正直、すごい煽り気味のタイトルではあるが、しかし、それに見合うだけの面白さと説得力がある -春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』を読む-

 春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』を再読。

なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書)

なぜ時代劇は滅びるのか (新潮新書)

  • 作者:春日太一
  • 発売日: 2014/09/16
  • メディア: 新書
 

  内容は紹介文の通り、

かつて映画やテレビドラマで多くの人々を魅了した時代劇も、2011年には『水戸黄門』が終了し、民放のレギュラー枠が消滅。もはや瀕死の状態にある。その理由はひとこと。「つまらなくなったから」に他ならない。/「高齢者向けで古臭い」という固定観念、「自然体」しか演じられない役者、「火野正平(=いい脇役・悪役)」の不在、マンネリ演出を打破できない監督、何もかも説明してしまう饒舌な脚本、朝ドラ化するNHK大河ドラマ・・・・・・。 (引用者後略)

という内容。 
 正直、すごい煽り気味のタイトルではあるが、しかし、それに見合うだけの面白さと説得力がある。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

時代劇はマンネリと言われてしまうの背景

 その結果として採られた選択肢が、「物語のパターン化」であった。 (63頁)

 映画興行の博打性が高まったため、映画会社は安定した収入の見込めるテレビを軸に置いた。
 その中で、1970時年代後半において、当時高水準の人気を博していたのが時代劇である。
 制作現場は、テレビ時代劇の生産効率を向上させるために、物語をパターン化させ、結果、「時代劇はマンネリ」というイメージを生んだ。
 結果、「一連の時代劇には葛藤を抱えた主人公はいない。先が読めないようなスリリングな展開も、心に突き刺さるような感動もない」(67頁)。*2 *3
 加藤泰黒澤明など、かつてはマンネリでもなく、主人公が葛藤する時代劇を作る人は、たくさんいたにもかかわらずである。

高い演技力を要求される時代劇

 彼らのほとんどは発声などの演技の基礎をろくに訓練することなく実戦に投入される中で人気を得てきた。 (106頁)

 演劇の基礎を身に着けることなく実践に投入された者は、基本的には滑舌も悪く発声もなってない。
 台詞は聞き取りにくいし、棒読み。
 声も高いし細い。
 これは、時代劇にとっては致命的である。
 時代劇だと、高い演技力(高いコンテキストの把握能力)*4を要求されるため、ボロが出やすい。

 ところが、近年はそうした経験をいくら踏んでも芝居が上手くならない。それは、マイクと音響設備の性能が上がったことで、遠目には見えない形で仕込んだマイクを使って声を劇場中に響かせることが可能になり、技術を訓練しなくともなんとかなってしまう (110頁)

 かつては経験を積めば上達は出来た。
 しかし、近年は舞台に出ても芝居が上手くならない。
 芝居を作り込むには基礎が必要で、それがないと、役柄に応じて発声を使い分けることができないのである。

 最大の問題は、近年の芸能事務所が役者としての基礎養成にほとんど時間と手間をかけないまま実戦投入をさせていることだ。 (108頁)

 大元は時間と金がない(かけない)ことだ。

新劇と時代劇

 新劇は外国の翻訳ものを専らとする。そのため、日常から逸脱しながら芝居を構築する点において、時代劇と親和性が高かった。 (118頁)

 新劇や新国劇は、時代劇の脇役や悪役の最大の供給源だった。*5 *6

 チャンバラ映画も起源をさかのぼれば、その技術は新国劇に遡る。*7

 しかし、小劇場出身者だと、新劇などのようにはいかない。

 時代劇においては「昔の人っぽく見える作り込み」と「現代人が違和感なく受け止められる自然さ」これを両立した芝居でなければならない (141頁)

 この両立は困難である。
 いっぽう、歌舞伎の場合は、伝統的能なので長年の様式美で良く、現代人のリアル感から隔絶しても大丈夫だ、と著者は述べている。

芝居を見ない監督問題

 監督が自分たちの芝居を正面から見ているかどうかで、役者の集中度合・緊張感は全く違ってくる (144頁)

 芝居を見ない監督問題。
 映像を通してみてしまうと、フレーム内での役者の動きや画面構成のバランスに気が行って、役者の芝居への意識が低くなるのである。
 ゆえに、映像を通さずに監督は現場の芝居をじかに見るべきなのである。*8

映像の技術進化に追いつけていない?

 照明も低解像度時代と変わらない当て方をしているため、画面が隅々までテカテカと明るくなる。 (82頁)

 デジタル化、ハイビジョン化が進むテレビ業界である。
 なのに京都では、技法を変えていない。*9
 カツラは地肌とのラインが見え、ドーランを塗りたくったメイクでは不自然に肌の質感がマスクをしたように浮き出て映る。*10
 本当らしさを重視する時代劇には、致命的である。

 

(未完)

*1:本当はその後、出た著者の『時代劇入門』(角川新書)を薦めたかったのだが、こちらの方を今回は取り上げた。タイトル勝ちというのが一つの理由である。もちろん『時代劇入門』も良書である。

*2:では『水戸黄門』はどういうところがウケていたのか。大坪寛子と国広陽子は次のように述べている(「https://ci.nii.ac.jp/naid/120005844667https://ci.nii.ac.jp/naid/120005844667 *注番号を削除して引用を行った。)。

同じ地域の多くの男性が『水戸黄門』を好んでいることを伝え,やはりこの番組を視聴しているのかと尋ねたところ,口々に「『水戸黄門』はワンパターンで面白くないので見ていない」との答えが返ってきた。彼女たちが再視聴を希望した番組の中に,2011 年まで続いた『渡る世間は鬼ばかり』があり,1990 年に放送されたこのドラマの第 1 回放送分を共同視聴したが,その後の話し合いでは活発に意見や感想が飛び交った。 (引用者中略) どちらもパターン化されたストーリーであり,高齢者にそれなりの役割が与えられていて,ストーリーの最後には高齢者の気持ちがスカッとする解決が提示されることなどの特徴があり,わかりやすくて感情移入しやすく,日常のストレスを発散しやすいためと述べている。確かにそうした共通点はあったとしても,現実世界から遠く離れた世界での勧善懲悪の物語に主にカタルシスを得るために好んで視聴している男性たちとは違い,女性たちは,多少デフォルメされながらも自分たちの生活世界に近い『渡る世間は鬼ばかり』のストーリー展開から,身近な現実での教訓を確認したり,自分たちの半生を振り返る機会とするなど,もっと多様な見方をしていた。

過去の時代劇から、「身近な現実での教訓を確認したり,自分たちの半生を振り返る機会とするなど,もっと多様な見方」ができる要素をそぎ落として、スカッとする成分を増量したのが『水戸黄門』、とみるべきであろう。

*3:深谷昌志は、次のように述べている(子ども研究ノート①テレビとのつき合い」https://berd.benesse.jp/shotouchutou/research/detail1.php?id=3448 )。

実質に子どもたちがよく見ているのは、午後3時から4時台にかけての「大岡越前」や「水戸黄門」などの再放送番組が多い。勧善懲悪のワンパターンの番組だから、どこから見始めてもよいし、用事があれば、途中からテレビを離れても心残りが少ない。

ワンパターンというのは、こういうメリットもあるわけである。テレビは映画館に比べ日常に近接している、という点が大きいと思われる。

*4:ブログ・『二転び(にころび)日記 ~本と文具と勉強と~』は、「平田オリザ著『演技と演出』『演劇入門』~マクドナルドとマックとマクドhttp://nikorobinikki.blog96.fc2.com/blog-entry-263.html という記事に於いて次のように述べている。

演出家と役者がまずコンテクストのすり合わせをします。/その結果を役者が劇場で演じ、そのイメージを観客が共有します。/演出家、役者、観客の三者が、それぞれのコンテキストをすり合わせることで、/演劇がなりたっている。

後述するように、時代劇の役者は、現代劇とは異なる、しかし、伝統芸能的な敷居の高さを抱かせないような演技を求められる。役者には、そうした要求に対応する(コンテキストのすり合わせが可能な)引き出しの多さと広さが、要求されるのである。

*5:若林雅哉は次のように述べている(「明治期の翻案劇にみる受容層への適応--萬朝報記事「川上のオセロを観る」を手がかりに」http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/report2-2.html なお、この題の「川上」とは「川上音二郎」を指す。)。

彼ら (引用者注:明治期の知識人たち) が求めているのは、久保田米遷「川上の「オセロ」」が言うように、また後の新劇運動が努力したように、「「オセロ」に伴ふ、十六世紀の伊太利亜の場所と、その服装とを共に移し、筋だけを演るといふだけに留めないで、唯だ詞のみを日本に直して演じ」ること、即ち、原作の翻訳劇なのである。

翻案の劇ではなく翻訳の劇という、当時の日本においては高いハードルを、新劇は求められたのである。なお、若林論文の主旨はそちらのほうではない。詳細は論文をどうぞ。

*6:先の註の続き。

 金子幸代によると、森鴎外は、この『オセロ』について、翻案としては褒めているが、原作の時代や場所人物の舞台を離れた(変えた)ことについては注文を付けている(金子「日本近代劇再考--『オセロ』上演と鴎外の「歌舞伎」」https://ci.nii.ac.jp/naid/110001374069、76頁)。
 川上音二郎の翻案に基本的には肯定的な、この鴎外の反応は、次の山中桂一の言葉を考慮すべきであろう(「鴎外の言語実験とそのゆくえ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005299543 )。

当時の鴎外は (引用者中略) 西洋的な諸概念や習俗、はては小説の結構にいたるまでかなり大胆な取捨選択を行なった かれは、「単なる逐語訳でなく西洋文化をいかに取り人れるか、何を捨てるかに腐心して」 (引用者中略) おり、明らかに、単なる翻訳者以上の役割を自覚していた

*7:もちろん、チャンバラ映画が国外の影響を受けていないわけではない。小川順子によると、アメリカのアクション映画のアクロバットな動きが、チャンバラ映画にも影響しているという(小川「チャンバラにおける身体表現の変容」(黒沢清ほか編『日本映画は生きている 第2巻 映画史を読み直す』岩波書店、2010年、167頁)。

*8:白鳥あかねも同じことを言っている。http://haruhiwai18-1.hatenablog.com/entry/20150628/1435491481 

*9:本書刊行は2014年である。

*10:廣谷鏡子「(3)"人"を拵こしらえる人たち―メイク,かつら,衣装」には、床山・三村要の次のようなコメントが載っている(https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/20150101_1.html )。

ハイビジョンはみんな見えちゃうじゃないですか。技術的には,カメラにフィルターかけたりコマ落とししたり,後でCG 処理しているようですが,今度は4K でしょう。最悪だよね(笑)。結局もう,かつらという状況じゃなくなってしまいますよね。もうずいぶん前から地毛を使っています。女の人はみんな半かつらといって,前は(生え際が自然に見えるように)全部地毛を使うようにしています。もう今はリアルですよ。リアルを求めてる。きれいとリアルですよ。