ブルースやジャズ、ヒップホップを、<黒人性>だけで語ることは出来ない。白と黒だけではない米国音楽史  ―大和田俊之『アメリカ音楽史』を読む・後編―

 前回の続き。

「ジャズ」の意味は広かった

 そもそもニューオーリンズのミュージシャンは自分たちの音楽を「ジャズ」とは呼んでいなかった (92頁)

 「ジャズ」という語は、あくまでも演奏法を指す用語であり、ジャンルと認識されていなかった。
 音楽ジャンルとしてのジャズという用語が定着したのは1920年代以降である。
 しかも、ニューオーリンズではなく東部や北部での出来事である。

 たとえばアーヴィング・バーリンがしばしば「ジャズの作曲家」や「ブロードウェイのキング・オブ・ジャズ」と呼ばれたように、それはラグタイムやブルース、それにティンパン・アレーとも重なる音楽用語として幅広く使用された (100頁)

 ジャズは、息もつかせぬ響き、それは消費社会を象徴する大衆のためのサウンドだった。*1
 ジャズという語は、幅広く使用されていたのである。*2

ジャズと「左派性」

 人民戦線路線の採択以降はジャズを含む黒人の演劇や文学も進歩的で民主的な文化として認めるようになった (104頁)

 かつてアメリ共産党はジャズについて否定的だった。
 退廃的なブルジョア音楽だとみなしていたのである。
 だが、1935年以前から都市労働者にはジャズは支持されていた。
 そんなわけで、アメリ共産党もやがて、方針を転換したのである。*3 *4

ジャズドラムを変えた男

 軽やかなライド・シンバルでビート感を出すことでモダン・ジャズ特有の柔軟なリズムが生まれただけでなく、バスドラムをアレンジのひとつとして用いることが可能になった (113頁)

 ケニー・クラークが編み出したのが、バスドラムに代わって、ライド・シンバルでリズムをキープする手法であった。*5

ジャズが「黒く」なったとき

 ビバップやその発展形としてのハード・バップの<黒人性>がふたたび強調されるのは一九五〇年代後半のことである。 (117頁)

 かつて、ビバップが評価されたのは、その黒人性を称揚した点ではなくて、エスニシティを超えた普遍的な価値を内在する音楽としてだった。
 それが1950年代後半以降に変化する。*6
 ジャズを黒人文化として占有しようとする言説は、同時代の公民権運動を反映した主張だった。

ビッグバンドからコンボに

 一九四〇年前後の小コンボ編成の流行 (略) は、こうした文脈でもとらえる必要がある。 (142頁)

 ミュージシャンの団体と、ラジオ局団体、レコード会社団体との交渉の問題である。
 ミュージシャンの団体が会社側に給与増額を、レコード会社に対する交渉で報酬の倍増を約束させた。 だが、不況下の売り上げ低下に悩んだレコード会社のプロデューサーは、バンドやオーケストラを縮小させることで対応した。*7 *8
 ビッグバンドも小コンボ編成での録音を多用するようになった。
 ビバップ革命における小コンボ編成の流行は、こうした背景もあるという。

1960年代前期の音楽界と女性たち

 アメリカのポピュラー音楽史上、一九六〇年から六四年ほど黒人女性がチャートで成功した時期はない。 (173頁)

 ブリル・ビルディング・サウンドの話である。
 シュレルズやクリスタルズなどである。
 音楽業界の裏方も、女性たちの活躍が目立った。
 キャロル・キングやエリー・グリニッチ、シンシア・ワイルなど、作曲家の多くはユダヤ系だった。*9

サーフミュージックが洗い流したもの

 サーフ・ミュージックは、南カリフォルニアの爽やかなイメージとともにロックンロールに付着する黒人と労働者のイメージをぬぐい去り、郊外に住む白人中産階級の若者にアピールすることに成功した。 (181頁)

 南カリフォルニアのイメージサウンドとしてギターを中心とするインストールメンタル・サウンドが出現する。*10
 プロの音楽家を目指すわけではない若者たちが、ギターを手にとって、友人とバンドを結成するようになったのである。
 演奏の大衆化、アマチュア化が進む。
 郊外の白人中産階級の若者にアピールする一方で、脱黒人・労働者化も進んでいく。
 結果的に、サーフ・ミュージックは、ロックンロールを洗い流す働きをした。*11

労働者階級に身をやつす

 ハーバード大学に進学した典型的なアッパー・ミドル出身の人物だが、彼は人前で演奏するときに必ず労働者の服装を着たという。 (186頁)

 ピート・シーガーの話である。*12
 彼は、民謡を愛し、レッドベリーやウディ・ガスリーの曲を演奏した。
 自作曲はほとんどレコーディングしていない。*13
 これもまた、階級を偽る「擬装」(*「偽装」は本書の大テーマ)である。
 ディランも、ニューヨークで活動を始めた時、自分の出自を偽った(出身地であったり身の上だったり)。*14
 まあ、ディランは自分の音楽スタイル自体が「偽装」みたいなもんだが。*15

ムーンウォークの系譜

 ムーンウォークは、そこに「未来」と「過去」が同居するという意味で、黒人文化の正統を受け継いでいる。 (214頁)

 月面遊歩という未来と、ミンストレル・ショウという過去の「すり足」のコンビネーションである。*16
 また、顔を白くしたマイケルが、人種的他者を「擬装」しながら疑似的宇宙空間で黒人のステレオタイプを演じるという意味においてもそうだ、と著者は書いている。*17 *18

ヒップホップの初期衝動にあったラテン

 一九八〇年代にパブリック・エナミーやブギー・ダウン・プロダクションが東海岸でブラック・ナショナリズムを唱えたことでこうしたラテンのルーツが見えにくくなり、ギャングスタ・ラップの登場はその傾向を決定づけたのだ。 (239頁)

 ギャングスタラップの台頭によって、ヒップホップの多様なルーツが隠蔽されてしまった。
 ジャンルの創成期、ブロンクスではアフリカ系のほかに、ヒスパニックが多数参加し、プエルトリコ系、ドミニカ系の若者が深くかかわっていた。*19
 たとえばクール・ハークはジャマイカ出身である。

アメリカ音楽に隠された「カリブ海

 ブルースにおけるラテン音楽の影響を考察するうえでさらに重要なのはニューオーリンズのシーンだろう。 (254頁)

 1970年代に再評価が進んだプロフェッサー・ロングヘアの演奏を聞くと、そのサウンドはルンバやマンボ、カリプソなどカリブ海のリズムに溢れている。
 また、「ブルースの父」W・C・ハンディの「セント・ルイス・ブルース」のイントロは、タンゴ調(ハバネラのリズム)だった(255頁)。*20
 1910年代当時、アメリカではタンゴブームだったのである。

(未完)

*1:戦前日本でも、「騒騒しい賑やかさのこと、又は、大都会の喧騒のこと」に、ジャズという語は充てられた。細川周平「ジャズる辞書―モダン昭和の流行語」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006599776 より。引かれているのは、『新しい時代語の字引』(実業之日本社、1928年)。

*2:なお、五十里幸太郎『音楽舞踊十五講』(聚英閣、1925年)には、ジャズの父はアーヴィング・バーリン、とある(当該書123頁)。この頃から言われていたのである。

*3:ブログ・「荒野に向かって、吼えない…」は『ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史』に対する書評において、次のようにかいている(http://satotarokarinona.blog110.fc2.com/blog-entry-998.html )。

実際、左翼とジャズが人民戦線的に手を取り合うという光景がよく見られた。「黒人への暴力を告発する<奇妙な果実>を作詞・作曲したのは、黒人リンチ事件の写真に衝撃を受けたアメリ共産党員でユダヤ系高校教師、エイベル・ミーアポルである」というのはその象徴的なエピソードであろう (引用者中略) ローズヴェルト政権によるニューディール政策のもとで、左翼はこれを支持し人民戦線による橋頭保を築こうとし、また未だ克服できずにはびこる黒人への差別、暴力と戦った。30年代において「アメリカ」の理想を肯定し、かつアメリカの現状変革を促す、その手段としてのジャズという面もあった。

なお、ソ連では、

しかし戦後、冷戦の開始によって「ジャズは公式文化から追放される身となった。ジャズは性的放逸、野蛮、ブルジョワ的退廃の象徴」となり、サックスは没収され、演奏法も制約を受けることとなる。

*4:ELIZABETH BLAIR の”The Strange Story Of The Man Behind 'Strange Fruit'”という記事(https://www.wfae.org/post/strange-story-man-behind-strange-fruit-0#stream/0 )によると、最終的にミーアポルは、教員を辞めたあと、アメリ共産党も離脱している。

Abel Meeropol left his teaching job at Dewitt Clinton and eventually he quit the Communist Party. And that brings us to the second part of his story. It begins with the pseudonym he used for his songs and poetry. Lewis Allan was a very personal choice.

なお、

Robert Meeropol says growing up they had an old Japanese maple tree in their backyard that would drop lots of seedlings every year. 

だそうな。

*5:ウェブサイト・『Udiscovermusic.jp』の記事・「史上最高のジャズ・ドラマー50人」には、つぎのようにある(https://www.udiscovermusic.jp/stories/50-greatest-jazz-drummers-of-all-time )。

彼の特徴は、スウィングのグルーヴを保つために駆り立てるようなライド・シンバルを叩き出す一方で、バス・ドラムでリズムをシンコペーション(=不規則なオフビート)で強調し始めたことで、ジャズ通たちは、ケニー・クラークを“爆弾のようだ”と絶賛した。彼の演奏法は、全てのモダン・ジャズ・ドラミングのテンプレートを描いた。 

KEVIN WHITEHEAD の ”Kenny Clarke, Inventor Of Modern Jazz Drumming, At 100”によると、

Kenny Clarke used bass drum sparingly, often tethered to his snare, for dramatic accents in odd places ? what jazz folk call "dropping bombs." He drew on his playing for stage shows, where drummers punctuate the action with split-second timing. Clarke kicked a band along.

とのことである(https://www.npr.org/2014/01/09/261051016/kenny-clarke-inventor-of-modern-jazz-drumming-at-100)。「爆弾のようだ」云々とは、このことである。

*6:ジャズ・ジャイアンツが「ジャズ大使」として世界中に派遣されることになるのが1956年である。そうした動きに対して、

公民権運動の時代に黒人ミュージシャンらがジャズ=アメリカの等式に抗い、ジャズの所有権をみずからの手に取り戻そうとしたことは知られている。人種隔離を正当化する「ジム・クロウ」法に反発した彼らは、人種問題なき「アメリカ」を映し出そうとする「ジャズ大使」の派遣に反発し、ミュージカルを通してその矛盾を告発する。そのとき、ジャズは「黒く」なった

のである(齋藤嘉臣「「ジャズ=アメリカ」という考えは、まったくの誤解だ」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51798 )。
 「体制側」がジャズとアメリカとをイコール関係にせんとする志向する時期と、ジャズの「黒人性」が称揚されはじめる時期とは、およそ重なるのである。

*7:石田依子は、この時期のビッグバンド衰退について、次のように諸々の原因を挙げている(「抵抗と解放の音楽―ジャズの中の黒人抵抗史」https://researchmap.jp/read0194944/misc/22546391(PDFあり) )。

このように繁栄を続けていたスイング時代であったが、1941年の太平洋戦争の勃発によって、終焉の道を辿るようになる。戦争はビッグバンドの若手メンバーの徴兵による退団を引き起こした。また、戦時下特別税としてダンスが課税の対象になり、多くのボールルームが閉鎖に追い込まれた結果、ビッグバンドはその職場を失うことになった。さらに、追い討ちをかけるように、ガソリンの使用が配給制になつたことにより交通機関が制約され、ビッグバンドの巡業にも影響が出たのである。このようにビッグバンドが衰退していくと同時に、ニューヨーク 52丁目では、ダンスフロアをもたない規模の小さなクラブが続々と登場し、その需要に従って小編成のバンドが誕生していった。

*8:例えば、カウント・ベイシーは、戦後、グループ(ビッグバンド)を解散させている。じっさい、1950年の短編映画に、彼はセクステットで出演している(https://www.loc.gov/item/jots.200019682 )。ビッグバンド再結成は、1951年である。

*9:『ガーディアン』の”Ellie Greenwich”という記事(https://www.theguardian.com/music/2009/aug/27/ellie-greenwich-obituary )によると、

Both her parents were of Russian ancestry, but she was brought up amid two religions, Catholic on her father's side and Jewish on her mother's.

とのこと。エリー・グリニッチの場合、彼女の母がユダヤ系であるようだ。

*10:なお、全盛期のベンチャーズのメンバーで、で、カリフォルニア出身の者はいない。ドン・ウィルソンワシントン州出身、ノーキー・エドワーズワシントン州育ち、という感じである。一応西海岸だが、北である。
 なお、本書(大和田著)には、

NWAのメンバーでイージー・Eだけが実際にギャングとして活動していたという事実は、同じ西海岸のサーフ・ミュージック・バンド、ビーチ・ボーイズでデニス・ウィルソンだけがサーフィンを嗜んだという逸話を否応なく喚起する。

という素敵な一文が存在する(236、237頁)。

*11:リンク・レイと、デュアン・エディやサーフ・ミュージックのグループ・バンドとは、ひとつ断絶があると考えるべきであろう。(リンク・レイは英語版ウィキペディアでは、サーフロックの範疇に入るようだ(https://en.wikipedia.org/wiki/Link_Wray )。)
 『ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち』(https://rumblethemovie-japan.com/ )等を見てわかるように、リンク・レイの「ランブル」が下の世代に与えた影響は大きい。こうした爽やかではない曲もまた、少なからぬ後続世代に影響を与えていたのである。もちろん、ジミー・ペイジピート・タウンゼントニール・ヤングといった、爽やかであるよりも激烈(ハード)な者たちに、影響したわけだが。

 本書(大和田著)では、「サーフ・ミュージック」というより、「ガレージ・ロック」というジャンル(の側面)に大きく寄与したのが、「ランブル」と考えるべきであろう。

*12:長谷川博一ピート・シーガーの基礎知識その2~ ピート・シーガーの苦悩」には、次のようにある(ブログ・『HIGH-HOPES』のhttps://ameblo.jp/high-hopes/entry-10012780741.html より。 )。

元はといえば、生まれは決して貧しくはない人だ。一家はニューイングランドの伝統的なカルビン主義者で、ピューリタンの中でも桁外れのクリスチャンだった。シーガー家は何と4人の召使いと、20軒は優に建てられる地所の広さを持っていたという。その点では彼に得意の12弦ギターを伝授したレッドベリー(=ルイジアナの農場に生まれ殺人犯としての過去も持つ)や、人前での歌い方を教えたウディ・ガスリー(=複雑な家庭に育ち、てぶどう摘みや木材運搬の仕事のために早々に学校をやめた)とは比較にならない。いわゆるお坊ちゃん育ちの前歴は、ピートに逆の意味でのコンプレックスを与えてもいたようだ。とはいえ歴史の正確な伝承には学究肌の人間が必ず求められる。ピート・シーガーの役割とて重要なのだ。

*13:もちろん、「花はどこへ行った」とか、「ターン・ターン・ターン」とか、曲を書いているのだが。

*14:ところで、ピート・シーガーは、エレキ・ギターを携えたボブ・ディランについて、後年次のように答えている(”An interview with Pete Seeger.”By David Kupfer (Whole Earth Spring 2001 )https://web.archive.org/web/20041206201208/http://www.wholeearthmag.com:80/ArticleBin/406.html )。

It was at Newport, 1965. I couldn't understand the words. I wanted to hear the words. It was a great song, "Maggie's Farm," and the sound was distorted. I ran over to the guy at the controls and shouted, "Fix the sound so you can hear the words." He hollered back, "This is the way they want it." I said "Damn it, if I had an axe, I'd cut the cable right now." But I was at fault. I was the MC, and I could have said to the part of the crowd that booed Bob, "you didn't boo Howlin' Wolf yesterday. He was electric!" Though I still prefer to hear Dylan acoustic, some of his electric songs are absolutely great.

興味深いのは、ボブ・ディランにブーイングした観客たちに、「お前ら昨日ハウリン・ウルフにはブーイングしなかったじゃないか。彼もエレキギターを持っていたのに。」と言い返したというところだ。たしかに、ハウリン・ウルフに商業主義だ、と罵るやつは基本いないだろうなあ。

*15:いうまでもないが、これはけなしているのではない。
 「ウィ・アー・ザ・ワールド」を録音するとき、ディランは「ディラン」らしく歌えなくて、「スティーヴィー・ワンダーがピアノを弾きながらディランふうのフレーズを歌って口移しで指示」することで、やっと歌えた人である(萩原健太ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』(Pヴァイン、2014年)、228頁) )。ディランのものまねをしたスティーヴィーのまねをすることで、ピンチを乗りきった。ボブ・ディランとはボブ・ディランの物まねをする人である。
 遡れば、原型はジャック・エリオットとかになるのだろうが。

*16:実際のところ、マイケル・ジャクソンのムーン・ウォークとは何だったのか。ブログ・『STRONGER THAN PARADISE』の記事、「ムーンウォークの起源」には次のようにある(https://strongerthanparadise.blog.fc2.com/blog-entry-36.html )。

マイケルが「Billie Jean」のステージ・パフォーマンスで必ず見せる、前へ歩行しているように見せながら、後ろへ一直線に移動するあのトリッキーな動きは何なのかと言うと、これはバックスライド Backslide と呼ぶのが正しい。

そして、系譜を、フレッド・アステアマルセル・マルソー、バック&バブルズ遡り、

ひとつはJB経由のソウル・ダンス。もうひとつはヒップホップ以降のストリート・ダンス(主にポッピング。その原型であるロボット・ダンスは'70年代半ばからやっていた)。そしてもうひとつが、今回スポットを当てている、タップをメインに据えた20世紀前半のショウダンスである。

と述べる。マイケルのダンスは人種が混合されている、というのが、より正確なところではある。

*17:実際には、マイケル・ジャクソンは、「尋常性白斑」という病であり、顔の白さは彼の意思によるところではない。顔を白くしたのではなく、病気の影響を隠すために、ファンデーションを塗るしかなかったのである。
 なお、『MOVIE WALKER PRESS』の記事・「マイケル・ジャクソン長男、マイケルと同じ疾患で治療?」(https://movie.walkerplus.com/news/article/133887/ )によると、

2009年にはプリンス・ジャクソンの叔父が、自らとプリンスが同皮膚病をり患していることを告白。2014年にプリンスの脇の下に同じ症状が出ていることが発覚した

*18:あと細かいところだが、初版だと「キング・ダビー」となっている(214頁)。本書はキング・タビーなど、そちら方面はあまり得手ではないのかもしれない。前回指摘したイギリスの件も含め、この点は、(第11章のすばらしさを考慮しつつも、)本書の手薄なところとして指摘しておきたい。

*19:ウータン・クラン」のRZAは次のように述べている(ウェブサイト・『Illegal Assembly of Music---Dark Side---』の記事・「RZA(レザ)、ヒップホップ界における白人とヒスパニック系アメリカ人の存在について語る。」http://illegal-assembly-of-music-dark.com/rza-news-3/ )。

ヒップホップは黒人の音楽だって言うけど、Rick Rubin(リック・ルービン)がいる。DJ Charlie Chase(チャーリー・チェイス)はプエルトリコ人だ。俺たちは白人やヒスパニック系アメリカ人のブラザーたちのことを忘れてはいけない。

チャーリー・チェイスの存在は、クール・ハークやグランドマスター・フラッシュに比べると、日本では知られていないかもしれない。

*20:『世界大百科事典』には次のようにある(以下のURLを参照https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%90%E3%83%8D%E3%83%A9-115946 )。

キューバでは1800年ごろにハバネラhabanera(発音はアバネーラ)が生まれ,19世紀中葉にヨーロッパにも伝えられた。ルンドゥーもハバネラも付点8分音符と16分音符を組み合わせた軽く跳ねるリズム感をもち,ポルトガルもしくはスペインの音楽にアフリカ的リズム感を加味したものと考えられるが,これがその後のラテン・アメリカの音楽の基調となったといってよく,19世紀半ばにブラジルで生まれた器楽の音楽ショーロも,19世紀末にアルゼンチンのブエノス・アイレスで生まれた踊りの音楽タンゴも,このリズムがもとになっている。