「捨て牛馬」や「捨て子」に加え、「捨て病人」が禁止されていた時代(元禄期の話) -大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』を読む-

 大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』(のオリジナル版のほう)を読んだ。*1

  内容は紹介文の通り、 

古典ってワイドショーだったんですね! 捨てられる病人、喰われる捨て子、蔓延する心の病―― 「昔はよかった」って大嘘です! 古典にみる残酷だけど逞しい本当の日本人の姿。

というもの。
 著者は、身分社会より、西鶴の文学にみられるような金を貴ぶ社会の方を支持しているが、本書における厳然たる身分社会の「悲哀」を見ていけば、そういいたくなるのもまた道理だと思わせられる。*2

 以下、特に面白かったところだけ。

江戸期の捨て子と子殺し

 江戸時代は捨て子が禁止されたとはいえ、まだまだ盛んで、嬰児殺しは日常茶飯事でした。 (引用者中略) 氏家幹人は、「子供たちにとって、ただ惜しみなく愛を注いでくれるだけの楽園のような社会など、ありはしないのだ」 (48頁)

 捨て子*3だけでなく、子殺しは昔からあったと著者は述べている。*4

「捨て牛馬」・「捨て子」・「捨て病人」

 重病人を棄て去るという習慣が相当長く続いたと思われるのは、元禄時代の「生類憐みの令」では、「捨て牛馬」や「捨て子」に加え、「捨て病人」が禁止されていたことからも分かります。 (100頁)

 「生類憐みの令」というのは、そういう面ではまともなところもあったのである。*5

秀吉と人身売買の禁止

 秀吉の要請を受け、日本人の奴隷売買が布教の妨げになると考えた教会関係者が国王に請願した結果、一五七〇年、日本人奴隷取引禁止令が出される (109頁)

 一五八七年には日本国内の人売買も禁じられた。*6 *7
 よく知られるとおりである。

家族同士で殺し合い

 究極の残酷は家族同士で殺し合いをさせること。安土桃山時代の為政者は、それが分かっていたからキリシタンを拷問する際、そうした(以下、引用者略) (114頁)

 子供に親を殺させる方法などが、キリシタンへの拷問で行われた。*8

いばらきの由来

 茨城県、なんだか悲しい語源です (138頁)

 『常陸国風土記』の「茨城郡」の記述によると、天皇軍と先住民との戦いで、天皇軍の大臣の一族であるクロサカノ命は、穴に住む国巣(「くず」と読む)が穴から出てきて遊ぶ際に、茨を穴に敷いておき、国巣たちを騎馬兵に追いかけさせた。
 すると、いつものように穴に逃げ帰ってきた国巣たちは、茨にかかって突き刺さって、けがをしたり死んだりした。
 そこで、この地に名前を付けたという。*9

日本古代の「卑怯」な手口

 現代人には卑怯にも見えますが、戦争とはどだい人殺しであることを思えば、少ない労力で確実に相手を倒せるのですから、味方の犠牲が少なくて済む優れた戦術と言える (140頁)

 ヤマトタケルの、敵を倒す卑怯なやり方に対して、著者はそのように弁護している。*10

 

(未完)

*1:よって頁数はそちらの方に準拠している。

*2:もちろん、資本主義社会の礼賛をする必要もないわけだが。

*3:沢山美果子は次のように述べている(「『乳』からみた近世大坂の捨て子の養育」https://ci.nii.ac.jp/naid/20001463026 )。

捨てる側、貰う側ともに、その理由として「家」の維持・存続をあげており、少なくとも「家」の維持・存続のために捨てる、貰うことは近世大坂にあっては正当な理由として認められていたらしい

捨てることと貰うことは、常に「家」の存続がかかっていたのである。

*4:林玲子は次のように述べている(「中絶と人口政策の古今東西http://www.paoj.org/taikai/taikai2018/abstract/index.html )。

日本における歴史的推移をみれば、堕胎と嬰児殺しに関しては、古来から江戸時代に至るまで「法律もなく道徳的にもさして非難せられなかった」(小泉1934)。江戸時代には、例えば 1680 年には堕胎罪を独立罪として取り扱い処罰する「女医の堕胎及び妊婦を罰するの町触」が出され、また各藩の取り締まりがあったにせよ、それは逆に堕胎と嬰児殺しが広く行われていたことを示すものであったともいえよう。

上記の「小泉」とは小泉英一『堕胎罪研究』を指す。

*5:捨て子に関連して戸石七生は次のように述べている(「日本の伝統農村における社会福祉制度 : 江戸時代を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/40021177979(PDFあり。) )。

近世になると家族経営による農業がほとんどになり、大多数の農家では年季契約の奉公人を雇っても、長期にわたって身寄りのない下人を抱えておく余裕はなくなり、その結果、幼児の需要は劇的に低下し、乳幼児は売れなくなった。塚本によると、売れなくなったため、子の養育コストが負担できない親による捨子が増えたというのである。また、捨子自体も恥だと思われていなかったようである。塚本は井原西鶴の『好色一代男』(1682出版)で主人公・世之介がある女性に産ませた赤子を「さり気なく」捨てたことを指摘し、大きな悪とみなされていなかったとしている。

参照されているのは、塚本学『生類をめぐる政治』である。
 また捨て病人に関しても、松尾剛次『葬式仏教の誕生』を参照して述べている。

現代人と大きく意識が違うのは病人の扱いである。綱吉の時代までの日本人は、病人についても介護を放棄することを罪や恥だと思っていなかった可能性が高い。例えば、京都の公家・三条西実隆の日記『実隆公記』の永正二年(1505)の11月6日の記事によれば、三条西家では梅枝という下女が中風(脳出血)で倒れ、瀕死の状態になった時、寒風吹きすさぶ中、今出川の河原に運び出したという

*6:下山晃は次のように述べている(「大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷」http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html )。

検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。/しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

奴隷貿易の利益率の高さがうかがい知れる。

*7:孔穎は次のように述べている(「明代における澳門の日本人奴隷について 」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005687547 )。

ポルトガル王が豊臣秀吉イエズス会を介して伝えた圧力の下で日本人奴隷取引を禁止し解放しようとしたとき、ゴア当局は、「彼らを解放すれば、反乱するに違いない。戸口で虎視眈々している敵と結託し、われわれを一人も残さずに殺すのであろう…奴隷解放のうわさが彼らの耳に入れば、今にも動き出そうとする。主人は常に警戒しなければいけない」と懸念を示した。

奴隷の中には、そうした性格の者たちも存在したのである。そりゃそうだ。

*8:阿部律子は次のように書いている(「五島キリシタン史年表」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005301377 )。

「旧キリシタン」を指揮して、下川彌吉宅を牢屋に仕立て上げ、逮捕したキリシタンを桐古の浜の家で拷問する。頭分の下村善七、下村卯五郎には、最も残酷な算木責に遭わせる。子どもに拷問を加えて、親に改心を迫り、信者達は拷問の厳しさに耐えかねてついに改心する 

子供の方を拷問して回心させる方法もあったようである。

*9:茨城県のホームページ(携帯版)にも、

常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」という本の中に、「黒坂命(くろさかのみこと)という人が、古くからこの地方に住んでいた朝廷に従わない豪族を茨(いばら)で城を築いて退治した。または、その住みかを茨でふさいで退治した」という話が書かれています。/この「茨(いばら)で城を築いた」または「茨でふさいだ」ということから、この地方を茨城(いばらき)と呼ぶようになったといわれています。

とある(https://www.pref.ibaraki.jp/mobile/profile/origin/index.html )。残虐性を薄めた記述ではある。

*10:大津雄一は佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』に対する諸表の中で次のように書いている(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009895030 )。

今昔物語集』巻二五には、平維茂との合戦で藤原諸任がだまし討ちを仕組んだことが記され、しかも、 そのことを非難していないことからもわかるように、 一方ではだまし討ちは否定される行為ではなかった。 それは鎌倉・室町時代においても変わらず、室町末から戦国時代に至れば、 むしろ、 だまし討ちは積極的に肯定されるようになった。 江戸時代になっても、 戦国の遺風を受け継ぐ軍学者や兵法者たちは、 平和な時代にあえて偽悪的に振舞ったということもあるのだろうが、だまし討ちを当然のことと喧伝していた。

ヤマトタケル以降も、そうしただまし討ちは続いていたのである。