまで信じた。この点、大宮有博「マーティン・ルーサー・キングJr.の愛敵論」の指摘する所である(https://ci.nii.ac.jp/naid/110002556786 23、24頁)。彼の決意は、やはり見事なものであるように思う。

*3:キングは、「バーミングハムの獄中からの手紙」で、

 実に、話し合いこそが直接行動の目的とするところなのです。非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです。それは、もはや無視できないように、争点を劇的に盛り上げようというものです。緊張をつくりだすのが非暴力的抵抗者の仕事の一部だといいましたが、これは、かなりショッキングに伝わるかもしれません。しかし、なにを隠しましょう、わたしは、この「緊張(tension)」ということばを怖れるものではないのです。わたしは、これまで暴力的緊張「治癒」としての暴力と非暴力には真剣に反対してきました。しかし、ある種の建設的な非暴力的緊張は、事態の進展に必要とされています

という風に述べている(酒井隆史「『治癒』としての暴力と非暴力」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009486240 からの孫引きに依っていることを、あらかじめお断りしておく。)。
 キングも、非暴力直接行動による「緊張」は、肯定していたのである。

*4:ウィルソン・ジェレマイア・モーゼズによると、

ガーベイは人種は分離すべきだと考え、クー・クラックス・クランをはじめとする白人の人種差別組織の指導者たちと協力しようとした。クランの指導者と会談したガーベイは、それでなくとも彼を敵視していた黒人指導者たちから総攻撃を受けた

とのことである(「マーカス・ガーベイ もうひとつの道」『ついに自由を我らに 米国の公民権運動』(日本語版)https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3350/ )。

*5: 山下壮起は、次のように説明している(「ルイス・ファラカンの政治的非一貫性 : 1984 年と2008 年のアメリカ大統領選挙から」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005640780 なお、引用符等を削除して引用をしていることを予め断っておく。)。

 UNIA が成功した背景には、リンチなどの激しい人種差別から逃れるために大量の黒人労働者が北部へ移住してきたことが挙げられる。北部では少数の黒人エリート層を中心に、全米黒人地位向上協会や全米都市協会などといった組織が生まれたが、移住してきた労働層の支持を得られず、大きな成果を生み出せなかった。しかし、UNIA の運動は、労働層の意識や要求を反映させたことで、大きな運動を生み出すことができたのである。また、UNIA のような大衆の感情に応える組織が同時期に多く形成され、宗教を背景としたものも多く存在した。そのなかの一つが、NOI の形成に大きな影響を与えたムーア人科学寺院(Moorish Science Temple)であった。その指導者であるノーブル・ドゥルー・アリが 1929 年に亡くなり、その生まれ変わりを名乗る男が出現した。それがNOI創始者であるファラッド・モハメッド(Fard Muhammad)であった。

UNIAとは、先に紹介したマーカス・ガーベイの創設した世界黒人向上協会を指す。

*6:クーリエ・ジャポンの記事「キング牧師と『白人売春婦、クィアゴスペル歌手らの乱交』」(https://courrier.jp/news/archives/170920/?ate_cookie=1580867906 )には、「FBIはキング牧師が訪問中のラスベガスで白人売春婦をひいきにしているという噂を聞きつけた。そして当の売春婦にキングらとの乱交の様子を聞き出している。キングは同時並行で複数の愛人関係も続け (引用者略) 」という文言が見える。

*7:片桐康宏は、

Bearing theCrossの中においてギャローは、キング牧師による複数の女性との関係に若干言及をしているし、また1990年に、同師による博士論文執筆上の盗用、盗作事件が明らかにされたことを契機として、翌1991年には Jour-nal of American Historyが110頁を超えるスペースを割いて、この問題を取りあげている。

と述べている(「アメリカ南部公民権運動は如何に綴られてきたのか:ヒストリオグラフィー Historiography の文脈に観る黒人公民権と将来的研究課題」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005885723 )。

*8:もちろん、本当に盗作の意識を持っていなかったのか、と疑う者もあるが。

*9:英語版wikipediaの項目には、

Fosdick outspokenly opposed racism and injustice. (引用者中略) His 1933 anti-war sermon, "The Unknown Soldier", inspired the British priest Dick Sheppard to write a letter that ultimately led to the founding of the Peace Pledge Union.

とある。以上、一部省略して引用を行った。

*10:なお、キリスト教学校教育同盟編『日本キリスト教教育史 人物編』(創文社、1977年)によると、フォスディック牧師は戦争に絶対的に反対したが、それに対して田川大吉郎は、戦争は議会が決めるもので、それに従わなければ国家は成り立たない、とした(273頁)。田川の国家主義の側面が見える話である。

*11:英語版WikipediaのArchibald J. Carey Jr.の項目を見ると、

The historian Drew D. Hansen notes that some critics suggest that Martin Luther King Jr. plagiarized from this speech in creating his own celebrated "I Have a Dream" speech, while others disagree, noting that many of the motifs and tropes were part of a common language. 

とある。実際、キングもCareyも、サミュエル・フランシス・スミスの「マイ・カントリー・ティズ・オブ・ジー」の歌詞を踏まえている。また、Careyの姪Pattonは次のごとく述べている。両者ともに、聖書と歴史という、同じ修辞的な「井戸」から言葉を汲み上げのであって、叔父は単に先んじてそれをやっただけ、と(原文:”Patton says both Carey and Dr. King drew from the same rhetorical well of scripture and history ? her uncle simply got there first.”)。
 Pattonの言葉は、ウェブアーカイブからだが、「Long lost civil rights speech helped inspire King’s dream」という記事から引用した(https://web.archive.org/web/20140101071457/http://www.wbez.org/news/culture/long-lost-civil-rights-speech-helped-inspire-king%E2%80%99s-dream-108546/ )。

*12:ただし、先のアーティボールド・カレーは、黒人であることに注意。

「俗情との結託」と『神聖喜劇』、から、花田清輝と異邦人論争の話まで -『大西巨人 抒情と革命』を読む-

 『大西巨人 抒情と革命』(河出書房新社、2014年)を読んだ。 

大西巨人: 抒情と革命

大西巨人: 抒情と革命

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は、「先日、物故した戦後文学、最後にして最大の巨匠が遺した問いとは何か。対談、文選、論考など。」という紹介文の通り、大西が亡くなった頃に出たムック本である。

 以下、特に面白かったところだけ。 

「改札スト」について

 「改札スト」は、戦後、京浜地区で実際に行われたことがあるんですよ。 (59頁)

 過去の大西との対談での、武井昭夫による発言である。*1
 大西は、スト中はただで乗客を乗せるというやり方なら支持するだろうと述べていた。
 それに対して武井は、もうやっている、と返答した。
 京浜地区で行われ、改札を無人にして乗客を無料でのせた。
 大西は、そうした「柔軟な発想」を支持した。*2

武力革命路線というマイナス

 このことは、戦後の日本の革命運動にとって決定的なマイナスでした。 (63頁)

 これも武井の発言である。
 所管派の武力革命路線と、そういう手法を受け継いでしまった新左翼
 新左翼は旧左翼を批判しつつ、こうした非現実的な方式を受け継いでいるとした。
 これは機会主義的体質である、と。

 この発言は、過去の武井自身の路線に対する総括(反省)的な意味合いもあるだろう。

 武井といえば、花田清輝との関係のこともあるが、少しながくなるので、註に回す。*3 *4

「俗情との結託」と『神聖喜劇

 ここにもマニラの青楼に対しての今日出海と同じ俗情との結託が見られねばなるまい。 (73頁)

 よく知られた「俗情との結託」論文の一文である。
 売春と社会主義反戦思想との関係(反戦主義者による売春)についてである。
 『真空地帯』は、批判されるべき点を持つ。
 つまり、学徒兵を含む兵士たちの外出時の圧倒的な関心が、買売春を主とする性欲処理であるとして描かれており、作者はそのような兵を批判することもなく、その責任を一切真空地帯(つまり軍隊)のせいにしている、という点においてである。
 軍隊とその外の社会との連続性、この問題意識から『神聖喜劇』が書かれたことは、あらためて言うまでもないはずである。*5
 ところで、今日出海*6って知ってる人、今いるんだろうか。

 未解放部落の問題も含め、軍隊の中に存在する階層がはっきり描かれている。それは社会そのものが描かれているということ (232頁)

 大岡昇平の対談での言葉である。
 『神聖喜劇』は論理そのものである、と。
 そして、社会そのものが描かれている、と。

文学は無力か

 「文学は無力ではないでしょうか」 (123頁)

 大西の中野重治についてのエッセイより。
 九州大学での講演にて、学生が引用部のように尋ねた。
 対して、中野は、そんなことはない。
 ではどんな文学があるのか。
 「ホメロスからアラゴンまで、それから『万葉集』から中野重治までの総体において文学は無力ではない」と答えた。*7

 自分も入れるところが素晴らしい。

 

(未完)

*1:この対談は、2005年が初出である。https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7334195-00 

*2:集改札ストと呼ばれる手法である。最近の集改札ストについては、ウェブサイト・「IDEAS FOR GOOD」が次のように伝えている(「集改札ストとは・意味」https://ideasforgood.jp/glossary/shu-strike/ )。

似たようなストライキは今も世界で行われており、2017年には、オーストラリアのバス会社に勤務する労働者がバス版の集改札ストを行った。会社側との賃金交渉で揉めた結果の、曜日限定で乗客から運賃を集めないストライキである。 (引用者中略) 日本では、2018年4月に岡山県を中心にバス事業を展開する両備グループの「両備バス労働組合」が、競合事業者の新規参入に伴う労働者の賃金低下や雇用不安の解消を訴えて集改札ストを行った。バス内には、「運賃無料」を知らせる張り紙が貼られたようだ。

今も一応行われている闘争手法である。

*3: 武井昭夫は、

中村光夫広津和郎の『異邦人』論争がありまして、それをめぐっていろいろその場でも論議がでたとき、花田さんが射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ、その立場から論じた人が一人でもあるか、と言うと、一瞬、会場がシーンとなった。

と、回想している(「芸術運動家としての花田清輝http://www3.gimmig.co.jp/hanada/takei.html )。もちろん、シーンとなったのは一瞬なので、さらにそのあと何が起こったのかは、知る由もないが。

 花田の発言について、中島一夫

花田の「アラブ人の立場からものを見ろ」とは、端的に「文学」の「外」を思考せよという意味でなければならない。

と述べている(https://knakajii.hatenablog.com/entry/20150126/p1 )。花田の発言が果たして文学の「外」と呼びうるのかは、まあ、今回は問題にしないでおく。少なくとも、花田の発言は、エドワード・サイードの議論や、カメル・ダーウド『もうひとつの「異邦人」』の先駆けとなるような発言ではあるだろう。
 ピエ・ノワールであるカミュの文学と、旧仏領・アルジェリアとの関係については、既に多く論じられているところである。それでは、作家であるカミュ自身は、「アラブ人の立場」から、ものを見ることができていたのか。

 この点については、原佑介が紹介する、パク・ホンギュのカミュに対する批判的応答がある(以下を参照。「「引揚者」文学から世界植民者文学へ ―小林勝,アルベール・カミュ,植民地喪失―」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006356034 )。パク・ホンギュの主張を見る限り、カミュ自身のピエ・ノワールとアラブ人との「和解」論は、やはり困難に思える。もちろん、原の紹介するイ・ヨンスクの『異邦人』論が、カミュ自身ではなくて、カミュの文学(小説)に対する一種の救いになってはいるのだが。
 では、花田は植民地の存在とどのように向き合ったのか。湯地朝雄は、次のように述べている(「『復興期の精神』の思想とその背景」http://www3.gimmig.co.jp/hanada/yuji.html )。

花田は、この論文の終わりの方で、朝鮮の将来について述べる中で、「日鮮両民族は、やがて歴史的必然の結果として、必ずや同一条件の下に、あらゆる点に於いて立つ日も遠くはあるまい。」「朝鮮人は、内地人と同様に政治的、法律的にも、同一の権利を持ち、同一の義務を争うことてなろう。」と記しています。そして、これは決して空想的なことではなくてただちに実行し得ることだ、とも言っています。朝鮮人を日本人と同等に遇すべきことを、反語的に迫っているような言葉で、これもまた、日本帝国主義の朝鮮支配に対するかなりはっきりした指弾ということができるでしょう。

 花田は、この点、湯地も紹介している李東華の思想に近い所があったといえるだろう。湯地は「一九三三年に、朝鮮独立運動の一員李東華の秘書をしていたことがあり」と紹介しているが、1933年の李東華『国防と朝鮮人』を見る限り、彼は「日鮮一家論」を唱えているからだ(もちろん、満州等への入植に対する態度などで違いは見られるが。)。

 花田が「射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ」と言った背景には、もしかしたら、こうした戦前の彼の発言があったのかもしれない。
 ただ、それでも、引っかかることもなくはない。戦後の花田が、戦前の斯様な発言をどう振り返ったのか、ということである。とりあえず、この辺で。

*4:もう一つ書いておきたい。花田は、「氷山の頭」(1952年)において、『異邦人』と異邦人論争に言及している。そこで、カミュは植民地の支配民族と被支配民族との関係などの「リアル・ポリチックス」がわかっていない、と書いている。この点は、やはり傾聴に値する意見と思われる。

 ただし注意しないといけないのは、花田が、ムルソーは正当防衛だったはず、ものの弾みで射殺してしまった、と書いていることである。実際には、売って倒れた相手に、さらに4発銃弾を撃っており、これは過剰防衛とみられるべきであろう。

 行間を読むことで有名なこの論者は、行そのものを読むのは苦手のようである、という亡き神崎繁の言葉(野澤隆之「哲学はどこまで政治を語れるか──大賢者の遺作、究極の哲学思索!」http://news.kodansha.co.jp/5319 より。)を思い出したが、まあ、この辺で。

 以上、「氷山の頭」(『花田清輝全集 第4巻』講談社、1977年)を参照した。なおこの評論、安吾の競輪不正告発の件などにも言及していて、いかにも花田らしい議論が行われている。読んでいてやはり楽しさはあるので、気になる方は是非ご一読を。

*5:大西巨人は1946年に、石川淳の小説に対して、次のように批判したという(杉浦晋「一九四七年の革命、アレゴリーアイロニー : 石川淳林達夫から大西巨人吉本隆明へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006534723 。以下の大西の文章は、杉浦からの孫引きになっていることをお断りしておく。)。

戦闘帽は「真人間のかぶる」物でない、ということは、正しいのかもしれない。しかし作家は、そのことを書いて文学にまで高めるためには、それを書くことによって痛手を負わねばならぬ。[中略]作家は、多くの国民がそんな帽子をかぶって死んでゆくのを作家自身がいささかも阻止し得なかった、ということに、深く激しく責めを感じなければならぬのである。[中略]これは石川本人としては反戦・反軍国主義的文学表現のつもりかもしれないが、こういう安易な「過去への叛逆」は、何人も一切やめるべきである

これは、『神聖喜劇』にも通じる言葉ではないだろうか。戦闘帽は「真人間のかぶる」物でない、で終わらせなかったのが、『神聖喜劇』であるからだ。

*6:「こん ひでみ」と読む

*7: 文学は無力か、という問いに対して、どのように応答できるか。例えば、次のように応答できるだろう(細田和江「書評 岡真理『アラブ、祈りとしての文学』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002314255 )。

出発点はサルトルの「飢えの前に文学は無力である」であり、それに対して「飢えにこそ文学は必要である」と異議を唱えることからはじまる。難民として生きるパレスチナ人たち、あるいはアウシュビッツで死を迎えようとするものたちが「文学を必要としていた」ことを例に挙げ、「文学は、人間がこのような不条理な状況にあってなお、人間として正気を保つために、言い換えれば人間が人間としてあるために存在する」(p.12)と述べる。

そして、

祈りは、済州島 4・3 事件という出来事に対しては無力である。しかし無意味ではない。それと同じように小説は出来事を後付けで記述するしかないので当の出来事に対して無力である。孤独や困難のなかにいる者へはほとんど届くことがない「祈り」。また小説という「祈り」によって彼/彼女たちの現実に変化がもたらされるわけでもない。現実に起こっている悲劇に小説は無力である。しかし無意味ではない。

人が死すべき存在であり、そして、人が他者に対して生き延びてしまう存在でもある以上、文学はたとえ無力と呼ばわれようと、その存在価値は十分にあるだろう。
 もちろん、これは広義の「文学」全般(演劇等も含むだろう)にいえることではある。伊藤氏貴は、岡真理の「応答」に対して、批判的でありつつも、最終的に次のように述べている(「文学の敵たちをめぐる一考察 : 漱石サルトルに抗して」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006329723 )。

文学はその可能性を内部に向かって掘り下げるよりほかない。「記号に還元されない、人間が生きる具体的な性の諸相を描き、私たちの人間的想像力と他者に対する共感を喚起する」点で、より深いものを目指して。周りに新たな敵がどれほど増えようと、むしろその分だけ内に向かって深く。

狭義の「文学」の他ジャンルに対する優位性は、確かにここに認められるだろう。