「かわいい」を日本の専売特許とばかりみなすのは生産的ではない。その通りだ。 -阿部公彦『幼さという戦略』を読む-

 阿部公彦『幼さという戦略』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

老人も子どもも持っている「幼さ」の底力!権力の語りに抗う「弱さの声」の可能性。太宰治村上春樹から江藤淳古井由吉まで、新しい視座と繊細な手触りのある文芸評論エッセイ。

という内容。*1
 特に、個人的には武田百合子富士日記』論と「かわいい」論がたいへん興味深く読めた。*2

 以下、特に面白かったところだけ。*3

近代以前の「うさぎ」イメージ

 「日本独自に歴史的に継承されてきた兎のかたち」は、これらの「キャラクター化された兎によって浸食されてしまった」 (92頁)

 現在の日本のうさぎブームは、明治期に西洋のうさぎのイメージが輸入されてからのものだという。 日本にも伝統的なうさぎ文化はあった。
 しかし、そうした伝統的イメージは、消えてしまった。
 例えば、波のイメージと結びついて防火や豊穣のイメージなどが、うさぎにはあったという。
 うさぎは、今のように「かわいい」一辺倒のイメージではなかった。
 ここでは、今橋理子の著作に依拠して説明がされている。*4

「かわいい」と英語圏の「キュートさ」

 英語圏でも近年「キュートさ」(cuteness)という感覚に対する関心は高まっており (99頁)

 「かわいい」という概念自体は、必ずしも英語圏などに近似する概念がないわけではない。
 実際研究は進んでいる。
 「キュート」という形容詞が、近代から現代までの推移を読み解くキーワードとして西洋で認知されている以上、「かわいい」を日本の専売特許とばかりみなすのは生産的ではない、と著者はいう。
 その本格的な研究書として、サイアン・ナイの Our Aesthetic Categories が挙げられる。
 ナイは、「キュートさ」の特質に、些末でどうでもいいこと、親しみがわくこと、哀願できること、こちらにとって脅威にならないこと、弱いこと、など「かわいい」の感覚にほぼ重なる項目を挙げているのである。*5

「かわいい」と言ってしまうことの慣習性

 ここにあるのは、昔ながらの花鳥風月への反応とも似通った振る舞いではないか (105頁)

 赤ん坊などを「まあ、かわいいわねえ」と人が言う時、そこには、発言者がどのような人間であるかも表現される。
 つまり、「私は幼いものに極めて好意的に反応する人間なのです」というようなメッセージである。*6
 そうした反応は、慣習的、様式的なものである。*7

幼さという喜劇性

 幼さの特徴として、本来まじめでいるべきときに喜んだり騒いだりするということがある一方で、逆に、本来本気になるべきでない些細なことを大まじめで受け止めてしまう (132頁)

 子供は、大人がまじめであるべき時に、喜んだりする。
 逆に、子供は、時に大人が一笑に付すようなことに至極まじめに対応する。
 子供はお菓子の分け前がやや少ないだけでこの世の終わりのように泣き出す。
 幼さにおける、大人に対するこの感覚のズレは、「喜劇」的であるように思われる。*8

江藤淳夫妻における、「母」と「子」の関係

 むしろ妻を「母」の位置に押しこめ、母との一体感を全能感とともに享受しようとする未成熟な息子の姿をそこから読み取りたくなるのではないか。 (180頁)

 江藤淳夫妻についての話である。

 江藤淳の妻は、彼の原稿の最初の読者であり、まるで秘書のように便利に、そして母のような慈愛とともに、わきに控えていた。
 その姿は、まるで妻を「母」のようにして、その愛を享受しようとする未成熟な息子のようだ、と著者はいう。
 この点、実際その通りだと思われる。
 江藤は、『成熟と喪失』の「母」と「子」の関係を、およそなぞっているのである。*9

 

(未完)

 

*1:本書については、すでに仁平政人による書評https://ci.nii.ac.jp/naid/120005745467 が存在するので、本書についての概要を知りたい人は、そちらを読まれたい。

*2:以下、武田百合子論については言及していないが、まあ、それは実際に読んで楽しんでください。

*3:著者の文体はいつ頃現在のような独特の柔らかいものになったのか。調べてみた限り、論文だと、「振り子の不安 : The Golden Bowlにおける気まずさの正体」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120003752169 )と「ジェーン・オースティンの小説は本当におもしろいのか、という微妙な問題について」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120003726305 )の間に、その断絶があるように思われる。

*4:黄韻如は、「丹沢巧氏は波兎文様が日本の文芸から生まれたと解釈され、美術史の視座から今橋理子氏は波兎文様が日本独自の月兎文様の一つと定義する」とし、最終的に、

中国の神仙思想に適う不老不死の吉祥性を帯びる搗薬兎や霊芝兎の文様と、日本の美感に相応しい文学的叙情から生まれる波兎の文様は、まさに対照的といえるのではないだろうか

と、日本の(伝統的な)兎に対するイメージが、中国に対して独自性があるとしている(「日本の染織意匠と中国 : 波兎文様を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001628222)。

*5:Pansy Duncan によるナギ著に対するレビュー(https://epress.lib.uts.edu.au/journals/index.php/csrj/issue/view/258 )には、

Pointing, however, to Gertrude Stein’s Tender Buttons, to William Carlos Williams’ ‘plums’ famously left ‘in the icebox’ and to Bernadette Mayer’s ‘puffed wheat cereal’, Ngai shows that avant-garde poetry has drawn on the form and language of cuteness as a means of negotiating both poetry’s increasing cultural marginalisation and its inevitable relation to the commodity.

とある。前衛的な詩もまた「かわいらしさ」を活用するのだというこの指摘は、まさに本書(『幼さという戦略』)の意に沿うものであるようにも思う。

*6:「かわいい」という語のこうした使用のされ方については、以前、杉本章吾『岡崎京子論』について書いた際に、言及している。気になった方はご一読を。

*7:もちろん、「花鳥風月」の類の様式性そのものが悪いというのではない。たとえば、松田修もいうように、「もっとも異端的な刺青のデザインが最も伝統的―――月並みであることの意味は、なおざりにしがたい」のである(『日本刺青論』青弓社、2015年)54頁。
 松田の議論はやや込み入っているが、通常保守的な大衆芸術が帯びる両義的な性格、つまり、時に反逆的・反時代的であり、しかし時に反逆性を喪失し凡庸に堕する、という「月並み」であることの魅力的な危うさが、論じられているように思う。たぶん。

*8:塩田明彦は、『映画術』(イースト・プレス、2014年)において、

みんなが怒っているシーンで平然としてる。それをいかに通すか (引用者雄略) 喜劇役者の役割は、いかにその場のエモーションとずれたエモーションでい続けるか、ってことに尽きるんです。

と述べ(当該書196頁)、異化するのが喜劇役者であるという。悲しい場面でも泣くことはなく、他人事のような態度を貫くためには、彼は歌うように、口上のように、セリフを言うことがあるのだ、と。なお、塩田が念頭に置いているのは、『男はつらいよ』の渥美清である。

 また、こういった資質は、芸術家の特質にも通じるものかもしれない。森村泰昌は、次のように述べている(『美術、応答せよ! 小学生から大人まで、芸術と美の問答集』(筑摩書房、2014年)、29頁。)

誰もがアッチを向いているとき、芸術家はまったく別の方向に目を向けている。それがいいのか悪いのかはわかりません。良し悪しの問題ではなく、はからずも世間様とは違った立ち位置をとってしまう。このヘンテコリンな感受性のあり方こそが、芸術という領域の特質である。

*9:大塚英志江藤淳と少女フェミニズム的戦後』が、江藤に、「少女フェミニズム」的な感覚を見るのに対して、著者はその見方に必ずしも賛同していない。むしろ、江藤の中に、まさに『成熟と喪失』で指摘した「母」と「子」の関係を、見ているのである。
 『成熟と喪失』でいうなら、

一般に日本の男のなかで、「母」がいつまでも生きつづける根強さは驚嘆にあたいする。

「子」である夫が安息の象徴である幼児期を回復しようとすることは、時子に「母」の役割をあたえることを――つまり彼女の青春を奪って、あるいは老年に近づけることを意味する。それは決して彼女に「楽園」をもたらしはしないのである。

といった言葉は、そのまま江藤と妻との関係に跳ね返ってくることにだろう(以上の引用は、橋本倫史「読書メモ 江藤淳『成熟と喪失 “母”の崩壊』」https://note.com/hstm1982/n/ne006f8dec441 からの孫引きに頼っていることを念のため書いておく。)。

 また、大塚英志は、

若い批評家の言葉の中ではそのふるまいに対してさえ、どこかでそれは「子」である自分を裏切った「母」、つまり「妻」の責なのだという論理があらかじめ成立している。免罪の論理がその批評の中に滑り込ませてある。

と、江藤が妻に振るった暴力について説明している(以上、高橋幸「大塚英志の『少女フェミニズム』」https://ytakahashi0505.hatenablog.com/entry/2019/01/19/184125 からの孫引きである。)。

 これはまさしく、「未成熟な息子」が「妻を『母』の位置に押しこめ」たのではないか、という著者・阿部の指摘に沿うものであろう。

オペラの歴史を知りたければ、まずはこの本から始めてみてはどうだろうか。そんなオペラ史入門書。 -岡田暁生『オペラの運命』を読む-

 岡田暁生『オペラの運命』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

オペラはどのように勃興し、隆盛をきわめ、そして衰退したのか。それを解く鍵は、貴族社会の残照と市民社会の熱気とが奇跡的に融合していた十九世紀の劇場という「場」にある。本書は、あまたの作品と、その上演・受容形態をとりあげながら「オペラ的な場」の興亡をたどる野心的な試みである。

という内容。
 オペラ史入門として、お勧めできる。

 以下、特に面白かったところだけ。

オペラ・セリアとオペラ・ブッファ

 ブッファでは当然、人間技とは思えない高音を操るカストラートは使われない (50頁)

 オペラの歴史をたどると必ず出てくる、「オペラ・セリア」と「オペラ・ブッファ」の話である。
 二つは、どのように違うか。
 オペラ・セリアでは国王のような隔絶した存在を描くが、オペラ・ブッファは、身近な存在を描く。
 また、後者では、カストラートを使わない。*1 *2
 オペラ・セリアはカストラートテノールなど高音域のみだが、オペラ・ブッファではバリトンやバスやメゾソプラノなど人の声に近い声域を用いる。
 オペラ・セリアは装飾過多のコロラトゥーラ技法を使うが、オペラ・ブッファは素朴な戦慄の美しさを求められる。
 カストラートが経費が掛かる(高音域を出せる優秀な歌手を見つけるのは難易度が高い)、という経済的な事情もあった。
 また、喜劇は悲劇より演技力が求められる、という事実もある(役者に歌わせた方が都合がよかった)。

 そして何より、オペラ・ブッファは、アンサンブルによる掛け合い表現(人と人との関係性を描く劇)をこそ、重視している。

救出オペラが与えた影響

 救出オペラはベートーヴェンに与えた影響の大きさの点でも注目される。 (77頁)

 ベートーヴェン自身も救出オペラ(「フィデリオ」)を作っているが、このジャンルから受けた影響は、それだけではない。
 苦悩を通して歓喜へ、というシナリオもまた救出オペラがモデルとなる。
 太鼓の連打、軍楽隊を思わせる金管の多用、ラ・マルセイエーズ風の付点リズムの行進曲等の特徴も、まさにそうである。*3

オペラ座と売買春

 バレエの踊り子と売春交渉することを黙認したのである。 (107頁) 

 パリ・オペラ座の支配人だったルイ・ヴェロンの話である。
 まずカジノを併設した。
 そして、広くオペラ座ブルジョアに開放した。
 また、売春の場としても使った。*4
 予約客に楽屋に自由に出入りする権利を与えた。
 ルイ・ヴェロンは、自身の主催する晩餐会で、あらゆる種類の果物を飾り付けた裸の踊り子を乗せた、巨大な盆を提供したこともあるという。*5

スメタナと言語

 上流階級に生まれた彼はドイツ語しかできず (134頁)

 スメタナチェコの国民オペラの創作に力を尽くしたが、じつはチェコ語は不得手だった。
 彼はドイツ語の教育を受けて育ったためである。
 オペラを書く時になって、本格的にチェコ語の勉強をはじめた。*6
 彼の国民オペラ『ダリボール』と『リブシェ』の台本は、ドイツ語で書かれ(書いたのは台本作者)、そのチェコ語訳に、スメタナは苦労して音楽をつけた。
 国民オペラは庶民の中から自然発生したのではなかったのである。
 国民国家自体が、知識人たちの主導であったことを思えばさもありなん。
 (そもそも、オペラの作者および顧客自体が知識人階級中心である。)

ヴェルディの評価とファシズムとの関係

 イタリア語によるヴェルディ文献が爆発的に増えるのは、一九二〇年代のこと (137頁)

 ヴェルディ神話についての話である。*7
 19世紀後半の新興イタリアの学校教科書には、ヴェルディの名前は見当たらないようだ。
 ヴェルディがイタリア統一の英雄に奉られるのはムッソリーニの時代からであるようだ。*8

「国家御用達の音楽屋」・ワーグナー

 マルクスは、こんなバイロイト音楽祭を「国家御用達の音楽屋ワーグナーによるバイロイトのばか騒ぎ」と呼んでいる。 (168頁)

 芸術の理想を叶える、そのために、ブルジョアに妥協せずに横行に取り入って金を巻き上げる。
 それによって、金を調達する必要がワーグナーにはあった。
 だが、真に芸術を理解する民衆のための劇になるはずだったバイロイトは、結局、上流階級のスノッブたちのサロンになった。*9
 じっさい、ニーチェは嫌気がさしてしまい、ワーグナーと距離を置いたのである。

ワーグナーの劇場改革

 ワーグナーはボックスを空にすることで、劇場を純然たる作品鑑賞の場にしようとした (188頁)

 ミュンヘンで『ラインの黄金』を試演した際、ボックスを空にして客を平土間に座らせ、社交の場を制限した。
 さらに、バイロイトでオペラを上演した際は、客席を暗くするようにした。
 観客を作品鑑賞に集中させるためである。*10
 ワーグナーの改革以前は、オペラ上演中でも、劇場にシャンデリアが灯っていたのである。

「演出」の時代

 オペラ演出に重要な役割が与えられるようになり始めるのも世紀末転換期のことである (189頁)

 19世紀までは、歌手の勝手に任されており、「衣装付きのど自慢大会」のようなものだった。
 だが、ワーグナーの「総合芸術としてのオペラ」という理念が浸透するにつれて、徐々に演出家はオペラ上演に不可欠な存在になる。
 草分けの一人が、マックス・ラインハルトである。

 ラインハルトは、そのスペクタクル的演出で知られている。*11

 

(未完)

*1:金谷めぐみと植田浩司は、次のように述べている(「カストラートの光と陰」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009804857)。

カストラートの養成は簡単に止めることはできず、やむなくクレメンス14世は、女性が教会で歌うことを認め、追って教皇領の劇場舞台に女性が出演することを許可した。時を同じくして、18 世紀後半、ナポリを中心に流行ったオペラ・ブッファ (引用者中略) の主役を、女性歌手が演じるようになった。さらに、これまで脇役しか与えられなかった男性テノール歌手が主役で登場するようになり、カストラートは、オペラでももはや必要とされなくなって行った

*2:女性がカストラートを名乗って教皇領の劇場に出演したこともあったという。「ときには劇場が出演料節約のため、女性歌手をカストラートの『代用品』として男装させ、英雄役を歌わせることもあったという」。

 女性歌手が男装するようになるのは、17世紀後半のことである。女性がカストラートと偽って男女双方の役を演じるという幾重にも錯綜した性のねじれは、18世紀中頃までのオペラでは頻繁に見られたという。以上、梅野りんこ「ジェンダーの越境者カストラート」(玉川裕子『クラシック音楽と女性たち』、青弓社、2015年。42頁)より、参照・引用を行った。

*3:ウェブサイト・「久石譲ファンサイト 響きはじめの部屋」は、ベートーヴェン交響曲第5番第四楽章について、

勝利を示すかのような力強く明るい行進曲調の主題呈示に始まる。ピッコロ、コントラファゴットトロンボーンがこの楽章の中で初めて登場してくる。伝統的な交響曲において珍しい楽器の参入は、フランス革命音楽(軍楽、救出オペラ)からの影響も考えられる。

この内容は、久石譲『JOE HISAISHI CLASSICS 4 』のライナーノーツからの引用であるようだ。

*4:安田靜は次のように述べている(「近年のパリ・オペラ座財務状況と切符価格の推移について」https://www.eco.nihon-u.ac.jp/research/business/publication/report39-2/ )。

20 世紀の初頭まで戻ると,パリ・オペラ座の foyer de la danse,すなわち舞台裏でダンサーが控える広間が「西欧随一のハーレム」であるとして,ニューヨークで出版された本にまでその「名声」を留めていることがわかる. (引用者中略) フランスや英米の研究者の著作を読めば読むほど,オペラ座はもっと直裁に,異性愛の男性が女性に対して抱く欲望を金で購う場所であったことが明らかになってくる.

*5:たとえば、ジョセフィン・ベイカーのバナナの衣装みたいなのを、想像すればいいのだろうか。

*6:スメタナがドイツ語で教育を受けたため、チェコ語は後から学ぶことになった事実は、日本でも知られている。例えば、ひのまどか『スメタナ―音楽はチェコ人の命!』(リブリオ出版、2004年)の216頁参照(浜田市立弥栄中学校・学校司書の手になる資料(PDF)を参照:http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1449650246804/ )

*7:以下、参照されているのは、Birgit Pauls の Giuseppe Verdi und das Risorgimento である。

*8:小原伸一は、本書の、「全国民的なヴェルディへの熱狂は、調べれば調べるほど後世の作ったフィクションに思えてくる」という主張について、次のように評している(「 劇音楽の教材研究について ―作品の背景に着目して(2)―」https://uuair.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4560&item_no=1&page_id=13&block_id=58 )。

岡田の記述には、初演当時の聴衆の思想的な状況とオペラへの反応がどうであったのかということについて、リソルジメントとの関連を否定する決定的な記録や資料が存在していたとは書かれていない。しかし、ここには作品に対する作曲家の思いを検証する重要な指摘がある。

留保しつつも、基本的に肯定的に評価している。

 じっさい、のちに出版された書籍でも、ヴェルディが意図的にリソルジメントを鼓舞したという事実は否定されている(根井雅弘「 『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子(平凡社) 」https://booklog.kinokuniya.co.jp/nei/archives/2013/06/post_10.html を参照)。なお、加藤も、先述のBirgit Pauls の論を参照している。

*9:マルクスワーグナー評について、伊藤嘉啓は次のように書いている(「ワーグナー・多面のバリケード男」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000990676 )。

1876年の夏、マルクスバイロイト音楽祭について、「国家音楽士ワーグナーバイロイト馬鹿祭り」と云つてをり、どうもワーグナーマルクス主義とは、はじめから相性がよくなかつたやうだ。

伊藤は、ワーグナー反共主義的思想を持っていたことも記している。

*10:小宮正安は、「ゴージャスになったオペラハウスに対し、ワーグナーは自分の作品を上演するためにバイロイト祝祭劇場を建てました。装飾を排し、観客を眠らずに舞台に集中させるために椅子は堅い木製のものになっています」と述べている(講演「ヨーロッパ歴史芸術散歩~第2弾『オペラハウスの謎』」http://nakano-saginomiya.gr.jp/operamatome.pdf )。

*11:杉浦康則は、ラインハルトの群衆演出とブレヒトの『教育劇』の上演が、「本質的に異なる理念の下において行われた」とする(「群衆演出の観点から見たベルトルト・ブレヒトの理論とその実践」 https://ci.nii.ac.jp/naid/120005441766)。

ブレヒトの演出においては、観客が役者の群衆として作品に参加すること、作品の展開の一部となることが最初から決定されていたのである。劇に登場するエキストラの群衆を観た観客が上演に巻き込まれるという、ラインハルトの群衆演出とは異なり、ブレヒトの観客は最初から作品の展開の一部に組み込まれた、演じる側の群衆なのである。

 ブレヒト演劇との違いがどのようなものか、よくわかる指摘である。ラインハルトの演出は、「司教座教会の中に、その巨大なドアから群衆を放り込」み、「2,000 人が中世の衣装を身に着けて、崇高な教会の中にいる。祈り、歌いながらこれらの人々はあちこち揺れ動く」など、とにかくショック効果で観客を「没頭」させることに眼目が置かれるのに対して、ブレヒトはむしろ「没頭」から距離を置かせようとする。
 ラインハルトの演出の肝がわかる研究と思ったので、紹介する次第である。

「結婚と家族のこれから」を考えるための良書。あるいは「やっぱり夫が家事をしていない日本」 -筒井淳也『結婚と家族のこれから』を読む-

 筒井淳也『結婚と家族のこれから』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

共働き社会では、結婚しない(できない)人の増加、子どもを作る人の減少といった、「家族からの撤退」をも生じさせた。結婚と家族はこれからどうなっていくのか―。本書では、男性中心の家制度、近代化と家の衰退、ジェンダー家族―男女ペアの家族―の誕生など、「家」の成立過程と歩みを振り返りながら、経済、雇用、家事・育児、人口の高齢化、世帯所得格差といった現代の諸問題を社会学の視点で分析し、“結婚と家族のみらいのかたち”について考察する。

というもの。
 結婚と家族、そして「共働き社会」といった問題を考えるうえで、良い頭の整理ができる良書である。
 
 以下、特に面白かったところだけ。
 

父系の直系家族の歴史的位置

 家父長制的な家族、父系の直系家族は、日本では10世紀くらいから徐々に浸透していった制度 (17頁)

 それ以前は、共同体や家族(母系)との結びつきの方が強固だった。
 だが、そうした制度も徐々に変わっていった。*1 *2 

 生産力の論理を離れ、政治原理が幅を利かす階層ほど、女性が抑圧されている (39頁)

 前近代においては、社会階層が上になるほど、家父長制が厳しかった。*3 
 また、日本の古代社会でも、中央政界や大領地経営で生計を立てる一族は男性優位の結婚(夫型居住など)が行われていた。*4

みんな結婚する社会の方こそ特殊。

「皆婚社会」 (引用者中略) こそが特殊なのです。 (87頁) 

 歴史人口学的に見れば1960~70年代のほとんどの人が結婚していた社会の方が特殊である。
 家制度が経済基盤を失い、雇用された男性と家事をする女性が結婚するようになって初めて実現したもの、それが「皆婚社会」である。*5

やっぱり夫が家事をしていない日本

 日本の夫婦は、夫婦がほぼ同じ条件で働いて、同じくらい稼いでも、妻のほうが週あたり10時間も多く家事をしている (104頁)

 先進国の多くの国でも同じことが言えるが日本はかなり高い。*6

中流階級でも裁縫にかなり時間をかけていた戦前

 女性が家庭での裁縫から解放されたのはそれほど古い時代ではありません。 (120頁)

 都市化が進んだ後でも女性たちは、裁縫にかなりの時間をかけた。
 調査によると、1930年代、東京の中流家庭でも妻は家事の時間の4割以上をお裁縫に費やした。*7

 もちろん、今現在はグローバル化などの影響で服は安くなっている。

北欧の社会の課題

 北欧の民間企業の世界はアメリカに比べればまだ男性的な世界 (135頁)

 じっさい、管理職において女性が占める割合ではアメリカに比べると、スウェーデンはかなり低い。
 また、共働きとはいえ、北欧における女性はケア労働を中心としている。*8
 相手は、他の家の子どもや高齢者である(保育・介護等)。
 こうした、性別によって職の分離が見られる事態を、「性別職域分離」という。*9

 

(未完)

*1:著者は、男性官職の世襲と家父長制との結託が、平安期の貴族層に見られ始めたのだと、久留島典子らの研究を参照して述べている。

*2:義江明子は次のように述べている(「「刀自」からみた日本古代社会のジェンダー--村と宮廷における婚姻・経営・政治的地位」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005945781 )。

一九九〇年代以降、「家」成立の過程はさらに精密に探求された。高橋秀樹氏は、政治的地位の継承が「家」形成の基盤であること、家業(公的職務)・政治的地位・家産を父子継承する「家」は、一一世紀から一四世紀にかけて、貴族社会に次第に広まっていくことを、詳細に論証した

ここでは高橋『日本中世の家と家族』が参照されている。

*3:ウェブサイト「nippon.com」の記事「シリーズ・現代ニッポンの結婚事情:(4)性差を超えてゆけ ポスト平成の日本の結婚」(https://www.nippon.com/ja/features/c05604/ )でも取り上げられている本書のフレーズであるが、

家父長制はその意味では、社会全体の支配階層の男性、あるいは家族のなかでの男性が、生産力の伸びを抑えこんででも、自らの既得権を維持するためにねじ込んだ不自然な仕組みだと私は考えています

なかなかパンチが効いている。

*4:著者は、関口裕子の説を参照して、そのように述べている。経済的原理を、政治的・軍事的権力がねじ伏せた格好、といえようか。

*5:縄田康光が述べているように、

戦後日本の空前の経済成長と第一次人口転換が、「夫婦と子ども2人」という戦後における標準的な家族を生んだのであった。現在我々はこれを当然視しがちであるが、歴史的にみれば「皆婚、生涯生む子どもは2人」というのはむしろ特殊な時代

である(「歴史的に見た日本の人口と家族」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1003948 )。
 ただし、鬼頭宏は次のようにも述べている(「人生40年の世界:江戸時代の出生と死亡」http://minato.sip21c.org/humeco/anthro2000/kito.pdf )。

江戸時代には前半には多くの男女が結婚するのは当たり前という「皆婚化」が進み,江戸時代中期には皆婚傾向の高い社会が成立したと見られる.それを前提にして晩婚化が進んだ.

「皆婚化」というフレーズではあるが、いちおうその傾向自体は江戸時代に見られている。もちろんこれは、先程の縄田も是認するところはあるのだが。

*6:著者は2014年の論文で、

共働き夫婦において最も夫婦の家事時間の差が小さいのがデンマークフィンランドで,2 時間強となっている。これに対して日本では週あたり 10 時間以上も妻の方が多く家事に時間を費やしている。日本では,労働時間や収入等の各種条件をかなり均等な条件にそろえてみても男性と女性のあいだに大きな家事負担の格差があることが分かる。この意味では「日本の夫は長時間労働に従事しているし,また妻よりも多く稼いでいる夫婦が多いから,家事をあまりしないのだ」という見解は成立しないことがわかる。

と述べている(「女性の労働参加と性別分業 : 持続する『稼ぎ手』モデル」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10180375 )。使用したデータは、

International Social SurveyProgramme の 2012 年 の デ ー タ(Family andGender Roles)である。対象国は OECD 加盟国に台湾を加えたもの

とのこと。

 なお、著者自身が本書で参照した自身の論文は、2016年のhttps://ci.nii.ac.jp/naid/40020715098 のほうである。念のため

*7:永藤清子によると、

女中を置かず、子どもが在り、貯金を持たない「下流」家庭の内職従業者の多くでは、生計費補助を目的として内職をしている姿が浮かび上がるが、一方で、女中を置いている「中流の下」家庭で、子女の教育費のために内職をしている家庭も存在することが推測できる。

とのことである(「明治大正期の副業と上流・中流家庭の家庭内職の検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009752628 )。
 参照されているのは、1920年の東京市社会局の発行する『内職に関する調査』である。

 1920年代でも、おおよそこんな感じである。

 なお本書では、家政学者の大森和子の論文を参照して、引用部の通り述べられている。

*8:たとえば、中澤智惠は次のように述べている(「スウェーデンの生涯教育システムとジェンダー事情」
https://www.js-cs.jp/wp-content/uploads/pdf/journal/14/cs2008_13.pdf )。

同一労働同一賃金の原則を徹底することは重視されるが、性別職域分離は水平的・垂直的両面であまり解消されてこなかった。例として教員の性別比をみると、Forskola のスタッフは女性が 97%、学童保育指導員は 83%、基礎学校では 74%を占めている。

文中にある Forskola とは、「1歳から5歳までを対象とした就学前教育プリスクール」を指す。

*9:熊倉瑞恵は、デンマークにおける性別職域分立について、次のように述べている(「デンマークにおける女性の就業と家族生活に関する現状と課題」https://ci.nii.ac.jp/naid/110008916029 )。

デンマークでは男性よりも女性がより多く公共部門で働いており,男性は民間部門で働いている割合が高い.こうした傾向は北欧諸国全体にみられ,女性の就業率が高いとされる国に共通している. (引用者中略) 移行された労働市場では性別役割分業の関係が依然として残されており,男女間賃金格差へとつながっている.こうしたことは,上述したような最大限の労働力の確保を目的とする政策の有効性にも影響を与えるとともに高福祉国家を維持するための基盤にかかわる重要な問題となる

「普通のお客にハーモニーはわからない。彼らはメロディーが聴きたい」、まあそうなんだよね。 -岡田&ストレンジ『すごいジャズには理由(ワケ)がある』を読む-

 岡田暁生&フィリップ・ストレンジ『すごいジャズには理由(ワケ)がある』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

「ジャズがわかる」って、こういうことだったのか! 名演の構造がわかる! 分析的ジャズ入門 誰もが知る名演を題材に、ジャズの奥義を学ぶ!

というもの。

 分析的にモダン・ジャズがわかるという優れもの。

 以下、特に面白かったところだけ。

アート・テイタムのすごさ

 アート・テイタムの弾き方は、左手のスタイルがかなりビバップ以後のピアニストと違いますね。 (25頁)

 アート・テイタム*1*2の場合、左手の親指が雄弁だという。

 ビバップのピアニストは、右手がサックスで、基本左手は伴奏であることが多いのに対して、アート・テイタムはそうではない、と。

 右手小指がソプラノ、同親指がアルト、左手親指がテノール、左手小指がバスを演じ、とくにテノールを雄弁に動かしているという。

客はメロディとサウンドばかり聞きたがる

 普通のリスナーが聴きたがるのはメロディとサウンドですから (29頁)

 ハーモニーに不協和なテンション音がたくさんある時は、「スイート」な音色をたくさん使えばよい。
 そうすれば、普通のリスナーも違和感を感じなくなる。
 しかし、ビバップの場合、たいがい普通のリスナーを相手にしないので、不協和音を強調する。

 中・上級者向けである。

 レニー・トリスターノのように音色が滑らかだったり、リズムが統一されたりしていると、どれだけ無調的にフリーをやっても、聴く人は意外に許容する (127頁)

 結局のところ、大抵の人は、誰もハーモニーなど聞いてはいないのである。*3

 普通のお客にハーモニーはわからない。彼らはメロディーが聴きたい (123頁)

 確かに、オーネット・コールマンの「ロンリー・ウーマン」のテーマのメロディ重視(その分ハーモニーに縛られていない)で分かりやすいように思う。

フリージャズは何がフリーなのか

 でも何が自由かは、人によってぜんぜん違いました。 (110頁)

 ハーモニーからの自由(オーネット・コールマン)、モードからの自由、モティーフからの自由、リズムからの自由、メロディからの自由、「汚い」サックスの音色の自由(アーチ―・シェップ)。
 などなど、いろんなフリーのジャズがあるのである。
 フリージャズといっても、実は多様である。*4

コルトレーンが目指したもの

 コルトレーンはものすごく硬いリードを使っていたと思います。 (98頁)

 コルトレーンのフレーズがあまり流暢でないのはそのせいだという。
 舌と指がしばしばずれる。
 タンキングと指を動かすタイミングが微妙に違う。
 叫ぶような高音は、当時の「流麗なサックス」という基準から大きく外れていた。*5
 すべては、サックスを生身の人間の声に近づけたいという気持ちから生まれたのだろう、と。*6

ビル・エヴァンズの練習

 理詰めの練習を重ねて重ねて、完璧な形を追求した。 (209頁)

 ビル・エヴァンズ*7の話である。

 エヴァンズは、2小節のために一時間近くも練習をしたらしい。

 そして、エヴァンズは、同じ小節を無数のパターンを吟味し、アドリブの際は、瞬間的にその場に最もあうものを選んでいたようだ。

 彼の場合、頭の中で完全にアレンジはできていた。*8
 しかし、それを楽譜には書かなかった。
 ゆえに、アイデアは柔らかく、フレキシブルなまま、どんどんアドリブを発展させることができたのである。

ジャズマンの記憶力と予測力

 ジャズの真のチャレンジは、弾きながら本当に聴いていることだ (49頁)

 著者の一人・ストレンジの大学時代の師(ヴィンス・マッジョ)の言葉である。
 自分が弾いたことをきちんと覚えている記憶力こそがジャズにおいては重要というのだ。
 チャーリー・パーカーはさらに、何十小節も先まで見通しながらアドリブをやったのではないか、と述べられている。
 ジャズマンは記憶力と予測力がないと、やっていけないのだ。*9

モード奏法の意義

 ハーモニー進行を制止させることで、4度とか7度のような音程を自由に使うことができるようになります。 (104頁)

 マイルズ*10はハーモニー進行を停止して、一つのハーモニーの可能性を組みつくそうとした。

 それが、モード奏法の意義だという。

 また、コード奏法だと、3度や5度などしか使えず、音程的な自由さに欠ける。*11

 

(未完)

*1:ブログ・「デューク・アドリブ帖」によると、

ベースとドラムが参加しているのではないかと思わせるほどリズミカルな左手の動きが素晴らしく、アニタ・オデイは「You're the Top」で、素晴らしいものの一つに「Tatum's left hand」と歌詞をアドリブしていた。

とのことである(https://blog.goo.ne.jp/duke-adlib-note/e/107305d096f7764bcb5ba5d1c87a2d5b )。
 その歌詞は、http://www.kget.jp/lyric/242847/You%27re+The+Top_Anita+O%27day を参照。

*2:ところで、アニタの「You're the Top」)の中に出てくる”the Miner's Gong”が何なのか気になっているのだが、英語話者にとってもこれは見当がつかないようで、掲示板で質問している人がいた(以下、http://www.organissimo.org/forum/index.php?/topic/77149-anita-odays-youre-the-top-lyrics/ )。

 以上、この註について、2022/4/10に加筆した。

*3:以前、自身のブログにおいて、次のように書いたことがある(http://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20150823/1440284732 )。

佐藤は「音階」を中立レベルに無条件に含んだことによって、サウンドやビート、声などの(略)音楽的諸要素を軽視する結果となった (92頁)/詳細は註で挙げた論文に書いてある。小泉や佐藤などの「専門家」は、自分たちだけが聞き取れる規範譜の「音階」を特権視している。しかし、「素人」は、音階よりも別の要素を気にしているのである。それを忘れてはならない、という話である。

その際は、「音階」の話をしたが、それは「和音」においても一緒である。

*4:副島輝人は、次のように、フリージャズを例示(あるいは分類)している(以下、渡邊未帆「日本のモダンジャズ、現代音楽、フリージャズの接点」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005612552 からの孫引きに依る。出典は、副島『日本フリージャズ史』である。)。

(1) アタマ(始まり)とエンディング(終り)だけにテーマとなるメロディがあり、中の部分はフリー・フォーム。と言っても、メロディ楽器奏者はキーを意識してインプロヴィゼーションをする場合と、全くそうでない場合もある。つまり曲という器があって、中身は自由ということだ。山下洋輔トリオや沖至グループの演奏に多く聴かれる。 (2) 曲がなく、トーナル・センターとしての一音、または複数音だけを決めて演奏する。ひと頃の富樫グループが、時々この方法を用いた。 (3)完全フリー・フォームとして、任意に出した最初の一音に反応して、全く自由に演奏を重ねていく。但し、内的リズムや音列を抽象的に利用したり、それを打ち切って別の方向にもっていったりする場合もある。例えば、佐藤允彦のソロ・ピアノや、高柳昌行ニュー・ディレクションの演奏などはこれに近い。 (4)オートマティズムのように、自分の内的精神状況を音に託して表現する。阿部薫のソロなどは、こうした方法によるものと言えようが、無意識のうちに音階が出来てくると、突然よくしられたメロディとなって一瞬表に現れることがある。

テーマとなるメロディはせめて残しておくもの、中心音はせめて決めておくもの、殆どアドリブとしか言いようのないものなど、さまざまである。

*5:後藤雅洋は、次のように書いている(「ジョン・コルトレーン|ジャズの究極を追い続けた求道者【ジャズの巨人】第3巻より」https://serai.jp/hobby/22869 )。

あえてコルトレーンは高い倍音成分を含ませた音色でテナー・サックスを吹いているのです。これは目立つ。大型なのでパワー感のあるテナーから、若干無理気味に搾り出す高域に偏った音色のフレーズは、まさに〝コルトレーン印〟付きのサウンドなのです。ちなみにそうしたコルトレーンの高音好みは、やがてアルト・サックスよりも高い音域のソプラノ・サックスへの持ち替えに繋がっていきます。

*6:ファラオ・サンダースは、インタビューに次のように答えているという(渕野繁雄の手になる和訳http://home.att.ne.jp/gold/moon/music/report-menu/report3.htmlより引用。 )。

けれども、ジョンは我々よりも進んでいました。彼がそのごつごつした音を得るためにマウスピースとリードの組合わせにしたことを、私は理解しようとしました。/あらゆる種類のマウスピースでの演奏を聴きました。 バンドスタンドで聴く彼の音はサクソホン音ではないようにも思われました。 すべての音がむしろパーソナルな声のようでした。 彼の演奏は何でも内側から起るようでした。

原典は、『ダウンビートマガジン』の2005年3月号(https://shopdownbeat.com/product/march-2005/ )であるようだ。

*7:本書ではこの表記なので、これで通す。

*8:中山康樹は、エヴァンスは練習において、古い曲から新しいアイデアを得ることに大半の時間を費やしており、曲の「アレンジ」に主眼が置かれていたとする(中山『ビル・エヴァンス名盤物語』音楽出版社、2005年、169頁)。

*9:なお、彼のパートナーだったチャン・パーカーは

いま思うに、どうやって知るのかしら?そう、持ってたのね彼は、彼は写真的な記憶力を持っていたとしか言えないわ。聞いたこと全てを保持したので、どんな場にも適応できたの。

と回想している(ウェブページ「チャーリー・パーカー・コレクション」掲載のインタビューhttp://birdparkerslegacy.com/chanparkerint/chanparkerint.html より。「場所:フランス 日時:1998年5月」)。興味深い。

*10:本書では「マイルズ・デイヴィス」という表記なので、それに従う。

*11:島村健は、

モード奏法=モーダル・アプローチでは先ほどのビバップ的な「IIm-V7」の展開を敢えてしないことにより、コード進行に縛られず、1つのトニック(主音)に対して7種類の「モード・スケール (引用者中略) 」に基づき、適宜そこから選んだスケールでソロを取るという手法が中心になります。

と述べている(「モーダル・ブルースについての補足解説」https://j-flow.net/wp-content/uploads/2017/12/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E7%AC%AC3%E7%A8%BF.pdf )。

 以上、2022/4/10に、この註について表現を一部改めた。

ちゃんと日本政府に対して、憲法の「再検討」をしてよいと指示していたのに -古関彰一 『平和憲法の深層』を読む-

 古関彰一 『平和憲法の深層』を読んだ。(再読)

平和憲法の深層 (ちくま新書)

平和憲法の深層 (ちくま新書)

  • 作者:古関 彰一
  • 発売日: 2015/04/06
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

改憲・護憲の谷間で、憲法第九条の基本的な文献である議事録は、驚くべきことにこの七〇年間ほとんど紹介されてこなかった。「戦争の放棄」と「平和憲法」は、直接には関係がないし、それをつくったのは、マッカーサーでも幣原首相でもなかった。その単純でない経過を初めて解き明かす。また「憲法GHQの押し付け」と言われるが実際はどうだったか。「日本は平和国家」といつから言われてきたのか。「敗戦」を「終戦」に、「占領軍」を「進駐軍」と言い換えたのは誰が何のためだったか…などについて、日本国憲法誕生の経過を再現し、今日に至る根本的重大問題を再検討する。

という内容。
 現在の憲法を語るうえでは、やはり古関彰一を読まざるを得ない。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

皇族が「戸籍」に入っていた時

 皇族は戸籍に入っていた (46頁)

 維新後最初の戸籍、壬申戸籍の場合、皇族、華族、士族など身分で集計していた。
 その後、1898年の民法に「家」制度が導入される。
 同年、それを基本とした戸籍法に改正され、戸籍法は「家・戸主」中心にかわった。
 つまり、壬申戸籍の場合、皇族も「戸籍」の範囲内にあったのである。*2
 壬申戸籍については、以前言及したことがある。

日本国憲法と、語られなかった沖縄

 「沖縄の民」についてはなにひとつ語っていない (119頁)

 当時の憲法学者宮沢俊義政治学者の南原繁は、「国民」については多くを語った。

 しかし沖縄は、その論の「外」として存在していた。*3 *4

政府側の重大な落ち度

 政府側は研究会から少なくとも事情を聴取すべきであった (207頁)

 政府側の委員会と憲法研究会*5
 とは、改正案について協議が可能だったはずである。
 政府案より先に憲法研究会案が先に公表されてもいたのである。
 にもかかわらず、政府側は、なにもしてない。
 GHQに「押し付け」られた背景として、著者は説明している。
 政府側の重大な落ち度であろう。

再検討していいって言ったのに

 日本政府は、再検討をしたいとする (230頁)

 日本国憲法明治憲法の手続きを採用して「改正」として成立している。
 だから、手続き上は、問題は見られない。
 また、憲法施行後にマッカーサーと極東委員会は、政府に対して憲法の「再検討」をしてよいと指示していたのである。
 だがしかし、日本側は遂にそれを行わなかったのである。*6

 

(未完)

*1:ところで、幣原発案説否定論については、著者・古関もこれを採用しているが、中野昌宏のいうように、その中身はやはり根拠がいくぶん弱いように思われる(「日本国憲法の思想とその淵源 : 憲法研究会の「人権」と幣原喜重郎の「平和」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005744628、119頁)。中野は最終的に、穏当な説として「日米合作」説を採っているが、確かに、この線が妥当であるように思われる。

*2:その後、また、今現在でも、天皇及び皇族は戸籍法の適用を受けなくなり、皇統譜に記載される仕組みとなっている。
 丸山寿典は次のように述べている(「宮内公文書館について」http://www.archives.go.jp/publication/archives/no052/1750 )。

天皇陛下や皇族方の戸籍に当たるものが皇統譜です。皇統譜には今上陛下に至るまでの歴代天皇や皇族方の御父・御母の氏名、御誕生・御成婚・御即位・崩御薨去の日時等が登録されています。皇統譜は大正15年に皇統譜令が施行された後に更新されており、更新される前の古い皇統譜皇統譜に記載されている各事項の登録に関する書類が当館に所蔵されています。

*3:そうした事実は、

沖縄では、1972 年に本土復帰を果たす以前の 1965 年に、当時の琉球立法院の全会一致による決議によって、5 月 3 日を住民の祝日とした経緯がある。その意味において、沖縄にとって憲法は、県民の総意で自ら積極的に選んだものである (「『日本国憲法の制定過程』に関する資料」(衆憲資90号 平成28年11月)http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi.htm )

といった事柄では到底拭い切れない事実であろう。

*4:これに対して、矢内原忠雄の場合は、良くも悪くも、沖縄に対して関わりが大きい。それがどのようなものであったかについては、櫻澤誠「矢内原忠雄の沖縄訪問-講演における問題構成とその受容にていて-」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_085.html を参照。

*5:しんぶん赤旗」は、

この案が新聞に発表された3日後の12月31日には参謀二部(G2)所属の翻訳通訳部の手で早くも翻訳がつくられ、翌年1月11日付でラウエル中佐が詳細な「所見」を起草、これにホイットニー民政局長も署名しています。「所見」は各条文を分析したあと、「この憲法草案中に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」と高く評価し、加えるべき条項として憲法最高法規性、人身の自由規定、なかでも被告人の人権保障などをあげていました。

と、憲法研究会の「憲法草案要綱」について述べている(「現憲法の“手本”となった民間の「憲法草案要綱」とは?」https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-27/2005072712faq_0.html )。この記事では、著者・古関の『新憲法の誕生』等が参照されている。

*6:もちろん、古関自身が言うように、「極東委員会が 1946 年 10 月に決定した憲法再検討の機会をマッカーサーは積極的には日本政府に伝えなかった」。しかし、

吉田首相は憲法改正の意思を持っていない旨答弁しているので「押しつけ」の立場をとっていないといえる。


 (以上、衆議院憲法調査会事務局「日本国憲法の制定経緯等に関する参考人の発言の要点」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11343069 に依拠した。)

 実際のところ、

マッカーサーは、1947(昭和22)年1月3日付け吉田首相宛書簡で、連合国は、必要であれば憲法の改正も含め、憲法を国会と日本国民の再検討に委ねる決定をした旨通知している。これに対する吉田の返信(同月6日付)は、「手紙拝受、内容を心に留めました」というだけの短いものであった

という感じである(国立国会図書館編「新憲法の再検討をめぐる極東委員会の動き」(『日本国憲法の誕生』)https://www.ndl.go.jp/constitution/index.html )。
 また、当時の憲法再検討問題に対する新聞紙上の反応は、およそ、「現時点での憲法改正には慎重ないし反対」というものだった。この点については、梶居佳広の論文・「新憲法制定と新聞論説─近畿地方を中心に─」(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_090.html )を参照。

『ザ・タイガース』入門なら、まずこの本を読めば大丈夫そうだな。 -磯前順一『ザ・タイガース 世界は僕らを待っていた』を読む-

 磯前順一『ザ・タイガース 世界は僕らを待っていた』を読んだ*1。 

 内容は紹介文の通り、

ザ・タイガースは1960年代後半の音楽ブーム「グループ・サウンズ(GS)」を牽引したトップグループ。本書は、ジュリーこと沢田研二をはじめとしたメンバー達の上京からグループ解散までの約五年にわたる全軌跡を、膨大な資料を駆使し活写する。ザ・タイガースの想い、苦悩、そしてあの時代がよみがえる、渾身の一冊。

というもの。
 宗教学者による、異色の(?)ザ・タイガース論である。*2
 出た当時、評判が良かったように記憶している。
 『ザ・タイガース』入門として、ぜひどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

ザ・タイガースの名付け親

 京都から上京したばかりの無名の若者たちが異論を唱えることは到底無理であった。 (60頁)

 ザ・タイガースと名付けたのは、すぎやまこういちである。*3
 あの内田裕也でさえ、反論できなかった。

 当時、すぎやまは、1965年にフジを退社して、日本初のフリーディレクターとして『ザ・ヒットパレード』の番組制作を担当していた。*4

 東大出身で絶対的な権限をもつ番組プロデューサーだったのである。

演奏のグルーヴ

 メチャクチャ下手でしたね(笑) (95頁)

 橋本淳のザ・タイガースの演奏に関する評価である。
 ただ、橋本の言う上手い下手は、どんな基準か。
 それは、ブルー・コメッツのような、メンバー全員が同じテンポで狂いなくリズムを刻むことができ、他の歌手のバックバンドが務められるようなグループを上手い、とする基準である。*5
 遅れたり進んだり、各楽器のリズムにずれが生まれることでグルーブが生まれる事実を、クラシック音楽を基準とする橋本やすぎやまは、理解できなかったのだ、と著者は述べる。

演奏は誰がやった?

 タイガースは沢田のヴォーカルと、メンバーのコーラスを吹き込むだけになった。 (99頁)

 スタジオ・ミュージシャンによって演奏されるタイガースのシングルは、少なくとも、「モナリザのほほえみ」から「銀河のロマンス/花の首飾り」まで続いたという。*6

・GSイチのコーラスの音域

 僕らはサリーの低音から、かつみの高音まですごい幅があって、これは貴重なもんですよ。 (116頁)

 沢田(ジュリー)の言葉である。

 沢田はセカンドテナー、加橋はテノール、岸部(サリー)は本格的なバスを担当した。*7
 加橋と岸部は『君だけに愛を』で、輪唱して歌っている。

 この音域の広さは、スパイダースもブルー・コメッツも出来ていなかったという。

 真ん中の音をやるタローが一番難しかっただろう、と沢田はコメントしている。*8

 

(未完)

*1:厳密に言うと再読。

*2:著者はザ・タイガースの大ファンである。念のため。

*3:サリー(岸部一徳)は2018年2月のスポーツニッポン紙のコラム「我が道」で、次のように回想しているようだ。

上京してまもなく、フジテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」に出演することになった。作曲家のすぎやまこういちさんがファニーズと名乗っていた僕たちに「グループの名前は、ザ・タイガースがいいんじゃない?」と提案した。

以上は、ウェブページ・『Julie's World』の記事(http://julies.world.coocan.jp/wagamiti.html )から引用した。
 基本的なこととはいえ、念のため、引用した次第である。

*4:すぎやまは、音楽をテレビ的に見せるために、カメラマンを含むスタッフにも楽譜が読めることを要求した。歌詞やメロディーに合わせて、カット割りを決めるという演出法に対応するためであったという(橋本淳の証言に依拠)。以上、太田省一「視るものとしての歌謡曲 七〇年代歌番組という空間」(長谷正人編『テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代』(青弓社、2007年)、59頁)に依った。じつにプロフェッショナルである。

*5:「楽器間の演奏タイミングの微少な時間差がグルーヴ(音楽に合わせて体を動かしたくなる感覚)を喚起する」という説の実証を試みた論文が日本にも存在している。
 その論文、松下戦具,野村真吾「楽器間の時間差がグルーヴを喚起する効果の心理物理学的検討」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130005481007 )によると、グルーヴは、「人が知覚できる最小の時間差」であり、「潜在・顕在の境界付近の時差で発生」するという。認識できるかできないかぎりぎりの差なのである。

*6:ファンの間でも、スタジオミュージシャンの存在は疑われていない(以下順に、ブログ・「花風林」の記事http://hanahuurin.blog62.fc2.com/blog-entry-73.html、及び、ブログ・「夢の岩」の記事http://blog.livedoor.jp/yopparaishibuya/archives/65403064.html より引用。)。

バンド演奏とは言え、こんなにきっちり正確な演奏はタイガースのメンバーが出来るはずがなく、スタジオミュージシャンの演奏ですが、良い演奏ですね。

確かにタイガースの初期シングルはスタジオミュージシャンの演奏によるものが多い。

*7:ザ・タイガースの武器の一つがコーラスの音域だった点は、すぎやまこういちも指摘している(瞳みのる(ピー)のウェブページより、読売新聞2013年10月4日付の記事「タイガース 完全復活への道」(https://www.hitomiminoru.com/img/pickup/13/131004yomiuri_01.pdf )を参照)。

*8:タローはバリトン、ということになるだろうか。

 なお、沢田のコメントの出典は、2008年のNHK FMの「今日は一日ジュリー三昧」と本書にある。

共産主義のソ連と金融資本主義のイギリスが中国の抗日をあやつっている、という矛盾した見方を、当時の軍人は抱いていた -戸部良一『日本陸軍と中国』を読む-

 戸部良一日本陸軍と中国』を読んだ。

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

日本陸軍と中国 (講談社選書メチエ)

  • 作者:戸部 良一
  • 発売日: 1999/12/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り

陸軍「支那通」──中国スペシャリストとして、戦前の対中外交をリードした男たち。革命に共感をよせ、日中提携を夢見た彼らがなぜ、泥沼の日中戦争を用意してしまったのか。代表的支那通、佐々木到一たちの思想と行動をたどり、我が国対中政策失敗の原因を探る。

というもの。

 勝手に期待して勝手に裏切られたと逆恨みしている、そんな感じの人たちが出てきます(私的まとめ)。

 以下、特に面白かったところだけ。

独り善がりの「東亜保全論」

 小澤は、中国人には事を挙げる勇気がないので日本人が先に立って実行しなければならぬ、と答えたという。 (26頁)

 革命は中国人が主体となって行うべきであって、日本人はそれを援助するのが本筋、という言葉への支那通・小澤開作*1、ではなくて、支那通・小沢豁郎の答えである。
 ここに、のちの支那通の大半に共通する独特のロマンティシズム、やや独り善がりの「東亜保全論」が表れている。*2

勝手に期待、勝手に失望

 中国人に近代国家建設の能力が欠けているという認識は、支那通軍人に共通していた。 (137頁)

 佐々木到一ら新支那通も、当初は国民党による近代的統一国家建設への期待を寄せていた。*3
 しかし、結局は国民党も国民革命の理念を忘れて堕落し、「中国の民族性」を「改変」することなどできないと結論した。
 ここにあるのは、他者に投影された、固定的な「民族性」である。
 そして、勝手に期待して勝手に失望している。

冀東政権による密貿易の黙認

 華北で発生した事態のなかで最も重大だったのは、特殊貿易と呼ばれた密貿易であったかもしれない。 (192頁)

 非戦区域が出来た頃から、満洲から渤海湾沿岸に不法の密貿易があった。
 冀東政権は、これを半ば公認し、関税を国民政府の四分の一にした。*4
 大量の日本商品が華北から長江沿岸に洪水のように流れていく。
 すると当然、中国経済には打撃となる。
 こうした事態に対して、国民政府の対日政策は抵抗へとシフトし始める。
 華北での日本軍の強引な行動が国民政府内の親日派を凋落させていった。

永津佐比重は諦めた

 支那課長の永津も、日本の政策の根本的転換を検討したという。 (196頁)

 永津佐比重の回想によれば、彼は西安事件後に、租界、居留地治外法権、軍隊駐屯権(満洲以外)等の権益を放棄することが、日本の行くべき道だと考えた。*5
 そうすれば、蒋介石満州国不問のまま日中友好に転じると考えた。
 しかし最終的に、それは無理だと結論した。
 陸海軍も、居留地も、紡績業を代表とする現地企業も、国内世論も、既得権益を放棄する政策転換を支持するとは思えなかったからである。

共産主義国家と金融資本主義国家、奇跡のコラボ

 共産主義ソ連と金融資本主義のイギリスが中国の抗日をあやつっている、という一見イデオロギー的に矛盾した見方は、支那通のみならず当時の軍人一般に共通する支那事変観であった。 (201、202頁)

 なんということでしょう。
 ワンダフル・ワールドである。*6

 

(未完)

*1:苗字を見てわかるように、息子と孫が音楽家である。
 ところで、こちらの小澤は、ロバート・ケネディに進言したエピソードで知られているが、清水亮太郎は、

同政権 (引用者注:ケネディ政権) は農村における経済・技術支援、灌漑、道路建設などの対策を採りながら充分な成果を得られなかったとされることから、小澤の提言が有用であったのかは疑問である。

としている(「満洲統治機構における宣伝・宣撫工作」https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I025573022-00 )。

*2:小沢豁郎 (天游) は、著書『碧蹄蹂躪記』の「清人愛国心」の項目で、清人愛国心が乏しい故に無気力である、と述べている。この本はデジコレで閲覧が可能である。

*3:張聖東は次のように述べている(「日本人軍事顧問の初期「満洲国軍」に対する認識と整備構想 : 佐々木到一を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006780861 )。

満洲国軍の掌握・整備に即して言えば,佐々木は,真の国軍化を追求することが不可能であることをよく理解しており.満洲国軍を掌握・整備するには.やはり,自分がかつて打破すべきだと思っていた「奇怪至極なる支那軍統制の真諦」.すなわち「権謀的ノ統帥」に頼るしかないという皮肉な結果になった。戸部が描いたややセンチメンタルな佐々木像の裏側には.冷徹で狡檜な佐々木像もあるのではないだろうか。

佐々木到一に対する見方として重要と考えたので、ここに引用した次第である。
 まあ、そこまでナイーブな人間でもなかったのは、確かであろう。

*4: 広中一成は次のように書いている(「冀東政権の財政と阿片専売制度」https://researchmap.jp/read0147469/published_papers/1764283 )。

政権発足直後から深刻な財政難に見舞われた冀東政権は,その状況を打開するため,1936 年になると,新たな税目を設けて住民らに課す一方,それまで渤海湾沿岸で横行していた密貿易を「冀東特殊貿易」(冀東密貿易)として公認し,「査験料」と称して密輸業者から輸入税を徴収した

参照されているのは、島田俊彦の論文・「華北工作と国交調整(一九三三年~一九三七年)」である。
 この貿易の存在は既に当時知られており、福良俊之は、「時事新報」に、

十一月に成立した冀東政府は此の点に着眼して本年三月蜜貿易取締の為め (引用者中略) 十五日には輸入税率を国民政府の一律四分一と改訂 (引用者中略) 運送料を設定し揚陸の便宜を与えると共に密輸の取締りを厳重にした、茲に於いて従来行われていた密輸は冀東区域を通過する限りに於いては国民政府の四分一の税を納付することにより合法化された、所謂特殊貿易之れである

と書いている(「南北経済線を行く」http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10001881&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 )。

*5:橋本龍伍の回想によると、

「陸軍の代表課員は秀才と言われた某中佐だつたが,「自分は永津大佐の下に参謀本部支那課員だつたが,昭和十一年の秋頃から支那と戦わざるべからずという意見を固めた.翌十二年の春,対支関係に関する会議の席上,必戦論を主張したら,永津大佐はそういう考えは国を危くすると飽くまで反対で,お前のような考えの者が自分の部下にいるのはなさけないと言つて泣いた」ということを,永津氏に対する軽蔑の表情をもつて得意そうに語つた」

ということである。また、 

軍服を脱いだ永津中将は,京都の魚市場で,魚の箱を修理して一箱五十銭の工賃で黙黙と働いていた

ということだそうだ。以上、「数学史研究者(木村洋)」氏のツイートに依拠した(https://twitter.com/redqueenbee1/status/1132998750731767809 )。出典は、「橋本龍伍:敗戦を予言した軍人,日本週報.,383,(1956.10),pp.31‐33」とのことである。

*6:戸部は、講演で次のように述べている(「日本人は日中戦争をどのように見ていたのか」https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000146806.pdf )。

後に満州建国大学の教授になる中山優は、 (引用者中略) 中国のナショナリズムや統一の動きに肯定的だった人ですけれども、そのナショナリズムがイギリス資本を基盤とし、コミンテルンに踊らされているという点を批判することになります。/イギリス資本主義と、コミンテルンソ連共産主義が中国のナショナリズムや抗日政策を支えている、あるいはそれを促しているという見方が中山の議論には含まれていますが、こうした議論もその後、何度も多くの人によって繰り返されます。つまり、日中戦争の初期の段階で論調のかなりの部分は出尽くしていると言っても言い過ぎではないと思います

中山の議論は1937年のものである。軍人だけではなかったのである。
 さらに、玉井清は次のように書いている(「日中戦争下の反英論 天津租界封鎖問題と新聞論調」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000333873 )。

神川は、我国を取り巻く極束情勢をして、第一に日本を推進力とする東亜新秩序建設、第二にこれに対立する旧秩序勢力、その中には英仏を中心とする国際連盟秩序と米を中心とするワシントン体制、第三にソ連コミンテルンを中心とする共産戦線があり、その三つ巴である。わが国は第二第三勢力と対抗し第一の使命を具体化しているが、老檜英の巧妙な外交技術により本質的には相容れないはずの第二と第三の勢力が提携する情勢が生まれてきている、としていた。

当時を代表するであろう国際政治学者・神川彦松の説明(1939年時点)がこれである。なんということでしょう。