陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった ―大谷正『日清戦争』を読む―

 大谷正『日清戦争』を読んだ(再読)。

日清戦争 (中公新書)

日清戦争 (中公新書)

  • 作者:大谷 正
  • 発売日: 2014/06/24
  • メディア: 新書
 

 内容は紹介文の通り、

朝鮮の支配権をめぐり開戦に至った日清戦争平壌の戦いをはじめ各戦闘を詳述しながら、前近代戦の様相を見せたこの戦いの全貌を描く

というもの。
 日清戦争というのは、あとの日露戦争やアジア太平洋戦争と比べて、その実相があまり知られていないかもしれないが、知るべきことは多い。

 以下、特に面白かったところだけ。

井上馨と甲申政変

 井上は竹添公使が暴走して朝鮮の内政に干渉したことを隠蔽して、日本側が政変の被害者であったことを朝鮮に認めさせ、謝罪と賠償を要求した。 (13、14頁)

 甲申政変において、井上馨はこうした振る舞いを行ったのである。*1

長崎とロシアの蜜月の時期

 ロシアとの関係が深まるとともにロシア系住民の数が増え、一九〇〇年頃の調査では長崎在住の外国人のなかで、ロシア系住民(多数のユダヤ人を含んでいた)は中国人に次ぐ数を誇っている。 (20頁)

 19世紀末、長崎はロシア船の寄港地であり補給地でもあった。
 長崎を経由して、食料品や日用品や石炭がウラジオストクなどに供給される。
 また、長崎からは多数のからゆきさんが向かった。
 冬の四か月間は、長崎の稲佐沖がロシア太平洋小艦隊の停泊地となり、稲佐は水兵のための遊郭が存在し、ロシア将校の日本人妻が居住する「ロシア村」の様相を呈した。*2 *3

後に引けなくなった日本側

 伊藤内閣は、派兵した軍隊を「空しく帰国」 (引用者略) させるわけにはいかず、何らかの成果を得て、局面を打開する必要があった。 (49頁)

 陸奥宗光日清戦争開戦支持派であり、川上操六参謀次長もまた同様であった。
 新聞も同様の立場をとっていた。
 既に漢城は平穏な状態で、農民軍は和約を結んで撤退した状態だった。
 にもかかわらず、日本は、既に兵士を送っていた手前、後に引けなくなったのである。

  陸奥日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。 (248、9頁)

 陸奥宗光は、イギリスとロシアの制止を振り切って強引に戦争を行った。
 過剰な領土要求を講和条約案に書き込み、予想された三国干渉への対応も拙劣だった。*4
 同時代の川崎三郎は、日清戦争は外交で失敗した戦争であって、陸奥はその責任があるとしている。*5 *6

削除された事件

 中塚明は福島県立図書館佐藤文庫に所蔵されていた『日清戦史草案』を検討することで、草案段階で詳細に描かれていた日本公使館と混成旅団が事前に計画して実行した王宮占領事件が、公刊戦史では書き換えられ、ここでも「歴史の偽造」が行われたことを解明している。 (61頁)

 中塚明『歴史の偽造をただす』より。*7
 すでに当時の有名なジャーナリスト川崎三郎『日清戦史』(全七巻)の第一巻で、その計画的な事件の事実が描かれており、当時の事件の実相を知る国民も少なくなかったという。

清側の敗戦原因

 平壌の戦闘では清軍の優秀な武器が効果的に使用されると日本軍は苦境に陥った。 (87頁)

 日清戦争は日本軍の兵器が優秀、というわけでもなかった。

 日本海軍に対して劣勢であったことが、清海軍の敗因であった。(241、242頁)

 日本は新鋭艦が多く、清側は旧式艦が多かった。などの事情がある。
 また、中国側は、4つの海軍部隊があり、統一して作戦する仕組みではなかった。
 そのため李鴻章が仕える船は制限されたのである。*8

川上操六の殺戮指示

 川上が命じたのは、東学農民とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。 (251頁)

 また、川上操六は、遼東半島割譲に固執していたという。*9

できるだけ多くの東学農民を殺す方針

 南大隊長は作戦後の「東学党征討略記」という講話録のなかで、井上馨公使と仁川兵站監伊藤中佐の命令を受け、できるだけ多くの東学農民を殺す方針をとったと述べている。 (110頁)

 第二次農民戦争の話である。*10

旅順事件

 そのなかには正当な戦闘による死者だけでなく、捕虜にすべき兵士に対する無差別な殺害や、捕虜殺害と民間人殺害(婦女子、子ども、老人を含む)が含まれていたことは確かな事実である。 (132頁) 

 日清戦争期の旅順攻撃の際、殺害人数は1万人以下、4500人を超えるという。
 「これらの従軍日記から見ると、 (引用者略) 上級指揮官が旅順攻撃の際には、清軍兵士のみならず民間人も殺害するよう指示していた可能性が高い」(134頁)。*11

三宅雪嶺「嘗胆臥薪」の真意

 「嘗胆臥薪」という言葉を使った三宅にはロシアへの敵愾心を単純に煽る意図はなかったが「嘗胆臥薪」は意味が同じまま、「臥薪嘗胆」として流布し、当初の意味を離れて、対露敵愾心と軍備拡大を煽る流行語に転じていく (222頁)

 三宅雪嶺は「嘗胆臥薪」を掲載したが、これは、国際情勢を読み誤って遼東半島割譲を求めた伊藤内閣の外交的誤りと責任を追及したものであった。
 三宅自身には、そうした使嗾するような意図はなかったのである。*12

味方だった人間さえも

 事件の詳細と日本政府の真実を隠そうとする不誠実な対応は、当時朝鮮を訪問していた『ニューヨーク・ヘラルド』紙の大物記者ジョン・アルバート・コッカリル(かつて『ニューヨーク・ワールド』紙の著名編集者。日清戦争期の『ヘラルド』紙は日本政府と関連を持って、旅順虐殺事件の弁護を行った親日新聞)の記事によって世界に伝えられ、厳しく批判される。 (235頁)

 朝鮮王妃殺害事件のことである。
 この事件は、味方も敵に変える程のものであった。*13
 事件の詳細については、金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』等を参照。

軍備拡張路線へ

 賠償金の八割が軍備拡張に費やされた。 (254頁)

 過度の軍備拡張は、産業育成を不充分にさせた(石井寛治『日本の産業革命』)。*14
 民党は、アジアへの軍事侵略路線に同調し、増税や公債募集に賛成、行政府にいよいよ荷担していくこととなる。

根拠のない言説が氾濫する現代

 日本では日清戦争について、いまだに「日清戦争は朝鮮独立を助けた正義の戦争」、「日本軍は国際法を順守した」、「乃木希典は一日で旅順を攻め落とした」など根拠のない言説が存在する。 (259頁)

 一番目は、陸奥の『蹇蹇録』を見ればわかる。
 (実際、英国などからの和解案を拒否しているのである。)*15
 他は検討するまでもない。*16

 

(未完)

*1:なお月脚達彦は、金玉均が、竹添の甲申政変関与を暴露して日本政府を困らせるために、『甲申日録』を書いたと述べている(『福沢諭吉と朝鮮問題: 「朝鮮改造論」の展開と蹉跌』東京大学出版会、2014年。119頁)。

*2:宮崎千穂の述べるとおり、「明治 31 年の旅順租借以降、ロシア軍艦の長崎港碇泊日数の短縮により「ロシア村」は寂れつつあった」(「外国軍隊と港湾都市--明治30年代前半における雲仙のロシア艦隊サナトリウム建設計画を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001498454 )。

*3:中條直樹・宮崎千穂は次のように書いている(「ロシア人士官と稲佐のラシャメンとの"結婚"生活について」https://ci.nii.ac.jp/naid/110001876663 )。

稲佐がロシア人だけに開かれていることがさらに、ロシア人にとっては特別な意味を持った。外国人が稲佐へ入ろうとすると、「何だって外国人がロシアの稲佐をぶらついているんだ。」とロシア人によって喧嘩腰に追い払われる“危険”もあったようである

*4:著者・大谷は次のように述べている(大谷正「「日清戦争」研究を語る : 大谷正『日清戦争 : 近代日本初の対外戦争の実像』(中公新書2014年) によせて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793998 )。

彼が何であんなに日清開戦に執着するのかという点ですが、大石によると、一言でいえば、陸奥は条約改正に失敗したから、それで後は戦争に訴えるしかなかったということなんです。 (引用者中略) 日清戦争は開戦する必要がないのに戦争が始まってしまった不思議な戦争です。

著者は割と陸奥という人物に対しては同情的であるが、詳細は「『日清戦争』研究を語る」を当られたい。

*5:陸奥神話がどのように形成されたかについては、上掲「『日清戦争』研究を語る」で著者・大谷らによって語られている。

*6:土山實男は陸奥外交について次のように評している(「最終講義 リアリズム国際政治と日本」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006771171 )。

10 日にソウルに戻った駐朝公使の大鳥圭介は事態が沈静化に向かっているのを見て,後続部隊の派遣を見合わせるよう,またすでに朝鮮に送った軍隊を韓国に上陸させないよう外務省に公電しますが,陸奥は派遣した兵はもう日本に返せないと返電し,15 日に,朝鮮の内政を日清共同で改革するという清が受け入れるはずのない提案を清にします。 (引用者中略) なぜこんなことが気になるかと申しますと,陸奥外交にはやはり無理があるからです。 (引用者中略) 昨年,陸奥宗光論を出した若手外交史家の佐々木雄一氏は,陸奥は伊藤と違って清国や李鴻章への信頼がなく,だから伊藤よりも強硬だったと書いています。佐々木氏によると,陸奥は先を見通して手を打ったわけではないにもかかわらず,コストに見合うだけの対価を得ようとする強い意志を持っており,また窮地に追い込まれても打開策をつくる手腕があったので,結果的に日清間で妥協が難しくなった。

*7:日清戦史草案の「朝鮮王宮占領事件」の個所については、以下のホームページでおよそを知ることができる(http://kumando.no.coocan.jp/mj/nsn25111.htm )。

*8:ジョン・L・ローリンソンは次のように書いている(細見和弘訳「日清戦争と中国近代海軍」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006452210 )。

紙の上ですら,ナショナル艦隊は存在しなかった。間違いなく,艦隊を指揮するか,あるいは艦船を操縦する人々の心の中には,何一つ存在しなかった。忠誠心は,各省か個人に向けられたものであった。水師は,これまで統一されたことはなかった。おそらく航行速度の遅さが,そうした伝統的な軍隊における責任の分配に寄与した。航行速度の遅さは,近代的な艦隊にとって問題ではなかった。にもかかわらず,近代的な艦隊は,各省により組織されるか,あるいは―これはさほど有効でなかったが―李鴻章か,あるいは張之洞のような人物の個人的影響力の様式に従って組織された。

*9:井上勝生は次のようにインタビューに答えている(「旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実 ~北海道大学名誉教授・井上勝生氏インタビュー(その2)」http://george743.blog39.fc2.com/blog-entry-1885.html?all )。

特に、日清戦争自身がのるかそるかの面もありましたから。川上操六(※30)が、兵站線の兵站総監で、責任者でした。彼が最初に出した命令というのは、蜂起した東学農民軍は、これから、『悉く(ことごとく)殺戮せよ』というものでした

*10:井上勝生は次のように書いている(「東学農民戦争,抗日蜂起と殲滅作戦の史実を探究して : 韓国中央山岳地帯を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006466654 *註番号を削除して引用を行った。 )。

翌 28 日, 慶尚道の洛東兵站司令部が,捕らえていた東学農民軍 2 人について,2 人は指導者とも思われないのだが,洛東部で斬殺して然るべきか,という確認の問い合わせをしたのに対して,南部兵站監部は,「東学党斬殺の事,貴官の意見通り実行すへし」と答えていた。このように仁川兵站監部の方針は,東学農民軍に対して「厳酷の処置は固より可なり」であり,大本営のこの「ことごとく殺戮命令」は,その後も取り消されることはなかった。

*11:司淳は次のように書いている(「日清戦争従軍兵士の自他認識」https://ci.nii.ac.jp/naid/40020998848 )。

旅順虐殺事件とは,11月 21日の占領後から 25日頃まで,市内および旅順・金州間で行われた敗残兵掃討の過程で,本来捕虜にすべき交戦意思のない兵士や捕虜,女性や子ども,老人を含む多くの民間人を殺害した事件です。「遠征日誌」にも,11月 23日の条に「我隊ニ於テモ敗兵五六ヲ銃殺ス」との記述がみられるほか,25日の条に「此日旅順ノ市街及附近ヲ見ルニ,敵兵ノ死体極メテ多ク,毎戸必ズ三四以上アリ。道路海岸至ル所屍ヲ以テ埋ム。其状純筆ノ能ク及フ所ニアラズ」と記されています。

*12:朴羊信は次のように述べている(「陸羯南の政治認識と対外論(2)公益と経済的膨張」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000963893 )。

わずか十日間でロシアに対する報復の世論が「嘗胆臥薪」のスローガンの下で形成されて、政府の失策を糊塗するのに役立っているが、それは自分の本意ではないとして、三宅は連載を中止したのである。もっとも、三宅が香いた「嘗胆臥薪」の趣旨は、対露復讐にあったのではなく、「現代の東洋は西洋に関連」するため、東洋に事を構えるためには西洋の状勢を把握して、それに対処できるように注意をしなければならないという点にあった。

*13:この点については、著者の『近代日本の対外宣伝』が参照されるであろう。ところで、著者のこの研究以降、朝鮮王妃殺害事件の報道に対する研究は進んでいるんだろうか。

*14:ウェブサイト・「カイゼン視点から見る日清戦争」(http://sinojapanesewar1894.com/920jmilitaryexpansion.html )は、石井寛治『日本の産業革命』を参照して、

海軍2.1億円、陸軍0.8億円、合計で3億円近い軍拡案が提案されたわけです。

と述べている。また、「3億円近かった軍拡費と比べれば、産業発展予算は半分以下のレベルにすぎなかった、と言えます」とも述べている。

*15:本山美彦は次のように書いている(「韓国併合と内鮮一体化論」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007628968)。

英国が調停案を提示したが,7月11日,伊藤内閣は,清との国交断絶を表明した。日清開戦の危機が一気に高まった。7月16日,日英通商航海条約が調印され,英国が日本の側に立つことになった(ただし,この条約が公表されたのは,1894年8月27日)。

依拠しているのは、藤村道生『日清戦争』や中塚明『司馬遼太郎歴史観』などであろう。

*16:本書を読めばおよそ明らかであろう。