「これは"太平洋戦争"ですか」「はい、"アジア・太平洋戦争"です」 -旧日本軍が東南アジアにいた頃-

 倉沢愛子『「大東亜」戦争を知っていますか』を読む。
 所々、反論したい所も出てくるけど、主題部分については勉強になる箇所が多い。
 ちなみに、著者は、太平洋に面してなくても東南アジアも戦場・占領地だったんだから、カッコつきで、「「大東亜」戦争」というべきじゃないかと提起している。
 これについては、その後使われるようになった「アジア・太平洋戦争」の方がより、的確と思われる。(著者も同意されるだろう)



 「大東亜」戦争なんて、所詮帝国主義諸国が領土の再分配を求めて戦った戦争に過ぎないよ、と著者は言う。
 だって、同じ植民地なのに、同盟国ナチスの影響下にあるフランス(ヴィシー政権)の植民地(ベトナムラオスカンボジア)に対して、日本は攻撃してないんだよね(24頁)。
 もし本当にアジア解放が目的なら、フランス領も「解放」すべきだろ、と。
 実際の所、フランスを追い出さなくても、日本は既にこの地域に軍隊を駐屯させて、資源もコントロールしていた。
 偉そうなことを題目にしても、実際はこんなものですな orz



 当時、日本軍は、東南アジアでの生産活動のため、日本の民間企業に、人材派遣を要請した。
 トヨタ自動車や、三井物産からも派遣された。
 しかし、派遣先への航路は、既に危険だった。
 長崎の五島列島沖でさえ、米国潜水艦で、派遣された人々が乗った船が撃沈されている。そして多くが命を落してる。

 
 この企業戦士たちが、命からがらたどり着いた占領地で受けたのは、軍人のいじめだった。
 曰く、「おまえたちは軍人にもなれず、利権あさりの民間会社の先兵」で、「いなくてもよい存在」であり、「おまえたちは船が沈没する時には、軍馬、伝書鳩の次におろしてもらえるような人間」だ、と(108頁)。
 軍の委託を受けたはずのに、現地ではこの扱い orz 
 まあ、軍人からすれば、"戦場に行かなくてもよかった恵まれた存在"であり、"優良企業社員というエリート"だったのだから、この反発も分からない話ではないけど。



 慰安婦問題では、きちんと明確な証拠のある事例もある。(有名な話だけど)
 それが、収容所に入れられたオランダ人女性を強制的に軍の慰安婦として働かせた問題である(124頁)。
 終戦後に連合軍によって問題化され、ジャカルタ戦争犯罪者裁判で、有罪判決が出ている
 この事実が判明したのは、1992年のこと。
 ここら辺の詳細は、「慰安婦FAQ」などをご参照あれ)
 (なお、著者は参考文献として、『オランダ人「慰安婦」ジャンの物語』を挙げている。)



 ちなみに、インドネシアでは、「敵性国人」として、現地の植民者たちが抑留され、全13万5千人のうち、20%が死亡、生存者たちも、「骨と皮にやせ細り生きているのがやっと」という状態だったという(125頁)。
 シベリア抑留を完全に、他国の為したこと、と考えてはならない。



 「ロームシャ」という言葉がある。
 占領地の鉄道などの工事に駆り出された、東南アジアの労働者のことたちのことだ。
 ロームシャは、自発的応募が原則だったが、実際は、騙されたり、連行されるケースが多かった(136頁)。
 取り扱いも、連合軍捕虜にはまだいくばくか遠慮もあったが、ロームシャに対する対応は非常に酷く、工事中の死亡率は彼らの方が遥に高かった。
 (少なくとも日本人の多くには、)忘れられた歴史の一つ。



 占領中のインドネシアでは、「隣組」制度が導入された(149頁)。
 住民の相互監視システムとして機能し、また、連帯責任も導入された。
 この制度は戦後も生き残り、特に、スハルト体制では、住民をコントロールするシステムとして機能した。
 こんなしょーもないもの、日本は輸出してしまったのだ orz



 当時の東南アジアは、連合軍によって船や鉄道車両や自動車車両が攻撃され、物資の輸送力が落ちていた。
 そのため、米どころのビルマインドシナでも、一部地域でコメ不足となった。
 1944年、アンチ省以北の全ての村で飢餓が起こり、200万人近い犠牲者がでている(この数は、ヴェトナム戦争犠牲者より多い)。
 無論、当時の天候不順や、軍のコメの強制買い付けも原因ではある。
 しかし、ヴェトナム南部のメコン・デルタでは、輸送手段がないために大量のコメが有り余っていた。
 これを北部へ運べれば、餓死者はもっと抑えられただろう
(155頁)。



 インドネシア側が、独立のために、日本兵たちに協力を求めたケースが多いことは良く知られている。
 だが、インドネシア側が、日本人を拉致して無理やり戦闘に参加させたケースもある。
 近衛騎兵隊の准尉石井正治は、軍の任務でインドネシア側との交渉に出かけたところを拉致されている(219頁)。
 そのエピソードは、石井の『南から』という手記に記載されているという。
 なお、ある記述によると、「人質となりそのまま一年間の独房生活。その後インドネシア独立気運の高まる中、インドネシア軍兵士として独立戦争に参加」した石井は、その後、「インドネシアで6つの会社その総従業員数6000人を有する企業体の会長となった」。そして「2002年7月27日帰らぬ人」となったという。



 インドネシアだけで、800人以上の日本人が残留したが、その背景には、インドネシア側が手厚く迎えたことと、現地でオランダ官憲の目を逃れて生きていくためには、独立軍に身を投じるのが一番安全だったことも背景にある(219頁)。



 インドネシア独立について。
 1943年3月時点では、「大東亜政略指導大綱」を出して、永久に日本領土にする方針だった(223頁)。
 だが、戦況悪化につれ、日本も妥協をして、1944年9月に、小磯声明において、「近い将来に独立を許容すること」を発表した。

 1945年8月17日、インドネシアで、独立宣言が行われた。
 憲法は既に日本占領時代に準備された枠組みを採用。
 日本側に、インドネシア側は、官庁や事業所を引き渡すよう要求。
 表向き、日本軍は正式には認めなかった(ポツダム宣言に縛られていたため)が、現地の日本人は、それを受け入れ、官庁や放送局、電力会社、鉄道、銀行などは、インドネシア側に引き渡された(227頁)。
 
 ただし、武器の引渡しには、軍が抵抗した。
 インドネシア側は、武器引渡しを拒んだ日本軍部隊から力ずくでも奪おうとした(当時連合軍はインドネシア独立を認めおらず、その一つ、英印軍がインドネシアに向かっていたため)。
 殆ど抵抗することのない日本軍の部隊もあった一方で、真剣に応戦した部隊もあった。
 
 こうしたインドネシア側の事業所や武器の奪取の成功の背景には、むろん、連合軍の到着の遅れ(9月)があった。
 その後、英印軍を経て、オランダ側との闘争が4年続いたが、最終的に、アメリカが国連を通じて干渉し、オランダに圧力をかけて手を引かせ、独立が達成された。
 アメリカが、インドネシア共産主義化することを恐れたため
である(229頁)。
 この年、朝鮮戦争が勃発し、一年前には中華人民共和国が成立していた。

 以上の記述から分かるのは、帝国時代の日本がずっと積極的にインドネシアの独立に協力していたわけではないこと、そして、彼らの独立を助けたのは、むしろ国家とは離れた日本人の協力だったこと、そして、独立自体の決め手になったのは、当時の冷戦状況だったこと、である。