フルトヴェングラーに対してヒトラーが語った、反ユダヤ主義をやめなかった「言い分」 -奥波一秀『フルトヴェングラー』を読む-

 奥波一秀『フルトヴェングラー』を読んだ。

フルトヴェングラー (筑摩選書)

フルトヴェングラー (筑摩選書)

 

 内容は、紹介文のとおり、

本書は、ヴァイマル期からナチ期、そして戦後における音楽家の振る舞いと内面を同時代人たちとの関係を通して再検討した渾身の作品である。政治に対する倫理のありようを見定め、さらには、その音楽思想がいまなお投げかけてくるものを考察する。

というもの。
 十年は前の本だが、読みごたえがある。

 以下、特に面白かったところだけ。

退廃と芸術とゲッベルス

 「ろくでなし」だからこそ、うまく指揮できるのだ。「まじめ」なドイツ国民が必ずしもよい芸術を生み出せるわけではない、退廃・デガダンと結びついてこそ輝く芸術もある、とゲッベルスは考えているわけである。 (36頁)

 後年退廃芸術を排斥するゲッベルス、そんな彼の1923年ごろの話である。*1 *2

ナチスとゴシック

 ゲッベルスは以前、「民(族)が血の共同体を純粋に維持すればするほど、それが形成する芸術はますます偉大となる(ゴシック建築)」と記していた。が、クシュネルによれば、ゴシック建築はそもそもフランスで発明されたものである。 (引用者中略) しかし、ドイツに受け入れられ発展をとげ、ゲッベルスのいうように偉大な芸術となった (123頁)

 なかなか皮肉である。*3

ゲッベルスフルトヴェングラーと調性

 無調音楽はドイツ的ではないとのゲッベルスの言明の対偶は、フルトヴェングラーの好んだ主張、つまりドイツ音楽は調性によるとの言明そのものである。 (124頁)

 ドイツ音楽と調性の根源的関連を説く点において、ゲッベルスフルトヴェングラーは近かったといえなくもない。*4

 フルトヴェングラーの主張は、音楽的には、ナチの論理を拒めないようなつくりをしていたのである。*5 

ヒトラーの「言い分」

 われわれは七人の党員だった時代に、党が反ユダヤ的であるべきかどうかをはっきりきめたのだ。当時、三対四の票決で反ユダヤ主義にきまった。当時の全員が反対していればよかっただろうが (244頁)

 1933年、ヒトラーと二度目の対面を果たしたフルトヴェングラーは、反ユダヤ主義の行き過ぎを窘めようとしたという。*6
 それに対するヒトラーの言明が上記の言葉である。*7 
 もう党は動き出したから自分にも止められない、というのが、この時のヒトラーの言い分(言い訳)であったようだ。

 その言い分が事実に基づいているかはともかく。

フリッツ・リーガー

 亡命したユダヤアーレントは元ナチ党の音楽に深い感銘を受け、元ナチの指揮者は(略)イスラエル選手犠牲者の追悼式の指揮台にすら立つ。 (336頁)

 アーレントは、ヨーロッパ旅行中、夫に向け、手紙を書いている。
 内容は、ミュンヘン・フィルを聴いた感想で、「メサイア」が素晴らしかった、と。
 だが、その指揮者フリッツ・リーガーはかつてナチ党員だった。*8

トーマス・マンの転向

 作家トーマス・マンは「理想主義的な狂人ともいうべき野蛮人ども」のこの凶行に衝撃をうけ、共和国支持を公にする決心をした (49頁)

 1922年、外相ラーテナウが右翼により暗殺された。
 結果、トーマス・マンは転向することとなった。*9
 この年、政治家暗殺の謀議を厳しく取り締まるべく、共和国保護法が成立した。

 

(未完)

*1:ゲッベルスの1923年11月10日付の日記が参照されている。

*2:ゲッベルスユダヤ系のフリッツ・ラング(映画監督)を懐柔しようとしたことはよく知られている。ラングがアメリカへ亡命したことも含めて。 以下、Gessner Frank (山下秋子・冨田美香訳)の「バーベルスベルク:神話と真実1912-2006」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006387805 )から引用を行う。

ナチスへの政権移譲と、ドイツ映画の保護者としてのヨーゼフ・ゲッベルスの宣伝省就任により、UFA幹部内のユダヤ人に対する圧力が強まりました。1933年春には国内の変動により、会社は無抵抗にユダヤ人職員を解雇します。エーリヒ・ポマーも解雇され、5月にはパリに亡命しました。 (引用者中略) フリッツ・ラングビリー・ワイルダーペーター・ローレなどはこの年にすでに亡命しましたが、遅れて亡命したものや、オットー・ヴァルブルク、クルト・ゲロンをはじめ多くの関係者がナチスによって殺害されました。

*3:例えば、ローゼンベルクは、「一般的で抽象的なギリシアの形態に対置されるのが, 神秘的で内的なゲルマンの魂であり, そうしたドイツ的な本質を表現する偉大な芸術様式として賞賛されるのが,ゴシックである」と主張している(田野大輔「古典的近代の復権-ナチズムの文化政策について- 」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005534196 )。

*4:クルシュネルの意見に対して、そう思われても仕方ない、という風な書き方を、著者はしている。

*5:そういえば、シェーンベルクヒンデミットもともに、米国へと亡命しているが、無調は基本好きでなかった後者は、なんとかして、ナチスと妥協をも考えていた。 以下、中村仁「ヒンデミット《画家マティス》におけるドラマと音楽形式」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40020766673 )

ヒンデミットは1936年初頭には改めてヒトラーへの忠誠誓約に署名することもしており、最後までオペラのドイツでの初演の可能性を探っていたと言える。よってオペラの作曲経過をめぐっては台本作成と交響曲《画家マティス》の作曲が、ナチスによってヒンデミットが取り込まれていく過程で行われていたのに対して、交響曲初演後に本格化したオペラの作曲とその改訂作業は、ヒンデミットナチスによって攻撃され、それに対して名誉回復を試みていた時期にあたる。ナチスがオペラの初演を許可しなかったのは、決してオペラの内容に問題があったからではなく、ヒンデミット1920年代の先鋭的な作風、ブレヒトとの共同作業、挑発的なオペラなど過去の芸術活動が問題であり、《画家マティス》自体はそのドラマ、音楽ともにナチスにとっては受け入れられる余地は存在していたと思われる。

 ヒンデミットが基本無調を好まなかった点については、例えば『Kentaro SUZUKI's website』の記事http://kentarosuzuki.com/?p=1550 を参照。

*6:クルト・リース『フルトヴェングラー』(みすず書房、1966年)の103頁が参照されている。

*7:ただ、ヒトラーがナチ党の委員会で七番目の委員になったか否かというのは、証拠不十分である。以下、村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』(中央公論新社、1977年)の177頁参照。なお、村瀬は、当該書でティレル『太鼓叩きから指導者へ』を参照している。Albrecht Tyrell  の”Vom Trommler zum Führer”である。

*8:なお、リーガーは来日したことがある。以下、ブログ・『気楽じい~の蓼科偶感』より引用する。

初来日は1972年、当初バーツラフ・ノイマンが一緒に来日する予定だったが出国許可が下りなかったために急遽<ナチ党員でもあった>フリッツ・リーガーとともにやってくる。大阪での演奏は公演の最終日で同じフェスティバルホールで2月16日に行なわれた。

*9:マンに共和国支持を訴えかけさせたのは、ラーテナウ暗殺だけではないと、友田和秀は述べている(「トーマス・マン 1922年--<転向>をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/40004837358 )。 

1922年4月の公開書簡でマンがホイットマンにたいする態度を変化させているとするならば,その理由はひとつしか考えられない。「フマニテート」理念の獲得である。『告白と教育』においてマンがそれをおこなっていたからこそ、かれは新たに読んだライジガー訳のホイットマンに触発されて,「フマニテート」理念をくデモクラシーンと結合させることができた,いいかえるなら<デモクラシー>概念をドイツ的なものに向けて転換させることができたのである。ホイットマンが「副次的」であるとするなら,それは,『告白と教育』が<共和国>支持にたいして持つ意味の大きさにくらべてのことなのである。

フマニテート概念の実相については、友田論文を参照願う。