「技術」についてプラトン、アリストテレスから核ミサイルまで -村田純一『技術の哲学』を読む-

 村田純一『技術の哲学』を読んだ。

技術の哲学 (岩波テキストブックス)

技術の哲学 (岩波テキストブックス)

 

 

 内容は、紹介文にあるとおり、「これまで主題的に取り上げられることが少なかった『技術』について哲学の立場から考察」し、「技術に関係する多様な要因を探り出し、技術の実相に迫ると同時に、技術についての従来の考え方の底にある『哲学』そのものの再検討を行う」というもの。
 紹介文は随分と抽象的だが、勉強になる本ではある*1

 以下、面白かったところだけ。

プラトンと「自然と人工」

 プラトンがもちだすのが、自然物もある意味では技術的に製作された「人工物」(ただし神(ないし魂)によって制作された「人工物」)であるという論点だった。 (37頁)

 他から動かされずに自らを動かす始動の存在をプラトンは想定する。
 そして、自然もまた何かによって制作された人工物ではないか、というのがプラトンの言い分である*2
 「自然/人工」という枠組みを固定化せずにものを考えるには重要な指摘である。

アリストテレスと観想と「技術」

 目的論の最高位に位置する観想という活動は、一見すると何もせず、自然の動きを眺めているのみの無為な活動のように見えながら、実は、そのような活動こそ最も「活動的」で、最も幸福な生活を実現するものであることが強調されている。 (47頁)

 アリストテレスは、「科学」と「技術」のうち後者を低く見ていた。
 しかし、そうした発想は、彼の「技術」の「暴走」にブレーキをかけるものにもなった*3
 観想は、神学や数学、自然学(人の選択意思では左右されない必然的なもの)と結びつくことになった。
 「技術」をそうした「科学」が抑制する関係、それが、アリストテレスの中にはあることになる*4

科学と技術の共犯性

 科学は、真理自体を求める、という理念を掲げることによって、その研究の範囲、成果に関してまったく社会的関係から切り離されているかのごとくに研究を進め、その規模を拡大することができた。他方、技術は、そのような仕方でもたらされる科学の成果を無制限に手にする自由を獲得できる (93頁)

 科学と技術とが、形式的に区別された結果、逆に両者は実質的に結合を加速させた。
 ラトゥールの議論に則してそのように著者は述べている*5

自転車とジェンダー

 この型の自転車は、スピードがよく出たので若い男性にスポーツ用として好まれた。ただし安全面では優れたものではなかったため、とりわけ女性の使用にはふさわしいものとはいえなかった。言い換えると、この型は、ヴィクトリア風の道徳、慣習には合致したが、女性解放の流れには逆らう機能と構造を備えていた (108頁)

 ペニーファージングという前輪が超大きく、後輪が小さい自転車は、ジェンダー的な差別をその機能のうちに内在させることとなった。
 だがその後、自転車は改良され、「若い女性に戸外のレクリエーションの機会をもたらしただけでなく,サイクリングとその服装(ラショナル・ドレス)を通じて女性解放を促進」するようになった*6

科学技術の論争にひそむ「政治」の問題

 部分的核実験停止条約が締結され、核弾頭を装備したミサイルによる実験がまったく不可能になると、この論争はパラドクシカルなことには、「批判的な仮説」には不利なように、そして他方、その当時のミサイルには信頼できるという主張には有利なように決着された (121頁)

 核弾頭を備えたミサイルは、これまで別々にしか実験したことしかなく、その信頼性を疑う批判的な仮説が存在していた。
 それが、条約締結によって「決着」されてしまった。
 外在的な政治の問題が、科学技術の論争に影響した実例である*7

大量生産が欲望を生む

  自動車が最初に発明されたときに、馬車より速く走れる乗り物に対する社会的要請があったわけではない。 (142頁)

 フォードTなどが出来て自動車が大量生産され、多くの人がのるようになって初めて、自動車は今のような一般的な社会的要請を満たす機能を備えた乗り物、という「意味を獲得した」のである*8
 「必要は発明の母」という言葉に対して、ここにおいては、懐疑的にならざるを得ない。

「技術」の可謬性

 技術者は原理的に確実な知識はもちえない (151頁)
 技術者は自らの誤りをチェックするためにこそ、「他者」として、使用者を含めた技術者以外の人々の力を必要とする (同頁)

 某電力会社に聞かせてやりたかった言葉である*9

デューイと「成長」

 デューイにとって、成長とは、何かあらかじめ存在する固定的な目標を目指した運動ではなく、むしろ、そのつどの状況を越えて進む運動にほかならない (176頁)

 「成長」という言葉にある奥深さと可能性を、デューイから学びたいところである*10

 

(未完)

*1:技術というより哲学の本である。

*2:プラトンの自然(環境)観については、瀬口昌久「コスモスの回復 プラトン『クリティアス』における自然環境荒廃の原因」が参照されるhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005973868 。『ソピステス』から「すべての死すべき動物およびすべての自然物が (中略) 生じてくるのは,まさにはかならぬ神の製作活動によるものであると,われわれは主張すべきではないだろうか。 (後略) 」という言葉を引用しつつ、「自然環境荒廃」に対する人間の責任を問うプラトンについて、論じている。

*3:中島秀人は、藤沢令夫を参照して、

アリストテレスでは観想知であったはずの科学が製作知的な性格を強めて技術と合体し,こうして合体した科学技術は,没価値という科学の建前を保ったままで, 「人間の生物的生存と行動の直接的な有効化・効率化という価値をそれだけで追究する,効率至上主義の価値観を体現」するようになっている

と述べる。そして藤沢の「『科学技術』がひたすらに盲進してきたために起こったさまざまなやっかいなトラブルを,いまになって何もかも『倫理』に押しつけてくるとは何かが根本的に間違っているのではないか.」という言葉を引用しつつ、「古代に水車の利用が制限されていたように,その利用を制限することは原理的には可能である」と述べている(「技術者の倫理と技術の倫理 ラングドン・ウィナーを出発点として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005973745)。

*4:本書とは別の文脈であるが、こうした古代哲学が現在の工学の専門家に寄与する可能性が十分にある。『科学技術者の倫理』の著者・Charles E. Harrisは、工学の専門職として求められるものとして四つを挙げる。「①リスクの感受性をもつ」、「②テクノロジーがもつ社会的文脈への意識」、「③自然の尊重」、「④公共善(public goods)への参与」。そして

これらは、禁止的な命令ではうまく説明できない。技術者に必要なこれらの4項目を養うためには、従来の技術者倫理では不十分である。ハリスは徳倫理学がこれら4項目の促進に役立つことを主張する。彼はアリストテレスの『二コマコス倫理学』を引いて、5項目のポイントを指摘している

という。以上、瀬口昌久「工学を専攻する学生のための哲学教育」を引用、参照したhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120002834657 。続きはそちらで。 

*5:ラトゥールの考え方については、「自然・モノと人間とを区別することで、悪しきハイブリッドを生んできた(例:ハイブリッドモンスター:原子力発電所)それを隠して、自然と社会を純粋化することで、生産性を向上してきたのが今の社会である」と、こちらのブログ https://harunopolan.wordpress.com/2016/06/15/%E5%A1%9A%E6%9C%AC-%E7%94%B1%E6%99%B4-%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%EF%BC%A0domus-academy/ で触れられている。

*6:荒井政治「サイクリング・ブームと自転車工業の興隆 19世紀末イギリス」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006490575 

*7:別のブログの書評http://tayatoru.blog62.fc2.com/blog-entry-819.htmlが本書132頁を引用しているように、

合衆国の大陸間弾道ミサイルに関する技術的な実験事実は、国際政治の状況を構成すると同時に、その状況によって構成されたのである。技術的製品が設計され製作された社会・技術ネットワークが安定し、正常な環境の一部となると、それらが持っていた政治的性質は隠され、沈殿し、暗黙的なものとなる。しかし、このことは技術が本来持っていた政治的性質が消滅したことを意味するわけではなく、むしろその政治的役割が自明になるほどうまく機能するようになったことを意味している

なお、この点について、著者は、Donald A. MacKenzieのThe social shaping of technologyを出典として挙げている。(以上、この註については、2019/12/25に追加訂正を行った)

*8:石川和男「合衆国における耐久消費財の普及と背景(1)自動車社会の基盤形成と初期の自動車製造を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005744844は、

Fordに代表される大量生産によって、奢侈品であった自動車価格を毎年引き下げ、一般大衆に手の届く製品となったことが、多くの人々の生活に変化を与える影響が大きかった。この背景には、耐久消費財普及モデルともいえるような割賦販売の普及や、販売チャネルの増加、さらにはマーケティングの影響があったことも明確にされている。一方で、自動車が与える負の影響については、既に学者を中心として主張する者も現れてはいたが、それほど大きな影響にはならなかった

と言及している。ただし、石川論文の強調点は、当時の自動車企業のマーケティングに関する問題なので注意。 

*9:吉澤剛・中島貴子・本堂毅「科学技術の不定性と社会的意思決定──リスク・不確実性・多義性・無知」http://www.sci.tohoku.ac.jp/hondou/0826/img/Kagaku_201207_Yoshizawa_etal-1.pdf は、次のように述べている。

この評価と管理の分離は,科学は事実を発見し,事実は技術を決定するというように,知識は必然的に単線的な軌道を進むという見方にもとづいている。しかしそうした狭い科学観によるリスク評価の概念をもって,ある技術に対するリスクが厳密に定量化されたとしても,その技術がもたらす便益はどれくらいか, (引用者中略) どこまでそのリスクに対する防護措置を講じるのか,といったことは相変わらず質的熟議を要する。 (引用者中略) 開かれた手法による参加型実践を通じてのみ,重要な社会的懸念に焦点を当てた政策評価がより効果的になるだろう。

そして、科学と技術は本質的に異なる営みとし、日本では歴史的経緯から違いがあまり意識されてこなかったために、「関わる専門家側も,その技術的判断の内実を十分認識していないためか,唯一の科学的解答のごとく社会に伝え,混乱を招きがち」であったとしている。

*10:山本順彦「『常に現在である』過程としての教育 : デューイ『経験』概念の教育学的検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009550238は、「連続性という観点から『経験』を捉えるならば」、それは「成長しつつあるもの(growing)」であり「動いていく力(moving force)」である、と、デューイにおける「経験」概念を説いている。「話すことを学習した子どもは、新しい才能を獲得するとともに、新たな欲求を持つようになる。しかし、また同時に、次の学習の外的な条件を拡大することにもなるのである。読むことを学ぶならば、同様にまた、新しい環境を開発する」といった具合である。