大人げない諸国家の中で、国益を「合理的」に追及するということ -宮下豊『ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想』を読む-

 宮下豊『ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想』を読んだ。

ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想

ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想

 

  内容は紹介文のとおり、「ハンス・J・モーゲンソーのアメリカ亡命前から晩年までの膨大な著作を克明に検討して、その国際政治思想を『リアリズム』として捉える通説が誤りであることを明らかにするとともに、新たなモーゲンソー像を提起する」というもの。
 リアリスト()を気取る輩の多い巷間にうんざりしている人に、お勧めしたい一冊。

 以下、特に面白かったところだけ。

大人げない国家ども

 モーゲンソーが想定する国家は、相対的な地位というものに敏感な国家であり、国際紛争は亡命前の国際法研究における「緊張」の考察にあるように、どちらの地位が上であるかをめぐる潜在的な対立が、背後に存在すると想定する。逆に、国家がもっぱら生存だけを合理的に追求するのであれば、そうした紛争の余地は最小化されることが想定されている。 (291頁)

 モーゲンソーの想定する国家はある意味大人げない。
 実は臆病なくせに、隙を見てはマウンティングとかしてくる、見栄っ張りだらけの世界。
 そんな大人げないのが、モーゲンソーの想定する国際政治である。*1

国益を「合理的」に追及する

 一九四九年以後のモーゲンソーにおいて、自身が信奉する道徳法則が普遍的に妥当することを主張しつつ、実際には権力を追求する非合理的な外交が現実であり、これに対して、モーゲンソーは、外交は国益=「権力として定義される利益」―― 国家が「利用可能な権力と釣り合った利益」―― を(合理的〉に追求しなければならないという規範を対置した。この規範をいわば合理化するために構築されたのが、政治的リアリズムであった。  (引用者中略) アジア諸国における革命が本物であり、アメリカはそれを後援することが最善の政策であることを熟知していたにもかかわらず、トルーマン・ドクトリンとの矛盾を共和党右派に攻撃されたことにより、失敗することが明らかな「反革命」の政策に、一九五〇年以降転じたトルーマンマン政権のリーダーシップの弱さを批判するとともに、当初の最善のアジア政策に復帰することを促すという狙いがあった。 (193頁)

 モーゲンソーは、「道徳」と「権力」とが不釣り合いな状況に対して、「国益」を「合理的」に追及すべき、という規範を置いた。
 モーゲンソーにとっての「国益」とは規範的なものである。
 そして、ある時期から現実の政治外交に対しても提言をおこない、その際、「不合理」な「国益」追及が行われることを批判した。*2

 モーゲンソーの目指した政治的リアリズム。実際は、このようなものである。

ソフト・パワー提唱の先駆者

 特に政治的諸価値に関して、ナイは、政府が国内外でその価値に恥じない行動を実際にとっているかどうかが問われると述べている (引用者中略) したがって、モーゲンソーがアメリカに関して提起した国家目的は、政治的諸価値に基づいたソフト・パワーの知的先駆であったと見ることができる (244頁)

 モーゲンソーは、アイディア的には、ソフト・パワーを提唱した先駆者の一人に位置付けることが可能である。
 それは、ほかの論者も同意する所である。*3

(未完)

*1:渡邉昭夫は以下のように述べている(「E・H・カーとハンス・モーゲンソーとの対話」https://ci.nii.ac.jp/naid/130005156820 )。

「外交業務においては、少なくとも国民全体にとって劇的なもの、魅惑的なもの、勇ましいものは、何もないのである」と述べて、「他国家の観点から政治舞台を熟視し、自国にとって死活的でない争点に関しては、すべて進んで妥協」せよと勧告するモーゲンソー、そして更に「国家は、それが、戦争防止のために、外交を駆使した場合には、しばしば成功した。近代におい外交が戦争防止に成功した顕著な例は一八七八年のベルリン会議である」(下、三五七ページ)と言うモーゲンソーは、果たしてカーとどれほどの違いがあるのだろうか。

大人げない諸国家・国際関係の中で、モーゲンソーが説くのは「調整」と「妥協」である。

*2:大賀哲は、

たとえばこの時期、モーゲンソーはトルーマン・ドクトリンに容赦のない批判を加えているが、その批判に拠れば、トルーマン・ドクトリンはアメリカの国益を全世界に妥当する道徳的な普遍原理へと昇華させようと試みるものである。このことは、「望ましいこと」と「可能なこと」を混同するという深刻な帰結を生む。

と述べている。(「黎明期国際政治学の構想力--ハンス・モーゲンソーの国際関係思想講義から」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000982057 )これは、「道徳」(というか「正義感」(≠「正義」) )に引っ張られて、「不合理」に至ったことへの批判とみるべきであろう。

*3:たとえば、堀内めぐみは、

上記で取り上げた国力の要素は、主にモーゲンソーの言うところの「質」の要素である。最近の用語を用いるなら、ソフト・パワーやスマート・パワーである。モーゲンソーはこれら質の要素も含め、国力の評価については、各々の要素がそれぞれに影響し合っているため非常に困難なものであると考える。

としている(「リアリストの文化的観点からの国益論再考 : ハンス・J・モーゲンソーを例として」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009634257 )
 また、堀内は、当該論文の註16において、

モーゲンソーの想定する「国益」が、その後の相互依存時代のインターナショナル、トランスナショナルな要因に対応できる柔軟なものであったが、相互依存の裏にある南北問題についてはその視点が欠落していたと指摘している

と初瀬龍平の意見を要約して紹介している。とりあえず、興味深いのでここに引用しておく。