「急に逃げるように自分の家に帰ったんです。今までにどんなに中国の人達をひどい目に遭わせてきたかを自覚しているからですよ」 -劉文兵『証言 日中映画人交流』を読む-

 劉文兵『証言 日中映画人交流』を読んだ(再読)。

証言 日中映画人交流 (集英社新書)

証言 日中映画人交流 (集英社新書)

  • 作者:劉文兵
  • 発売日: 2011/04/15
  • メディア: 新書
 

 内容は、紹介文の通り、

高倉健佐藤純彌栗原小巻山田洋次ら邦画界トップクラスの俳優、映画監督たちの中国との交流を気鋭の中国人映画研究者がインタビュー。高倉健内田吐夢監督の思い出、父や幼少期の話、佐藤監督の人民解放軍との共同作業の逸話、栗原小巻の日中文化交流活動、山田監督の敗戦後の満州での生活のエピソードなど、初めて語られる貴重な証言が満載。また、戦時中中国戦線へ従軍した経験を持つ名匠木下惠介監督の知られざる功績にも光をあてる。

というもの。
 個人的には特に山田洋次の話が印象に残った。
 以下、特に面白かったところだけ。*1

器用に生きている

 僕は充分、器用に生きてるつもりだけど。 (71頁)

 生命保険会社のCMで「不器用ですから」とコピーを当てられた高倉健だが、本人はこうインタビューで述べている。*2

長谷川テル

 長谷川テルさんは真の愛国者だということを、いつか歴史が証明するでしょう。 (137頁)

 長谷川の役を演じた経験をもつ栗原小巻は、こう述べている。
 長谷川テルは、平和の大切さを戦火の中国で訴え続けた人物である。*3

パスポートはいらなかった

 完全に日本の延長だと思っていましたし。だって、パスポートもビザも無いんですから。日本人は自由に出たり入ったりしていたんです。 (162頁)

 山田洋次の言葉である。*4

大陸的感覚

 親戚同士でいちいちお辞儀なんかして人間関係も窮屈で。早く満州に帰りたいと思っていた。 (162頁)

 一時的に日本に帰国した山田少年だったが、日本は狭いし、列車も家も小さいし、食べ物は魚ばかりだった。
 彼は満州の気質を身につけていたのである。
 大陸的感覚とでもいうべきか。*5

 満州と言うのは、 (引用者略) 植民地の植民側だから、わりに自由に暮らしていたからね。考え方もフリーなんだよね。それから生活も、それこそ中国人の犠牲の上においてわりに贅沢に暮らしていたから、ちょっと上手くいかないの、日本の田舎に暮らすとね。 (174頁)

 山田は山口に引揚げて苦労した体験を語っている。
 引き揚げ者として差別され、貧しいということで差別される。*6
 そのことが嫌で、上京を志した。

満州とうた

 中国の子供達に日本の歌を歌わせて、下手だって嘲笑することを。こんなひどい話はないな。 (165頁)

 満州において、中国(漢族)の子供たちは、「アジアは一つ」というような日本の歌を日本語で歌わせられる。*7
 いったい、五族協和とは何だったのか。

青天白日旗が立った

 僕達は急に逃げるように自分の家に帰ったんです。怖くなってきた。なぜかというと、今までにどんなに中国の人達をひどい目に遭わせてきたかを自覚しているからですよ。 (166頁)

 8・15の昼、中国人のすべての家に、国民党の青天白日旗が立った。*8
 彼らは日本の敗戦を予想していたのである。

 それを見た山田少年の反応が上記のものである。

引き揚げまで

 結局、食べるものがなくなると、働きに行こうというエネルギーもなくなって、家族は一日寝てるのね。「ああ、あの家はみんな昨日からずっと寝ているよ」と言うと、「もう間もなく死ぬな」と、そういう感じだった。 (169頁)

 満州の生活において、売るものはなくなり、仕事もなくなった人は多かった。
 しかし、誰も自分たちのことで精いっぱいで助けることができない。
 山田少年の一家も、もうダメだというころ、幸い日本へ引き揚げることができた。
 当時、大連だけで20万人くらいの日本人がいたという。*9

「教養における故郷」

 僕が実際見たなつかしさじゃなくて、僕の教養における故郷なんだな。 (182頁)

 日本でよくイメージされる「日本の原風景」と、彼自身が直に体験した「原風景」とは違う。
 しかし、それでもそうした「日本の原風景」を懐かしく思ってしまうという。
 山田監督自身は、それが、本や大人の話や映画の影響、イメージに基づく懐かしさだと、自覚している。*10

 

(未完)

*1:韓燕麗「劉文兵著『日中映画交流史』(東京大学出版会、2016年6月)」は次のように書いている(https://ci.nii.ac.jp/naid/130006077373 )。

応雄氏による『証言 日中映画人交流』(劉文兵著、2011 年)の書評でも指摘されたことだが、評者も同様の疑問を感じる。つまり、1978 年から1991 年にかけての中国における日本映画ブームの発生は、「受容側のあまりにも文化的な欠乏と飢えがあってのこと」だったため、「格別に取り扱われる理由はそれほど自明でなくなりそうだ」という指摘である。

本書のメインとなるテーゼに対する身もふたもない指摘だが、それでも読みごたえがないというのではない。一応弁護しておく。

*2:このキャッチコピーは、日本生命のCMで使われたもので、さらに遡ると、主演映画・『居酒屋兆治』の役柄がもとになっているのだが、この映画の監督・降旗康男も、本書に登場している。
 なお、その当該のCMは、某動画サイトにて視聴することができる。

*3:長谷川テルについては、たとえば、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダ マーヨ--反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テル」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110004689838 )などに詳しい。

*4:アジア歴史資料センター「戦時中にもパスポートってあったの?」(https://www.jacar.go.jp/english/glossary_en/tochikiko-henten/qa/qa05.html )は、

アジア圏とくに日本の植民地や占領地ではパスポートが不要な場合が多く、例えば中国については、1918年1月25日に吉澤謙吉臨時代理公使と陸徴祥外交総長との間で両国国民のパスポートの免除が正式に確認されています。/さらに、日本の影響下にあった「満洲国」や同盟関係にあったタイでもパスポートは不要でした。

と書いている。

*5:赤塚不二夫は、

日本の中ではみんながギスギスして生きていくっていうのがある。ところが、満州育ちっていうのは、なんか適当で、アバウトで、「どうでもいいや」「なるようになるさ」って生きちゃった、みたいなのがある。

と述べている(赤塚「「メーファーズ」――これでいいのだ!!」中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』亜紀書房、1995。44頁)。

*6:松田ヒロ子は、辻輝之の次の言葉を引用している(「引揚者を帰還移民として捉えるということ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005604111 )。

「引揚者」というラベルは一方的に押しつけられたものではない。歴史体験と記憶の選定、その意味づけに加えて、帰国後に居住、就業、社会保障など制度化された排除と差別が共鳴し合いながら、「人種」としての境界を再生産し続けたのは事実である。

*7:なお、満洲国の言語政策について、安田敏明は次のように述べている(「戦前・戦中期日本の言語政策-「満州国」における多言語政策の内実-」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/9-2.htm )。

五族協和の王道楽土は言語の面で実践されたのか否か。これはされなかったというのが答えです。具体的にどうだったのか。結論を申し上げますと,相互の語学学習ではなく,非日系,日本民族ではない人たちには日本語のみの学習を奨励したということになります。非日系に日本語のみの学習を奨励する。これは特に教育とか官吏と登用制度に顕著に現れてくるところです。一方で,「満洲国」は中枢の運営は日本人官僚が行っていたのですが,制度的にこれを後付ける体制が1937年以降,明確になってきます。実際の圧倒的な多数言語は中国語だったわけですが,中国語の下で日本語は圧倒的な劣位にあったわけです。逆に日本語を優位な形に制度化することを「満洲国」は国家制度として行うようになってくるのです。

*8:この事実は、当時満洲に暮らしていた多くの日本人が証言されている。論文においても、例えば、南龍瑞は次のように書いている(「「満洲国」における満映の宣撫教化工作」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006226030 )。

しかし,興行成績の向上が,中国人に対する宣撫教化の効果をあげることと直結したとはいいがたい。1945年8月 15日の終戦日に,いつの間にか新京など大都市の街中に青天白日旗がはためいたのは,満洲国当局の宣撫教化工作の失敗を象徴する出来事であった。

*9: 当時の大連(関東州)には、225,954人の日本人がいたようである。以上、佐藤量「戦後中国における日本人の引揚げと遣送」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009660825 )の156頁を参照した。

*10:幼少期を、満洲で過ごした山田少年にとって、話にきいた、緑豊かで稲穂が波打つ日本の風景は憧れの地だったようだ(『山田洋次の原風景 時代とともに』紀伊国屋書店、2006年。2頁)。山田本人の談によると、満州大陸では、日本を長屋やご隠居さんなどの落語のイメージで想像していたようである(同9頁)。