江戸は、親子などの親族関係であっても、約束事はちゃんと契約証書によって履行を確認する契約社会 -高木侃『三くだり半と縁切寺』を読む-

 高木侃『三くだり半と縁切寺』を再読。

 内容は紹介文の通り、

近世女性の立場の弱さを示すといわれた、三行半で書かれた離縁状三くだり半。しかし、実際は女性も対等な立場で、離縁を要求できた。女性唯一のアジールとされた縁切寺の実像と併せて、近世女性の地位を問い直す。

というもの。

 「夫専権離婚」という江戸期のイメージを問い直した良書である。
 以下、特に面白かったところだけ。*1

 

武士と離婚

 武士の結婚において、夫の家格よりも妻の家格の方が高いのは、一般的にみられる傾向であった(20頁)。
 次男三男は、いわば「厄介」であって、いわゆる冷や飯で結婚することは、事実上不可能だった。*2
 武士の間では、極めて離婚及び再婚が多かった(21頁)。*3
 妻の多くは、夫の家格よりも高い。そのため、実家を後ろ盾にして家庭内で夫に対して、優位を保っていた。

 

近世の女性の社会的地位

 武士以外の庶民の場合も、当時の妻たちは、夫の家から結構飛び出している(30頁)。

 というのも、その労働力が期待され、すぐに受け皿として、再婚先があったからである。
 鬼頭宏の研究によると、庶民の離婚率は高く、男子では45歳以前、女子では30歳以前に、離婚死別した場合、8割以上が再婚している。
 そもそも、当時庶民、特に農家の家族では、妻も夫と働かざるを得なかったのである(専業主婦など無理だった) (40頁)。
 女性の地位はその労働力ゆえに、必ずしも低かったわけではないのである(もちろん、平等というのではない)。
 少なくとも江戸後期の離婚は、「夫の専権離婚」と把握することは難しい、というのが著者の意見である(83頁)。 *4

 

寺以外にも

 武家屋敷、寺院、町村役人宅など。いずれも、夫の手に負えぬ所として事実上、妻の駆け込みを受け入れ、離婚を達成してくれた(189頁)。
 縁切りは寺だけではなかったのである。*5

 

実際の離婚事情

 当時は法律上、密通したら死罪である。
 だが、江戸の刑罰は見せしめとしての側面があった(234頁)。
 建前としての法規を厳格に試行することは、躊躇われたのである。*6
 密通があったとしても、これを曲げて、口書には、事実を明記しないということがよくあった。
 内済の時に証文に、「夫の疑いが晴れた」という文言さえ書かせればよかった。
 この文言さえあれば、奉行所では、事実を問題とせず内済を許可できた。
 そこで、密通の事実がなかったことにして解決を図ったのである(235頁)。
 心中未遂の場合も同様である。
 心中という行為自体を隠す。
 酩酊のためとか、口論で逆上して相手を傷つけ、申し訳ないので自害しようとしたが未遂、と供述させる。
 これを口書(供述記録)にした。
 軽度の場合は、治療代で済んだという。

 

江戸は契約社会

 江戸期は、親子等の親族関係にあっても、約束事は契約証書によって履行を確保した(249頁)。

 契約社会だったのである。*7

 

(未完)

*1:なお、頁数は、講談社新書版の方に依拠している。念のため。

*2:大名家の場合でも、部屋住みの身であった井伊直弼の場合も、正室を迎えるのは、彦根藩の次期当主となることが決まって以降のことである。

*3:縄田康光「歴史的に見た日本の人口と家族」には次のようにある(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1003948 註番号を削除して引用を行った。)。

江戸時代の離婚率については、前記の陸奥国下守屋村と仁井田村を例にとると、その平均普通離婚率は 4.8に達している。これは現代の米国を上回る高水準である。また、武家の離婚率も高かったと推測される。また江戸時代は、配偶者との死別に伴う再婚も多かった。夫婦が一生寄り添うという家族のイメージは、離婚率が低下し、平均寿命が延びた明治以降に形成されたものと言えよう。

*4:大竹秀男は、著者・高木の見解について、「本書において少くとも事實上は妻方からの離婚がかなりあったことが明らかにされたので、江戸期の離婚は追出し離婚という偏ったイメージは拂拭されたであろう」と肯定しつつ、「率直にいって、著者は夫專權離婚のアンティテーゼとして妻方からの離婚をいささか強調しすぎである」と指摘している(「(書評)高木侃著「三くだり半――江戸の離婚と女性たち――」」1988年。 https://ci.nii.ac.jp/naid/130003445189 )。

 少なくとも、「夫専権離婚」がすでに時代遅れのイメージであることは確かである。

*5:村上一博は次のように述べている(「離縁関係文書三題」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001441712 )。

江戸時代において,幕府権力を背景に,寺法にもとつく強制離縁が公許されていたのは,上州徳川郷の満徳寺と鎌倉松ケ岡の東慶寺のニケ寺にすぎなかった。しかし,幕府公認の縁切寺以外にも,夫に対して離縁状を事実上強制しえた場所があった。すなわち,武家屋敷・陣屋・神職・寺院(修験を含む)・町村役人宅などの所謂「権門勢家」=「夫の手に負えぬ所」への駆込みが,地方によっては容認されていたことが知られている

*6:谷正之は次のように書いている(「弁護士の誕生とその背景(1)江戸時代の法制と公事師https://ci.nii.ac.jp/naid/110007577480 *註番号を除いて引用を行った。)。

夫が密通した男だけを成敗したときは,妻は公刑として死罪となった。密通した男が逃亡したときは,妻の処分は,夫の心次第ということであった。夫の姦夫姦婦成敗は,明治時代になっても,なんと明治41年に新刑法が施行されるまで存続したのである。このような成敗をしないで,内済で密通した男が夫に対し賠償し,妻を離婚することもできた。賠償額は,7両2分が相場だった。

参照されているのは、石井良助と平松義郎の著書である。)

*7:著者高木は、江戸期庶民の契約に対する意識について、別の論文で次のように指摘をしている(「契約書式の戯文--徳川時代庶民契約意識の一斑」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793393 )。

この戯文は上層庶民の「衒学的な遊び心の極致」・「江戸人の洒落心」といえる。しかも戯文の対象とされたものが日常的な契約文書だったことは、同時に庶民意識のなかに契約文書が日常的なものであったことの証左ともなる

 神保文夫も、隼田嘉彦の研究とともに、高木論文(「契約書式の戯文」)を先行研究とし、「庶民意識のなかに契約文書が日常的なものであった」点について比較的肯定的に論を進めている(神保文夫「近世法律文書の戯文」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224652447488 )。

 江戸時代の社会が、将来の紛争回避のために、実の親子の間で老後の扶養に関する契約が結ばれるような契約社会だった点については、例えば、著者の「江戸の親子契約」(https://www.jalha.org/bunken/bk1996_j.htm )等を参照。高木によると、こうした契約は実効性が十分あったようである(当該論文14頁)。

 以上、この註について、2024/10/7に加筆を行った。