民主主義を単なる多数決と混同しないためにも、ぜひ読んでおくべき本。 -坂井豊貴『多数決を疑う』を読む-

 坂井豊貴『多数決を疑う』を読んだ。

 内容は紹介文のとおり、

選挙制度の欠陥と綻びが露呈する現在の日本。多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?本書では社会的選択理論の視点から、人びとの意思をよりよく集約できる選び方について考える。多数決に代わるルールは、果たしてあるのだろうか。

という内容。
 民主主義を単なる多数決と混同しないためにも、ぜひ読んでおくべき本。

 以下、面白かったところだけ。

ボルダルールのメリット

 有権者に理解してもらいやすいのはボルダルールであろう。 (55頁)

 コンドルセ・ヤングの最尤法はしくみが込み入っているからである。
 それに対して、ボルダルールは、著者いわく、「多くの人から少しづつ加点を積み重ねないと勝利しにくい。だからそのような政策、つまり広範の人々から支持を受ける政策を探し当てるインセンティブが政治家に働く」。*1
 コンドルセ・ヤングの最尤法とボルダルールの詳細については本書をあられたい。

「誰も他者を買うことができず、誰も自分を売らないですむ」

 財産の再分配は、 (引用者中略) 社会の紐帯を維持する強力な手段でもある (引用者中略) ではどの程度の再分配が必要かというと、ルソーは「誰も他者を買うことができず、誰も自分を売らないですむ」程度と表現している (87頁)

 過度の財産的不平等は、人格的にも対等な関係を壊し、高慢や追従が蔓延る状態へ社会を導いてしまう。*2 *3
 相互尊重は難しくなり、一般意志に基づく社会の維持は見込めない。
 社会は分断され、立法は一般意志に由来できなくなる。

オストロゴルスキーのパラドックス

代表制と直接制が正反対の結果を生み出しうることを、オストロゴルスキーのパラドックスという。 (92頁)

 「代表制(選挙で候補者を選ぶなど)と直接制(個々の政策を直接選ぶ)が正反対の結果を生み出すこと」を指す。*4
 選挙に勝ったからといって、そのすべての政策が指示されたとは限らないのである。*5

2/3の正当性

 そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、サイクルという構造的難点を抱えており、その解消には三分の二に近い値の64%が必要 (135頁)

 また、小選挙区の下では、半数にも満たない有権者が、衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。
 国民投票における改憲可決ラインは、64%程度まで高めるべきだ、と著者はいう。*6

「文句があるなら選挙に出ろ」という暴論

 わざわざ政治家にならねば文句を言えないルールのゲームは、あまりにプレイの費用が高いもので、それは事実上「黙っていろ」というようなもの (150頁)

 「政治に文句があるなら、自分が選挙で立候補して勝て」といった愚かな物言いに対する著者の反論である。
 これは、某ホリエモンが某茂木氏に使った論法なのだが、シングルイシューに対して「選挙に出ろ」は、無茶というか、どう考えてもコストに合わない方法である。*7

小平における住民投票問題

 都道328号線問題は、 (略) 問題の性質上、多くの人にとっては自分の生活と直接的な関連が弱い (152頁)

 関連が強いはずの市長選で、投票率が37%だったことを考えれば、35パーセントは実は高い。*8 *9
 また、例えば有権者を都民にしていたら、投票率はさらに下がっただろう。
 逆に、328号線の近隣住民だけに有権者を絞れば、あるいは、その道路の利用者だけに有権者を絞れば、投票率は大きく上がったはずである。
 そうした、関連性の問題も考慮されねばならない。*10

 

(未完)

*1:ボルダルールが単純な多数決と比べて、死票対策としても有効である点は、同志社大学 伊多波研究会 行政分科会「多数決の限界」(http://www.isfj.net/article_search.html?cx=002857797681967918554%3Ajdjjiqctkra&ie=Shift_JIS&q=%E5%A4%9A%E6%95%B0%E6%B1%BA%E3%81%AE%E9%99%90%E7%95%8C )も指摘する所である。なお、この論では、当書『多数決を疑う』も参照されている。

*2:ルソーの『政治経済論』には

政治において最も必要な、そして恐らく最も困難な事柄は、すべての人間に公平であり、とくに貧乏人を金持ちの圧制から保護するための厳格な潔白性ということにある。 (引用者中略) したがって、政府の最も重要な事業のひとつは、財産の極端な不平等を防止することにある。それは財宝を所有者から取り上げることによってではなく、それを蓄積するすべての手段を取除くことによって、また貧乏人のための救貧院を建てることによってではなく、市民が貧しくならないようにすることによってである。

とある。以上は、畑安次「ルソーの「一般意志」論」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006980770 )からの二次的な引用であり、河野健二訳『政治経済論』(岩波文庫)の35頁が該当箇所であるという。

*3: 

平等については,この言葉を,権力と富の程度の絶対的同一と理解してはならない。つまり,権力については,それが,暴力の程度にまでには決して高まらず,またつねに地位と法とにもとづいてのみ行使されるということを,ならびに,富については,いかなる市民も,それで他の市民を買えるほど豊かではなく,また,いかなる人も身売りを余儀なくされるほど貧しくはないということを,意味するものと理解せねばならない。

 以上は、岸川富士夫「自由と平等へ向かって : ロック,ルソー,そしてハーバーマス」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40020436399 PDFあり。)からの二次引用であり、原典は、桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』(岩波文庫、1972年)の77頁という。

*4:「Listening<そこが聞きたい>多数決の結果は民意の反映か 坂井豊貴氏」https://mainichi.jp/articles/20160616/org/00m/070/007000c 。このネット記事に、そのわかりやすい説明が載っている。

*5:なお、オストロゴルスキーは、1902年の「デモクラシーと政党組織」で、「政治組織や大衆デモクラシーに内包される危険性にいちほやく着目した」。
 また、「1905年の第一次ロシア革命ののちに創設された国会(ドゥーマ)の議員」となっている。「オストロゴルスキーほ立憲民主党(カデット)に所属したと考えられてきたが,国会には無所属議員として登録されている.ただし立憲民主党とは,自由な立場で連携を保持して」いたようだ。
 以上、成田博之「M.Я.オストロゴルスキ-の政治思想」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110005858222 )より、参照・引用を行った。

*6:石田良は、米国連邦議会でも憲法修正条項の追加については両議院の三分の二が必要と認めることが条件とされており、「この特別多数の『三分の二』について、コンドルセ・サイクルが存在しないための絶対多数」が「63~64%」であることから理論的に裏付けを与えようとする見解を紹介している(「投票理論の概要~意志集約方法の理論分析(1):財務総研リサーチ・ペーパー」http://www3.keizaireport.com/report.php/RID/418407/ )。
 それは、 「 Caplin, Andrew & Barry Nalebuff, 1988, “On 64%-Majority Rule.” Econometrica 56(4), 787-814.  」 とだという。

*7:衆院選小選挙区)の場合、供託金だけで300万円かかる。どう考えても高い。
 緑の党のホームページにある、供託金違憲訴訟弁護団OECD 加盟国の選挙供託金制度について」(2017年。http://greens.gr.jp/uploads/2017/10/170726OECD.pdf )によると、海外で選挙供託金制度のある国のうち、日本以外で高いのは、韓国(小選挙区比例区)の145万5千円ぐらいであろう。やはり、日本が圧倒的に高いとみてよい。

*8:福地健治によると、ドイツでの住民投票の要件は次のとおりである(「小平市における都道3・2・8号線の住民投票に関する研究―住民意識調査から「投票率50%の成立要件」の意味を考える―」http://www.uzukilab.com/?page_id=395 )。

住民投票の成立要件に関し、住民投票の先進国であるドイツの例を挙げれば、「投票率50%の成立要件」が初めて採用されたのは 1955 年のバーデン=ヴュルテンベルク州で行われた住民投票であるとされる。制度の目的は、住民投票の濫用を防止し、議会制民主主義の形骸化を防ぐためであった。この制度は約 20 年間維持されたが、多数の投票ボイコットが逆に住民投票制度を形骸化したため、1975 年に「全有権者の 30%の絶対得票率」に変更された。さらに現在のドイツでは得票率による成立要件が多くの州で緩和され、バーデン=ヴュルテンベルク州の 30%はもはや高い条件となっている。

*9:kamihoo氏ブログ「小平から世界へ」は、「小平市住民投票以後も、国内の住民投票の事例を追いかけておりますが、50%成立要件の事例は後世に悪影響を与えています」と述べて、その例を挙げている(「小平市長 小林正則氏の著作「住民投票」を読む」https://runkodaira.com/kodaira/kobayashi-jumintohyo/ )。

*10:北野収は、次のように指摘している(「私の視点:小平市住民投票 足かせになった50%要件」http://daijiminade.cocolog-nifty.com/blog/files/asahi130603_kodaira.pdf )。

受苦圏と市域がズレた点。受苦圏という概念は住民が享受していた便益が、開発で消失する地理的広がりを指し、通常、住民の生活圏に重なる。道路建設玉川上水という史跡の一部と里地の断片(雑木林)が失われれば、地域の人たちの便益が失われるのは明らかだ。一方、住民投票の単位は自治体で、受苦圏とは必ずしも一致しない。同市の北部地域の住民より、むしろ隣接する国分寺市立川市のほうが道路建設で失われる玉川上水の緑地の受益者は多いのが実情だ。

著者に共通する問題意識を「受苦圏」という面からとらえた重要な指摘である。

自分のやっていることに意味とか価値とか張り合いなんて、なるべく感じないほうがいいのだ ―金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』を読む―

 金井美恵子『夜になっても遊びつづけろ』を読んだ。

 内容は、

『夜になっても遊びつづけろ』に収められた、若き日の、ある独特の観念の硬さがそのまま、引き締まった持続と諧謔をたたえているエッセイ

という言葉に言い尽くされている。*1
 今読んでも十分効くパンチラインが炸裂している好著。
 以下、特に面白かったところだけ。

男らしさと、自己犠牲の錯覚

 本来ありもしない様々の幸福を、捨てたつもりで、捨てたという自己犠牲の錯覚にうっとりと酔って、存在するはずのない夢を探しに旅立つのが、昔から言われた男らしさの滑稽なパターン (50頁)

 捨てたという自己犠牲の錯覚、という言葉がじつに見事である。*2

張り合いなんていらない

 自分のやっていることに意味とか価値とか張り合いなんて、なるべく感じないほうがいいのだ。 (183頁)

 意味や価値を見つけようとするから、自分は間違っているのではないか、などと悩んでしまう。
 かえって、無意味で役に立たないことをしていると考えれば、そして、自分のためにしていると考えれば、続けられる。*3

比べることのつまらなさ

 セックスというものは個人的なものであって実際問題として他人と比べてみたり一定の平均を算出してみることの出来ないものであるにもかかわらず (237頁)

 自己とは無関係な所で行為された他人の性行動を、なぜか我々は気にする。*4 *5
 
(未完)

*1:高崎俊夫「『夜になっても遊びつづけろ』を再読する」http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2013/09/post-76.html 

*2:「自己犠牲によって再構築しようとする男性性」について、脇坂健介は、荒川章二や荻野美穂の論を参照して、一九三〇年代における〈男らしさ〉と無関係ではない、と述べている(「変態と植民地 : 夢野久作『二重心臓』論」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006859737 )。むろん、自己犠牲と「男らしさ」との親和性は、この時代に限ったものではない。それは、金井の執筆当時も、現在も、その価値観を引きずっている。

*3:金井は次のように書いている。

自分のやっていることに意味とか価値とか張り合いなんて、なるべく感じないほうがいいのだ。意味とか価値とか張り合いを見つけようとするから、自分のやっていることを間違っていると考え込んだり悩んだりするので、まったく無意味な役に立たないことをしていると考えれば、そしてそれも自分自身のためにそうしていると考えれば、世間に対して少し恥ずかしいところもないわけではないけれど、わたしはまだ書きつづけることができるだろう。

あくまでも、自分自身を鼓舞するための言葉であることが重要である。
 金井はさらに次のようにも述べていた。

原稿を売ること、すなわち、雑文や何かに文章を発表することをやめることによって、おそらくわたしが解放されるわけでもないし自由になるわけでもないのだ。書こうと書くまいと、退屈で平凡な輪郭のないぼんやりした日々があるだけ

 宮沢章夫は、『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版 』(河出書房新社、2015年)において、書くに値するような「劇的なるもの」への視線をうたがうこと、終わらない日常をじたばたして生きていくこと、そのことの恐ろしさを岡崎京子は描いた、というようなことを書いている(当該著275頁)。

 金井が引用部のごとく書いたのは1970年代だが、既に彼女は「劇的なるものへの視線」を疑っていたのである。

 以上、ブログ・「Dopamine-2」の記事から二次的引用を行った(http://blog.livedoor.jp/dopam333/archives/51339348.html )。

*4:

〈朝子は尊敬しているジョージア・オキーフの話をすると、進はオキーフのスカーレット色の大小の陰唇は自分の趣味〈アート上の〉には反するけれど、「女流芸術家」がオキーフにひかれるのはわかるような気がする、と言い、昨夜、自分が分け入ったばかりの陰唇のことを思い出し、同時に分け入られた側の朝子も顔を赤らめながら思い出したので――もっとも彼女は自分のそれを見たことはなかったが――〉/ね、すごいでしょ?「陰唇に分け入る」んですよ。オキーフの陰唇の絵から登場人物の性交描写につなげるあたりがうまいでしょ?/金井美恵子ならではの性描写です。秀逸です。

  以上は、ウェブサイト・”silverna.com”の制作日誌( http://silverna.web.fc2.com/diarie/2004_5.html )から引用を行った。引用されているのは、金井美恵子『恋愛太平記』からのものである。

 凡百の小説よりもはるかに上手い、としか言いようがない。

*5:ついでに、小説や映画には(女の)「陰毛は出てきても、脛毛は出てこない」は、金井美恵子一流の名言である(金井美恵子・土屋高子「小説の円熟から逃れて--新作「恋愛太平記」を逍遥する」https://ci.nii.ac.jp/naid/40003392017 )。

「思想を述べないというのも一つの思想的態度」、「政治に係わらない態度が、まさに一つの政治的立場」 -笹沼俊暁『「国文学」の戦後空間』を読む-

 笹沼俊暁『「国文学」の戦後空間』を読んだ。*1

 内容は、紹介文の通り、

「国文学」という学問は、第二次世界大戦の前から後へ、いかにして継続し、変貌を遂げたのか。大東亜共栄圏という戦時期日本の「世界観」が崩壊した後、冷戦下の世界情勢を背景として、「日本文学」はいかにして自らの自画像を描き、民族的アイデンティティーとその歴史を探ろうとしたのか。そこには、日本そして東アジアの戦前から戦後への政治・社会構造そのものが介在していた――。台湾・中国を主とした東アジアのスケールから、国民国家の学としての「国文学」の継続と変容を描き出す。

というもの。
 国文学に関心のある人は、ぜひぜひ読んでおくべき書である。

 以下、特に面白かったところだけ。

戦争による「近代性の成熟」

 戦争を通じて文学の発展と「近代性の成熟」を目指そうとする、さきに見た片岡の主張 (45頁)

 持ち場ごとに個人の技能に応じて、戦争という大目的に貢献するという社会的人間の姿を、日本文学研究者である片岡良一は、上田広の小説・「建設戦記」に見た。*2

 片岡は戦争を通じて、日本の「近代性の成熟」を志向したのである。*3

 その「成熟」は、「近代の超克」のような危うさに通じるものがある。

島田謹二と「台湾」

 島田謹二は、(略)昭和戦前・戦中期の植民地台湾で活発な執筆活動を展開し、台湾で書かれる日本語作品を考察する植民地文学論を数多く論文として発表していた (96頁)

 しかし、第二次大戦後、比較文学界をリードするようになってからは、ほぼ論じなくなっていく。*4
 代わりに、欧米文学との交流や明治期日本軍人の研究に専念するようになる。
 日本の国文学と比較文学は、およそ、かつての植民地や占領地への加害責任を忘れさって、欧米や中国文学と日本の文学との比較を行う研究を重ねた、と著者は述べる。*5
 「日本」の領域は、自明の前提として、「文学」の枠組みは強化されたのである。

西郷信綱の「転向」

 一九六一年に『日本古代文学史』を新規に書き直した「改稿版」を敢行し、「前著は放棄」することになる。 (97頁)

 このとき、西郷信綱は、文学ジャンル論は維持しつつ、「プロレタリアートの英雄」といった語彙や、「偉大な民族精神」といったマルクス主義民族主義を訴える記述は削除した。*6
 そして西郷は、折口民俗学の視点を取り入れて、古代文学における「詩の発生」の問題を考察するようになった。
 彼にとっての「左翼」性は関心の中心で無くなっていったのである。*7

「純粋」の政治性

 戦後の小西の文芸史は、こうした岡崎文芸学を、日本民族性論の大枠において継承した (129頁)

 岡崎義恵の「日本文芸学」は、文芸の領域を極端に純粋化し、政治から離れたところでの日本文芸の民族的様式性の解明を目標にした。*8 *9

 小西甚一もまた、それに連なるものだった。

 連歌に思想性がないんじゃなくて、大有りなんですね  (引用者中略) 思想を述べないというのも一つの思想的態度なわけなんです。政治に係わらない態度が、まさに一つの政治的立場 (147頁)

 加藤周一の発言である。
 これは小西甚一に反論したものである。*10 *11

植民地時代の忘却

 犬養はただただ、「万葉の心」「人間の心」「古代人の魂」と抽象的な言葉を贈るのみである。 (234頁)

 犬養孝は、かつて台湾で万葉集を教えていた。
 教え子たちは戦後『台湾万葉集』を作り、その台湾版に犬養は序文を寄せた。
 彼はその植民地支配の政治性に自分が加担したことに遂に無自覚であった。*12
 実は、『台湾万葉集』には、日本による皇民化政策や戦後の国民党支配など、激しい変化にもまれた台湾近代史の具体的な政治・社会背景が書き込まれていた、にもかかわらずである。*13

 

(未完)

*1:これを執筆した時点で、この本の密林での取り扱いがなかったため、やむなく、前著の方を掲げることとした。

*2:そういえば、水木しげる荒俣宏『戦争と読書 水木しげる出征前手記』のなかで、特攻兵士が宮沢賢治を愛読したという話がでてくる。賢治の目指した、滅私奉公を実現する社会が出来て、各自の才能に応じて最善の努力を尽くすものが、それだけ報いられる世界である(以上、当該書106頁)。

 だがしかし、それは、全体主義そのものではないだろうか。

*3:「近代性の成熟」というテーゼが戦後にも連続するものであることは、著者も言い及ぶところである。
 もちろん、この時の片岡の視界には、「個の自立」といったものは入っていなかった、あるいは希薄になっていたのではないか。

*4:松永正義は、次のように述べている(「日本における台湾文学の研究について」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007622831)。

島田謹二をはじめほとんどの関係者は,戦後台湾文学についてほとんど発言していない。戦前の台湾文学界を知るものの発言として,私の知る限りでは,池田敏雄,中村哲,坂口補子らの数編の文章(文献目録参照)があるだけだ。しかも池田,中村は,文学を専門とする人たちではない。

*5:島田謹二の戦前戦中期の仕事について、橋本恭子は次のような指摘を行っている(「島田謹二『華麗島文学志』におけるエグゾティスムの役割」http://jats.gr.jp/journal/journal_008.html )。

結局、島田の言う「外地景観描写の文学」という「エグゾティスム」は、「芸術的な香芬」という美しいパッケージとは裏腹に、台湾の既得権を主張し、植民統治の正当化を主張する、極めて政治的な機能を発揮することになったのである。

橋本の仕事は島田謹二研究において欠かせない存在なので、ぜひご一読を。

*6: むろん、「転向」(といっていいのか)より前の彼の言葉に、現在でも傾聴すべき点はある。
 例えば、

一九三〇年代の自称プロレタリア交学の失敗した原因の一つは、 労働階級の言葉の単調な転写であった。それはあたかも労働階黻の生活が一様に重苦しく、退屈で、 灰色であるかのよろに中流階級に見えたのと同様に、機械的で平板に聞こえたのである。 (引用者中略) 温かい連帯性、 何にもめげない哄笑、闘争への熱中等はみんな省かれていた

とする、プロレタリア文学への批評である。

 これは「転向」ののちも、西郷が目指した文学像に他ならない。

 以上、論文「リンゼイ・社會主義リアリズムと民族伝統」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110010007449、35頁)より引用を行った。

*7:もともと、戦前の西郷信綱の論はどのようなものだったか。

戦時期の西郷信綱の国文学論は、たとえそれが厳しい時局のなかで自らの主張をギリギリのところで主張するための方便であったとしても、日本を中心とした大東亜共栄圏の構築という、当時のある種の世界思想・普遍思想を前提としたものだった

彼の戦時の国文学論は、「大東亜共栄圏の構築」という「世界思想」を与件とするものだった。
 敗戦後、彼は、マルクス主義的な民族主義の方向へ進む。その時期には、古代文学の「原始の無階級社会」・「人間の真実の姿」といった言葉が著書・論文に見られる。しかしその後また方向転換し、民族主義的な言葉や記述は削除され、政治性は隠蔽されることとなる。

 以上、本書に収録されたものの元論文「国文学者の戦後と冷戦―西郷信綱の「国民文学」と「世界文学」言説―」(http://140.128.103.12/handle/310901/20840 )より参照・引用を行った。

*8:著者(笹沼)は前著でも、岡崎について言及していた。それはどのようなものだったか。

岡崎の「日本文芸学」の問題性について考察している。それは「鑑賞」という概念に端的に表現されているが、岡崎の論理は、ドイツ観念論的美学を根拠にしたものであり、作品を書く主体の「芸術性」に重点を置く限り、膨大な例外が捨象されていることを明らかにしている。また、岡崎は教学刷新運動に乗じて、自らが作り上げた学問に依拠し、「日本文学」の非論理性・叙情性を称揚するようになる。本書は以上のことを踏まえて、岡崎を「日本文化論」の理論的先駆者として位置付けている。

以上、ブログ・「はぐれ思想史学徒純情派」の書評(http://n-shikata.hatenablog.com/entry/20110324/p1 )より引用を行った。

*9:岩井茂樹は次のように書いている(「「日本的」美的概念の成立 : 能はいつから「幽玄」になったのか?」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005681570 )。

大正末期から、昭和初期にかけて国文学界は実証主義の全盛時代であり、例えば「……本」と呼ばれる本の、サイズや装丁などのデータだけで、研究と称していたこともあったという。岡崎による「日本文芸学」の提唱は、国文学が人々の生活感情と何の交流をもたないような文献学に堕してしまっていることに対する警告であり、それを打破する方法の提示であった。

以上が、岡崎義恵が「日本文芸学」を立ち上げた背景である。
 書誌学的研究が悪いというのではないが、岡崎の初心がここら辺にあることは指摘しておかなければならない。

*10:著者は別論文にて、小西甚一は、アメリカ側からのオリエンタリズム的な視線から作られたドナルド・キーンのものと対応し相補し合う形で、政治的に無害な日本文学史を作った、と評している(「小西甚一と〈日本文学史〉の戦後空間--ドナルド・キーンとの対比から」http://thuir.thu.edu.tw/handle/310901/14943?locale=en-US 235頁)。
 また、キーンについて、

キーンの日本文学論には、アメリカ側にとって都合の悪い反米的な政治性や軍国主義の思想を除去したところで、日本文学の民族的な自己同一性を肖定的に描き出し、その芸術性に 「理解」 「共感」する側面があるといえよう。

とも(「ドナルド・キーンと戦後日本 : 日本文学研究とアメリカの影」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000834540 )。

*11: 

例えば、連歌というのがございます。私は連歌をおおいに論じたいのですが、そのなかに、思想性というのは何もなし、。あっては困るんで、むしろ、連歌は、言葉やイメージで描きましたオーケストラのようなものです。オーケストラは何もそこに人生観とか世界観とかを求めるわけじゃなくて、要するに非常にきれいな音の世界を形成するだけで、思想性なんか何にもないと思うんですけれどもこれと同じ性質の連歌も素晴らしいもののーっとしてぜひ取り入れたい。

という、そんなら音楽の方が連歌よりよほど上等になるではないか、とツッコミを入れたくなる小西甚一の発言に対して、加藤周一は、

ある作品が、つくられ、受け入れられるということが、その時代の思想のあらわれであるかないか、ということです。その意味で、連歌に思想性がないんじゃなくて、大有りなんですね。たとえば、あれは集団制作でしょう。集団制作というのは、実に日本の文化の特徴でしょう。 (引用者中略) 集団主義こそある意味で日本の文化を貫く大原則であって、思想上の大問題ですし、社会的な背景としてもとらえられると思うんです。それから、中国の杜甫の詩みたいに人生とはこういうもんだというようなことは言ってなくて、その場できれいなことだけ言っているっていうこと、まさに、哲学をその中で述べないということ自身が、集団帰属意識の強い社会の思想的態度です。思想っていうのは、思想を述べないというのも一つの思想的態度なわけなんです。

と述べている。
 小西は、

もともと連歌は、庶民系統のが本流になったのでして、藤原定家あたりが作っていたのとはちょっと系統が違うんです。その連中が、花のもとなんかに集まって催した連歌には、上流の人達が持っていた思想なんであるわけがない。

と応えているのだが、加藤の述べたことには応答していない。
 小西の言い分は、音楽でいえば、ハウス・ミュージックを「無思想」だと言い張るようなものだが、もちろんそう言い切れるはずもない。
 以上、加藤周一,Keene Donald,小西甚一,芳賀徹「シンポジウム 「日本文学史について」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006727450 より引用した。

*12:著者はこの章のもとになった論文(*同題)で、次のように書いている(「外地の国文学と「風土」―犬養孝の万葉風土論と台湾―」http://thuir.thu.edu.tw/handle/310901/20822?locale=en-US )。

犬養は、植民地台湾のエリートたちに対し『万葉集』を講ずるという、皇民化政策を直接推進する立場にあったが、島田謹二らのように、その結果どのような現象がおこるか、またそれを大日本帝国のなかの「外地文学」としてどのように発展させていくべきかまで踏み込んで考察することはなかった。まして、国文学の皇民化がどれほど政治的な暴力性をもつ行為なのかについてはまったく無頓着だった。

*13:『台湾万葉集』を刊行した孤蓬万里こと呉建堂は、

皇民化運動として改姓名許されたるは昭和十六年」と「高校の卒業証書は日本名大田建太郎学者の如し」という歌からすれば、彼は「皇民」政策支持者だったと見て取れる。 (引用中) 日本の軍籍を授けられた以上、「皇楯」だったともいえる。しかし、呉建堂『孤蓬万里半世紀』の「人権を重んずる見地から、植民地は将来再びあってはならぬものであり、今更日本の植民政策を云々しても仕様がない」という主張に従えば、戦後の呉は皇民化運動を含む植民地支配を非難するようになった

という人物である。また、「その呉主宰の考え方と同調するように、皇民を批判する短歌が現われ」るようになった。
 以上、LAI Yenhung の「台湾における皇民化運動 : 政策の形成と短歌の広がり」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40022173492/(PDFあり) )より、註番号を削除して引用を行った。

ストリート・アートと美術館やギャラリーのアート作品とを分けるものは何か ―毛利嘉孝『バンクシー』を読む―

 毛利嘉孝バンクシー アート・テロリスト』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

正体不明の匿名アーティスト、全体像に迫る入門書の決定版

というもの。
 およその全体像が本当にわかるので、最初に読むには実にオススメ。

 以下、特におもろしかったところだけ。

皮肉たっぷりのスタント

 あいかわらず、皮肉たっぷりのスタントだった (144頁)

 2018年、バンクシーが、英ロイヤル・アカデミーの「サマーエキシビション」に、あるポスターを展示する。
 それは、「vote Leave」(離脱に投票)というポスターの「ea」をバンクシーのトレードマークの赤い風船を使って「o」にして、「Vote to love」に描き替えたものだった。
 じつは当初、バンクシーペンネームを使って一般公募枠で応募して、落選していた。
 その後、その事実を知ったロイヤル・アカデミーから出品依頼があったので同じ作品を送り、正式に展示することになったわけである。*1

法よりも「良心」が優先された

 けれども裁判は、歴史的な判決を下します (174頁)

 バンクシーがつくった番組の中で取り上げられた話。*2
 ある時、女性たちが夜中に忍び込んでハンマーで戦闘機などを破壊して、武器輸出を食い止めた。
 彼女たちは、インドネシアに輸出され、東ティモール(当時はまだインドネシア領)でのジェノサイドに使用される可能性があったためである。
 女性たちは逮捕されたが、裁判の結果、「道徳的に正当化される」とリバプール刑事法院は判断した。

 この女性たちの団体・「シーズ・オブ・ホープ」の行為は、裁判で市民的不服従として認められた。*3

 法よりも「良心」が優先されたのである。

シチュアシオニストとしてのマルコム・マクラーレン

 ビジネスを始める前にはイギリスのシチュアシオニストアナキストのグループ、キング・モブのメンバーとして活動していました。 (228頁)

 バンクシーの話題とは離れるが。
 マルコム・マクラーレンは、もともとシチュアシオニストだった。*4
 パリ五月革命のときには、結局パリにたどり着けず、友人とともに、自分たちが通うクロイドン美術学校の占拠に参加する。*5
 その後アメリカにわたり、ニューヨーク・ドールズのマネージャーを務め、イギリスに戻る。
 そこで、セックス・ピストルズを売り出すこととなる。

都市の景観は誰のものか

 都市空間が公的なものだからこそ、グラフィティが登場する余地があった (295頁)

 西欧において、都市の景観は、土地所有者や建物の所有者が勝手に決められないからこそ、景観が守られている。
 それ対して、グラフィティは、公的な空間から排除されている人々が自分たちの空間を取り戻す試みである。
 都市における文化的な市民権を獲得する運動でもある。
 ここでいう「公的」とは、個人にも行政にも属さない、人びとが集まって討議ができるような開かれた空間である。
 周縁化されている人々が尊重される空間が、目指されているのである。
 日本の事情とはやはり異なる(日本の都市景観は、土地所有者や建物所有者が好き勝手をやっている)が、しかし、ここでいう「公的」な空間から排除されている人々がいる点は、やはり共通している。*6

ストリート・アートと美術館のアートとを分けるもの

 ストリート・アートが、美術館やギャラリーのアート作品と決定的に異なるのは、 (中略) 最終的に価値を判断するのが市民だということです。  (299頁)

 ストリート・アートにおいて、ある表現の良しあしは、公的な議論を形成する市民の手にゆだねられる。
 これは、アートの民主化ともいえる。*7

 逆に市民の支持が得られなければ、バンクシーの作品であれ、消去され撤去されることになる。
 そういう意味では、市民の感性こそが問われるタイプのアートではあるのだ。

 

(未完)

*1:ちなみに、そのペンネームは、

「Banksy anagram(バンクシーアナグラム)」のアナグラムである「Bryan S Gaakman」という偽名

だったらしい(鈴木沓子「バンクシーは、なぜ作品を切り刻まなければならなかったのか?」https://bijutsutecho.com/magazine/insight/18818 )。

*2:原題は、”Antics Roadshow”。邦題は、「バンクシーの世界お騒がせ人間図鑑」である。すげえタイトルだな。

*3: 実際のところ、女性たちは、刑務所に送られるのだろうと覚悟していた。じっさい、過去において、英国及びそれ以外の場所で行われた「活動」の例では、数週間から10年以上、刑務所送りになっていたからである。

 ただ、弁護側は、 the Criminal Law Act 1967 (1967年刑法)と国際法をもって、彼女たちの行動の正当性を訴えた。「犯罪が起きているのを見れば、それを防ぐために行動する責任もある」のだと。

 その結果、陪審員たちは彼女たちの行動は正当なものと判断した。

 以上、Paul Hainsworth の The Hammer Blow: How Ten Women Disarmed a Warplane という記事に依拠して書いた(参照:https://www.developmenteducationreview.com/issue/issue-26/hammer-blow-how-ten-women-disarmed-warplane )。

*4:著者自身の説明によると、

シチュアシオニストとは、フランスの思想家・映画作家ギー・ドゥボールが50年代末に始めた、文化を通じた政治運動だ。現代社会をメディアと資本主義が支配する「スペクタクルの社会」ととらえるこの運動は、落書きやビラなど自律的なメディアを利用しながら白分たちの生活を再デザインし、メディアに奪われた都市生活を自らの手に奪還することを主張した。68年のパリ五月革命にも影響を与えたことで知られる。

とのことである(「マルコム・マクラーレンを悼む」http://bijutsu-gakka.blogspot.com/2010/05/422asahi.html )。

*5:荏開津広によると、

クロイドン美術学校の学生だったマルコム・マクラーレンは親友のジェイミー・リード、そしてロビン・スコット(のちに「Pop Muzik」を大ヒットさせるM)と共に、別館での座り込み抗議を計画組織し実行に移した。マニフェストが撒かれ、部屋はロックアウトされた。しかし、教師に対しての些事でしかない文句以外に、マクラーレンもリードも言うことはなかったとされ、運動はしりつぼみになって幕を閉じた。

というのが、実情だったようである(「荏開津広『東京/ブロンクスHIPHOP』第7回:M・マクラーレンを魅了した、“スペクタクル社会”という概念」https://realsound.jp/2017/10/post-116743.html )。

*6:日本の場合、まず、景観に対する対策として、

土地所有権者以外の多様な主体の参加や所有者以外の利用の促進も考えられている。すなわち「新しい公共」である地域組織によるエリアマネジメントの活動に期待することになる。その際、我が国に根強くある所有権の絶対性が、処分を難しくさせている。土地の持つ多面的な公共性とこれまでの私有権の絶対性の関係を再考することが必要である。

と、日本における土地所有権の強さに対する対策が、よく言われる(日本学術会議 土木工学・建築学委員会 景観と文化分科会「報告 我が国の都市・建築の景観・文化力の向上をめざして」http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-h133-9.pdf )。

*7:以下、富田与「バンクシーを巡る「仮面性」、「公共性」、「市場性」、そして「共犯者」」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130007844841 )より引用する(原典は、バンクシー『Wall and Piece【日本語版】』(パルコ、2011年) )。

僕らが見るアートは、選ばれたひと握りの人々によって作られる。わずかな人々が創造し、推進し、購入し、展示し、そしてアートの成否を決める。世界で、ほんの数百人の人間だけがリアルな発言権を持っている。美術館に出かけていく君は、大金持ちのトロフィー棚を眺めている旅人にすぎないのだ

バンクシーも、「アートの民主化」の方向性を肯定している。
 また、

街をマジに汚しているのは、バスやビルに巨大なスローガンをなぐり書きして、僕らにそこの製品を買わない限りダメ人間だと思い込ませようとする企業のほうだ。やつらは、ところかまわず平気で僕らにメッセージを浴びせるくせに、僕らが反論することは決して許さない。やつらがケンカを売ってきたから、反撃の武器に壁を選んだのさ

という言い分も面白い(前掲富田「バンクシーを巡る「仮面性」、「公共性」、「市場性」、そして「共犯者」」)。都市景観を汚しているのはまず資本側だという。

 そのとおりだ。

『平家物語』にまとわりつく古びた「読み」を剥ぎ取り、「キメラ」のようなテクストのさまを露にする ―大津雄一『「平家物語」の再誕』を読む―

 大津雄一『「平家物語」の再誕』を読んだ。

『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩 (NHKブックス)

『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩 (NHKブックス)

  • 作者:大津 雄一
  • 発売日: 2013/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り

「奉公の誠」を語る日本精神の粋、もののふの文学、歴史の進歩と発展を語る、新興階級武士の文学…。『平家物語』に幾重にもまとわりつく古びた「読み」。そうした読みの形成過程を剥ぎ取り、『平家物語』が時代とともにどう歩んできたのかを明らかにする。近代日本の隠されたもう一つの道筋を辿る労作。

というもの。
 平家物語にある先入観(バイアス)が剥ぎ取られていくのは、実に読んでて楽しい。

 以下、特に面白かったところだけ。

王権の回復、という物語のフレーム

 この物語の政治的関心は、天皇王権の絶対性の保持にある。 (210頁)

 『平家物語』において、武士が戦いに参加した理由として挙げられるのは、主人への恩、名誉、温床の獲得である。
 もちろん、抑圧する旧秩序打倒などと発言されることはない。
 そしてこの物語は、清盛が王権に反逆し、最終的に、王の命を受けた源氏に排除されて王権が回復するという枠組みである。*1
 あくまでも、王の政治が尽きようとしていることを嘆いている。
 新時代の到来を喜ぶことはないのである。

木曽義仲への構成の思い入れ

立ち居振る舞いの武骨さ、方言もあったであろうその言葉遣いの聞き苦しさを指摘する。 (91頁)

 近代において、例えば保田輿重郎らは、木曽義仲に野生の純粋な人間らしい英雄を見た。*2
 しかし、『平家』は義仲についてはそんな評価を与えていない。
 滑稽なことをする田舎者として描いているにすぎないのである。*3 *4

西欧的な運命論で読みすぎない

 全体的に見るならば、「幸運」の意味で使われることが圧倒的であり、この物語を西欧的な運命論・宿命論で理解しようとすることは相当に慎重であるべきだ。 (223頁)

 『平家物語』には「運命」などの言葉が出てくる。
 しかし大半は、「幸運」という意味でつかわれることが圧倒的に多い。*5
 ギリシャ悲劇などでみられるような「運命論」の文脈で『平家物語』を読むと、誤った読解につながりかねない。*6

キメラ的な『平家』

 しかし、一方で物語は愛を妄念・妄執と否定するのである。 (242頁)

 『平家物語』にはキメラ的なところがあり、物語を構成する中小のエピソードは、同じ価値観を語ってはおらず、時に矛盾している(そして、著者はその矛盾じたいは肯定している)*7*8
 たとえば、『平家物語』には、死を前にした人間の愛と絆が語られているといわれる。
 実際、死によって隔てられる親子、男女、などの愛と絆は美しく語られる。
 しかし一方で、愛を妄念と否定してもいる。
 極楽浄土を願うものは阿弥陀の慈悲にすがらねばならないが、その条件は阿弥陀以外の思い(他念)を捨てて南無阿弥陀仏を唱える必要があった。
 愛は美しいものなのか罪深いものなのか、どちらが正しいのか語られることはない。*9

 

(未完)

*1:著者は次のように述べている(「義仲考 : 王権の<物語>とその亀裂」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009922110 )。

天皇王権を中心としその絶対不可侵性を共通の規則とする共同体凶内部の秩序(コスモス)に、 謀反人と呼ぽれる異者が混沌(カオス)を一時的に持ち込むが、 天皇王権を護持する神仏・冥衆という超越者の加護の下、 ある人物によって謀反人という異者は排除され、 共同体は秩序を回復する」 。 軍記に限っても『将門記』『陸奥話記』『保元物語』 、 そして『承久記』『太平記』にも、 そういうく物語>は簡単に見出すことができる。

著者(大津)は、『平家物語』もまた、その例外ではない旨、述べている。
 もちろん、そうした<物語>について、

大津理論の根幹は、「天皇王権の至高性を共通の規則とする共同体」の「イデオロギー」が、 物語を支配しているとするところにある。。この「共同体」は、 九世紀から近代までの日本を包括する、非常に抽象度の高い、超歴史的な概念である

として、佐伯真一はその点、警戒気味であった(佐伯「大津雄一著, 『軍記と王権のイデオロギー』」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009894747 )。まあわかる。

*2:谷口敏夫は次のように書いている(「保田與重郎芭蕉』の構造可視化--日本語文章の絵解き」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007564552 )。

保田は芭蕉を中世後鳥羽院以降・隠遁詩人の系譜で最後の詩人ととらえている。「後鳥羽院以降」とは承久三年(1221)の変で後鳥羽院鎌倉幕府執権北条氏に破れ隠岐島に流され、その地で 60 歳・延応元年(1239)に亡くなった以降を指す。芭蕉について保田は大津市膳所にある義仲寺の昭和再建に関わり、保田の墓は木曽義仲芭蕉とともにその地にある。

保田にとって、義仲への思いは、芭蕉への思いとともにあった。

*3: もちろん、保田らの読み方が、全く根拠のないものでないことは言うまでもない。著者は次のようにも書いている(「義仲考 : 王権の<物語>とその亀裂」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009922110 )。

しかし義仲には、 たとえ延慶本というテクストであろうとも〈物語〉へと回収されることを拒むものがある。それは、何かといえば、義仲のなかにある、 この共同体と王権のルールを共有しない〈他者〉性であろう。 (引用者中略) 八幡の加護を願って願書を書かせたことなども制度的な言動の一つである。しかし、縷々述べてきたように義仲には明らかに濃厚な〈他者〉性がある。

義仲は、『平家』テクストの主流に抗うような、異物的存在であり、そこに魅力が見いだされることもまたあり得ることである。

*4:義仲の「主上にやならまし、法皇にやならまし」等の発言が、「異物となって、受容者を強く刺激し続ける」といった著者(大津)の主張に対して、佐伯真一は、

たとえば江戸時代の注釈・評判書の類では、義仲を手ひどくこきおろす『平家物語評判秘伝抄』や『平家物語抄』などでさえ、この言葉に対しては何の反応もしていない。

と、疑問もあることを述べている(前掲佐伯「大津雄一著, 『軍記と王権のイデオロギー』」 )。一方、佐伯は、実際に高木武『大日本文庫・平家物語』(1935年)は「テキストからこの発言を削除するという暴挙」を行ったとも述べる。

 やはり大津が本書・『「平家物語」の再誕』で指摘するように、前近代と近代(明治のある時期以降)とで、なんらかの断絶があると考えたいところである。

*5:コトバンクの項目(「精選版 日本国語大辞典の解説」)は、 

平家物語」では「運命ひらく」「運命かたぶく」など、「幸運」の意の用法が優勢である。

としている。

*6:著者(大津)によると、『平家物語』のなかで、西欧的な「運命」の語に近い意味で用いられているのは、「天運」(*灌頂巻「六道」より)の一例のみである。

*7:私たちの世界は一つの価値観で割り切れるものではない、というのが著者の考えであり、それは正しかろう。

*8:著者は別の論文で次のように述べている(「『平家物語』の「愛の物語」」https://ci.nii.ac.jp/naid/130005878584 )。

平家物語』は、各物語間を調整し、遺漏のないより大きくて均質な物語世界を構築しようなどとは考えていない。だから、統一されたより大きな物語世界を求めてやまない私たちが、類似した構造や設定や表現をたよりに、そもそも目的のことなる、ある物語と別の物語との間を勝手に架橋し始めると、齟齬が生じ、とまどうこととなる。架橋への誘惑が、このテクストには多いのだ。 (引用者中略) しかし、その拙さは、愛を語る物語についての多角的な学習の機会を与え、物語という虚構装置のありようへと視線を誘う。物語に一方的に教育されるのではなく、物語について学ぶ機会を得ることができる。

*9:例えば、著者が例に挙げている平維盛の場合はどうか。

 講談社学術文庫版『平家物語(十)』(1985年。なお、覚一本版である。)によると、滝口入道は平維盛

御身こそ蒼海の底に沈むと思召さるとも、紫雲のうへにのぼり給ふべし。成仏得脱してさとりをひらき給ひなば、娑婆の故郷にたちかへ(ッ)て妻子を道びき給はむ事、還来穢国度人天、すこしも疑あるべからず

と入水するよう説得している(199頁)。妻子への愛執を戒める滝口入道も、最終的には、極楽浄土に往生すれば、妻子を救うことができると、維盛に述べている。やはり、愛は美しいものなのか罪深いものなのか、どちらが正しいのか、語られることはない。少なくとも、判断しがたいものとなっていることは間違いない。

かつては中国趣味と結び付いていた盆栽が、次第に日本趣味へと転向していった話 -依田徹『盆栽の誕生』を読む-

 依田徹『盆栽の誕生』を読んだ。

盆栽の誕生

盆栽の誕生

  • 作者:依田徹
  • 発売日: 2014/04/28
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

世界の“BONSAI”その歴史を探る。盆栽はいつから日本の伝統文化になったのか。歴史をひもとき、織田信長徳川将軍家明治天皇大隈重信らの愛好ぶりを紹介。

という内容。

 盆栽が前近代期と近代期とで、非連続性がある、というのがわかる本である(乱暴な要約)。

 盆栽好きの方も、そうでない方も、ぜひどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

「盆栽」に組み込まれた「盆石」

 義政はよく優柔不断だったといわれているが、五山の僧侶には強気だったようだ。 (13頁)

 室町期、禅僧が「盆山」を趣味にしていた。
 「盆山」とは、簡単に言うと、石に樹木を根付かせたものである。*1
 将軍はこれらをことごとく集めようとした。
 渋る寺には、奉行が押し入り、隠していた場合は有罪にしたという。*2

 盆山は後世、「石付き盆栽」と呼び変えられることになる。

 近代における「盆栽」という枠組みにのなかに、吸収された格好である(156頁)。

トリッキーさから自然さへ

 江戸時代の鉢木の主流は「蛸作り」であり、曲がった枝を見せようというものであった。 (61頁)

 江戸の植木屋は樹木を曲げて、人の意思に従わせる技術に長じていた。*3
 その美意識は、現在の盆栽が目指す「自然の美」とは方向性が違ったのである。*4

 タチバナのような園芸植物にくらべて随分と安かった江戸時代の「蛸作り」と異なり、マツ類など常緑樹が主役となる世界観が作られた (88頁)

 それは、明治期の「自然主義」の流行が背景にある。*5
 この時代、盆栽も「自然」重視となり、トリッキーな「蛸作り」などは、主流でなくなっていく。
 そして、植物も、マツが主役になる。
 マツは、過酷な環境に耐え、年数を重ねた木が多かった。
 そんなマツを、盆栽に仕立てて、政財界の人間たちが高額で買うようになる。

中国(文人)趣味から、近代的な日本趣味へ

 そんな「茶道」のような細かな規範にしばられないこと、そして売茶翁のような自由の境涯をもとめるのが煎茶の心である。 (69頁)

 江戸期、煎茶が町人、特に大阪の町人たちに流行する。
 その背景にあったものはなんだったのか。
 当時の「茶道」は、武家を担い手として、規範化と権威主義の傾向を強めていた。
 それに対して、細かい規範に縛られない自由を求めて、煎茶が流行したのである。
 このような中国趣味(文人趣味)に溢れた煎茶会において、盆栽は飾られたのである。*6
 なお、文人盆栽においてメインとなったのは、木の方ではなく、それが入る中国製植木鉢のほうだったようだ。

 かつては中国趣味と結び付いていた盆栽が、次第に日本趣味へと転向していった (148頁)

 しかし、明治の後半に、大きな変化が起こる。
 盆栽は。茶の湯や生け花を参考にしながら用語*7を取り入れ、日本の伝統文化としての体裁を整えようとしたのである。
 いわば、宗旨替えである。

 茶の湯や生け花の権威が高まっていく流行現象にのったのである(156頁)。

 盆栽は茶の湯のような封建制度を引きずらない、近代的な趣味だったとさえいえる (127頁)

 明治維新後、武家社会は崩壊した。

 儀礼としての茶の湯の権威は失墜し、いったんその価値観はリセットされた。

 実際、茶の湯にゆかりのあった家の出身である旧藩主(旧高松藩主の松平頼寿、旧姫路藩主・酒井忠正ら)や豪商(鴻池幸方)らは、茶の湯ではなく、盆栽・盆景の趣味に走った。

 そのご明治中期以降に、茶の湯は、千家などの家元や武家によってではなく、益田鈍翁ら新時代の富裕な数寄者らを中心に復興された。*8

 明治期は、競馬やゴルフなど新しい趣味も育って行く時代だったが、盆栽もまた、そうした近代的な趣味の一つとして、存続していくこととなったのである。

 盆栽は近代において、伝統文化としての体裁を整えた、新しい趣味だったのである。

手軽だからこそ世界へ

 誰でも手を出せるという手軽さが、大衆化を可能とした (159頁)

 「蛸作り」などの場合、型があって自由度がない。
 専門の職人の世界だった。
 あくまで技術重視である。
 対して、近代の「盆栽」の場合、自由度は高い。
 「鉢木」から高度な培養の技術を引き継ぎつつ、「自然」を規範とする美意識を強めるようになった。 樹木それぞれの個性を伸ばせばいい。
 誰でも手軽に樹木の生命力と自然を規範とした美の世界に接することができる。
 だからこそ盆栽は、日本のみならず、世界に広がったのである。*9

番外編・日本茶について

 元文三年(一七三八)になり、宇治茶師の永谷宗円が蒸気を加えて揉む「蒸し茶」、すなわち現在の日本茶の製法を開発する。 (66頁)

 盆栽ではなく、お茶の話である。
 ある時期までの日本茶は、製茶技術が未熟だった。*10 *11

 そのため、茶葉も黒味を帯びた荒い作りだったという。

 

(未完)

*1:猪俣佳瑞美は、「盆山」の起源について、次のように述べている(「鉢植えの文化論 : 日本古代から中世まで」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005671317 )。

706 年に建造された章懐太子李賢墓の壁画に描かれた植物も「盆山」であるように見えるため、このような手法は中国からもたらされた、と考えて間違いない。

「盆山」は中国からもたらされたのだろう、と推定している。

*2:『蔭凉軒日録』の1463年5月25日には、将軍・義政の命令にも関わらず自分の寺院にある盆山を差し出そうとしない寺院に対して、必ず差し出すよう厳命したという内容が書かれている(林まゆみ「中世民衆社会における造園職能民の研究」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3179177/5?tocOpened=1、54頁)。

 『蔭凉軒日録』の1463年5月25日のくだりは、本書(依田著)でも参照されている。

*3:その美意識の最たるものとして、広重の浮世絵にも描かれた、清水観音堂の「月の松」などを想起すべきであろう。もちろん、実際にこの浮世絵どおりのものだったのかは、考慮すべきところではあるが。

*4:本書には、水野忠暁『草木錦葉集』の「古風作松之図」の図が載っている。S字を描きながら屈曲し、各所の小枝の枝先にのみ扇形の葉が茂っている様子がうかがえる。デジコレで観れるhttps://twitter.com/sk8babji/status/868623843522265088 。

*5:ただし著者は、「蛸作り」が近代に姿を消したのは、煎茶趣味が大きな原因と述べてもいる。煎茶と盆栽の関係については、後述する。

*6:小川後楽『煎茶席の花』(保育社、1986年)には、近世の煎茶書の盆栽飾りの図なども載っている(当該書130頁)。

*7:たとえば、もともと茶の湯の用語だった「右勝手」「左勝手」などが、それに該当する。

*8:なお、益田も盆栽をやっていたとの記述が、本書(依田著)の116頁にある。

*9:菅靖子は、戦前の盆栽の西洋(イギリス)での受容について次のように述べている。

盆栽に関しては,イギリスでは「ピグミーツリー」,「ドウォーフツリー」,「ミニチュアツリー」などの呼び名で,19世紀初期より中国のものが知られており,日本に関しても1850年代頃から時折言及されてきた。 (引用者中略) 盆栽は万国博覧会の展示を通して,独立した芸術的表現として生け花よりも早く世界に紹介されている

ただし、菅は、「日本家屋に見られるような空間デザインが演出されるようになり,その一要素として生け花,盆栽を意識したかたちで植物が配置されるようになるのは,むしろ両大戦間期,すなわちモダニズム隆盛期」だとしている。
 盆栽の世界への広がりは戦前からあったことを強調すべく、引用・参照した次第である。

*10:早川史子と日比喜子は次のように書いている(「蒸し茶および釜炒り茶の嗜好性」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh1994/6/2/6_2_51/_article/-char/ja/ )。

1600年代後半すでに庶民は茶を常用し,従って日常品となった茶をどこの家でも,誰でも,手間をかけずにできる湯びく,釜で炒るなど簡便な方法で茶を造り,飲んでいたことになる./一方,今日のように熱湯を注ぐだけで煎汁がでる蒸し茶は1738年に宇治の永谷宗円によって従来の蒸し茶に改良が加えられたものである.

*11:若原英弌は、『万金産業袋』の記述に依拠して、永谷宗円以前から彼発案のはずの新製法は既に行われていたとする。そして宗円は、その製法を公開伝授した点で有名になったのではないか、という。(以上、若原「茶業の発展」『茶道聚錦 5 茶の湯の展開』(小学館、1985年)272頁)。

 かような若原の説に対して、西村俊範は、画像資料や発掘資料を見る限り、若原が述べるような変化は、「万金産業袋」にすら先行しているとし、

煎じ茶の変化は実は二段構えになっており,元禄を過ぎたあたりでまず茶筅を使用しないお茶へという最初の変遷が生じたと見るべきであろう

とする(「桃山~江戸中期,庶民のお茶」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006382138 )。そして西村は、「類似の製法自体は宮崎安貞がさらに先行して述べている」と、17世紀末まで遡るとしている。

ピカソの是非を問うことは、美術、そして、美術館の是非を問うことにつながる ―西岡文彦『ピカソは本当に偉いのか?』―

 西岡文彦ピカソは本当に偉いのか?』を読んだ。*1

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

  • 作者:西岡 文彦
  • 発売日: 2012/10/17
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

「なぜ『あんな絵』に高い値段がつくのか?」「これって本当に『美しい』のか?」。ピカソの絵を目にして、そんな疑問がノド元まで出かかった人も少なくないだろう。その疑問を呑み込んでしまう必要はない。ピカソをめぐる素朴な疑問に答えれば、素人を煙に巻く「現代美術」の摩訶不思議なからくりもすっきりと読み解けるのだから―。ピカソの人と作品に「常識」の側から切り込んだ、まったく新しい芸術論。

という内容。
 読んでみたら思いのほか面白かった、というのが正直な感想。
 以下、特に面白かったところだけ。

ピカソの商的嗅覚

 キュビスムの絵を売ってくれる画商の肖像はキュビスムの手法で描き、印象派の販売で定評のある画商には印象派風の作品を描いて渡すばかりか、その画商や家族の肖像まで印象派風に描いている (46頁)

 ピカソは、画家としての才能だけでなく、商的嗅覚を備えていた。
 ピカソは、画商の路線に応じて柔軟に画風を変えたのである。*2
 肖像画を描いて、画商との関係を強化する手法を、ピカソは徹底させた。

ピカソのデッサン力

 この神がかったまでのデッサン力は、釘で引っ掻いたような銅版画の線などでは戦慄的なまでに発揮され、わずか一本の輪郭線で人体に、筋肉や骨格の構造から、それらをうっすらと覆う贅肉までが描き出されています。 (163頁)

 驚くべき筆力である。*3

「美術品の中の美術品」としてのキュビスム

 唯一ともいうべき実用性は、それが見せるためにおかれていることにあった (182頁)

 通常の高額商品は、購入後に見せびらかすことはひんしゅくを買うが、美術品はそうではない。
 なぜなら、美術品の唯一の実用性は、それを見せることにあるからだ。
 逆に言うと、それしか実用性は無い。*4
 そして、その場合、ピカソこそ、偉大な画家ということになる。
 なぜか。


 美術品という展示する以外実用性のないものにおいては、「美」(≒共感)ではなく「破壊」(≒非共感異化)の方向こそ、より価値を持つ。
 なぜなら、より一層ハイコンテクストすぎて一般の人にはその値段が正当化しきれないものであるからだ。
 そのような、より一層「実用性」が低く、美術品の中の美術品と言える存在こそ、より価値を持つ。
 その「破壊」(異化)の方向の極北こそ、キュビスムであった。
 ピカソの絵は、美術品という見せびらかす以外に価値を持てない(多くの人には理解されない)非「実用」的な存在である。*5
 そして、見る人を限定するという意味で、見せびらかしすらやりにくいという点でも非「実用」的な、「美術品の中の美術品」なのであった。

美術館という「殻」とピカソ評価の関係

 ピカソこそその美術館にふさわしき偉大な画家ということになり (176頁)

 美術館という施設は、美術品を本来的用途(例えば、家具や調度品といったものも含め、本来の文脈・使用用途)から分断して、審美的な鑑賞のために陳列をする。
 もし、そうした美術館というありかたを批判するのであれば、近代以降の美術館中心主義がおかしいことになる。*6 *7
 となると、ピカソを偉大とする審美眼を疑うのも、道理がないこともない。
 だが反対に、美術館を、人類の美的遺産を特定の文化や宗教の拘束から切り離して、人文的(普遍的)資産として見るための施設とみなすのであれば、どうか。
 そうなれば、美術館中心主義も肯定されることになるだろうし、ピカソの地位も安泰である。
 美術館という「殻」をどう考えるか。*8
 それには、政治的権力や経済、特定の宗教や文化から独立した「美術(アート)」なるものの存在に対する評価がかかわってくるし、また当然、そこにおいて、ピカソ評価の如何もかかわってくるのである。
 ピカソの是非を問うことは、そのまま、美術、そして、美術館の是非を問うことにつながるのである。

 

(未完)

 

*1:積読してほとんど読んでなかったものを、今回ちゃんと読んだ。

*2:孝岡睦子はウィリアム・ルービンによるピカソ評価について、次のように述べている(「ウィリアム・ルービンのパブロ・ピカソhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120006488525 *註番号を省略して引用を行った。)。

分析的キュビスム期の作品にみられる微妙な様式上の違いについて、その要因としてルービンは、モデルとピカソとの関係におけるピカソの心理の違いを説く。分析的キュビスム期の二作品 (引用者中略) を比較する場合、後者よりも前者のほうに写実的再現性の古向さを見出し、その決定因子として、ヴォラールとカーンワイラー両画商とピカソとの力関係に起因する心理的相違を指摘している。すなわち、同志としてのカーンワイラーを表現する際よりも、ヴォラールをモデルとする際には、ピカソよりも優位であったその画商との力関係が、ピカソ自身に様式上の冒険を抑斤させたというのである。

ここでのルービンは、ピカソと画商との協力関係の一面ではなく、画商との間の非対称的な権力関係の一面に、より注目しているようである。

*3:小山清男はピカソのある素描について次のように述べている(「ひと筆描き私見https://ci.nii.ac.jp/naid/130001819363)。

キュービスムからシュールレアリスムへと変貌し,人体を,ほとんど破壊的ともいえるほど解体したピカソであるが,以上のように一見無雑作に引かれたようにみえるひと筆描きの線が,人と馬との動勢をあらわし,立体的,空間的な写実の表現となっているのである。サーカスの素描であるが,流動的な素描の線そのものが,サーカスの演技のようにみえてくるともいえようか。

ピカソの優れた構成力を物語る例である。

*4:対して、フェノロサは、

洋の東西を問わず美術を全体の構造から引き離すことが,「抽離」の美術を「純正」美術として尊び,応用美術を末端,職人の業として蔑視する風潮を生んだとする。

そして、

今後日本美術を一層振起する方法はただ一つ,「抽離」の弊を離れ,応用美術の蔑視を止め,日常生活の用と密着した活きた美術によって美術振興の経済的条件を作り出し,かつての美術隆盛期と同じ状況に至らしめることであると結論する。

フェノロサは、「日常生活の用と密着した活きた美術」の両立を目指そうとする(回復しようとする)潮流に、連なる人物であった。
 以上、鵜﨑明彦「「抽離」の美術 : フェノロサの美術館批判をめぐって」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006471552 )に依った。

*5:近代という万人へ芸術が開放された時代において、逆説的に、限られた人々による前衛芸術の創作と享受が生まれた。この点については、以前、阿部良雄『ひとでなしの詩学』へのレビューhttp://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20140517/1400313569で言及したことがある。

*6:

記念建造物が共同体の象徴であり,そこを飾っていた芸術作品は共同体の歴史や政治的・宗教的理念や感情と有機的に結びついた共有物であり,それを元々の場所から引き離して収容する美術館は,共同体のそうした歴史・理念・感情が織りなす生命を奪うまさに墓場,共同体の対立物に他ならないことを物語っている。

このような発想は、近代西洋には長らく続いて来たものであった。
 その例として、テオドール・アドルノは、

芸術作品とそれを生み出した環境を一体不可分のものと見なすヴァレリーと,そうした環境から切り離されたところから芸術作品の真の生が始まると考えるプルーストを対置している

(*以上、前掲鵜崎論文より引用)。

*7:いっぽう、松宮秀治は次のように述べている(「岡倉天心と帝国博物館」http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/50508.pdf )。

西欧の「芸術」概念の成立は、新興の市民階層が王権と宗教権力のふたつの権力に従属せる「諸技芸」を解放し、自己のものとするためのイデオロギー的要求にもとづくものであった。それは芸術の「市民化」, 「民主化」という意味での,文字通りの民主主義の要求にもとづくものであった。ミュージアムとは西欧にあっては,まさにこの芸術の民主化,市民化を合法化する施設,機関として,つまり教会に代る新しい「美術教会堂」, 「芸術神殿」として生み出されたものであった。

松宮は、「芸術」概念が芸術の民主化、市民化につながる概念であることに注意を促している。そして、岡倉天心の博物館思想に、西欧の「ミュージアム」の思想のなかに含まれている市民主義と民主の要素が、はじめから考慮の外に置かれていたと述べている。
 また、松宮は別の論文では、

いうなればミュージアムは、ひとびとを「国民」に収斂させていくベクトルとひとびとを「世界市民」に開放していくベクトルという両方向の力をもった思想である。

と、その両義性について指摘している(松宮「ミュージアムの思想と制度」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005818477 )。

*8:小柳敦史は「殻」という語の両義性について、次のように述べている(「資本主義の精神と近代の運命 : ヴェーバーゾンバルト・トレルチの比較から」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002906813 *註番号を削除して引用した)。

「鉄の檻」は「倫理」論文の大塚久雄訳で「(ein stahlhartes)Gehause」にあてられた訳語であるが、荒川敏彦はこの訳語、そしてこの訳語に大きく影響を与えたと推測されるタルコット・パーソンズによる「Iron Cage」という英訳にはヴェーバーが本来「Gehause」に込めた意味を歪めてしまう危険性があることを指摘し、一つの試みとして「殻」という訳語をあてることを提案している。その中心的な問題は、「Gehause」が一般的には内部を守るための硬いケースや殻のようなものを指す語であるのに対して、「Cage」は閉じ込める檻やカゴをイメージさせる語であるというものである。その結果、「こうして従来のゲホイゼ解釈から「内部を守る」という意味が欠落していったと考えられる」という。資本主義経済の淘汰の中で生き残るために必要な保護を与えるものとして「Gehause」は理解される。それは単に制度的に押し付けられるものではなく、生き残るために必要とされる。かくして「「職業人たらざるをえない」近代人は、近代的経済秩序の殻に自発的に閉じこもり、かつ強制的に閉じ込められている」という「保護と重荷の両義性」が明らかになる