初期仏典では、ブッダは業や輪廻を否定していないし、大量殺人者も悟れる -清水俊史『ブッダという男』を読む-

 清水俊史『ブッダという男』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

ブッダは本当に差別を否定し万人の平等を唱えた平和主義者だったのか?近代の仏教研究は仏典から神話的装飾を取り除くことで、ブッダを平和主義者で、階級差別や男女差別を批判し、業や輪廻を否定した先駆的人物として描き出してきた。だがそれは近代的価値観を当てはめ、本来の内容を曲解したものにすぎない。では、ブッダの真の偉大さは一体どこにあるのか。これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典を丹念に読みとくことでその先駆性を導き出す革新的ブッダ論。

というもの。

 入門書というよりは、挑戦的著作といったところか。

 以下、特に面白かったところだけ。

大量殺人者も悟れる

現代的な価値観に照らし合わせれば、驚くべき厚顔無恥さである (56頁)

 『中部』八六経「アングリマーラ経」において、アングリマーラは、自分が殺害した被害者の遺族に、恨みを捨てて復讐を放棄し、仏道修行に励むよう勧めているという。

 初期仏教においては、大量殺人の悪行さえも、必ずしも悟りへの障害にはなっていないのである。*1 *2

ヴェーダがヴェーダを自己否定

 ヴェーダ聖典を法源とする祭祀の絶対性を否定したのは、皮肉にもヴェーダ聖典自身 (119頁)

 ヴェーダ聖典では祭祀によってしか天界に再生できなかった。
 しかし、ウパニシャッドが前八世紀に編纂され始めた。

 その業(カルマ)の理論によって、善悪の行為が来世を決定づけており、祭祀に頼らなくても善い行いをすれば天界に再生できることになった。*3

 ヴェーダ聖典を法源とする祭祀の絶対性を否定したのは、ヴェーダ聖典の中でも比較的新しい層に属するウパニシャッドであった。

 祭祀に頼らなくてもいいなら司祭階級の支配に隷属する必要はない。

 その結果、ヴェーダ聖典の権威を認めない自由思想家たちが、前七世紀から前四世紀ごろにかけて次々に現れた。

 ブッダもその一人である。

ブッダは、輪廻を深く信じていた

 いくら業が残っていても煩悩さえ断てば来世は生まれず、それこそが解脱である (184頁)

 『増支部』三集七六経(阿難品に属する)などにおいて、業=田、識=種子、無明・渇愛=湿潤と関係が説かれる。

 曰く、種子が芽吹くには湿潤な環境がそろわねばならないように、個体存在が来世に再生するためには業のみならず、煩悩という条件がそろう必要がある。

 逆にいえば、干上がった田んぼに種子が育たないように、煩悩を断てば来世は生まれず、解脱できるわけである。

 著者は、ブッダは業や輪廻の実在を深く信じていることを指摘したうえで、このよう

な解脱のメカニズムについて説明している。*4

 

(未完)

*1:パーリ語の「アングリマーラ経」の英訳によると、

Then Ven. Angulimala, early in the morning, having adjusted his lower robe and taking his bowl & outer robe, went into Savatthi for alms. Now at that time a clod thrown by one person hit Ven. Angulimala on the body, a stone thrown by another person hit him on the body, and a potsherd thrown by still another person hit him on the body. So Ven. Angulimala-his head broken open and dripping with blood, his bowl broken, and his outer robe ripped to shreds-went to the Blessed One. The Blessed One saw him coming from afar and on seeing him said to him: “Bear with it, brahman! Bear with it! The fruit of the kamma that would have burned you in hell for many years, many hundreds of years, many thousands of years, you are now experiencing in the here & now!”

とある(https://www.dhammatalks.org/suttas/MN/MN86.html *文字を英語のアルファベットの文字に改変して引用を行うなどしたことを断っておく。)。

 「アングリマーラ経」を見る限り、遺族によるものかどうかは明確には書いていないが、アングリマーラはこうした迫害を受けてはいた。そうした迫害を受けつつも修行を続けたのである。

 なお、「被害者の遺族」対して「勧めている」と本書中に記載があるが、実際に「アングリマーラ経」を読むと、ひとり座って言葉を発したというのが文脈上正しいのではないかと思われる。

 片山一良訳『パーリ仏典 第1期 4 中部(マッジマニカーヤ)中分五十経篇 2』(大蔵出版、2000年)所蔵の「アングリマーラ経」(の291頁)では、本文中でアングリマーラが述べる「私の敵」は、お前も我々のように苦を受けよと非難する被害者遺族だとする上座部仏典の註を紹介されている。しかし、やはり被害者遺族に直接こうした言葉を述べているわけではないし、また、経の本文に述べられているようにアングリマーラが出家したことで生まれ変わっていることになっている(そう釈迦が述べている)点も忘れてはならない。

 以上、念のため述べておく。

*2:また、楊柳「古代インドの殺人鬼アングリマーラのイメージの変容」(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174813138816 )によると、「師の妻に誘惑される(他の弟子に嫉妬される)」、「 師に教唆されて人を殺し、指を集める」といった要素は、パーリ経典には見当たらない。なお、楊の論文で参照されているのは、著者(清水)の論文・「パーリ上座部におけるアングリマーラ経釈義 : 聖典の字義と、阿毘達磨による解釈」である。

*3:ウパニシャッドにおける輪廻について、宮元啓一は次のように簡潔に解説している(「改訂新版 世界大百科事典 」https://kotobank.jp/word/%E8%A7%A3%E8%84%B1-59480 より。)。

輪廻思想は,文献の上で見るかぎり,古ウパニシャッド(前7世紀前後)に初めて現れる。 (引用者略) 二道説について見れば以下のごとくである。すなわち,人は死んで火葬に付されたのち,いったん全員月世界に赴く。そのうち,前生で善をなし,正しい知識をもって正しく祭祀を遂行した人たちは,月世界を離れ,ブラフマー(梵天)の世界に達し,二度と再びこの世に戻ってこない。 (引用者略) その他の人々は,一定期間月世界にとどまったのち,雨(雨は月から降ると考えられていた)とともにこの世に舞い戻る。やがて植物の種子に入りこみ,それを食べた人や犬などの精子となり,ついには人や犬などとして再生する。何ものとして再生するかは,前生での善悪の寡多による。

 また、近年の論文、森口眞衣「「生を支え続ける死」としての輪廻思想―古代インド思想における生死観―」(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572175227561216 )も、 「古代インドにおける輪廻思想は、ブラーフマナ文献に続いて成立したウパニシャッド(Upanisad))と総称される文献群において明確に説かれるようになったとするのが一般的である」とする(*註番号を削除して引用)。

*4:著者も参考文献に挙げた、森章司「死語・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考」は、次のように輪廻に関して述べている(https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282813838245888 )。

むしろ輪廻は縁起説や四諦説や無常・苦・無我説の基礎になっているのであって,輪廻はこれらと一枚のものであり, 先に紹介した仏教学者が言うように決してレヴェルが異なる低俗な教えではないということになる。 (引用者略) 原始仏教はこういう生存のあり方を五蘊で説明したわけであるが,このような五蘊としての生存が生前にも続いてきたし,死後にも続くと考えるのである。 (引用者略) 確かに昨日の私と今日の私は, 五蘊が消滅しながら連続しているとしても理解しやすいが,生前の私と死後の私の連続性を五蘊の相続で納得するのは難しい。しかし原始仏教聖典から輪廻を理解するとすれば, 以上のようになるのではなかろうか

初期仏教における輪廻の実在、これに対する森論文の考えは、本著(清水著)とおよそ同じものと思われる。

法律や規律を守る訓練として、プラトンが取り上げたのが「飲酒」だった件 -神崎繁『人生のレシピ』を読む-

 神崎繁『人生のレシピ』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

哲学者の仕事の一つは「考えること」である。一人で?そう、自分の頭で。疑問に思ったら、あれこれとことん調べながら、あれとこれとを繋いだり、重ねたり、比較したりして考える。―と同時に著者は、いつもプラトンやアリストテレスと一緒に、ときにヴィトゲンシュタインやフーコーとともに考えつづけた。残されたエッセイを読めば、今度はわたしたちが著者と一緒に考えることができる。やわらかな知性がひらく、哲学の扉の向こう。

というもの。哲学者の遺作集であるが、内容は比較的優しめのものが多いので、この分野が得意でない人にもすすめられる。

以下、特に面白かったところだけ。

飲酒を(条件付きで)推奨するプラトン?

法律や規律を守る訓練として「飲酒の風習」を取り上げている (18頁)

 プラトンの『法律』の冒頭に書かれていることである。

 酒を飲むのは、適切な範囲で取る限りならば、法を破るほどの過剰な欲望や恐怖に打ち勝つ日常的訓練となるというのである。

 プラトンによると、酒による酔いはその人の人柄を知るための最も簡単なテストだという。

 なお、具体的には、30歳までは酒は水割りで酔いを避け、40歳以降は魂を若返らせるためにディオニュソスへの賛歌とともに飲むという。*1

なんで「中動相」なの

 最近「党首討論」なるものがあるが、あれはお互い一方的に「話す」だけで、「話される」方はすっかり抜け落ちていたような気がする (47頁)

 この発言は、2007年ごろの政治討論について述べた言葉である。

 「聞く」ことの不在に着目するこの重要な指摘は置いておいて、気になるのは同じ文章に出てくる「日本のギリシャ語教育では、どういうわけかそれを『相』と呼ぶ」という言葉だ。

 つまり、ギリシャ語文法では「受動態」のような「態」ではなく「中動相」のような「相」と呼ぶのはなぜかということだ。

 そういえばなぜなのだろう。*2

死は何物でもない、とルクレティウスはいう。

 様々な可能性の中から何かを選び出して完成するということにも意味がなくなる (64頁)

 ルクレティウスは『物の本性について』において、死は原子の配列の変更にすぎず、死はなにものでもないと述べる。

 もちろん次のような反論が想定できる。

 死とはしかし、生きていれば得られたであろう様々な可能性を断ち切られることではないか、と。

 それに対しても、ルクレティウスは、反論を想定したように書いているのだという。

 すなわち、生にそうした終わりがなければ、そもそも可能性じたいに意味がなくなり、また、様々な可能性の中から選び取って完成させることに意味がなくなるのではないか、と。*3

 これを受けて、著者(神崎)は、次のように述べている。

 だがしかし、身近な人の死は自分の一部をもぎ取られるような悲しみを与えるのであり、死は死者の上にのみ起こった出来事ではないではないか、と。*4

 

(未完)

*1:里中俊介はプラトン『法律』における飲酒の存在意義について次のように述べる(「プラトン『法律』におけるムーシケー論」https://www2.sal.tohoku.ac.jp/estetica/wakate62/pdf/wakate_09.pdf )。

『法律』においては、そもそも人間はムーシケーの源となる本能的な衝動を有しているということが述べられている (引用者略) 。幼い子供が無秩序に叫んだり、とび跳ねたりしようとする衝動がそれである。 (引用者略) そのような衝動にリズムとハーモニーという一定の秩序が与えられることで、ムーシケーが生まれるのである。つまり、ムーシケーは人間の非理性的な、ある種の狂気からもたらされるということである。しかしながら、そのようなムーシケーの源としての幼少期の強力な衝動は、成長にするに従い、思慮によって覆われ、その力を弱めていく。そのために、歳を重ねた人間ほどに大衆の前で歌い踊ることに「ためらい」(Leg.2, 665e1)が生じるというのである。この「ためらい」を払拭するために、『法律』においては、人間の思慮を弱め、人間を大胆放埓な行動へと駆り立てる飲酒と酩酊が、ディオニュソスの歌舞団に対して推称されるのである。

ここでいうムーシケーは、「音楽のみならず、詩等を含むムーサの女神に与る技芸を意味する語」である。

*2:1933年の鳴瀬恒太郎『ギリシア語文法』(尚文堂)だと「中動態」と呼んでいるのだが、1950年の田中美知太郎と松平千秋『ギリシア語文法』(創元社)だと「中動相」になっている。その後の呼称の推移を見るに、田中・松平著が転換点と考えられる(ただし、呉茂一は『ぎりしあの詩人たち』(筑摩書房、1956年)で、「中動態」と呼んでいる(同書215頁)。)。

 で、この田中・松平著に大きな影響を与えたのは、おそらく、言語学者である小林英夫などの著書ではないかと思われる。というのも、例えば小林の訳したアンリ・フレエ『誤用の文法 : 機能言語學的研究』(春陽堂、1934年)では、「古代印欧諸言語(ギリシヤ語,インド・イラン語)に於て中動相 (voix moyenne) 」云々と、「中動相」の語を使用しているからである(同書202頁)。

*3:こうした著者(神崎)によるルクレティウス解釈は、どこか、ハイデガーの先駆的決意性を思わせないでもない。著者の言う、デジャ・リュ(既読感)というものであろうか。

 先駆的決意性について、例えば寺井紀惠は次のようにわかりやすく説明している(「ハイデガー初期思想における自己と他者の関係性への問い―『存在と時間』における「死へかかわる現存在」と「民族」から考察する―」https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845763352406528 *註番号などを削除して引用を行っていることを断っておく。)。

ハイデガーによれば、この諸可能性は、伝承された「遺産(Erbe)」の中からつかみ取るものである。可能性は、この時点ではまだ無数に存在し、本質や重要度も大きく異なる。しかし、先駆的決意性が強く決意すればするほど、無数にある諸可能性の内から偶然的なものや暫定的なものが消え、選択すべき可能性がひとつに絞られていく。死を強く見つめ、それがおのれにとって他人事ではなく、不可避であるということを真に自覚したとき、現存在はおのれの選ぶべき本当の可能性を真剣に選別するようになる 。このようにして、現存在はおのれの本来的可能性を選び取る。

*4:場合によっては、死はその人自身よりも、身近な人にとってより多くの悲しみとなることもありうる。死はその当人にとっての経験の終わりであるが、その人の死は身近な人にとっては、より持続する経験であるからだ。なにより、ひとは、自らの死までに多くの身近な人(及び人以外)の死を経験する。

「現代の日本人は芸術の種類におのづから上品下品の差別あることを知らず」(荷風) -原克『悪魔の発明と大衆操作』を読む-

 原克『悪魔の発明と大衆操作 メディア全体主義の誕生』を読んだ。

 内容は紹介文のとおり、

現代の大衆である我々と大衆文化は、二〇世紀前半、メディアの揺籃期に誕生した。ラジオ、テレビが出現した時期である。今日、それらは当たり前のように存在し、我々は一方的な情報の受け手として、なんの疑問もなくそれに接している。しかし初めてそれらが登場したとき、人々はとまどいながらも果敢に接していた。いったい我々は、メディア大衆としてどのように飼い慣らされていったのか。何が獲得され、何が失われたのか。今や第二の自然となった「ラジオ」と「テレビ」、個人情報問題の先駆けともいえる「パンチカード」、個人性を排した大衆管理の象徴である「火葬」の発明をめぐって考察していく。

というもの。
 論じかたは幾分か仰々しいものの、取り上げられるトピックには興味をそそられるものが多い。

 以下、特に面白かったところだけ。

パンチカード処理機の画期性

 一八八二年、新しい大量情報処理システムが考案され、事態は一変した。 (84頁)

 アメリカ合衆国の人口調査は1790年以降、10年ごとに行ってきた。

 だが、1880年の第10回の調査では集計が終わるまで7年かかかった。

 しかしパンチカード処理機の登場によって事態は一変する。

 考案者は、MITのドイツ系研究員ハーマン・ホレリスだった。*1

 処理スピードは速くなり、多くの設問項目を設けることも可能になった。

 著者によると、個人的な生活情報を中心に235個にのぼる項目をたてられるようにもなったという。

散骨と、ナチスの全体主義

 ペルトルが提案したのは「散骨」である (126頁)

 1935年、ヒトラー政権下にベルリン市造園局長に就任したのが、ヨーゼフ・ペルトルであった。

 彼は、荼毘に付した遺骨を入れた骨壺を納骨堂に収める、そのやり方に、個人主義の痕跡をみた。

 そして別の方法を考えた。

 散骨である。

 具体的には、林縁に囲まれた草地に遺骨を散布するのがよいと考えた。

 散骨は、ナチズムの「滅私合体」イデオロギーの下に置かれると、途端にグロテスクな色彩に染まる。*2

永井荷風の浪曲嫌い

 今夜鴎外先生地下にありてラヂオの浪花節をきき如何なる感慨に打たれ給ふや (180頁)

 『断腸亭日乗』の1935年7月25日のくだりである。

 ラジオ放送で鴎外の『山椒大夫』を浪花節にアレンジしたものを、永井荷風は聴いた。

 作者は大阪の脚本家である大森痴雪である。

 しかし、鴎外は浪花節を宴席でも聞くのを好まず、その野卑な曲節を不愉快だと述べていたと荷風は主張する。*3
 浪花節は今日こそ「国粋芸術」などと軍人や愛国者に愛好されているが、40年前は、東京では「デロリン左衛門」(デロレン祭文)と呼び最下等な大道芸にすぎず、「梅坊主」(豊年斎梅坊主)のかっぽれよりも下品な芸とされていたのだという。

 永井荷風は芸術の「上品下品」にこだわる人であった。

 

(未完)

*1:パンチカードといえば、その活用の先駆ともいえるジャカード織機を思い浮かべるところであるが、ホレリスとジャカード織機の関係について、住田潮は次のように書いている(「世界をORする視線(11)第Ⅰ部 通信・デジタル技術の発展(3)コンピュータの発展 : IBMの誕生」https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572360430144640 )。

国勢調査を主管する全国健康局の副総裁の地位にあったビリングスは,統計事務処理の自動化の必要性を切実に感じていた.特に,紋紙と呼ばれる穿孔された厚紙で織物の模様を自動的に制御するジャガード織機の原理を活用すれば,国勢調査の集計作業を機械的に処理できるのではないかというアイデアを早くから温めていた. (引用者略) 統計の機械的処理について,しばしばビリングスと意見を交換したホレリスは,電気式統計表作成機の開発を志す決意を固めた.ホレリスが技術者として優れていたのは,概念に基づいて発明に取り組むのではなく,発明の結果をどう使うかを考えるところから出発した点にある.

*2:もちろん、散骨は、ナチズムのイデオロギーに寄与するのみではなく、そうしたイデオロギーを挫く試みにも用いられる。共同通信(2023年8月14日)によると、

第2次大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑になった東条英機元首相らA級戦犯を巡り、米軍が秘密裏に太平洋で散骨した理由を記録した公文書が14日までに見つかった。「英雄や受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきだ」と、軍国主義の復活につながりかねない戦犯の神聖視の阻止を明記。ナチス・ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判の死刑囚を川に散骨した措置を「先例」とした。散骨の理由や決定過程が公文書で裏付けられるのは初めて。

とのことである(「A級戦犯、崇拝阻止で散骨 決定過程、米軍公文書で初判明」https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1204460 )。

*3:実際、鴎外の小説・『余興』には、次のようなことばが見える(「青空文庫」より引用http://www.kepe.net/ruby/ruby.php?myurl=https%3A%2F%2Fwww.aozora.gr.jp%2Fcards%2F000129%2Ffiles%2F2079_23239.html )。

浪花節が始まった。一同謹んで拝聴する。私も隅の方に小さくなって拝聴する。信仰のない私には、どうも聞き慣れぬ漢語や、新しい詩人の用いるような新しい手爾遠波が耳障になってならない。それに私を苦めることが、秋水のかたり物に劣らぬのは、婆あさんの三味線である。この伴奏は、幸にして無頓著な聴官を有している私の耳をさえ、緩急を誤ったリズムと猛烈な雑音とで責めさいなむのである。 (中略) 義士等が吉良の首を取るまでには、長い長い時間が掛かった。この時間は私がまだ大学にいた時最も恐怖すべき高等数学の講義を聴いた時間よりも長かった。それを耐忍したのだから、私は自ら満足しても好いかと思う。

『人類の進歩と調和』をテーマにした万国博に広島、長崎の原爆は調和しない、と広島市長(当時)は言った -吉見俊哉『万博幻想』を読む-

 吉見俊哉『万博幻想』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

万博は一貫して、豊かさへの大衆的な欲望と国家の開発主義政策との癒着を可能にする仕掛け―万博幻想―として機能してきた。本書は、こうした「幻想」を広く長く作用させてきた「政治」の場としての万博の内実とその行く末を、国家と地方行政、財界、知識人そして大衆の間に繰り広げられるせめぎ合いに焦点を当てることで浮き彫りにする試みである。

というもの。

 歴史的に日本において万博は「開発」のための大義名分として使われてきたが、時代を経るにつれて環境保護とどう折り合いをつけるかがいよいよ課題になっていった。

 そのことが厚めの記述の中で理解できるようになっている。

 以下、特に1970年の大阪万博に関する箇所について、特に面白かったところだけ。*1

万博から消された原爆展示

 原爆写真をめぐる一連のゴタゴタがある。 (59頁)

 1970年の大阪万博において、テーマ館に計画された原爆展示は、政府や地方自治体から「生々しすぎる」として展示内容の変更を余儀なくされ、日本館の歴史展示からは明治から現代へと飛び越えることで戦争の記憶を消去している。

 このような検閲や排除の根拠として使われたのが、「人類の進歩と調和」という大阪万博のテーマであった。

 実際、原爆展示の企画に対して、反対の声をあげていた広島市長は、原爆資料展示は「人類の進歩と調和」という万博のテーマにふさわしくないと語った(『朝日新聞』1967年10月20日)。*2  *3

万博の会場と、破壊された風景

 この会場跡地を歩いても、ここがかつて丘や谷が入り組んだ鬱蒼とした竹林だったことを想像するのは難しい。 (75頁)

 大阪万博の会場としてはもともとあった丘や池などの自然地形や鬱蒼とした竹林は姿を消し、平地に広がる人工都市が造成された。*4 *5

 しかし、こうしたことは、当時特に問題になっていなかった。

 このことを批判的に取り上げたメディアの言論をこの時代にはほとんど見いだせないのである。

よくこれにOKを出したな

 一日二四〇時間分の活動ができるようになる神経加速剤 (79頁)

 大阪万博のパビリオンの一つ、自動車館では、未来の都市で一日二四〇時間分の活動ができるようになる神経加速剤が発明されたという設定のもと、忙しく動き回る人々の姿が映し出された。
 上記の映像は脚本が安部公房なので風刺の狙いもあったものと思われるが、いちおうパビリオン側に許容されたようだ。*6 *7
  また、未来の交通システムのモデルとして、コンピュータの指示通り動く小型自動車のサーキットも設置された。

もはや万博の主催者

 いや、マスコミは万博の主催者になったのではないか (90頁)

 万博会場には東京オリンピックをしのぐ立派なプレスセンターが開設され、そこにいれば「会場内外の出来事が掌握できる情報提供サービスが提供されていた」。

 こうした光景に対して上田哲は、万博閉幕後に次のように述べる。

 なぜこの万博会場から文明批評が報道の基調にならなかったのか、マスコミは協賛者であったのみではなく、万博の主催者になったのではないか、と(「マスコミの大作「万博の巨像」」)。

 万博についての膨大な情報があふれ出る中で、ジャーナリズムは自らの足場を見失っていた。*8 *9

 そして、こうしたことは、情報社会の典型的な現象でもある。

 もちろん、それは現在2020年代にも続く話である。

*1:以下の内容は、同著者『博覧会の政治学 まなざしの近代』の内容と重複する箇所のあるものであることを、念のため付記しておく。

*2:この時の広島市長は、山田節男である。中国新聞社のウェブサイトから引用を行う(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=26173 )。

1967/10/19 万国博・日本政府館への被爆資料出展案に山田広島市長が「『人類の進歩と調和』をテーマにした万国博に広島、長崎の原爆は調和しない。フィリピンやインドネシアからはヒロシマだけが世界の平和のメッカではないとの声もある」と反対声明 

なお、山田自身は、1968年において、

原水爆は、それが単に強力なせん滅破壊の兵器というだけでなく、その放射能の拡散は、地球上、ついに人間の生存を許さなくすることは明らかである。けれども、世界の人々の多くは、まだそのことの恐怖にめざめていない。/核軍縮は国際政治の日程にのぼっているが、それは必ずしも核兵器の全面廃止を約束するものではなく、かえって勢力均衡の上に世界を置くおそるべき危険性をはらんでいる。

とも「平和宣言」で述べており、核兵器に対する反対姿勢を明確にしている(「平和宣言」https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/heiwasengen/9459.html )。公平を期すため、一応書いておく。

*3:こうした日本政府等側の大阪万博での諸行に対して、浜井信三広島市長(当時)は、「なにかにつけ原爆は〝くさいものにフタ式”の扱いを受けてきた。万国博とて例外ではないだろう。ものごとの本質を見きわめないで人類の進歩と調和は考えられぬ。日本政府館は日本の現実のうえに展示さるべきだ」と批判的な見解を示した」という(奥田博子『原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想』(慶應義塾大学出版会、2010年)、149頁)。

*4:元々、千里丘陵は、ニュータウンの開発以前から住宅開発が行われていた場所で、大正期には、「千里山住宅地」が出来ていた。千里丘陵では桃や筍が栽培されており、「特に山田地区の「銀筍」は有名であった」という(三井住友トラスト不動産・このまちアーカイブス「自然豊かな『千里丘陵』」https://smtrc.jp/town-archives/city/senri/index.html )。ここでいう山田地区は、今の万博公園をも含む地域を指すものであろう。

*5:山田の「銀筍」については、北田順三編『千里の歴史と伝統 20話』(千里20年まつり実行委員会、1982年)の「第14話 タケノコと桃」を参照してほしい。

*6:「おもちゃ映画ミュージアム」のブログ記事・「盛会で終えた故・勅使河原宏監督『1日240時間』上映と講演会」には次のようにある(https://toyfilm-museum.jp/blog/column/18865.html )。

“自動車館”のテーマは「リズムの世界」。監督は勅使河原宏さん、脚本は安部公房さん。講演で名前は上げられませんでしたが、この作品の音楽は佐藤勝さんでした。音楽も重要なポイントだったと思います。/先にあげた写真の左スクリーンに映る博士が、生き物の動きが10倍になる不思議な液薬“アクセルチン”を開発し、それを飲むことで1日分の仕事が1時間でこなせるようになります。右スクリーンに写る女性は助手の役。それを開発したことによって、様々な悲喜劇が巻き起こり、二人は逃走を図り、ついには肉体が全速力で回転するタイヤに変貌するという色彩豊かなSFミュージカル作品です。

*7:この映画が、風刺的、批評的意味合いを持つことについて、友田義行は次のように書いている(「安部公房×勅使河原宏『1日240時間』の復元上映 研究ノート」https://researchmap.jp/tomoda-yoshiyuki/misc/15901743 )。

自動車によって移動や労働のための時間が短縮された分、人間が自由に使える時間は拡大されるはずであった。しかし、そうでもなかったようだ。『1日240時間』は、自由を獲得したはずの人間が、その自由を持て余す様子や、欲望に駆り立てられてますます憔悴する姿を、批判的に暴き立てている。

*8:協賛する新聞社各社の分かりやすい例が、『万国博のすべて』(日本経済新聞社、1966年)やサンケイ新聞大阪本社社会部編『これが万国博だ : その歴史と会場案内』(1969年)、『EXPO'70 : 写真集 日本万国博』(朝日新聞社、1970年)などであろう。

*9:出典は、上田哲「座談会 マスコミの大作「万博の虚像」」(https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002188687-00 )。なお、上田も自然環境に関しては、わずか数行言及するにとどまっている。

人類の進歩と調和なのに、まるで下手なバリカンが刈り残したような竹ヤブが群れをなしているのが、終わった今となっては偽りの調和に対する抗議の姿勢のように受けとれる。

職人扱いだった歌人が、ついには権威となるに至るまで -浅田徹『和歌と暮らした日本人』を読む-

 浅田徹『和歌と暮らした日本人』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

雅な恋の歌だけじゃない、日常の本音がぽろっとこぼれたそんな和歌がありました。ちょっとしたメッセージも、日記も、仕事の愚痴もぜんぶ和歌!

というもの。

 まさにこれの通りで、雅な恋の歌ばかりではなく、歌会の実情の話とか、戦国期の和歌とか、記憶するための和歌形式とか、内容が豊富で楽しい。

 以下、特に面白かったところだけ。

フォーマルになっていく歌会

 歌人たちの腕前の評価は、歌会でどんな優れた歌が詠めるかということで決まるようになりました。 (106頁)

 同じ平安時代でも、平安前期までは、歌会(うたかい、かかい)は宴会に近いものであった。
 しかし、平安の中頃を過ぎると歌を詠むことが目的となるフォーマルなものに変わっていった。*1
 結果、作品の質は上がる。

 『土佐日記』には、土佐(高知県)から都に帰る紀貫之に対して別れを言いに来た人が、歌が下手だったので字余りだらけの歌を詠んで笑われる場面が出てくる。*2*3
 そうした歌も排除されるようになるのである。
 いつも同じような歌を使い回すようなこともできなくなった。
 平安前期の歌人たちの歌集は、多くが恋の贈答歌や、日常社交の歌ばかりであった。

 しかし、平安時代後半の歌人たちでは、どんどん歌会の歌が中心になっていく。
 事前に「題」を設定して詠む「題詠」であり、実際に自身に起こったようなことでなくても、成りきることによって、詠めるようになっていく。*4
 平安期は長いので、こうした変化が当然起こるのである。

「職人」としての歌人から、「権威」としての歌人へ

 初期の歌合では、歌を作る人と、歌を合わせて楽しむ参加者たちとは、別々であることが多かつた (111頁)

 歌合(うたあわせ)は、貴族たちが集まってその季節の美を楽しむ文化的な遊びという色彩が強く、菊や女郎花などをテーマにして、会場に大きなジオラマのようなもの(「洲浜」)を持ち込んで、所々に花を据え、歌を置いていくなどの趣向も凝らされた。

 参加者たちも左右でテーマカラーを決めるなど華やか勝つ楽しいイベントという感じであった。

 ただ、歌合が盛んに行われるようになった頃の有名歌人、紀貫之や紀友則などは、歌こそ提供したものの、身分が高くなかったために、実際に彼らの歌が楽しまれる場に同席することはそもそも、できなかった。*5

 いうなれば、彼らは洲浜の職人と同様、和歌の職人として仕事をしているのであって、表に出る必要すらなかったのである。

 しかし、平安後期になると、和歌の勝ち負けを競う真剣なイベントとなっていった。

 歌人たちはジャッジする判者として歌合に招かれる、「歌道家(かどうけ)」として活動する者まで出るようになった(藤原俊成など)。

 すなわち彼らは権威となった。

 先と同じく、平安期は長いのでこうした変化が当然起こるのである。

獄中詠(俳句)について

 一つは死刑囚の獄中詠です。(175頁)

 和歌(短歌)には、「作りやすい」「覚えやすい」というメリットがある。

 そのため、今日まで歌い継がれてきた。

 そうした特質は短歌形式だけでなく、俳句にも当てはまる。

 俳句は短歌よりも短いために、さらに多くの人が表現のよりどころとした。

 著者が印象深いものの一つとして挙げたのが、死刑囚の獄中詠である。

 例えば、連続企業爆破テロ事件で逮捕され、死刑囚となった大道寺将司は、刑が執行されることなく、四十年以上を獄中で過ごして病死したが、その間多くの俳句を泳み続け、いくつかの句集も出している。*6

 

(未完)

*1:こうした歌会の形式は、漢詩の会のやり方を取り入れたものであった(103頁)。すでに格式が和歌より高いものを取り込んで、フォーマルなものと化したのである。

*2:該当するのは、『土佐日記』の「その歌よめるもじ三十文字あまり七文字、人皆えあらで笑ふやうなり。」という箇所である。なぜその該当する歌が書かれていないかといえば、「まねべどもえまねばず。書けりともえ讀みあへがたかるべし。今日だにいひ難し。まして後にはいかならむ。」というように、三十一文字の覚えやすい型に比べ、字が余り過ぎて覚えられなかったためであろう。和歌や短歌などの提携のあるものが記憶のしやすさにおいて優れていることは、あとで述べる。以上の引用部は、青空文庫版(https://www.aozora.gr.jp/cards/000155/files/832_16016.html) に依った。

*3:ちなみに、『土佐日記』には、

行く先に立つ白波の声よりもおくれて泣かむわれやまさらむ

という歌も出てくる。曽根誠一は次のように解説する(「『土左日記』和歌直後の重複する「詠む」「言ふ」について」 )。

「行く先に立つ白波の声」という、都を目指す一行の人々にとって不吉極まりない、船旅の前途の予祝とは相反する表現を含む和歌を創出する、男の無神経さ、配慮の欠如故に、「歌はいかがあらむ」と疑問が呈され、返歌を創出可能な人も敢えてせず、放置される。それに痺れを切らした男は、所期の目的である返歌を得られぬまま、「まだまからず」と、負け惜しみを取り繕って退出する。

こちらは笑われるどころか失笑される始末である。

*4:題詠の功罪については既に、柳田国男『故郷七十年』について書いた記事で言及済みである。

*5:・こうした『古今集』の撰者たちの身分が低いことの問題については、鈴木宏子『「古今和歌集」の創造力』の言及するところである。以下、抜粋となる(榎戸誠「『古今和歌集』の編集は、身分の高くない撰者たちによって、ささやかに始められたという仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1418)】」(https://enokidoblog.net/talk/2019/03/33724 )からの二次引用となることをあらかじめ断っておく。)。

第1は『命令系統』の問題。勅撰漢詩集や醍醐朝の歴史書・法律書の場合は、天皇の勅命を公卿クラスの人が受けて、さらに実務担当者に委ねるというしかるべき手順を踏んだことが序文の中に明記されるが、『古今集』の序にはそうした記述が一切見られない。一口に勅撰とは言っても、歌集の扱いには、ある種の軽さが認められるのである。第2は『場所』の問題。 (引用者略) どうやら『古今集』編纂作業は、権威ある役所の中ではなく、文字どおり後宮殿舎の片隅に設けられた仮の編集室において――そこは帝から声がかかるような晴れがましい場所ではあったが――こぢんまりと進められたらしい。第3は『人』の問題。『古今集』の撰者たちはおしなべて身分が低い。勅撰漢詩集の撰者たちが天皇の側近である重臣であったことと比べると、雲泥の差である。そして紀氏関係の歌人の歌が多いこと。勅撰和歌集の編纂が貴族社会の注目を集める重大事であったなら、こうした偏りは許容されなかったであろう。『古今集』は勅撰和歌集であるが、勅撰の重みは後世のそれとはずいぶん異なるものであった。のちの時代のあり方から遡って『古今集』をめぐる状況を推し量るのは、おそらくまちがいなのであろう。『古今集』は、当初の期待と予想をはるかに超える到達点を示した歌集であった。機が熟したから『古今集』が編まれるのではなく、『古今集』が誕生することによって日本文学史の新しい頁が開かれるのである

こうした鈴木著の白眉とする個所において、「『古今集』の撰者たちはおしなべて身分が低い」ことの問題が提起されている。「勅撰漢詩集や醍醐朝の歴史書・法律書」に比べ、当時の和歌や歌人への扱いは実際このようなものだったのである。

*6: 大道寺将司の粗削りながら駄句に陥らない句の中で、ひときわ目を引くのは、「死を抱き人は生まれく岩清水」である(以下、武良竜彦「『棺一基』大道寺将司句集 ――何時如何なるときも俳句は精神に寄り添う」を参照していることを断っておく。https://note.com/muratatu/n/n0473c2346197 )。
 おそらく岩清水という語は、岩と清水として、死と生を象徴するものとしてあるのだと思われる。実際、大道寺には、「生類はなべて没しぬ岩清水」との句もある。が、そうした著者の意図するイメージにとどまらない句となっている。石清水は、「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」という芭蕉の句のように、石清水八幡宮をも意味する言葉なのである(ウェブサイト・「芭蕉発句全集」の記事を参照。https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/yumoto.htm )。「岩清水」と「石清水」のつながりである。

 そして、八幡宮といえば武家から尊崇されたことでも知られるのだから、生死や闘争と縁が深い。こうした点にも注意を要する句である。

なぜ彼はスペイン人に成りすまして、英国を書かなければならなかったのか -中島俊郎『イギリス的風景』を読む-

 中島俊郎『イギリス的風景: 教養の旅から感性の旅へ』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

風景画、湖水地方散策、ガーデニング―旅人を魅了する「イギリス的風景=田園」。この牧歌的眺めは、18世紀の貴族がギリシャ、ラテン精神の源流を求めてイタリアを旅したグランド・ツアーを皮切りに、イギリス人の“感性の旅”によって誕生したものだった。古典的美意識はイギリス国内で変容をとげ、「自然が美しい」という感性を育み、風景式庭園、園芸の流行を経て町のそこかしこに田園風景が広がるに至った。イタリア、湖水地方、ロンドンを舞台に、理想郷“アルカディア”を求めて闊歩するイギリス人の足跡をたどる力作。

というもの。

 本書は講談社学術文庫版だと、『英国流 旅の作法 グランド・ツアーから庭園文化まで』というタイトルだが、こちらの題のほうが、中身をより明確に反映しているように思われる。

 この本を学術文庫に入れた講談社のスタッフはさすがであろう。

 以下、特に面白かったところだけ。*1

風景庭園の現実的理由

 ここでまず風景庭園につきまとう誤解を退けておこう。 (54頁)

 風景庭園はすべて精神的な産物であるという見方に、著者は注意を促す。

 というのも、美意識よりも実利的な面が大きかったゆえにイギリス独自の庭園が生まれた、という側面もあるからである。

 古典的な幾何学庭園はあまりにも費用がかさんだため、ありのままの自然を大きくとりいれた風景庭園を是認した側面は否定できない著者はという。*2
 しかし、庭園史から見ると、 様式の変遷に力点がおかれてしまうため、このような現実的な面が切り捨てられてしまうのだ。

女王の馬車が襲われる?

 「転地療養に出ようとした女王はかえって気分が悪くなってしまった」 (127頁)

 一六世紀の年代記作者ジョン・ストウは、 『ロンドン市概観』(1598年)のなかで、エリザベス女王の馬車がロンドン市内のイズリントンで悪漢の一団に囲まれてしまったという。*3 *4
 このような女王が襲われるようなあぶない治安は18世紀になっても改善されなかったという。

外国人に成りすます理由

 なぜサウジーは本名をかくし、イギリスのことを書かなければならなかったのか (194頁)

 『イギリス通信』の著者であるロバート・サウジー*5はなぜ本名を隠して外国人作家のふりをしたのか。

 それは、ずばり、本の売上げがまったくちがうからである。イギリス人作家よりも外国人(このケースでは「敵国」・スペイン人)作家が書くイギリスのすがたを、多くの読者が求めたのである。

 自分たちが外国人からどのように見られて、どのような共感や反感を抱かれているのか、気にしていたのである。

 また、『イギリス通信』は、あからさまに母国を批判した書であるため、批判を避けるために、作者を別名にしたという側面もあったようだ。

 

(未完)

*1:もちろん以下の頁番号はNTT出版版のものである。

*2:仏文学の観点からもそうしたことは述べられており、例えば山下誠は次のように書く(「スタンダールの庭」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649756775680 )。

第一帝政下には,皇妃ジョセフィーヌの英国風庭園趣味などの影響もあり,既存の整形庭園から英国式への改造の動きが見られ,これが王政復古後なだれを切ったように行われるのである。イギリスに亡命していた多くの貴族は帰国後,彼らの庭を英国風に造り変えた。亡命中に身につけた英国趣味も大きいが,それだけではない。フランス式の整形庭園を管理維持するには莫大な費用がかかる。したがって,革命前のような権勢を誇るべくはない貴族らにとって,英国式庭園は経済面でも必然だった

*3:プロジェクト・グーテンベルク版の『ロンドン市外観』(『The Survey of London』https://www.gutenberg.org/cache/epub/42959/pg42959-images.html )を探しても、著者の述べるようなエリザベス女王のエピソードは見当たらない。著者の論文「ペデストリアニズムの諸相 : 18世紀末ツーリズムの一断面」(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174750684416 )にも、同内容の記述が存在するが、はっきりした註は付されていない。

 18世紀のジョン・ストライプによる大幅な改訂版である『A SURVEY OF THE CITIES OF London and Westminster』(https://www.dhi.ac.uk/strype/TransformServlet?page=book5_438 )
第5巻・第31章に、次のような記述がある。

Upon occasion of a great Parcel of Rogues encompassing the Queen's Coach near Islington one Evening in the Year aforesaid, when she was riding abroad to take the Air; (which seemed to put her into some Disturbance) Notice was presently given to the Maior and Recorder. On that Night and the next Day were taken Seventy Four Rogues, and sent to Bridewell.

おそらく、著者はこちらの改訂版のほうを(あるいは、それを参照した別の書籍等を)もとに記述したのではないかと考えられる。

*4:ジョン・ストウ及び彼の『ロンドン地誌(ロンドン史概観)』について、寅七「シティを歩けば世界がみえる  第67回 ペンは剣よりも強し」は次のように述べている(https://www.news-digest.co.uk/news/columns/city/14655-1452.html )。

ストウは丹念にロンドンの建築物、社会状況、慣習などを細かく調べ上げ、正確な地図を添えて体系的、かつ網羅的にロンドンの歴史の本を書きました。でも文献や地域調査に余りに多額のお金を費やしたため、彼の生活は豊かではなかったようです。 (引用者略) ストウの「ロンドン地誌」は400年以上にわたって、冒頭のジョン・ストリープを始めとする専門家が改訂を続け、見事なリレーが続けられています。たとえリレーの繋ぎ手の家がこの世から消え去っても。

*5:道家英穂は、サウジーの一般的に抱かれている人物像について、次のように書いている(「ロマン主義のエンターテインメント作品 ― Robert Southey, Thalaba the Destroyer の本文と自注」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390858231475129984 )。

Robert Southeyは長らく、他のロマン派の大詩人の影に隠れてきた。彼はラディカルな反体制派から保守派に大きく変節し、Byron や Hazlitt から強く批判された。特に桂冠詩人として George III を追悼した詩 A Vision of Judgment (1821)の序文で、暗にバイロンを批判したことで彼の逆鱗に触れる。バイロンによるそのパロディーThe Vision of Judgment(1822)が諷刺詩の傑作であったために、サウジーはバイロンによって徹底的に虚仮にされた御用詩人という不名誉なイメージが定着してしまった。

「根性」とロマン主義音楽との意外な関係が分かる本 -岡田暁生『ピアニストになりたい』を読む-

 岡田暁生『ピアニストになりたい』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

超俗性を重んじたロマン主義時代の背後にあった驚くべき精神性。ピアノ教育の起源とその過程での「芸術」の変質を圧倒的筆力で描く。

というもの。

 根性とロマン主義音楽との意外な関係が分かる。

 以下、特に面白かったところだけ。

ベッド付きのピアノはいかが

 アメリカでは簡易ベッドつきのピアノなどと いうものも考案されていたようで (135頁)

 グランドピアノを置く余裕のない家庭にまで、ピアノ学習の習慣が広がっていった。
 簡易ベッドつきのピアノは、アメリカで1866年に特許がとられた。*1
 ピアノが簡易ベッド及び収納棚とセットになっているという。

薬指を「解放」するための手術

 この医者は、思い切って薬指と中指および小指をつないでいる腱を手術で切ってしまい、それによって薬指を「解放」しようというのである (142頁)

 1898年のピアノ雑誌『エチュード』に載った、「薬指の解放」と題された記事に、ウィリアム・S・フォーブスという外科医が薬指に対してとある手術を施した、とある。

 薬指は、中指および小指と、腱でつながっているために、独立して高く持ち上げることが出来ない。

 指を均質化してピアノを演奏するには不都合であった。

 そこで、こうした腱の切断手術が行われた。

 マルティン・ゲルリッヒによれば、リチャード・ツヴェッカーという人物が1882年から89年までの間に、先のフォーブス博士と協力して、サンフランシスコだけで200人に薬指の腱の切断手術を施したという。*2 *3

ロマン主義と、努力・根性との関係

 一見何の関係もないように思えるかもしれないが (200頁)

 短い音型をいろいろ変奏しながら繰り返し指を強化しようとするスポ根的トレーニング法と、シューマンやリストやブラームスやワーグナーといった、一九世紀口マン派の音楽語法。

 この同時代に見られた二つの主義・傾向。

 二つの間には、じつは、相似の関係がある。

 すなわち、「主題加工」、 ハイドン/ベートーヴェン以後の作曲技法のことである。
 まず提示部で八小節の主題を提示し、展開部で分解して加工変奏し、曲の終わりでもういちど再構築して復元というやつである。

 こういう、繰り返して加工して繰り返してという手法は、バロック音楽にはなかったものである。

 一見相反するような根性的・肉体改造的ピアノ学習と、甘美さをイメージしやすいロマン派音楽とは、その憑りつかれたような「繰り返し」へのこだわりにおいて、実は相互補完的なものであったのである。*4

 

(未完)

*1:サイト・「Science Source Images」に、その図が掲載されている( https://www.sciencesource.com/1657922-convertible-bed-room-piano-1866.html )。

*2:なお、 Sarah Kaye Priggeの、「NATHAN RICHARDSON AND THE EDITIONS OF THE NEW METHOD FOR THE PIANOFORTE」(https://library.ndsu.edu/ir/handle/10365/26746 )は、こうしたフォーブスの手術は

While this may have worked for a short period of time, it must have compromised the structure of the hand because by the 1890s talk of this surgery largely disappeared.

すなわち意訳して読むのであれば、1890年代にはこうした手術の話が聞かれなくなったことから、腱の切断手術が手の機能をかえって悪化させることが知られるようになったのだろうとしている。

*3:このWilliam Smith Forbesの生涯と業績については、以下のサイトが参考になる(URL:http://community.village.virginia.edu/unionist/node/578 )。

*4:宮本直美は、ある時期から、器楽がその「繰り返し」によって多くの聴衆に親しまれるに至ったとして、次のように述べている(「近代的コンサートの芸術性と劇場性に関する社会学的研究」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26380721/ )。

商業的なコンサートが増える中、交響曲を支持する知識人層からは、難解で一般受けしない器楽を理解するために何度も聴くべきだという意見が度々出された。 (引用者略) 交響曲を何度も聴くようなコンサート・シリーズが催される。まさにこの時期に、モーツァルトやベートーヴェンという故人作曲家は「クラシック」と呼ばれるようになった。この概念が意味するのは、何度も触れて理解することにより、人間性を陶冶するという教養主義である。このクラシックという観念は、プログラム上では同じ曲を何度も演奏するという形態につながる。現在のように、過去の作品を繰り返し演奏するという方式は19 世紀半ば頃から徐々に始まったのである。

器楽においては、その聴取形態もまた「繰り返し」と努力・忍耐を要求されることが、およそ当然のこととして是認される時期が到来したのである。以上の内容については、宮本『コンサートという文化装置――交響曲とオペラのヨーロッパ近代』(岩波書店、2016)も参照されたい。