「一億総特攻」に続かずに、残った本土の日本人が、特攻者たちを都合よく物語化した -一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』を読む-

 一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』を読んだ。久々に。

戦艦大和講義: 私たちにとって太平洋戦争とは何か
 

 内容は紹介文の通り、

1945年4月7日、特攻に出た大和は沈没した。戦後も日本人のこころに生き続ける大和。大和の歴史は屈辱なのか日本人の誇りなのか。歴史のなかの戦艦大和をたどりながら戦後日本とあの戦争を問い直す。

という感じである。
 面白く痛快だった。

 以下、特に面白かったところだけ。

帆を張ってやってきた黒船

 彼らの軍艦は石炭節約のために外洋では帆を張り、米国東海岸から二〇〇日余をかけて、ようやく日本へとやって来た (24頁)

 岡田英弘の著作*1が参照されている。
 ペリー来航時の蒸気船は、まだ発達の過渡期にあった。
 帆船に積む荷量や、大砲の数、航海性で、劣っていたのである。
 蒸気船としても、大西洋横断も汽走だけではおぼつかないレベルにあった。
 帆を張ったのは、そのためである。*2
 また、ペリーの蒸気船は、武力において三流であったという。

日露戦争の別の要因

 朝鮮を勢力下に収めれば日本は儲かる、ということ (45頁)

 安全保障だけが、日露戦争までの、日露間の相互対立の原因ではない。
 日本は朝鮮に釜山と京城を結ぶ鉄道会社を作り、利益を得ようとしていた。*3
 鉄道で日本の綿布を、内陸まで安く大量に運んで儲けようとしていたのである。
 その会社「京釜鉄道会社」の株を買って出資していたのは、主に日本の中小商人や地主であった。
 外務大臣小村寿太郎が、ロシアと対立してでも朝鮮を確保すべき理由として、安全保障以外に挙げたのがこの会社の存在である。*4

海軍に甘い?

 なぜかくも甘かったのか (127頁)

 終戦後の『真相箱』等において、日本の旧海軍に対しては甘かった、という話である。

 なぜ、旧海軍に甘くなっていたのか。

 近年の研究によると、占領軍総司令部内の民間情報教育局というプロパガンダ部門は日本海軍寄りであったという。

 太平洋戦争の戦史を作るにあたって、マッカーサーら陸軍の戦いを軽視し、海軍主体の戦いとして描いたようだ。

 両国海軍を主体にした以上は、「日本海軍褒め(但し、米海軍の方が凄い!)」になるのは当然といえば当然である。*5

あるはずだった「戦艦ヤマト」の中の遺骨

 松本によれば、当初案ではヤマト改造時に船体内から戦死者たちの遺骨が出てくるコンテも描かれましたが (182頁)

 戦艦大和の戦死者たちの、「宇宙戦艦ヤマト」での位置づけである。
 西崎義展(プロデューサー)かスポンサーの意向によって、コンテの内容は登場しなかった(どちらも責任を押し付け合ったらしい)。*6
 遺骨、戦死者の影は排除される結果となった。*7 *8

戦前戦後の連続性 -賃金篇-

 戦時下日本の各工場における時間給導入を「戦後的な<私益>意識の成立」とみています (188頁)

 有馬学(歴史学者)の指摘である(『帝国の昭和』)。
 戦時下、各工場は熟練工不足となる。
 そこで、出来高給を非熟練工に有利な時間給に改めた。*9
 結果、労働者からすると、滅私奉公という建前に反して、適当にサボってもお金がもらえるようになったのである。*10
 ・・・滅私奉公とは、なんだったのか。

無理筋の恩着せ

 そこで本土が沖縄と大和の「一億総特攻」に続くことなく降伏した史実は無視されています。 (196頁)

 平間洋一が『歴史通』に書いた文章*11に対する、著者の言葉である。
 米軍基地に反対する沖縄が、かつて大和が身を挺して救援に向かった「心」を忘れたのか、というのが、平間の文章の内容である。
 まあ、要するに、無理筋の恩着せである。*12
 著者は「一億総特攻」に続かずに、残った本土の日本人が、特攻者たちを都合よく物語化したことを鋭く批判している。

既に想像されていた「特攻」

 実は一老大佐が平時に思いつく程度の平凡な発想でしかなかった、とも言えます。 (239頁)

 1932年の水野広徳『打開か破滅か 興亡の此一戦』の話である。
 この予言的な小説において*13、米空母の甲板を破壊して飛行機の発着を不可能にするための「行き切り」飛行が「志望」によって決行される様子を描いている。
 特攻は既に発想されていたのである。*14
 切羽詰まったエリート参謀がひらめいたようなものでは決してなかった。

小山悌と戦後

 われわれの設計した飛行機で、亡くなった方もたくさんあることを思うと、いまさらキ27がよかったとかキ84がどうだったと書く気にはなりません (296頁)

 陸軍の戦闘機・隼を作ったのは、零戦を作った三菱のライバル、中島飛行機の技師・小山悌だった。*15 *16
 彼らは堀越たちと違って、弁明はできなかった。
 堀越たちが、自分たちは一生懸命優秀な飛行機を造ろうとしただけ、あの戦争は指導者たちが悪いと言い続けたのと対照的だった。

擬人化から消えるもの

 軍艦を擬人化することで、(本物の)人間たちの悲惨な死や敗北を後景化、もしくは「なかったこと」のように隠すことができる (163頁)

 そして、軍艦が擬人化されると、そこにいたはずの乗船員たちの存在は曖昧になってしまう。人は悲惨な、救いようのない出来事からは目を反らしたくなるものである。*17
 擬人化はそうした際に便利である。
 なお、本書によると、明治時代から軍艦が擬人化されていたという。*18

 

(未完)

*1:『西洋化の構造』

*2:加藤祐三は、次のように述べている(「幕末維新をどのようにとらえるか」https://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/index_200401h.html )。

蒸気軍艦2隻は、外洋では帆走して石炭を節約してきたが、伊豆沖を通過すると蒸気走に切りかえ、あらゆる武器を動員、全艦に臨戦態勢を敷いた。

 最初のペリー来航の際に来た蒸気船は、ミシシッピとサスケハナの二隻である。その後、ペリーの日本再訪時に、蒸気船・ポーハタンも加わった。以上、念のため。

*3:ウェブサイト・「1945への道」は、京義本線(ソウル~新義州間)について、次のように述べている(「「日本が朝鮮に鉄道を敷いてやった」という言説について」http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-railway.html )。

どうにか自分の手中に収めたい日本政府は、大韓鉄道会社に資金を貸し込む形で間接支配の足がかりを得ます。小村寿太郎外相は1903年11月9日、在欧州の在外公館に次のように通知しています。/『京義鉄道敷設権獲得はわが対韓経営の要項として、…直接の方法に依り…譲与を得るは実際■々難し■事情に有…差当り間接の手段に依りてなりとも之が実権をわが手に収むることとし、在韓公使に於て右方針に依り内密尽力の結果、■■大韓鉄道会社との間に本邦人網戸得哉の名義を以て借款契約に関する権利を取得…』    (■は私には判読不能。アジア歴史史料センター Ref.B04010923700)/敷設権の獲得が韓国経営の要、直接支配が無理なら間接にでも、という趣旨を明確に述べています。

以上が、日露戦争前の状況である。

*4:著者・一ノ瀬は、石井寛治『帝国主義日本の対外戦略』(の96-108頁)を参照して、本文のごとく述べている。

 その石井著をみると、小村寿太郎が1903年6月に御前会議に提出した対露交渉意見書が紹介されている。その中身は、およそ以下のとおりである(孫引きとなるが、内山正熊「小村外交批判」から、それを引用する。https://ci.nii.ac.jp/naid/120006510433 1968年の論文である。)。

若シ他ノ強国ニシテ該半島ヲ奄有スルニ至ラハ帝国ノ安全ハ常二其ノ脅カス所トナリ到底無事ヲ保ツ可ラス、此ノ如キハ帝国ノ決シテ忍容スル能ハサル所ニシテ之ヲ予防スルハ帝国伝来ノ政策トモ云フヘク、又一方二於テハ京釜鉄道ノ完成ヲ急グト同時二京義鉄道敷設権ヲモ獲得シ進ンテ満州鉄道ト連絡シテ大陸鉄道幹線ノ一部トナサザル可カラス

*5:著者は、田中宏巳『消されたマッカーサーの戦い』(吉川弘文館、2014年)に依拠して、そのように書いている。

 田中の言い分だと、『太平洋戦争史』の場合、「第6.7回でマッカーサーのフィリピンを取り上げているが、これはフィリピン戦より日本軍の残虐性の強調のためだけとしか思えない」ということになる。

 ただし、田中著は、その推論が「全体的に話があちこちにとんで繋がっていない」し、また、「米海軍よりになったかというと海軍の広報によって日本軍を破る海軍と海兵隊のイメージをアメリカ国民に植えつけたから」というが、「でも中公新書の『マッカーサー』ではマッカーサーの戦いは米国民に広く知られて英雄扱いされたとある」という風に、やはり、手落ちなところが否めない。(以上、ブログ・『読書日記 とその他ちょっと』の田中著書評 https://derkomai.blog.fc2.com/blog-entry-208.html より、参照・引用を行った。)

 実際に田中著を読んでみたが、その感想に同意できる。

 いっぽう、賀茂道子は『太平洋戦争史』について、次のように述べている(「「日本人は洗脳された!? 右派論壇で語られるGHQ占領政策WGIP」の実像とは?」賀茂道子×荻上チキ▼2019年3月20日放送分 TBSラジオ 荻上チキ・Session-22」『書き起こし保存庫』http://edelection.jugem.jp/?eid=46 )。

米軍の司令官は海軍のニミッツと陸軍のマッカーサーが2人いたのですけれど、マッカーサーの戦争史なのですね。マッカーサーが指揮を取ったフィリピンの戦いなどが詳しく書かれていて、ニミッツの指揮下にあった沖縄戦サイパン戦・ガダルカナルなどはそれほど詳しく書かれていないという状況になります。

こちらは米国陸軍(というかマッカーサー)寄りだった旨を書いている。

 実際賀茂は、『ウォー・ギルト・プログラム』(法政大学出版局、2018年)において、『太平洋戦争史』の真珠湾攻撃から敗戦までのうち、マッカーサーにとって重要なフィリピン戦に2章も費やした一方、ミッドウェー海戦サイパン戦(チェスター・ニミッツ指揮)に関する記述が少ないことを挙げている(148、149頁)。

 残虐行為についても、賀茂は、フィリピン戦の章で「バターン死の行進」や「マニラの虐殺」がとり挙げられていることを認めているが、ページにして2頁に過ぎず、「南京虐殺」に比べてわずかである点を挙げている(同147頁)。

 個人的には、賀茂の言い分のほうが正しいように思われる。

*6:ブログ・「逆襲のジャミラ」は、次のように書いている(「宇宙戦艦ヤマト ~戦死者への鎮魂歌」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-123.html )。

氏 (引用者注:松本零士) が手がけた初期のコンテのなかには、「大和の外板を外すと中から戦死者の遺骨がたくさん出てくるシーンを描いておいた」そうだ。/そうすることで、氏にとっての『宇宙戦艦ヤマト』は「戦死者への鎮魂歌」となる、はずだった・・・・。/・・・はずだった、というのは、完成した映像からは「遺骨」のシーンが全部カットされたからだが

参照されているのは、松本零士宇宙戦艦ヤマト伝説』である。

*7:「戦争も国家も、すでに一九七〇年代前半の時点で、多くの日本人にとっては確固たる『悪』」ではなく、曖昧な、一種のロマンの拠り所のようなものになり果てていた」(本書213頁)。だからこそ、本書で紹介されるような「大和」物語が世に出たのだ、と著者は述べている。

*8:なお、佐野明子によると、「『ヤマト』ファンたちは、作品の関連情報を収集して楽しむ、あるいは二次創作を行う、「オタク」的な消費を始めていた」。その一方、現実の戦争に関しては関心が向けられて行かなかったようだ。以上の指摘は、佐野の論文「戦艦大和イメージの転回」に依拠するもので、塚田修一「文化ナショナリズムとしての戦艦「大和」言説 : 大和・ヤマト・やまと」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005479424 )からの孫引きである。

*9:戦時中の賃金形態は、法政大学大原社会問題研究所, 編著 『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』によると、

第一に、全体としてみると「定額制」(=時間給)のほうが「出来高制」や「時間割増払制」(=能率給)よりも多かった。時間給中では、とりわけ「日給」が圧倒的に多かった。/第二に、それにもかかわらず時間給以外の支払形態が重要な意味をもつ産業がいくつかあった。それらは、金属、機械、紡織、鉱山の諸産業であった。とくに、紡織、炭坑業では、いずれの比率によっても、出来高払制のほうが時間給を凌駕していた。

という(「第三編 賃金と賃金統制 
第二章 賃金構造  第六節 賃金形態」https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/research/dglb/rn/rn_list/?rn_class=0 )。

*10:ただし、増地庸治郎が既に述べているように、時間給は、作業高に基づく賃金制度に比べ、「友誼的関係と社交的結合を増進する傾向」がある点も、注意すべきだろう(増地庸治郎『賃銀論』(千倉書房、1939年 )37頁)。時間給が労働者の連帯を生み出しやすい仕組みでもあったことは、比較的理解しやすいだろう。

*11:https://ci.nii.ac.jp/naid/40017273700 

*12:「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」という、昭和天皇の言葉を想起すれば十分だろう(木戸日記研究会編『木戸幸一関係文書』東京大学出版社、1978年(四九八頁)なお、原文はひらがなではなくカタカナ表記である。)。

 根本的に、「戦果」を求めた側に責がある(昭和天皇は「粛軍」の前に「戦果」を求め(1945年2月時点)、同年3月の沖縄戦が行われた)。

 より正確な経過は、李炯喆が次のように述べるとおりであろう(「終戦と無決定の本質」
http://reposit.sun.ac.jp/dspace/handle/10561/682 *註番号を省略して引用を行った。)。

敗戦よりも軍内部の革新勢力による共産革命が最も深刻なので,国体護持を唯一の条件として一刻も早く戦争終結を図るように促し,天皇の勇断で陸軍内の革新勢力を一掃して軍部を立て直すように進言した。 (引用者中略) しかし,天皇は近衛に国体についての軍部との相違(2月9日梅津参謀総長の上奏)と共産革命に対処した陸軍内の粛軍と人事について質問し,「もう一度戦果をあげてからでないと話は中々難しいと思う」と消極的な反応を示した。天皇は梅津の「米国の皇室抹殺論」には疑問を持ちながらも終戦を外交手段に訴えるためにも台湾戦に期待を寄せた

こうして、3月の沖縄線に進んだのである。

*13:この小説は東京空襲まで予言している

*14: ウェブページ・「MV STORIA」は、『打開か破滅か』を、

開戦劈頭サンフランシスコ攻撃に向かった艦隊は、当初の目的を果たすものの帰還の際に追撃を受けて危機に陥るのだが、そこから脱するのは二人の飛行将校が生還の見込みのない片道攻撃に向かったからとなっている。 (引用者中略) 「特攻」が既に描かれているのである。

と紹介している(http://mv-storia.my.coocan.jp/ntr-mizuno-shosi.htm )。

*15:なお、引用部の出典は、鈴木五郎  『不滅の戦闘機 疾風』(光人社、2007年。元は、サンケイ新聞社出版局、1975年)である。

*16:なお、戦後の小山について、小山悌を主役とした小説の作者・長島芳明は、

岩手富士産業は経営に傾き、小山さんのもとに情報が集まらない状態まで孤立しました。悲しいかな、小山さんは技術屋や上司としては一流でしたが、社長や役員としては二流以下だったようです。

と評している(「主役の親族から頂いた「銀翼のアルチザン」の感想と小山悌さんの戦後」http://blog.livedoor.jp/nagasimayosiaki/archives/cat_566446.html?p=3 )。一応、遺族と連絡を取ったうえで上記のように書いているようなので、おそらくそれは事実と思われる。

*17: 吉田満戦艦大和ノ最期』について、塚田修一は、

ここで指摘しておきたいのは、この「悲劇」の物語は、具体的な「敵の姿や顔」が一切現われない、自己完結的な性格を有しているということである

と述べている(前掲「文化ナショナリズムとしての戦艦「大和」言説」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005479424 )。この自己完結性自体は、擬人化における自己完結性に近似するものがあるように思われる。悲劇からは敵の姿が消え、擬人化からは味方の乗船員の姿が消えるという違いはあるが。

*18:小林清親の手になる戦争諷刺画の連作である「日本万歳 百撰百笑」は、野田市立図書館の頁などで見られる。https://www.library-noda.jp/homepage/digilib/bunkazai/a.html