「異学の禁」が素読に与えた影響から、幕末明治の漢詩ブームの背景まで -齋藤希史『漢文脈の近代』を読む。-

 齋藤希史『漢文脈の近代』を読んだ。(三読目くらいか。) 

 内容は、紹介文のとおり、

本書は漢文の文体にのみ着目した従来の議論を退け、思考様式や感覚を含めた知的世界の全体像を描き出す。学問と治世を志向する漢文特有の思考の型は、幕末の志士や近代知識人の自意識を育んだ。一方、文明開花の実用主義により漢文は機能的な訓読文に姿を変え、「政治=公」から切り離された「文学=私」を形成する。近代にドラスティックに再編された漢文脈を辿る意欲作。

という内容。
 すでに紹介文で、本書の内容はおよそ要約されているように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

異学の禁と、素読のスタンダード化

 極端な言い方ですが、異学の禁があればこそ、素読の声は全国津々浦々に響くことになった (23頁)

 漢文の読み書きは、18世紀末から全国の武士階級に広まる。
 日本で漢籍も出版された。
 だが、解釈の標準が定まらないと訓読もまちまちである。
 そこで、訓読の統一が必要になり、前提として、解釈の統一が必要になる。
 その解釈の統一が「異学の禁」によって成ったのである。*1
 解釈の統一は、カリキュラムとして、素読の普及と一体だった。

閉じられた朱子学

 道徳の外部はあらかじめ封鎖されているのです。完全なシステムを目指したことの裏返し (46頁)

 朱子学は、理気二元論で構成された体系で、外部がない。*2
 しかも秩序は自発的である。
 よって、理想の秩序はすべて当然に実現される。
 自発性はすべて当然の自発性として、選択肢がない。
 実は強制的になってしまっているのである。

 (もちろん、上記のような主張はかなり図式化した物言いであり、そのことは、著者が断りを入れていることであることは、いちおう記しておく。)

本場で認められた頼山陽日本外史

 和習という非難は、むしろ『日本外史』の文章が読みやすかったことに向けられているとしたほうがよさそう (62頁)

 『日本外史』は、1875年に広東でも出版されている。
 その序文では、この本は『左伝』や『史記』に範を取っている、と褒められているのである。*3

漢文脈からの離脱

訓読文体という型は、漢字漢語の高い機能を保持しつつ、漢文の精神世界から離脱するための方舟となった (95頁)

 近代以前は普遍とみなされた漢文も、近代以降は、東アジアローカルのものになった。
 その文体を支える精神は不要とみなされた。
 こうして近世後期から徐々に確立された訓読文体は、漢文(漢文脈)の精神世界から離脱していく。

 漢文脈における「感傷」と忍月の主張する「恋愛」には、大きな違いがあります。 (157頁)

 漢文脈の場合、「功名」を犠牲にはしない。
 「功名」の成立が実現が前提であった。
 女性におぼれることはアウトだったのである。
 じっさい、「舞姫」の大田豊太郎もそれを恐れた。
 著者いわく、「舞姫」は、恋愛小説ではなく感傷小説なのである。
 だが、石橋忍月は、「功名」より「恋愛」をとるべきだといった。*4
 ここに、漢文の精神世界からの離脱が見られるのである。

禅のラディカルさ

 禅ないし仏教は、士大夫の世界としての漢文脈にとって、それを外部へ開く契機になっていると同時に、その秩序を破壊しかねない危険因子 (218頁)

 朱子学はとんでもない物を抱え込んだ。
 朱子学は禅の影響を受けているのであるが、その影響は儒学の精緻化をもたらすと同時に、困ったものを内蔵させた。
 文明社会への対抗原理として、禅が見いだされるようになった、というのが、著者の見解である。*5

漢詩ブームの理由

 幕末明治期の少年たちが漢詩を作ることに熱中したのは (220頁)

 漢詩は平仄あわせをする必要がある。
 それには、熟語を暗記する必要がある。
 幕末期には大量の漢詩文参考書(例文集や熟語集)が出ている。*6
 これを参考にして、漢詩を作れば聡明さを誇ることが出来た。
 幕末から明治期にかけて教育を受けた世代は、漢詩文の出来が自分の知性を示す指標として受け取られたのである。
 ゲーム要素があって、それで名声が高まるなら、まあ流行るよね。

ギスギスで夜露死苦

 音韻的にも全部仄音で、とてもぎすぎす (222頁)

 ただし、漢語が多用されても「漢文脈」とは限らない。
 士大夫的精神というフレームを背景に持つかどうかが重要である。
 それがなければ、ただの漢字や漢語の遊びになる。
 ちなみに、「夜露死苦」という言葉は、全部仄音である。*7
 なめらかな四字熟語にするには、二文字目と四文字目の平仄を交代させるのが効果的だという。*8

 

(未完)

*1:佐藤進は、

学問所では、「寛政異学の禁」を強化する目的で「素読吟味」という試験を課すようになるが、そこで使われたのが「林家正本」と銘打った芝山点(後藤点ともいう)の四書五経であって、芝山点が以後広く普及したのはそのためだという。芝山点には、音読化・上代語法の不使用・過剰な読み添えの削除・不読をなくする、などの特徴があるという

と述べている(「藤原惺窩の経解とその継承--『詩経』「言」「薄言」の訓読をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006383563 )。
 なお、この論文で参照されているのは、鈴木直治『中国語と漢文』である。

*2:藤居岳人は、

システム論として整った朱子学を教学の中心に据えることで、江戸幕府は社会の秩序化の道筋を示すことができた。それが可能だったのはそもそも朱子学が学問と政治とを関連させる性格を有していたからであり、その関連を決定づける中心的概念が理だった。

と、著者・齋藤の見解のうち、朱子学=システム論については、基本的に肯定している。ただし、朱子学=システム論の「強制性」の面については是非を論じてはいない。以上、「尾藤二洲の朱子学懐徳堂朱子学と」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006407073 )に依った。

*3:加藤徹は、次のように書いている(「『日本外史』の漢文への中国人の評価」https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/singaku-33.html )。

清末の文人・譚献(1832~1901、初名は廷献、字は仲修、号は復堂)も頼山陽の漢文を激賞した。ざっくり言うと、

・日本人である頼山陽は「左伝」や「史記」の漢文の文体をよくまねており、その漢文の巧みさは、明の復古派の文人たちよりもレベルが上である。

・江戸時代の日本は、中国の古典古代と同様に良い意味での世襲制封建制があったおかげで、近世の中国人よりむしろ古典漢文を学ぶのに有利だったのだろう。

・漢文の文体は完璧だが、ちっぽけな島国なのに「天下」とか「天王」など大げさな用語を使う点は、笑ってしまう。

といった感じである。

*4:畑実は、「舞姫」論争後の忍月と鴎外のやり取りについて、「忍月と鴎外」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007002596 )で書いているのだが、なかなか面白い。鴎外が攻めている感じでなのである。詳細は、当該論文で。

*5: 後藤延子は、朱子が禅を大いに非難した理由を、禅では一切の儒教倫理が存立基盤を失って、仏教者の反社会倫理的行為が是認されてしまうからだ、としている(「朱子学の成立と仏教」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002771769、17頁 )。

 また、後藤は、朱子が「禅」における「空」を「無」と、(浅薄にも)誤解しているところがあることを、指摘している(同頁)。

*6:この手の本は、様々な呼び方をされるようである。正確に言えば、およそ同じものを、論者ごとに別の呼び方をしているということなのだが。岡島昭浩「漢語資料としての詩学書--『詩語砕金』を例として」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120000984957 )は、次のように書いている。

ここで「詩学書」と呼んでいるのは、中野三敏先生( 一九八一)の呼び方に従っているのだが(中野先生は江戸期の呼び方によっている)、これは、樋口元巳氏(一九八〇)が「漢詩作法書」と呼び、村上雅孝氏(一九九六)が「作詩参考書」と呼び、山田忠雄氏(一九五九・一九八一)が「詩語砕金の如き作詩書の類」と呼んでいるものとほぼ重なると思われる。

*7:こちらのサイトhttps://jigen.net/kansi/ でチェックできるので是非どうぞ。

*8:二四不同というやつである。