「個人的には、こう思います」と申し訳なさそうに話す人は、ある種の学問の雛形に囚われすぎている -野口雅弘『マックス・ウェーバー』を読む-

 野口雅弘『マックス・ウェーバー: 近代と格闘した思想家』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『仕事としての政治』などで知られるマックス・ウェーバー(一八六四~一九二〇)。合理性や官僚制というキーワードを元に、資本主義の発展や近代社会の特質を明らかにした。彼は政治学、経済学、社会学にとどまらず活躍し、幅広い学問分野に多大な影響を及ぼした。本書は、56年の生涯を辿りつつ、その思想を解説する。日本の知識人に与えたインパクトについても論じた入門書。

というもの。
 同時期に、岩波新書からもウェーバー本が出ているが、癖がないのは、おそらくこちらの方であろう。

 以下、特に面白かったところだけ。

通説や多数派に逆らっても一人称で語る

 通説や多数派に逆らっても一人称で、党派的に語ることを可能にし、そして場合によってはそれを促すような学びのあり方が、政治教育には必要である。 (72頁)

 ウェーバーの「客観性」論は、党派性や論争性を当事者に自覚させ、価値をめぐって対話を促そうとする。
 政治的な立場は不可避的に党派的である。
 「私はこう思う」と一人称で語る余地を確保できない政治理論は、非政治的である。
 エビデンスや客観的論証が否定されるわけではない。
 しかし、「個人的には、こう思います」と申し訳なさそうに話す人は、ある種の学問の雛形に囚われすぎている、と著者はいう。*1

「翻訳」とは言いえて妙

 ハーバーマスはここで「翻訳」の必要性をいう (248頁)

 ここでいう翻訳とは、ある思考システムで伝承されてきたものを別の思考システムで考えている人でもわかるように「引き渡す」ことである。
 政治領域の議論も宗教的・文化的なものと完全に切り離すことは出来ない。
 そこで、宗教的観念を整理し、複数の宗教的な世界を対比しながら、ある程度の相互理解を可能にするような議論が必要である。
 しかも特権的傍観者の視点ではなく、観察して語る当人も、一定のバックグラウンドを背負っており、したがって自分だけ「没価値的」ではありえないという前提で議論がなされねばならない。
 「翻訳」とは言いえて妙である。*2

政治(家)の領域と官僚(制)の領域との関係

 政治家と官僚の関係性において、官僚制による合理的行政の論理の展開が政治的な空間を窒息させること (126頁)

 ウェーバーは、官僚制的な組織原理を破壊したり、ミニマム化すればいいとは考えていない。
 恣意性を排除するために、そうした組織原理が保持されるべき領域を認めている。
 問題は、官僚制による合理的行政の論理の展開が、政治的な空間を窒息させる事態である。
 政治的な領域とは、自分の属する共同体の針路について立場を決め、異なる立場の人と言葉で戦う領域である。
 なぜそうした立場を選択したのか、支持者や敵対者や公衆に説明しなければならず、その決定には責任が伴う。*3 *4 *5

そうした領域である。

情報公開に否定的だったウェーバー

 しかしそれでも、文書公開についてのウェーバーの議論にはなおも傾聴すべき点がないわけではない。 (185頁)

 公文書が「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」という視点はウェーバーにはない。
 むしろ、情報公開が国益を損なう面に彼は目を向けた。*6
 それでも彼の考えから学ぶことはある。
 ある断片的な文書から何らかの結論が出ることはあり得ない。
 文脈から切り離された「エビデンス」が必要以上に大きなセンセーションを巻き起こしてしまう事態を想像してみると、言わんとするところも理解されるだろう。*7

 

(未完)

*1: 著者(野口)は次のように述べている(「「ウェーバー全体主義」再考 -エリック・フェーゲリンの視角から」https://ci.nii.ac.jp/naid/130006905314 )。

ウェーバーの闘争はグノーシス的ではない。彼の闘争は、あらゆる闘争にピリオドを打とうとするグノーシス的最終闘争の対極にある。ホッブズからウェーバーへと直線を引き、そこに政治思想における「近代」を見い出す解釈はすべからくグノーシス的闘争と多神論的闘争の差異を看過してきた。ウェーバーは「鉄の檻」を実体化し、それを否定するのではなく、むしろそれが複数の対立する合理性から形成されている点を強調する。彼の抗争的多神論という価値論とそれを基礎にした闘争観は、世界を二項対立的に分断するのではなく、諸陣営内部における緊張、抗争の契機に注意を向けることにより、善悪二元論的な殲滅戦争にエスカレートすることを防ぐ理論なのである

「すべからく」という語の使用法に思うところはあるが、きわめて正しい言い分だと思われる。著者は、「ウェーバーの両義的な態度は、まったく逆に、全体主義に対する高い免疫力を証明するものである。問題は、責任倫理ですらその対抗原理を失うならば『専制』へと転化しうるという連関である」とも註で述べており、対抗原理あってこそ、なのである。
 ウェーバーにとって、価値観に基づく抗争は、むしろ諸陣営の中に緊張感をもたらし、相互の牽制による均衡をもたらすものだ、と考えられる。とすれば、そもそも、意見の対立が成立しないような空間では、「政治」は死んでしまう。だからこそ、意見をぶつかり合わせるためにも、「主観」的な異論は不可欠なのである。
 この点について、毛利透は、『表現の自由の公共性』(自由人権協会、2005年)において、ハーバーマスは「理性の脱主体化」を主張したと述べている(当該書14頁)。
 理性というものは、個人個人の頭を規制するのではなく、公共圏という議論の過程で働く。つまり、その場で働くのが理性であって、発案する人間側に理性を求める必要も義務もない。討論の過程で理性は働く。だからこそ、その討論の結果は民意としての正当性を有する、という論理を取るべきである。このように毛利は、ハーバーマスの議論を理解している。
 ウェーバーと理性に対する理解は異なるが、ウェーバーと「理性の脱主体化」とは、あるていど噛み合うところがあるように思われる。

*2:大窪善人は次のように述べている(「ハーバーマスの協同的翻訳論の射程 : 仏教の社会論理に即して」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009890204 *なお、註番号を削除して引用を行った。)。

世俗的な言語と宗教の教義に依拠した言語との協同的翻訳を要請するのは,その翻訳を待っているものの核心的な意味が,世俗的な言語によって,または宗教的な言語によって,いまだ充分に明らかにされ尽くされていない,という意識にある。それは,翻訳の可能性について論じたベンヤミン言語哲学に近い響きを想起させる。ベンヤミンは,彼がボードレール詩篇を翻訳した際に,その序文に『翻訳者の使命』という論文を書いている。ここでベンヤミンのいう翻訳とは単純な意味内容の伝達ではないという。むしろ,異なる言語が,それぞれに異なる表現方法によって,同一のものを志向し表現することとして捉える。信と知は,さしあたりお互いにとって受容することが難しい異なる言語によって,同じ対象をより深く表現しようとしているのである。 

もちろん、ベンヤミン的な翻訳だと、かなりの直訳調になって、相互理解も簡単ではなさそうだが。

*3:政治家と官僚との拮抗こそが肝心である。先の「責任倫理ですらその対抗原理を失うならば『専制』へと転化しうる」という著者の言葉を思い出すべきである。

*4:著者は別著において、官僚制による秩序の安定が民主主義に欠かせないものと評価している(以下、三谷晴彦「書評 野口雅弘著『官僚制批判の論理と心理 : デモクラシーの友と敵』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005285835より。 )。

官僚制は行政サービス等の社会における平等性を実現する為に重要な役割を担っているのであるから官僚制に対する行き過ぎた批判は民主主義を損なう結果になると主張している

もちろん、ここで述べられる官僚制において擁護されるべきは、主に「国家の左手」(byピエール・ブルデュー)に属する人たちが中心であって、新自由主義と結託するタイプの「国家の右手」の連中ではない、ということは、おそらく著者(野口)も同意されるところではないか。

*5:三浦直子は「国家の左手」について次のように述べている(「臨床社会学としてのブルデュー社会学理論の展開--福祉社会における社会学の可能性と必要性」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000507129 *註番号を削除して引用を行った。)。

ブルデューが 1993 年に著した『世界の悲惨』においては、貧困層・移民など「福祉の対象とされる人々」、および国家の左手といわれる「福祉を担う人々」(社会福祉士・指導員・下級司法官・小中学校の教員・公立のメディアや病院の従業員などを含む、下級公務員としての広義のソーシャルワーカー)といった二者を扱っている。すなわち、「小さな国家」を目指して社会福祉を切り捨てた国家政策の犠牲となった人々(現代社会の中から「排除された人々」)や、これら国家の責任放棄の結果、その埋め合わせを負担させられた人々(国家の左手)が、主な研究対象として設定されている。 (引用者中略) 福祉を担う彼らの社会的地位は、重要だが蔑視されるものとして(賃金の低さによっても推測される)、また彼らの任務は多忙で骨折りだが内実は些細なことであるとして、彼らの仕事は要求されることは多いが報われることは少ないものとして、社会的に性格づけられているのである。国家が彼らの任務を成功させる手段を与えないがために、彼らの任務は「不可能な使命」として、常に失敗に終わらざるをえない。

*6:ウェーバーの想定する情報公開が国益を損なう面とは、およそニコルソンの説く外交に関する事項を想起すれば、わかりやすいかもしれない。とりあえず、近藤誠一「文化と外交」から引用する(https://www2.jiia.or.jp/BOOK/backnumber_6.php )。

イギリスの外交官としてパリ講和会議(1919年)に参加したハロルド・ニコルソンは、冷徹な国際関係を踏まえた国内における外交政策の決定(「立法的」側面)と、その政策実現の現場における外交交渉に要する資質(「執行的」側面)とを区別し、前者は時代と共にかつてのような君主の独断ではなく国内の政治決定プロセスにおいて決定されるとしても、後者は依然として外交官がその「経験と思慮分別」を活用して、国家の代表として秘密裏に相手と交渉することで初めて長期的利益が追求できると考えた。ニコルソンは欧州列強が一定の諒解の下で外交の適切な遂行を行なった第1次世界大戦までの外交を「旧外交」として擁護し、ウィルソン米大統領によって始められた民主主義的「開かれた」外交、すなわち「新外交」を「民意の興奮状態」が、「永続的な平和構築へ向けての冷静な考慮」を損なうとして批判した

上に引用した「外交官」は、比較的、ウェーバーの想定する政治家像にあてはめやすそうに思う。

*7:文脈から切り離された「エビデンス」が必要以上に大きなセンセーションを巻き起こしてしまう分かりやすい例は、写真であろう。以下、『南京事件FAQ』の記事、「ニセ写真ばかりというのは欺瞞」から引用する(https://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/d/%A5%CB%A5%BB%BC%CC%BF%BF%A4%D0%A4%AB%A4%EA%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B5%BD%E2%D6 )。

一部の否定論者は南京事件に関係する写真をわざわざ「証拠写真」と呼び、あたかも写真によって南京事件の事実が成り立っているかのように印象操作を行なっている。その上で「どれもニセ写真ばかり」と声高に主張することで、事件そのものの存在まで怪しいと思わせる目的があるようだ。 (引用者中略) 「南京事件」は写真を根拠として成立しているわけではない。写真の影響力を大げさに煽り立て、何例かの疑わしい写真を理由に南京事件の実在まで疑わしいものだと誘導する議論は、否定論者の典型的な「一点突破、全面展開」戦術である。