今ほど親が子供の教育に全面的にかかわる時代はない。むしろ、問題はそこから生じてきている。 -広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』を読む-

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』を再読。 

 内容は紹介文の通り、

礼儀正しく、子どもらしく、勉強好き。パーフェクト・チャイルド願望は何をもたらしたか。しつけの変遷から子育てを問い直す。

というもの。
 日本人の「しつけ」は衰退したのではなくて、むしろ強まっていったのが、本書を読むととよくわかる。

 古典的名著であろう。

 以下、特に面白かったところだけ。

教育を考える暇もなかった

 伝統的な村の暮らしは、一部の上層を除いて、よくいえば質素、悪くいえば貧しかった。耕地や生計の途が限られていた現実においては、子供の問題よりもむしろ労働ー生産の問題こそが人々の中心的な関心事であった。 (28頁)

 生活に余裕はなかった。
 ゆえに、教育なんて考えているひますらなかったのである。

 家業の技能伝達だけは、イエの存続にストレートにかかわる課題であったために、子供に対してきびしくなされていたのである。食事のときに手を洗わなくても別に親は何も言わなかったが、仕事の後で鍬を洗っておかないとひどく叱られた (32頁)

 鍬に土を残しておくと錆びるからである。*1
 暮らしは、労働(農作業)を中心に回っていたのである。

「村のしつけ」と従属的地位

 「村のしつけ」には、差別や抑圧が組み込まれていた。「目上」の人に礼儀正しいというのは、忍従や卑屈さと表裏の関係であった。 (引用者略) 村で一人前になるしつけを受けることは、次三男や女性や貧農出身者にとっては、自らの従属的な地位を自覚し、その「分際」を超えないふるまい方を身につけさせられることでもあった。 (33、34頁)

 村の中で生きるということ、それは、村の秩序(細かい差別/区別秩序)に組み込まれることであった。
 男性の中でも次男以降の兄弟、女性、また、貧農といった下層に当たる人々にとっては、従属的な地位を強いられるものでもあった。*2

戦前から言われていた

 評論家や政治家が、「戦後教育が、要領だけよくて我慢強さのない、自分の殻に閉じこもりがちの子供を作った」などと批判したりするのを目にするけれども、実はすでに戦前のこの時代に、そうした子供は登場していたのである。/社会全体の中のごく一部を占めるに過ぎない階層の中だけではあったが。 (72頁)

 いつかといえば、1936年時点の話である。*3
 もちろんそういわれていたのは当時の日本のなかの一部の階層のみにすぎないわけだが、我々の生きる時代と地続きになっている所があるのは、確かである。

自分の家の貧困に対する嘆きを綴る

 学校で教師が教えることには親たちはまったく口をはさまないという雰囲気が、戦後も農村部で長らく続いていったことは確かである。考えてみれば、教師が、自分の家の貧困を嘆く子供の作文を実名のまま実践記録として公表することが、当時は平気でおこなわれていたのも、そうした雰囲気があればこそだった。 (91頁)

 スゴい時代である。*4

脱出のための装置としての進学

 受験勉強はたとえ苦しくとも、明るく希望に満ちあふれたものであった。 (108頁)

 貧しさからの脱出、そのための受験勉強という時代があった。
 教育を受ける側からすれば、貧しく停滞した旧来の生き方とは別の可能性が、進学によって開けてくるという意味で、この変化は、新たな人生への可能性の広がりを意味していた。
 1950年後半から70年初頭までの高度成長期、農村部の学校はいわば「脱出」のための装置であり、頼られる場所だったのである。*5

農村の力関係の逆転

 頑固な祖父や意固地な祖母が家の中を専制的に支配する時代が終焉した (引用者中略) 代わって、勤めで現金収入を得てくることで発言力を高めるようになった父親や、農作業や家事の機械化によって時間的な余裕が生まれてきた母親が、子供の養育や教育に直接責任をもつようになっていった。 (111頁)

 「近代化」によって、農村における力関係が逆転していく。
 一方、親子関係は密になっていく。*6

近すぎるがゆえに

 今ほど家族の結びつきの強い時代はないし、親が子供の教育に全面的にかかわる時代はない (引用者中略) むしろ、問題はそこから生じてきている。 (145頁)

 仮にもし数十年も前の時代であったなら、こういうケースでは、親が息子を親戚に預けるか奉公にでも出して、子供を遠ざけたはずである。しかし、 (引用者略) 父親が相談に行ったカウンセラーは、より子供に接近するよう、逆の指示を出した。 (147頁)

 1996年の家庭内暴力を繰り返す息子を、撲殺した東大卒の親の話である。
 もし、息子が暴力をふるうのが父親に対する甘えによるのだとすれば、一層の接近はむしろ逆効果だっただろう。
 少なくともこのケースについては、それがいえるように思われる。*7

昔がよかったわけもなく

 「昔はナイフを持っていても人を殺すことはなかった」というのも、 (引用者略) 錯覚である。一九六〇年に「少年に刃物を持たせない」運動が起こったのは、青少年の刃物による殺傷事件が相次いだからであった (178頁)

 直接には浅沼稲次郎の刺殺事件によるものだという。

 当然だが、昔のほうが少年による犯罪は多かった。*8

 

(未完)

*1:ブログ・『鍬の鍛冶屋の独り言』は、鍬の扱いについて次のように注意を促している(https://www.takitetu.com/entry/2018/08/08/222308 )。

使った後、きれいに洗って泥を落とす。泥を付けっぱなしにしておくとその部分だけ錆びていき、土離れが悪くなる原因になるのです。 (引用者略) たまに見かけるのですが、錆びないようにと油を塗ってから片づける丁寧な方がいます。少量ならば良いのですが、時々たっぷり油をつけて・・・いや、鍬ごと油に漬けたかのように柄まで油が染みこんでいるのを見ることがありますがこれは絶対にやってはいけません。

*2:山形新聞」の「藤沢文学の魅力 【ひこばえの風景】農家の次男の思い」には、次のような文面が見える(https://www.yamagata-np.jp/feature/fuzisawa_feature/2-3-10.php?gunre=fujisawa )。

山形師範時代の友人の一人・小松康祐さん(70)=松山町=はかつて「藤沢さんとは、『おんちゃたるものは助(す)けるもの』という農家の理想について語り合ったものだ」と述べている。おんちゃ、というのは次男、三男のこと。農家の次男、三男は両親や総領の兄を助けるものだ、というモラルである。戦後の混乱期に、それまでの道徳、常識の検証をしているのである。敗戦を機に価値の再編みたいなものがあって、それぞれが価値観の構築を迫られていた時代でもあったようだ。

 戦前以前においても、そうした「おんちゃ」的価値観を肯定的に内面化していた次男や三男がいたであろうことは、もちろん否定できない。ここで肝心な点は、そうした価値観以外を持つ選択肢が、ある時期まで彼らにはなかった、あるいは、十分にはなかった、ということである。

*3:1936年というのは、二・二六事件が起きた年である。

*4:奥平康照は、「山びこ学校」で知られる無着成恭の実践について、次のように書いている(「「山びこ学校」と戦後教育学 序説」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005299653 *以下、段落を分けずに引用を行った。)。

無着が「教育ノート」と称する日記を書き始めたのは、1949年 1 月からである。その 2日目にはこう記していた。子どもたちが自分の家や村の生活、つまり貧困や因習を聞きまわったり、調べたりし、さらにそれを報告し、討論することにたいして、村の大人たちは嫌悪し反対した。一月二日(日)雨「……『俺たちはなぜ貧乏なのか』ということを胸を張ってなぜいえないんだろう。それは貧乏について科学的に考えないからだと思う。ぼくが今、子どもたちにやらせている調査の目的は① 貧乏ということを科学的に認識させるため② どうすれば貧乏でなくなるのか、といういとぐちを探すため③ 貧乏だというコトバにすっかりまいってしまわないため④ 貧乏は個人の責任であるかどうかということを認識させるためというようなところにある。とにかく、子どもたちが調べた結果を、村民の前にさらけだして、自分たちは今、なにをなさねばならないかについて、こんこんと語れば、わかるひともでてくるにちがいない。」

無着の運動は当然、大人たちの批判を生むものでもあった。

*5:小林博志は、「雑誌『家の光』に見る農村女性における自意識の変化―高度経済成長期における兼業化の進展を背景として―」において、次のように書いている(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11050564 )。

受験への関心は教育費の備えとなって 表れ 教育費による家計への圧迫という問題が生じる. この問題 を示す記事 については 分析対象期間において 1960 年代半ばごろから散見され始める

子が「脱出」するための親の負担は、当然軽いものではなかったのである。

*6:もちろん、農村における母親の地位が向上したと言っても、まだ十分と言い難いだろう。その点は現在まで続いている問題である。姉歯曉ほか「戦後過程と農家女性の地位」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006618876 )には、次のような文言も見える(*一部註番号を除いて引用している。)。

だからといって、女性たちは、家制度から完全に解放され、すでに基幹農業者となっている彼女たちが農業に果たしている役割に釣り合うだけの権利を獲得することができているのであろうか。少なくとも、全農業者の 5 割を占めている女性たちが農業委員に占める割合はわずか 8%、相続権や農地の所有権を有している女性たちの割合は 1%にも満たないという現実からは、女性が平等に扱われているとは考えられない。

*7:『オワリナキアクム』の記事・「東京湯島・金属バット殺人事件」(http://yabusaka.moo.jp/yushima.htm )によると、

2月24日、夫妻は東京・九段の精神神経科診療所「北の丸クリニック」に相談に行く。この時の医者はAのとった暴力に耐え、息子を受け入れるという行動で良いと話した。

また、

このフリースクールはそれまで夫妻が相談していたKクリニックとは不登校に対して違うスタンスをとっていた。Kクリニックは不登校を青少年の病気として捉え、早く治さないと大人になってから大変なものになると話していたのに対し、「シューレ」では学校に行けないことで自責の念を持っている子供たちを精神的に解放してあげるべきだと考えていた。

という文言も見える。こちらは、比較的著者(広田)の主張に近いものであろう。)

*8:田村正博は次のように書いている(「「犯罪は増えていて凶悪化している」という誤解」https://www.kyoto-su.ac.jp/faculty/ju/2019_03ju_kyoin_txt.html )。

平成元年に16万人だった刑法犯検挙少年は、平成30年には2万3000人にまで急減しています。人口比(14歳から19歳までの人口1000人当たりの検挙人員数)でみても、平成元年に13.8、平成15年に17.5だったものが、3.4にまで減少しています