清水俊史『ブッダという男』を読んだ。
内容は紹介文の通り、
ブッダは本当に差別を否定し万人の平等を唱えた平和主義者だったのか?近代の仏教研究は仏典から神話的装飾を取り除くことで、ブッダを平和主義者で、階級差別や男女差別を批判し、業や輪廻を否定した先駆的人物として描き出してきた。だがそれは近代的価値観を当てはめ、本来の内容を曲解したものにすぎない。では、ブッダの真の偉大さは一体どこにあるのか。これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典を丹念に読みとくことでその先駆性を導き出す革新的ブッダ論。
というもの。
入門書というよりは、挑戦的著作といったところか。
以下、特に面白かったところだけ。
大量殺人者も悟れる
現代的な価値観に照らし合わせれば、驚くべき厚顔無恥さである (56頁)
『中部』八六経「アングリマーラ経」において、アングリマーラは、自分が殺害した被害者の遺族に、恨みを捨てて復讐を放棄し、仏道修行に励むよう勧めているという。
初期仏教においては、大量殺人の悪行さえも、必ずしも悟りへの障害にはなっていないのである。*1 *2
ヴェーダがヴェーダを自己否定
ヴェーダ聖典を法源とする祭祀の絶対性を否定したのは、皮肉にもヴェーダ聖典自身 (119頁)
ヴェーダ聖典では祭祀によってしか天界に再生できなかった。
しかし、ウパニシャッドが前八世紀に編纂され始めた。
その業(カルマ)の理論によって、善悪の行為が来世を決定づけており、祭祀に頼らなくても善い行いをすれば天界に再生できることになった。*3
ヴェーダ聖典を法源とする祭祀の絶対性を否定したのは、ヴェーダ聖典の中でも比較的新しい層に属するウパニシャッドであった。
祭祀に頼らなくてもいいなら司祭階級の支配に隷属する必要はない。
その結果、ヴェーダ聖典の権威を認めない自由思想家たちが、前七世紀から前四世紀ごろにかけて次々に現れた。
ブッダもその一人である。
ブッダは、輪廻を深く信じていた
いくら業が残っていても煩悩さえ断てば来世は生まれず、それこそが解脱である (184頁)
『増支部』三集七六経(阿難品に属する)などにおいて、業=田、識=種子、無明・渇愛=湿潤と関係が説かれる。
曰く、種子が芽吹くには湿潤な環境がそろわねばならないように、個体存在が来世に再生するためには業のみならず、煩悩という条件がそろう必要がある。
逆にいえば、干上がった田んぼに種子が育たないように、煩悩を断てば来世は生まれず、解脱できるわけである。
著者は、ブッダは業や輪廻の実在を深く信じていることを指摘したうえで、このよう
な解脱のメカニズムについて説明している。*4
(未完)
*1:パーリ語の「アングリマーラ経」の英訳によると、
Then Ven. Angulimala, early in the morning, having adjusted his lower robe and taking his bowl & outer robe, went into Savatthi for alms. Now at that time a clod thrown by one person hit Ven. Angulimala on the body, a stone thrown by another person hit him on the body, and a potsherd thrown by still another person hit him on the body. So Ven. Angulimala-his head broken open and dripping with blood, his bowl broken, and his outer robe ripped to shreds-went to the Blessed One. The Blessed One saw him coming from afar and on seeing him said to him: “Bear with it, brahman! Bear with it! The fruit of the kamma that would have burned you in hell for many years, many hundreds of years, many thousands of years, you are now experiencing in the here & now!”
とある(https://www.dhammatalks.org/suttas/MN/MN86.html *文字を英語のアルファベットの文字に改変して引用を行うなどしたことを断っておく。)。
「アングリマーラ経」を見る限り、遺族によるものかどうかは明確には書いていないが、アングリマーラはこうした迫害を受けてはいた。そうした迫害を受けつつも修行を続けたのである。
なお、「被害者の遺族」対して「勧めている」と本書中に記載があるが、実際に「アングリマーラ経」を読むと、ひとり座って言葉を発したというのが文脈上正しいのではないかと思われる。
片山一良訳『パーリ仏典 第1期 4 中部(マッジマニカーヤ)中分五十経篇 2』(大蔵出版、2000年)所蔵の「アングリマーラ経」(の291頁)では、本文中でアングリマーラが述べる「私の敵」は、お前も我々のように苦を受けよと非難する被害者遺族だとする上座部仏典の註を紹介されている。しかし、やはり被害者遺族に直接こうした言葉を述べているわけではないし、また、経の本文に述べられているようにアングリマーラが出家したことで生まれ変わっていることになっている(そう釈迦が述べている)点も忘れてはならない。
以上、念のため述べておく。
*2:また、楊柳「古代インドの殺人鬼アングリマーラのイメージの変容」(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174813138816 )によると、「師の妻に誘惑される(他の弟子に嫉妬される)」、「 師に教唆されて人を殺し、指を集める」といった要素は、パーリ経典には見当たらない。なお、楊の論文で参照されているのは、著者(清水)の論文・「パーリ上座部におけるアングリマーラ経釈義 : 聖典の字義と、阿毘達磨による解釈」である。
*3:ウパニシャッドにおける輪廻について、宮元啓一は次のように簡潔に解説している(「改訂新版 世界大百科事典 」https://kotobank.jp/word/%E8%A7%A3%E8%84%B1-59480 より。)。
輪廻思想は,文献の上で見るかぎり,古ウパニシャッド(前7世紀前後)に初めて現れる。 (引用者略) 二道説について見れば以下のごとくである。すなわち,人は死んで火葬に付されたのち,いったん全員月世界に赴く。そのうち,前生で善をなし,正しい知識をもって正しく祭祀を遂行した人たちは,月世界を離れ,ブラフマー(梵天)の世界に達し,二度と再びこの世に戻ってこない。 (引用者略) その他の人々は,一定期間月世界にとどまったのち,雨(雨は月から降ると考えられていた)とともにこの世に舞い戻る。やがて植物の種子に入りこみ,それを食べた人や犬などの精子となり,ついには人や犬などとして再生する。何ものとして再生するかは,前生での善悪の寡多による。
また、近年の論文、森口眞衣「「生を支え続ける死」としての輪廻思想―古代インド思想における生死観―」(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572175227561216 )も、 「古代インドにおける輪廻思想は、ブラーフマナ文献に続いて成立したウパニシャッド(Upanisad))と総称される文献群において明確に説かれるようになったとするのが一般的である」とする(*註番号を削除して引用)。
*4:著者も参考文献に挙げた、森章司「死語・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考」は、次のように輪廻に関して述べている(https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282813838245888 )。
むしろ輪廻は縁起説や四諦説や無常・苦・無我説の基礎になっているのであって,輪廻はこれらと一枚のものであり, 先に紹介した仏教学者が言うように決してレヴェルが異なる低俗な教えではないということになる。 (引用者略) 原始仏教はこういう生存のあり方を五蘊で説明したわけであるが,このような五蘊としての生存が生前にも続いてきたし,死後にも続くと考えるのである。 (引用者略) 確かに昨日の私と今日の私は, 五蘊が消滅しながら連続しているとしても理解しやすいが,生前の私と死後の私の連続性を五蘊の相続で納得するのは難しい。しかし原始仏教聖典から輪廻を理解するとすれば, 以上のようになるのではなかろうか
初期仏教における輪廻の実在、これに対する森論文の考えは、本著(清水著)とおよそ同じものと思われる。






