聞き手の頭が朦朧として来て、席を立つ気力もなくなってきた頃を見計らって、怒涛の音の洪水を起こす。もはや洗脳である。 -岡田暁生『CD&DVD51で語る西洋音楽史』を読む-

 岡田暁生『CD&DVD51で語る西洋音楽史』を読んだ。

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

  • 作者:岡田 暁生
  • 発売日: 2008/08/30
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

グレゴリオ聖歌からハリウッド映画音楽まで?? 作品や史実のみならず、斬新な切り口で作曲家、指揮者、 演奏家をも語る。 新たな視点からの西洋音楽史入門!

というもの。
 既に言及されるとおり、同著者『西洋音楽史』(新書)の姉妹篇といったところである。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

グレゴリオ聖歌のもたらす「浄化」

 歌っていいのは男性だけ。伴奏楽器もハーモニーも、心地よいメロディ温かいサウンドも、情感を伝えてくれる旋律の起伏もない、単旋律の音楽。鳴り物や手拍子やしわがれた声といったノイズで溢れた「土着の」音楽に熱狂していた異教徒たちを、静けさに満ちたキリスト教神の国へと帰依させる。そんな使命を、聖歌は担っていたのだ。 (16頁)

 聖歌におけるこの抽象性を、著者は中世美術の聖者たちの無表情にたとえている。*2
 これが良くも悪くも、西洋音楽の出発点であった。

19世紀のムードミュージック

 十九世紀といえば、シューマンブラームスワーグナーブルックナーといった「大作曲家」の名前がすぐに思い出されるが、実はロマン派の時代に作られた音楽の大多数は、この種のBGMだった (113頁)

 19世紀の「お嬢様」にとってピアノが弾けることは必須の素養だった。
 で、彼女たちの定番は、リチャード・クレイダーマンのようなムードある曲だった。
 ロマンチックな題名を持ち、通俗的で甘い「似非高級ブランド音楽」である。*3
 優雅さが肝心であって、饒舌と難解と熱弁はご法度。
 そういう点で、ベートーヴェンの音楽とは対極にあった。
 今でも欧州の音楽専門の古本屋に行くと、これらのサロン音楽の楽譜が山積みにされて、二束三文で売りに出されている。
 リストやショパンの曲も、この伝統・慣習を基礎にしているのである。

ワーグナーの集団催眠術

 聴き手の頭が朦朧としてきて、席を立つ気力もなくなってきた頃をみはからって、怒涛の音の洪水が押し寄せてくるのである。それは宗教儀礼におけるイニシエーションのように、聴き手の意識下に強烈な作用を及ぼさずにはおかない。 (128頁)

 ワーグナーの楽劇*4には、ライトモチーフがたくさん出てくる。
 しかし、いつまでも音は統合されず、また、哲学談義のような晦渋な会話が続く。
 ワーグナー楽劇は、夕方午後4時頃に始まり、終わるのは、10時30分か11時頃である。
 10時過ぎごろから、ワーグナーは動く。
 聞き手の頭が朦朧として来て、席を立つ気力もなくなってきた頃を見計らって、怒涛の音の洪水を起こす。
 もはや洗脳である。

 

(未完)

*1:新書の方を取り上げてもよかったのだが、CDやDVDの紹介がよいので、こっちにした。

*2:大須賀沙織はこう書いている(「ガリア聖歌 : フランスで生まれた聖歌の源流を求めて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005775086 )。

グレゴリオ聖歌がフランスの土地に根付く以前、メロヴィング朝時代(481-751)のフランク王国ではガリア聖歌と呼ばれる地方聖歌が歌われていた。カロリング朝ピピン3世(在位751-768)とその子シャルルマーニュ(在位768-814)によるガリア聖歌の廃止とグレゴリオ聖歌への統一により、ガリア聖歌の大部分は失われたとされるが、その一部はグレゴリオ聖歌に取り込まれる形で今日まで継承されてきた。

グレゴリオ聖歌には、かつて古代(共和政)ローマにとっての蛮族の名を冠した聖歌も、まじっているのである。

*3:そうした「BGM」の一種が、バダジェフスカ乙女の祈り」であろう。ただ、石本裕子は次のように書いている(「テクラ・バダジェフスカ(陽の当たらなかった女性作曲家たち・9)」https://wan.or.jp/article/show/6746 )。

18世紀末、ポーランドではピアノが人気のある楽器でした。良家の子女の結婚前のたしなみとして普及していきました。バダジェフスカも裕福な家庭の出身、ピアノを楽しんでいたのでしょう。「乙女の祈り」は1851年に作曲しました。ポーランド日刊紙に楽譜の広告の記録があります。バダジェフスカ自身が、自宅や音楽ショップで熱心に手売りもしていました。翌年には重版がなされ、その翌年には早くも第8版を重ね100万部が売れました。

甘い音楽も地道な営業努力でベストセラーとなったのである。

*4:ところで、「2013年 ヴェルディワーグナー 生誕200年記念座談会」には、次のような会話がなされている(http://www.ikaganamonoka.com/opera/vw/03.html )。

片山  だいたいワグナーの幕間は男性トイレのほうが混雑するんですよ。イタリアオペラだとやや女性、バレーだと圧倒的に女性のトイレが混む。/T女史 「ブルックナーライン」と呼ばれてるらしいですよ。もしくはワーグナーライン、マーラーライン。そういうコンサートは男性比率が高いので、男性トイレに行列ができるんです。 (引用者中略) I女史  確かにニューヨークでもワーグナーは男性の方が多いし、しかもみんなカップルで来てる

やはりこうした傾向は各国でも共通なのだろうか。