題名は大仰だが、リスト凄いってのはよくわかる。 -浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』を読む-

 浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』を読んだ。 

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

  • 作者:浦久 俊彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/12/14
  • メディア: 単行本
 

  内容は紹介文のとおり、

リサイタルという形式を発明した「史上初のピアニスト」フランツ・リストは、音楽史上もっともモテた男である。その超絶技巧はヨーロッパを熱狂させ、失神する女たちが続出した。聴衆の大衆化、ピアノ産業の勃興、スキャンダルがスターをつくり出すメカニズム…リストの来歴を振り返ると、現代にまで通じる十九世紀の特性が鮮やかに浮かび上がってくる。音楽の見方を一変させる一冊。

という内容である。
 リストは音楽もスゴイし、それ以外もすごい、ということがよくわかる。*1
 まあ、タイトルは大仰だが。

 以下、特に面白かったところだけ。

サロンは慈善も行った

 芸術家の支援だけでなく、慈善活動も行ってきた芸術・社会福祉財団ともいえる存在だった (50頁)

 この当時、サロンが援助したのは、芸術家個人のみではなかった。
 サロンは、チャリティーコンサートやバザーなども行っていたのである。*2

リストも慈善

 動くメセナ活動ともいうべき、慈愛に満ちた芸術振興への功績 (99頁)

 リストの慈善活動についてである。
 ハンブルクでは、市立劇場の管弦楽奏者のための年金基金を創設している。
 また、ケルンでは大聖堂建立のために、ケルン開催の演奏会の収益の多くを寄付している。
 その他、訪れた街で例外なく、学校や教会、孤児院などに多額の寄付をおこなっている。*3

ピアノ・ソロリサイタルのパイオニア

 ピアノ・リサイタルは、リストによって発明された。 (100頁)

 ショパンでさえ、生涯一度もソロコンサートは開催していない。
 当時のコンサートは、ひとつの公演で、ピアノあり、歌曲あり、室内楽ありという、混合型だった。
 当時は、交響曲などの複数楽章からなる楽曲は、別の曲をはさんだり、一部のみしか演奏しないことも普通にあったのである。*4

ピアノ曲の古典を復興

 最もましなピアニストでさえ、モーツァルトハイドンが、ピアノ曲を書いていることさえ知らない。 (105頁)

 メンデルスゾーン1830年ミュンヘン音楽界の状況に対する言葉である。*5
 そんな状況で、リストは、バッハやモーツァルトベートーヴェンシューベルトといった古典を頻繁に演奏した。
 彼は、他人が作曲した楽曲だけで演奏会のプログラムを組んだ最初のピアニストでもある。

 

(未完)

*1:ちなみに、木下由香によると、日本でのリスト受容は、

大正期には、なぜか彼のロマンスに関する記事が目に付き、ヘルムが次のように言っている―「確かに、リストの栄光や、音楽史上の位置は、このような女性問題とは全く関係ない。しかしおそらく、当時の彼の〈知名度〉とは、少しは関係しているかも知れない。初めて書かれる伝記では、すべての事実を記載すべきであり、作者の捉え方になじまないからといって、重要なことを省いてしまっては意味がないのである。リストの人生において、女性は本質的なものであった」。

というような伝記(スキャンダル先行)的な感じだったらしい(「日本におけるフランツ・リストの受容 : 明治・大正期の音楽雑誌を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006488887 )。

*2:未読ではあるが、福田公子『19世紀パリのサロン・コンサート―音楽のある社交空間のエレガンス』(北星社、2013年)には、 「サロン・コンサートの中には慈善演奏会も存在し、ロッシーニが曲目として大人気だったという記述」があるようである(http://www.robo.co.jp/product/book/19salon/index.html )。また、米澤孝子によると、

当時貧しい人々や孤児や未亡人の為の募金活動としての慈善コンサートが頻繁に行われていたが、出来るだけ沢山の基金を集めるため、そのプログラムはより多くの人々の趣向に合わせるため、さらに雑多な選曲で構成されていた

とのことである(「ファニー・ヘンゼルの『日曜音楽会』の考察 : 19世紀前半のベルリンの音楽環境に照らし合わせて」https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=25274&item_no=1&page_id=28&block_id=27 )。フランツ・リストが活躍した時代の一側面を知るうえで、ためになる論文ではないだろうか。

*3:上田泰史は、

気前良すぎるほど寛大で、予見できない先々のことは全く考えず、すべての不運な芸術家に広く奨学金を与え、不幸な人ならだれでも援助の手を差し伸べ、慈善活動や芸術的企画には真っ先に出資し、王や――時には小市民のように振舞う――大貴族の如く、気前よく振る舞う。そんなリストは、芸術の進歩と不運に見舞われた芸術家の慰藉に、数え切れないほどの演奏会で集めた相当な金額の大部分を捧げた。

と述べている(「19世紀ピアニスト列伝 フランツ・リスト 第9回(最終回):御前演奏と慈善活動」http://www.piano.or.jp/report/02soc/19memoirs/2016/10/18_21859.html  )。

*4:中野真帆子によると、

ヨーロッパにおけるロマン派の時代は、コンサートの運営がサロンや慈善演奏会から音楽ホールや市民組織による音楽団体主催の定期演奏会へと移行し、内容も数人の賛助出演者を招いてさまざまな楽器の組み合わせによる曲目を無秩序に並べるだけのコンサートから、単一楽器による統一の取れたプログラムで構成されるリサイタル形式が誕生して、作曲家と演奏家が分離していく過程に在りました。

という、狭間の時期だったという(「パリ発 ショパンを廻る音楽散歩 08.シャイヨ通り74番地/ピアノ・リサイタルの誕生」http://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/08/01_7545.html )。
 また、リサイタルについても、

1839年3月8日に「音楽のモノローグ(独白)」と名付けた史上初めての自作単独演奏会をローマで開き、翌年の1840年6月9日にロンドンのスクエア・ルームズで、告知に英語のリサイタル(独奏)という用語を史上初めて用いた自作自演の単独コンサートを開きました。

と、リストの功績について述べている(同上)。リストすごい。

*5: ヴィルヘルム・フォンレンツ『パリのヴィルトゥオーゾたち ショパンとリストの時代 』に対するAMAZONレビューには、「モーツァルトが時代遅れと見なされていたことや、ベートーヴェンソナタは1840年代までは初期の曲と月光・熱情くらいしか弾かれなかったことなど、当時の音楽事情が書かれている」との言葉も見える。

 また、西原稔は次のように述べている(「楽譜出版を通してみる19世紀ピアノ音楽 その1 ピアノの19世紀」http://www.piano.or.jp/report/02soc/nshr_19th/2007/10/12_7480.html )。

18世紀はあれほどの人気を得ていたピアノ・ソナタが、1830年を過ぎると、劇的に表舞台から去っていきます。もちろんそれ以前からピアノ・ソナタは次第に人々の関心から遠のきつつありましたが、1830年頃に劇的にピアノ音楽の種類が変化していきます。ピアノ・ソナタに代わって多くの人々が熱中したのは、「音楽総合新聞」の新譜案内記事にも示されているように、ワルツやエコセーズ、クァドリールなどの舞曲、そして有名なオペラのアリナなどの旋律の編曲、また、有名なアリアの旋律や親しみやすい旋律を主題とした変奏曲でした。つまり、ピアノ文化の到来は、ポピュラー音楽の到来でもあったのです。

これはピアノ・ソナタの例であるが、リストが先人の古典のピアノ曲を演奏しようとした背景にあったのは、こうした「ポピュラー音楽」化が進む時代風潮だった。