石橋崇雄『大清帝国』を読んだ。
内容は紹介文の通り、
満洲族の一小国が、飽くなき革新力により、巨大な中華世界を飲み込む。その力は中華世界を越え、中央アジアへ進出し、イスラムをも取り込んだ空前の大版図を築く。華夷秩序を超越する世界帝国の体現者=清朝。それは、満・蒙・漢・蔵・回五族からなる、現代中国の原型だった。康煕・雍正・乾隆の三代皇帝を中心に、その若々しい盛期を描く。
という内容。
大清帝国の多民族性を軸に、ヌルハチから乾隆までたどっていく、というのがメインである。
初心者にも安心の中身である。
だが、今回は、本書の主軸をあえて避けて、諸々書いていきたい。*1
以下、特に面白いと思ったところだけ。
満漢全席は、宮廷で皇帝に出されてはいない
満漢全席なるもの、清朝の宮廷で皇帝に出された事実はない (18頁)
清朝の宮中では、満席(計六等席)と漢席(計三等席と上・中席の五類)からなるが、一緒に出されることは禁じられていたという。*2 *3 *4
満漢全席は、1764年の李斗『揚州画舫録』に記された「満漢全席」の語が初出だろうという。*5
そして、揚州を中心に18世紀中葉の江南で始まり、民間で広まっていった。
背景には、乾隆帝の六度にわたる大規模な南巡にあるのでは、と著者はいう。
江南は、本書でも重要なものとして扱われているが、詳細は実際に読んでみてほしい。
清朝も称えた鄭成功
鄭成功は、台湾を新たな拠点とした。
そして、その後、台湾をオランダから解放した英雄として、廟にまつられることとなった。
清朝も彼を称えた。
諡号を贈り、廟の建設を許可してもいる。*6
いうまでもなく、日本でも人気は高い(『国姓爺合戦』等の演目)。
ダライ=ラマの称号と茶馬貿易
ダライ=ラマの称号に象徴されるように、チベット仏教界とモンゴル民族とは深い関係を持つようになった。 (143頁)
アルタン=ハンがゲルク派に改宗した際、ソナム=ギャツォに与えた称号が、ダライ=ラマである。
「海」を意味するモンゴル語の「ダライ」、「師」を意味する「ラマ」の合成である。*7
アルタン=ハンの改宗をきっかけにモンゴル全域にチベット仏教は広まった。
本書では、ダライ=ラマ5世の話も出てくる。
彼は清朝に対して、危機感を覚え、外モンゴルも含む、全モンゴル勢力を傘下に置いて、清朝に対抗しようとした。
三藩のうち呉三桂と結んで清朝をけん制しようと図り、清朝に無断で雲南側(呉三桂)と茶馬貿易などを行っている*8。
(未完)
*1:主軸を知りたい人は、楠木賢道による本書書評を参照願いたい。https://ci.nii.ac.jp/naid/110002363446
*2:松本睦子「北京料理と宮廷料理について」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009555490 )も、論旨は著者と異なるが、「満漢全席」が宮廷料理と異なるものだと述べている。
*3:ウェブサイト・『エグゼクティブ・パートナーズ』の記事・「中華料理の楽しみ方」には、次のようにある。
清朝初期の頃は満席しかなかったが、康熙帝(在位1722~1861)の時に漢席も用いられるようになった。その後、宮廷の宴席は満席、漢籍,奠籠、誦経供品の四大席に定められた。満席は上位3等級と下位の3等級の計6等級に分けられていた。上位三等級大席は皇帝、皇后、妃嬪の死後の追悼宴、次に下位の三等級大席は三大節(冬至、元旦、清明節)、皇帝の結婚披露宴、各国の進貢施設に賜る宴や降嫁する公主達の宴席などであった。漢席は皇帝が大学を視察する時、文武の試験官が試験場に入る時、書籍の編纂完成日などの宴席であった。
やはり、満席と漢席は分けて行っていた、という書き方である。
*4:さらに。
「光明日報」の記事「想象之外:歴史上的清宮宴」(http://epaper.gmw.cn/gmrb/html/2019-01/26/nw.D110000gmrb_20190126_1-10.htm )によると、「大清会典」の73巻「光禄寺」などの資料には、満席と漢席はシチュエーションごとに細かく分かれていた(そして、宮廷で同時に行うことはない)ことを示す記述があるようだ。
記事に出てくる李宝臣氏は、「満漢全席」というのは清滅亡後に、民間の店が清朝の宮廷の資料をもとに始めたものであって、清朝とは関係がないのだ、という立場である。これは、清朝と満漢全席とのつながりの薄さを指摘する点で、著者(石橋)の見解と親和的である。
*5:なお、早稲田大学古典籍総合データベースの『揚州画舫録』(https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru05/ru05_01120/index.html )の第四巻の該当箇所を見ると、「満漢席」と表記されている。
「明室の遺臣に係り、朕の乱臣賊子に非らず」と、特に勅して鄭成功及びその子、経の両棺を故郷の中国福建省の南安に帰葬せしめ、廟を建てた。 (引用者中略) 明に最後まで「忠節」を尽くしたと、その「忠節」に着目してこのような措置を取った
その後、1875年に、清朝政府によって、台南に「明延平郡王祠」が創建される。清朝政府(光緒帝)は、
こうして、「私廟(祠)としての『開山王廟』は、官廟としての「明延平郡王祠」に改変せしめられた」。「明延平郡王祠」創建を奏請したのは沈葆楨である。この人物は、「日本による台湾出兵に対抗して、清朝政府から3000人の軍を率いて台湾に派遣された国防、外交の欽差大臣」であった。
以上、中島三千男「歴史・伝統の三度の創り替え -台湾 明延平郡王祠、開山神社を素材に-」より参照、引用を行った(https://irdb.nii.ac.jp/01292/0004076986 )。
*7:吉水千鶴子はソナム=ギャツォに与えた称号について、次のように述べている(「チベット仏教の世界 : 仏教伝来からダライ・ラマへ」ttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005723554 )。
フビライの子孫アルタン・ハーンより「ダライ・ラマ」の称号を贈られた。「ダライ」とはモンゴル語で「広い海」を意味し、チベット語の「ギャンツォ」と同義である。チベットやモンゴルには海はないので、実際には湖を指す。
『広報いずみさの (令和元年8月号)』の「国際交流員オギー通信」によると、
ウランバートル市から北部671㎞に位置するフブスグル県にあるフブスグル湖は、琵琶湖の約4倍透明度が高く、地元人から母なるダライ(海)と呼ばれ愛されています。
とのことである(http://www.city.izumisano.lg.jp/shiho/backnumber/2019/aug.html )。やはり、「ダライ」という語は、湖と親和的な言葉であるようだ。
そのチベット語の「ギャムツォ(ギャツォ・ギャンツォ)」(rgya mtsho)もまた大海を意味しており、mtsho では湖を意味する。また、その言葉は、サンスクリット語の「サーガラ」、すなわち、大海や大きな湖を意味する言葉をも、連想させる。
そういえば、中国語でも「海」は、「大きな湖」をも意味するはずである。また、日本でも、諏訪湖を「諏訪の海」と呼ぶ例もある。
*8:増田厚之も、呉三桂が「独自にチベットとの茶馬貿易を行っている」としている(「中国雲南の西南地域における茶の商品化―明清期の普▲・シプソンパンナーを中心に―」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005685560 *「▲」は、さんずいに耳と書く。)。